プロローグ(4)
深夜二時。
指定された博物館裏手の公園は、月の光さえ届かない、インクを落としたような暗闇に沈んでいた。生ぬるい夜風が、草いきれの匂いを運んでくる。
スマートフォンのライトだけを頼りに待っていると、不意に背後の闇が揺らめいて、黒いキャップを目深にかぶった久我さんが音もなく現れた。心臓が跳ね上がって、変な声が出そうになる。
「来たか」
低く、抑揚のない声。彼は私の手の中のスマホライトを、自分の指でそっと覆って消した。
「いいか、これからは光も音も命取りになる。警備員の巡回は25分周期。俺たちが動けるのは、あいつがロッカーのある西通路を通り過ぎてから、次の巡回に来るまでの20分間。それ以上は絶対に長居しない。俺の背中だけを見て、足音を殺してついてこい。できるな?」
「……はい」
頷くので精一杯だった。遊びじゃない。これは、本当の、犯罪なんだ。ごくりと唾を飲み込む音が、やけに大きく聞こえた。
久我さんは、まるで自分の庭を散歩するみたいに、当たり前の顔で暗闇を進んでいく。私は、その黒いTシャツの背中を見失わないように、必死で後を追った。博物館の敷地を囲むフェンスの、植え込みが作る影から影へ。
彼の動きには一切の無駄がない。どのタイミングで道を横切り、どの監視カメラが今は別の方向を向いているのか、全てを把握しているようだった。私の心臓だけが、やけに大きな音で耳元で鳴っている。
たどり着いたのは、本館裏手にある、職員用の通用口だった。鉄製の、何の変哲もないドアだ。久我さんは、私に「見張ってろ」と目線で合図すると、その場に屈み込み、小さな革製のケースを広げた。中から、歯医者の道具みたいな、細く、形の違う金属の棒が何本も現れる。
彼は、そのうちの一本を鍵穴に差し込んだ。耳をドアに押し付け、もう一本のピックで、中の構造を探っている。聞こえるのは、遠くで鳴く虫の声と、金属が鍵穴の内部で微かに擦れる、チリ、チリ、という神経質な音だけ。私の役目は見張り。けれど、その緊張感の中で、私は彼の背中から目が離せなかった。これが、噂の「何でも屋」…。
永遠のように感じられた数分後。カチリ、と全ての音を支配する、小さく、しかし鮮明な音が響いた。
「…入るぞ」
久我さんは音もなくドアを開け、私を手招きする。中から、埃と古い紙が混じったような、独特の匂いが流れ出してきた。
内部は、非常灯の不気味な緑色の光だけが頼りだった。昼間は子供たちの声で賑やかなはずの空間が、今は静まり返った巨大な生き物の腹の中のようだ。
特に、ホールの中央に鎮座する、アロサウルスの全身骨格標本。月明かりに照らされたその影は、まるで今にも動き出しそうな、漆黒の巨大な怪物に見えた。
久我さんは、そんなものには目もくれず、展示ケースの影を縫うようにして、迷いなく奥へと進んでいく。私は、自分の息を殺し、必死でその後に続いた。
目的のコインロッカーは、西通路の突き当たりにあった。
久我さんは、再び道具を取り出す。
「こっちは構造が単純だ。すぐ終わる」
彼がそう言ってピックを差し込んだ、その時だった。
遠くから、規則正しい足音が聞こえてきた。
コツ…コツ…コツ…
警備員だ。まずい、巡回の時間!? 久我さんの計算より早い!
私が声にならない悲鳴をあげようとすると、久我さんは音もなく私の口を手で覆い、自分の体を押し付けるようにして、一番近くの展示ケースの深い影に私を引きずり込んだ。
「静かにしろ」
耳元で、凍るような声が囁く。足音は、どんどん近づいてくる。心臓が、肋骨を突き破って飛び出しそうだった。
警備員の持つ懐中電灯の光が、壁や床を舐めるように動き、私たちのすぐそばを通り過ぎていく。見つからないで。お願い。お願い…!
やがて、足音は遠ざかっていった。久我さんが、そっと私から離れる。全身の力が抜けて、その場に座り込んでしまいそうだった。
「…運がいいな、お前。あいつ、トイレにでも行きたかったのか、ルートをショートカットしやがった」
久我さんは、悪態をつくようにそう言うと、何事もなかったかのようにロッカーの前に戻った。
そして、今度は30秒もかからずに、再び、カチリ、という小さな音を立てた。
「…開いたぞ」
彼が開けた「12番」のロッカーの中。
その奥に、重厚なジェラルミンケースが、まるで何十年も主を待ち続けていたかのように、静かに鎮座していた。