【 公人とは ― 契約と信託 】
【私は憲法を守っているが、政府は憲法を守っていない。 】
この一文は、怒りでも誇張でもなく、整然とした論理から導き出された事実である。
国民は憲法に明記された義務――勤労、納税、教育――を果たしながら、日々この社会を支えている。だがその一方で、政府――つまり内閣や各省庁の行政機構、公務員の集団――は、その憲法を遵守すべき存在でありながら、その義務を果たしているとは言い難い。
憲法は「最高法規」であると同時に、「最低限の約束」でもある。
国としての在り方、人権の保障、制度の正統性――それらすべての基礎となる“契約”だ。それすら守れないのであれば、政府には存在価値があるのだろうか。契約を破ってもなお「公人」を名乗る資格があるのだろうか。
【国民の信託無き公人は、公人にあらず。契約を守れぬ公人は、公人にあらず。】
ところが現代では、「公人」の定義が曖昧化し、社会的影響力のある私人――企業経営者、芸能人、インフルエンサーなど――が「みなし公人」として扱われ、制度の本来の責任者から市民の目を逸らす構造が見られる。【責任を果たさない“本来の公人”たちが、自らの代替として“偽の公人”を社会に擬似的に立てている】のではないか。これは構造として危ういだけではない。
【公共と私的の境界線を感情で動かす社会では、制度の信頼性は消える。】
真の公人とは、単に目立つ者でも、富を持つ者でもなく―― 【憲法に基づき、国民の信託に応え、倫理と責任をもって行動する者】である。 故に、公人たる政府は、彼ら国民を守らなければならない。
表現の自由を侵されるなら、その自由を保障しなければならない。
その生存を侵されるなら、政府はその生存を保障しなければならない。
【それをもって、国民の信任を受けた公人は、公人たり得る。それ為さぬ者に、公人たり得る資格はない。】
この言葉は、政府を罵倒する言葉ではない。 これは“契約が破られた”という認識のもとで、【新たな契約を問い直す言葉】である。
これは拒絶ではなく、再構築の出発点だ。