影と名を呼ぶ
夜の部屋。
カーテンの隙間から月の光が差し込む。
その光に照らされた壁に、彼女は今日も“あれ”を見る。
――黒い影。
自分と同じ形をしていて、でも、どこか歪んでいる。
「また来たの?」
そう問いかけると、影はじっと彼女を見つめたまま、動かない。
彼女の名前は奈央。
仕事も人間関係も、表向きはなんとかうまくやっている。
けれど、夜になると影が現れ、静かに彼女の胸を締めつけるのだ。
「どうして、そんな顔をしてるの?」
奈央がそう聞くと、影がかすかに口を開いた。
「君が、私を見ないから」
「……見てるよ、毎晩、こうして」
「違う。見ているようで、ずっと目を逸らしてる」
奈央は黙り込んだ。
本当はわかっている。
この影は、怒り、嫉妬、臆病、孤独……そんな自分の一部だ。
「あなたのせいで私はつらい。消えてくれたら、楽になるのに」
吐き出すように言うと、影がふっと笑った。
「私は君のせいで生まれた。
消えたいのは、本当は君の中にある『言えなかった声』なんじゃない?」
奈央の胸の奥がざわついた。
思い出す。
本当は断りたかった仕事を、我慢して引き受けた日。
本当は助けてほしかったのに、「大丈夫」と笑ってしまった夜。
「私……ずっと、あなたを嫌ってた」
奈央の声が震える。
影は、にっこりとした。
その笑みは、どこか懐かしく、どこか幼かった。
「でも私も、ずっと一緒にいたかったよ。
君が、ちゃんと自分を生きられるようにって」
月の光が強くなる。
影はゆっくりと奈央に歩み寄り、そっと手を伸ばした。
奈央もまた、自分の手を重ねる。
冷たくも、温かい。
「あなたの名前は……?」
そう尋ねた瞬間、影はやさしく答えた。
「奈央だよ。私たちは、ひとつだから」
その夜、影は消えなかった。
けれど奈央はもう、それを怖いとは思わなかった。