プロローグ(2)
翌日の金曜日。期末テストの最終日だった。
解放感に満ちた空気が、チャイムの音と共に教室に溢れる。教科書を乱暴に鞄に詰め込み、夏休みの計画で騒ぐクラスメイトたち。
私も安堵のため息を一つ漏らしたが、心の大部分は、昨夜見つけた星の暗号のことで占められていた。
「宇宙ー、この後どうする? 駅前のカフェでテストの反省会しない?」
声をかけてきたのは、席の近い友人、一ノ関 友希だ。ショートカットが似合う、さっぱりとした性格の彼女は、いつも私を気にかけてくれる。
「ごめん、今日は図書室に寄ってから帰るよ」
「えー、テスト終わったのに真面目だね。宇宙は」
「ちょっと調べたいことがあるだけ」
私が曖昧に笑うと、教室の後ろから、もう一人の声がパタパタと駆け寄ってきた。
「二人とも聞いた!? また出たんだって、府中の七不思議!」
大げさな身振りでそう言ったのは、オカルトと都市伝説をこよなく愛する泉 里奈だ。彼女の情報網は、時々、本当に驚くようなゴシップを拾ってくることもあるけれど、その大半は眉唾物の噂話だ。
「はいはい、リナの都市伝説タイムね。今度は何? 府中競馬場のコースにUMAの足跡が見つかったとか?それともリナが教えてくれた七不思議が100を越えたこと?」
友希が呆れたように言うと、里奈は「違うって!」と頬を膨らませた。
「もっとヤバいやつ! どんな謎でも解いちゃう、謎の何でも屋さんがいるんだって!」
「またその話?」
私は思わず苦笑した。その噂は、里奈がここ一ヶ月ほど熱心に布教しているものだった。
「信じてないでしょ、宇宙も! でも、この前の『開かずの金庫』の話は本当だったんだから! ネットの掲示板で、依頼した人がお礼書き込んでたもん!」
里奈が言うには、その何でも屋は、行方不明のペット探しのような日常的な依頼から、警察が匙を投げた失踪事件、果ては「呪われた骨董品の引き取り」といった、いかがわしい相談まで、金さえ払えば何でも解決してくれるらしい。事務所は府中のどこかにあるらしいが、誰も正確な場所を知らない。連絡先も、依頼を達成した客にしか渡されない、完全紹介制なのだとか。
「まあ、本当にいたら面白いけどね。そんな人が」
友希が適当に相槌を打つ。私も「そうだね」とだけ返した。頭の中では、昨夜の数字の羅列が明滅している。
(どんな謎でも、か…)
荒唐無稽な噂話。いつもなら、すぐに忘れてしまうような他愛ない会話。
でも、その時の私には、その言葉が、妙に重く響いていた。
放課後の図書室は、テスト期間中の喧騒が嘘のように静まり返っていた。西日が差し込む窓際の席で、私は自分のノートと向き合っていた。
昨日の興奮が、今は頭の痛い、けれどどこか心地よいパズルに変わっている。クラスメイトたちの賑やかな声が、遠い世界のことのように思えた。まずは、分かっていることを整理しなくちゃ。
私は、昨日よりも少しだけ落ち着いた頭で、ペンを走らせた。
【おじいちゃんの暗号ノート】
アイテム:
1.不思議な接眼レンズ(側面に刻印あり)
2.こと座の星図(余白にメモあり)
3.郷土の森博物館の半券
レンズ越しの情報:
・こと座 α星: 9
・こと座 β星: 5
・こと座 γ星: 8
・こと座 δ星: 3
・こと座 ε星: 1
レンズの言葉:
「最初の指針は、森に眠る。星図に描かれし『櫃』にあり。αとδの光を束ねよ」
私はノートの文字を指でなぞった。「森に眠る…」森。その言葉に、制服のポケットの中でくしゃりとなった、あの古い半券のイメージが重なる。
「郷土の森博物館…まさか」
祖父がよく通っていたという、あの場所に何かがあるっていうの?
だとしたら、次の「答えは、星図に描かれし『櫃』にあり」は?
「ひつ」って何だっけ。スマホで検索すると、「大切なものを入れる箱」と表示された。箱…。私は、ノートの切れ端だった星図をもう一度広げた。
その余白に描かれた、意味不明だと思っていたラクガキ。四角が並んだ、ロッカーみたいな絵。
「このロッカーの絵が、『櫃』…?」
心臓が、また速くなる。
最後の言葉。「αとδの光を束ねよ」。束ねる?
星図の余白の隅にあった、もう一つのメモが頭をよぎる。αとδの星から矢印が伸びて、一つの円になり、横に「= 12」と書かれていた、あの図。
レンズで見た数字は、αが9で、δが3。
「9、足す、3、は…12」
声が、震えた。
合う。全部、繋がった。
郷土の森博物館。そこにある「櫃」…つまり、ロッカー。
そして、その番号は「12」。
これは、ただの思い出の品じゃない。おじいちゃんが遺した、壮大な宝探しへの、最初の招待状なんだ。
私は、ノートを閉じた。明日、行ってみよう。自分の目で、確かめるために。
翌日の土曜日、私は一人で郷土の森博物館に来ていた。
うだるような暑さの中、蝉の声がシャワーのように降り注いでくる。家族連れの楽しそうな声が響く広場を抜け、私は目的の場所を探した。本館の隅、少し薄暗い通路の奥に、それはあった。一世代前の、古いスチール製のコインロッカー。今はもう使われていないのか、表面にはうっすらと埃が積もっている。
あった。「12」。
錆びついたプレートの数字を見つけた時、私は思わず駆け寄っていた。答えにたどり着いた達成感で、胸がいっぱいだった。
昨日の放課後、里奈が熱弁していた都市伝説なんて、今の私にはどうでもよかった。私には、私の謎がある。現実の、手触りのある、この謎が。
でも、その高揚感は、すぐに冷たい現実に変わる。
扉には、古めかしい鍵穴がついていた。引いても、押しても、びくともしない。当たり前だ。鍵がかかっているんだから。
受付で聞いても、人の良さそうな年配の職員さんは困った顔で
「ああ、あのロッカーはもう何年も使われていなくて…鍵の管理も、市の方に問い合わせないと、ちょっとこちらでは…」
と首を捻るだけ。簡単にはいかない、ということだけは、よく分かった。
私は、博物館の入り口にあるベンチに、へなへなと座り込んだ。
じりじりと太陽が肌を焼く。楽しそうな家族連れの声が、やけに遠くに聞こえた。
暗号は解けたのに。答えは、目の前にあるのに。私の手は、届かない。
悔しくて、涙が出そうだった。おじいちゃんは、どうしてこんな意地悪な暗号を遺したんだろう。いや、違う。
おじいちゃんにとっては、この物理的な鍵を開けることまでが、きっとパズルの一部だったんだ。私には解けない、最後のパズル。
でも、同時に、不思議と頭は冷静だった。
私に必要なのは、もう天文学の知識じゃない。もっと、別の、特別な専門家。
合法とか、常識とか、そういうものを少しだけ飛び越えられるような、そんな人が。
その時、脳裏をよぎったのは、昨日、友希が呆れ、私が苦笑した、里奈のあの言葉だった。
――どんな謎でも解いちゃう、謎の何でも屋さんがいるんだって!
馬鹿馬鹿しい。ただの都市伝説だ。
そう思うのに、心の中に、小さな期待の芽が生まれてしまうのを止められなかった。もし、万が一、本当にそんな人がいたら…?
私は、ポケットからスマートフォンを取り出した。
検索窓に、昨日聞いた、あの荒唐無稽な噂の言葉を打ち込む。指が、少しだけ震えていた。
「どんな謎でも解く 何でも屋 府中」
検索結果の一番上。
広告や、ゴシップサイトの見出しが並ぶ中、一つだけ、異質なものが混じっていた。
飾り気のない、ただのテキストサイト。その一番上に、明朝体の文字が静かに表示されていた。
【久我探偵事務所】
私は、その無愛想な文字で書かれた事務所の名前を、じっと見つめていた。ごくり、と喉が鳴る。
これが、新しい謎への扉なのか、それとも、底なし沼への入り口なのか。
確かめる方法は、もう一つしかなかった。