プロローグ(3)
検索結果の一番上に表示された「久我探偵事務所」という無機質な文字。
その下に記されていた住所は、府中駅の南口から少し歩いた、雑居ビルが立ち並ぶ一角を示していた。私は、スマートフォンの地図アプリだけを頼りに、ごくりと喉を鳴らしながら、その場所へと向かった。
たどり着いたのは、一階に場末のスナック、二階に雀荘が入っている、昭和の匂いが染みついたような古いビルだった。壁には、雨だれのような黒い染みが走り、階段の手すりはところどころ錆びついている。本当に、こんな場所に…?
ビルの入り口にある集合ポストや案内板には、当然のように「久我探偵事務所」の名前はない。サイトに書かれていた「301号室」という数字だけを信じて、私は薄暗い階段を3階まで上った。
目的の301号室のドアは、何の変哲もない、グレーのスチール製のドアだった。表札すらかかっていない。呼び鈴を探したが、見当たらない。
覚悟を決めて、ドアを三回、ノックする。コン、コン、コン。自分の立てた音が、静かな廊下にやけに大きく響いた。
数秒の沈黙。ドアの横に設置された、旧式のインターホンから、ノイズ混じりの声が響いた。
『……誰だ』
地を這うような、ひどく不機嫌そうな男の声だった。
「あ、あの、サイトを見て…。依頼したいことがあって、来ました」
『……』
沈黙。スピーカーの向こうで、ため息のような音が聞こえた気がした。
『うちはガキの遊び場じゃない。人違いだ。帰れ』
ブツリ、とスピーカーが切れる。それきり、何の応答もなくなった。
冷たく突き放され、頭が真っ白になる。やっぱり、里奈の言ってたことなんて、ただの都市伝説だったんだ。馬鹿みたいだ、私。本気にして、こんなところまで来ちゃって…。
踵を返し、錆びた階段を降りようとした、その時。ポケットの中で、くしゃりとなった博物館の半券の感触が、私を引き留めた。
ダメだ。このまま帰れない。私には、もうここしか頼れる場所がないんだ。
私は、もう一度ドアの前に立った。今度は、インターホンに向かって叫んだ。
「人違いじゃありません! 郷土の森博物館の、12番ロッカー! その中身を取り出してほしいんです!」
返事はない。
「おじいちゃんが遺した暗号を解いて、そこまでは突き止めました! でも、私には鍵が開けられない! あなたなら、できるって…噂で…!」
それでも、ドアの向こうは静まり返っている。
もうダメかもしれない。そう思った私は、最後の手段に出た。リュックからスケッチブックを取り出し、昨夜書き写した暗号のページを破り取る。そして、その紙を四つ折りにして、ドアの下の隙間から、そっと中に滑り込ませた。
「これがおじいちゃんの暗号です。これを見て、ただのイタズラだと思うなら、諦めて帰りますから…!」
永遠のように長い、十数秒の沈黙。
諦めて、もう一度背中を向けようとした、その時。
ガチャリ、という重い金属の音が響き、目の前のドアが、ゆっくりと内側に開いた。
中から現れたのは、想像とは似ても似つかない男だった。
年は30代後半くらいだろうか。伸び放題の無精髭に、首のよれた黒いTシャツ。鋭いが、ひどく疲れたような目をしている。部屋の中は、古紙と、淹れっぱなしのコーヒーの酸っぱい匂いがした。
「…入れ」
促されるまま、恐る恐る足を踏み入れる。そこは、事務所というより、何かの研究室か、ハッカーの秘密基地のようだった。
壁一面の本棚には、専門書がぎっしりと詰め込まれている。床にも本の山がいくつもできていて、足の踏み場もほとんどない。机の上には、用途の違うモニターが3台も並び、複雑なプログラムコードのようなものが、絶えず流れ続けていた。壁に貼られた巨大なホワイトボードには、事件の相関図らしきものや、数式が、狂気的に書き込まれている。
男――久我誠は、私が滑り込ませた紙を指でつまみ上げると、それに目を落としたまま、ぶっきらぼうに言った。
「…天体位置と恒星の固有名、記号論理、さらに物理的なアイテム(半券)を組み合わせた、多層的な暗号だ。古典的だが、上質だな。これを本当に、お前一人の力で解いたのか」
「はい…」
「大したもんだ。だが、そのロッカーに何が入ってるかも分からんのだろう。ただのガラクタかもしれないぞ」
「それでもいいんです。おじいちゃんが遺した、最後のかけらだから」
私の言葉に、彼は初めて、その疲れた目を上げて私を見た。そして、私のスケッチブックに描かれた、星図の余白のメモ…αとδが一つになり「= 12」となる図を、人差し指で、ゆっくりとなぞった。
彼の目が、ほんの少しだけ、見開かれた気がした。
「……この数式の記述法…この思想…。どこかで…」
彼が呟いた声は、私にはほとんど聞こえなかった。
彼は、ふう、と長い息を吐くと、椅子に深くもたれかかった。
「…分かった。その依頼、引き受ける」
「本当ですか!?」
「ああ。ただし、タダ働きはしない主義でな」
身構える私に、彼は意外な言葉を続けた。
「金は要らん。だが、お前の時間を少しもらう。この暗号、どうにもきな臭い。単なる遺品探しで終わらない気がする。もし、ロッカーからさらに厄介なものが出てきたら…その時は、俺の仕事に協力してもらう。いいな?」
彼の目は、冗談を言っているようには見えなかった。
私は、この人が、里奈の言う「どんな謎でも解く」本物の専門家なのだと、直感的に理解した。
そして、その人が「きな臭い」と言うのなら、きっとそうなのだろう。
頷く。頷くしかなかった。
「分かりました。協力します」
「話が早くて助かる」
久我さんは、初めて、ほんの少しだけ口の端を緩めた気がした。
「よし。じゃあ、早速取り掛かるとしよう。場所は郷土の森博物館だな。…だが、昼間に行くのは得策じゃない」
彼は壁の時計を一瞥すると、ニヤリと笑った。
「今夜、博物館に来い。深夜2時だ。…まあ、お前さんがおねしょしない歳なら、の話だがな」
からかうような言葉とは裏腹に、彼の目は、これから始まる「冒険」を楽しんでいるように、ギラリと光っていた。