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おにやんま ~品川炎情篇~  作者: 奈良松陽二
3/3

遊郭において邂逅を果たす晋作、近藤たち、そして弥助。ついに英国公使館への討ち入りが始まる。そして、因縁のライバルとの戦いが・・・。

 十七


 御殿山に建てられた新たな公使館は洋風建築の立派な建物で、丘陵地の頂上にある。

 御殿〝山〟と言うだけあって元はもう少し高かったが、台場設置工事にこの山を削った大量の土で埋め立てたので、ほぼ丘のようになった。

 この樹も生えていないはげ山、いやはげた丘を有効利用して、公使館の建設予定地としたのだ。

 去年の東禅寺事件からなので、建築決定からわずか1年あまりで完成に至ったことになる。

 本格的な移転は来年からということだが、事務用品から家具調度品などはすでに運び込まれていて、一部の事務作業はここで行われるようにもなっている。


 問題は、この〝一部〟の事務作業なのだが、どうやらここでバーンズと清兵衛の裏の仕事が行われていたようだった。


 晋作がこの情報を耳にしたからこそ公使館焼き討ちを計画したのだ。


 さて、今、ここに人質として連れ去られた聞多と俊輔が縄で縛られ、公使執務室となるはずの部屋の隣の待合室で柱に括り付けられていた。

 扉が開いた執務室内に清兵衛とサトウが何やら英語で話しているが、なにやら揉めている様にも思える。

 当然、英語なので、聞多も俊輔も何をもめているのかはわからなかった。


「清兵衛、ここは上海ではないのです。こちらもこれ以上庇いきれない」

「お前さんは黙って言う事さえ聞いときゃいいのよ。オールコックも上海の連中も俺のおかげでどれだけ甘い汁を吸えたか知れねえ。俺に口を挟む奴なんざ誰もいねえ。いいか、出世するにはそれなりの処世術ってのが必要だ。誰の言う事を聞いておけば安泰か、わかるよな? 」

「・・・わかりました」

「わかったら、さっさと陣屋に行って、代官にもみ消すように言って来い。」

「・・・はい」

そう言うとサトウは執務室を出て行った。


 一体、何をもめていたかと言うと、今日の出入りの事なのだろう。

 宿場町のど真ん中で大量の死傷者を出す騒ぎを起こした後始末をイギリス公使の名前でもってもみ消せと清兵衛がサトウに要求したからである。


 あの出入りの後、親分衆以下、生き残ったその手下たち含めて、清兵衛の店に入れられ、親分衆は土蔵に押し込められた。

 そこへ、菊を伴った清兵衛が現れた。


 相模屋からここへ向かう道中で菊を丸め込み、店で十両を渡して菊を帰らせた後、土蔵に押し込まれた親分衆と会い、その場で強引に兄弟盃を交わさせた。


 これで形ばかりであるが清兵衛は品川の裏社会を完全掌握することなった。


 生き残った手下たちにこの事実を伝えた上で、親分衆を人質に取って従属させた。

 さて、ここで問題となったのは拘束した聞多と俊輔の処置である。

 本来であれば、出入りが終わるまでの身柄拘束と言う約束だった為、すでに解放されていてもおかしくない。

 特に約束した天元は解放するように主張したが、他の用心棒の二人が清兵衛の判断を待つために拘束を解かなかった。

 これを受けた清兵衛はそもそも最近、自分の周囲を長州藩士が嗅ぎまわっていることは気付いていた。

 その藩士を先導している人物が上海使節団の中にいた人物と言うのも聞いていた。

 目的は分からなかったが、さっき盃を交わした親分衆の一人、安五郎から共闘を申し入れられたことも聞いたことから、このまま二人を人質として拘束するのが最善として、襲撃に備えて吸収した手下どもを引き連れて公使館へと向かうことになったのだ。


 ただ、これに不満を露わにしたのが天元だった。


 彼は来島とした約束を違えることになる。

 それだけでなく、これは長州藩のごく一部による暴走であればいいが、あの場にいた来島又兵衛は江戸でも藩の高官にある人物だった。

 もし、人質が解放されないとなると、イギリスと幕府、そして長州と言う京で絶大な力を持った強藩を巻き込んだ大事件に発展しかねない。

 下らないやくざ同士のいざこざでそこまで大事にしてしまうのは判断として間違っているとも主張した。

 しかし、清兵衛も所詮はやくざ者だったのか、事の重大さを理解しなかった。

 単なる武士のメンツにこだわって、あれこれ理由付けをしてるに過ぎないと取り合わなかった。

 最終的に天元は公使館に同行することなく別行動をとることになる。

 清兵衛は用心棒の按摩と手下を菊の実家に向かわせ、残りと聞多と俊輔を引き連れ公使館に向かった。

 なぜ、店でなく公使館だったのかと言うと、それは言うまでもない。大英帝国を自分の盾にするためだ。

 自分を襲うのであればそれは公使館を襲撃するのと同じであり、そんなことになればイギリスと戦争となる可能性が極めて高い。


「やれるもんならやってみろ」

というつもりなのだろう。


 公使館ではサトウが待っていたが、敷地内はイギリス領であるはずなのに堂々と大量の日本人を引き連れてやって来た清兵衛にもうすでに腹に据えかねる思いであったところに、先ほど触れた事件のもみ消しの要求である。


 さらに、縄に繋がれ連れて来られた侍二人、明らかにどこかの藩士である。

 サトウがどこまで日本の幕藩体制を理解していたかは分からないが、大問題になりかねないことは容易に想像がつく。

 しかも、聞けば長州藩士だと言うからサトウは猶更、眉をしかめた。


 清兵衛は事情を説明したが、サトウも天元と全く同じことを言って即時解放するように強く主張したが、清兵衛は頑なに拒否した挙句に出入り事件のもみ消しまで要求してきたのだ。

 治外法権と国際法上の外交特権もある。

 ただ、実際は単なるやくざ同士の抗争でしかない。

 これにイギリス公使が関与していると幕府側に言ってるようなものだから、当然、外交官としてサトウは清兵衛の要求を認めなかった。


 そもそもこの場に肝心の代理公使のバーンズがいないのもおかしい話だが、正式にはここはまだ公使館ではない。

 警備の兼ね合いもあって横浜にある領事館を併用しており、相模屋でご機嫌よく遊んだバーンズは水兵たちの警備によって横浜へ連れて行かれた。

 すなわち、現在この品川においての処理は清兵衛に任されているということだ。

 清兵衛はこれを盾にとってサトウに事件の後処理を要求している。


 サトウは当然ながらイギリス人であり正規の英政府の外交官であり通訳官である。

 言わずもがな清兵衛は日本人で、立場はバーンズの私的に雇われた単なる従者でしかない。

 その清兵衛が、立場が圧倒的に上のはずのサトウに対等どころか命令している様にも見えるのは、なぜだろうか。

 この清兵衛はなぜここまで権力を持ち得たのか。

 いや、まず何故このような男が英公使の従者となって上海から来たのだろうか。


 サトウが退室した後、清兵衛は、聞多と俊輔に近づくと、

「お前さんたち、あのサトウが言ってたがここの物を見ては、まるでガキのようにこれは何だ、あれは何だとか、目をキラキラさせてはしゃいで質問してきて往生したってよ」

「ほっとけ」

 俊輔は吐き捨てるように言った。


「そうだよなぁ、珍しいよな。俺もそうだった。海で瀬取りしてる最中に難破してよ。運よく黒船に拾われたもんの、陸にようやく上がれたと思ったら上海だよ。立ち並ぶ洋館を見てそら驚いたよ。こんな世界があるんだってな。そっからは、ひたすら働いたさ。清国語も英語も必死に覚えた、それこそ死に者狂いさ。まあ、元々がひねくれ者の凶状持ちだ。拾ってくれた英国公使の為に反吐が出るような汚い仕事もやった。そん時に、バーンズにも知り合った、あの野郎は能無しでな。しかも極めつけのド変態ときた。人身売買やアヘンの密売、大事な商品の清国の娘っこをアヘンまみれにしてさんざ弄んで、たった3日でダメにして捨てちまった。東洋人を人とも思ってねえひでえ野郎だ。ま、白人連中はどいつも大して変わらねえけどな」


 一体、清兵衛がなぜこうも嬉々として自分たちに話しかけて来ているのか全く分からなかった。


「お前の昔話に興味なんぞないわ」

 聞多が言った。本音でそう思っている。


「まぁ、聞きなって。ある日、俺はふと気が付いた。いつの間にか、俺にはとてつもねえ力が付いてたことにな」


「力? 」


 二人はうっかり食いついてしまった。


「イギリス高官たちの悪事だよ。そらそうだ、その悪事を一手に引き受けてたのは俺だからな。俺が、本国にこの事を話すだけで奴らの役人人生は終わる。これを利用しない手はないわな。つまり力だ。そして、最も重要な事に気が付いた。何だと思う? 」


「奸物の考えなどわかるか」

 つまり、清兵衛は主に上海にいたイギリス外交官たちの汚職の証拠を握っており、それを使って脅迫し、力を持ったのだ。


 気が付いた重要な事とは何か?


「俺も気づいた時は、さすがに笑ったよ。考えてみりゃ、日本にいるときゃ、まっとうに働きもしねぇろくでなしで、世間様に顔向けもできねえつまはじき者の俺がだ。上海じゃ、誰よりも従順に働き、誰よりも真面目に努力した。これがその結果だ。こいつはすげえことだろ?この日本じゃ考えられねえ。実際、清国人は使えなかったねえ。すぐサボる、手は抜く、嘘はつく、数はちょろまかす、盗むし、臭えし、汚えし、何でも食うし、いい加減だしよ。第一、身内以外は何されても何しても毛程も心痛まねえ薄情者だ、まぁ、さんざ手を焼かされたよ。ただ、それでも商品としてそれなりに高く売れたんだがな」


「言ってる意味よくわからん。何が言いたい? 」


「わからねえか? わからねえよな。俺だって改めて世界から見てようやく気付いたんだ。

日本人の価値がよ」


「価値? 」


 聞多が問い直したことに、清兵衛は不敵に笑って見せ、

「従順、真面目、勤勉で手先は器用で何より清潔好きだ。肉は食わず、少しの飯でも文句も言わねえ。読み書き、算術だってそこらの百姓でもできらぁ。誰に対しても親切でお節介、義理人情には特にうるせえ。こんな民族、世界中探したっていやしねえ。色んな人種を見て来たが世界一だ。・・・おい、どうした? 褒めてんだぜ。こんな国が近代化なんかしてみろ。そりゃもう、えれえことになるぜ。えっ、おい、喜べ。どうしたい? わからねえかい? この「商品価値」がよ」


「お前? ・・・まさか? 」

 どことなくこの男の言っていることが分かって来ると、聞多も俊輔も、さすがに恐ろしくなってきた。


清兵衛はさらに続けた。


「女だってそうだ。匂わねえのがいい。白人はダメだ、臭くて仕方ねえ。その点、日本の女は体型だって小せぇしこじんまりしてるだろ。あっちの奴らからすれば、ガキみてぇなもんでウケるんだよ、変態どもに。だから、多少の器量は関係ねえ、日本人の女だからこそいいんだ。・・・こりゃ同じ日本人だから気付いたんだ。どの国の奴らもまだ気づいちゃいねえ。分るか? この国は宝の山だ。俺だけが気付いた。こいつぁ、とんでもないビジネスチャンスだと思ったぜ」


 近代から現代に至って、日本と言う国が他のアジアの国々の中で唯一、欧米と肩を並べる先進国としての地位を得られた最大の要因とは何か? それを一言で言うならば間違いなく清兵衛の言った日本人の持つ特性と言えるだろう。

 つまり、この男はこの当時で既にそれに気づき、未来の日本を予言していたということになる。


 ただ、この男はそれを分かった上で、その逆の発想に至ったのだ。


「ダメだ。もうこいつに似合う罵声が見つからない」


「きぃ~さぁ~まぁぁ~っ! 」


「あーあー、吠えてろ、吠えてろ。どうせ手出しできねえんだから」

「ふざけるなっ! お前の悪事はほぼ掴んでる。すぐに公儀の手が入るぞ」


「お前ら今の聞いてたか? 俺のバックには世界一の大英帝国がいるんだぜ。そして、治外法権ていう外交特権がある。つまり、俺のすることにゃ手が出せねえのよ。 勉強しろ、青二才。そして、お前らが不満を爆発させりゃ遅かれ早かれ戦争になる。これこそ、願ったり叶ったりだ。さんざ蹂躙された後にゃ、エギリス、フランス、ドイツにメリケン、ロシア、列強がこぞって群がり日本を喰らい合う。こんな何もねえ国でよ、世界で唯一の商品価値を知る俺が、どんどん世界に素晴らしい日本人奴隷をプロデュースするってわけよ」


 高笑いをする清兵衛に対して、二人は、もはや声に出すことすらできずにいた。


 清兵衛の言う通り、下手に手を出せば戦争となり、後は隣の清国で、いや、それよりもはるか以前からアジア諸国は侵略と略奪の限りを尽くされている。

 それらの国々と同様にひたすら搾取され続ける地獄のような運命を辿るだけかもしれない。


(そんなことはさせない。何が何でもこいつだけは斬らねばならない)


 それから後のことは、なんとかする。

 無責任かもしれないが、それが正直なところだ。


 欧米列強に対抗しうる策は、とにかく全てにおいて力を持つこと以外にない。

 それもできる限り早く。

 それまでは何があっても全面戦争を避けねばならない。

 それくらいは彼らにだってわかる。師の吉田松陰からもそのように教わっている。

 しかし、この男は駄目だ。生かしておくわけにはいかない。ここで絶対に斬っておかねばならない大奸物だ。


 ようやく、ここで二人は晋作の狂気とも思える襲撃の真意を理解できた。


 そこへ、清兵衛の子分が入って来て、

「親分っ! お客さんですぜっ! 」

と伝えに来た。

〝お客さん〟と言ったが、おそらく晋作たちが皆を連れて救出しにやって来たに違いない。

 二人がそう考えているのと同じく、清兵衛もそれがわかっている。


「おうっ! お前さんたちのお仲間かな。・・・バカな奴らだな」

 部屋のドアの前で立っていた拳法使いのリーにも声を掛けた。

「リー、お前さんもだ。天元の野郎、どこで遊んでやがる」

 清兵衛は、ぼやきつつ部屋を後にした。部屋には見張りの手下一人を置いただけで、全員が建物の外へ出て行ったようだ。




十八


公使館正面の正門から堂々と高杉・近藤・土方・沖田が入って来た。

清兵衛の手下、親分衆から吸収した手下たちが中心ではあるが、公使館の建物前の広場に集まっており、人数はざっと三十人ほどいる。そして、建物の玄関から拳法使いのリーと共に幾人かの手下に伴われ、清兵衛が出て来た。


 清兵衛は、キョロキョロ周囲を見回すと、側にいた手下に、

「おう、それより警備の水兵はどうしたい? 」

「サトウ通訳官について行きやした」

「そうかい。ここに来ても差別しやがるねえ」

 なんとも、すでに庭先にまで来ている晋作たちを気にも留めないようだった。


「奸賊、赤蝮の清兵衛っ! お前の首、貰い受けに来た。それと、二人を返して貰うぞ」

 晋作は自身の存在を知らしめるように声高に叫んだ。

 すると、清兵衛は、ようやくその存在に気が付いたように、

「なんでえ、たったの四人かよ。えらく威勢だけは立派だがよ。これじゃ、張り合いねえな。人質取ってる意味もねえ」

 嫌味っぽくは言ったが本音だった。


 もう少し、集団で来ると思って正直期待していたが、たったの四人とわかると拍子抜けしてしまった。

 清兵衛の思惑では、それこそイギリスとの全面戦争のきっかけにでもなったらと思っていた。

 だから、そうなりには暴れて欲しかったのだが、これじゃ、人数からしてもほとんど袋叩きで終わってしまって表沙汰にもしづらい。


(ま、それが現実ってもんだわな。わかった上で少人数ってことなら、あいつもそれなりにバカじゃねえってことか・・・)

 

 晋作は晋作で、自分たちの前に居並ぶ見た感じでもやくざ者と思える者たちの中で、ふと見知った者がいることに気が付いた。

 というより、そのビジュアルはかなり目立つからすぐに分かった。


「お前っ? ・・・マサ、なんで、こんな所にいる? 」

 そう傷だらけの顔に、眼帯を付けたマサがいたのだ。


 本人からしても、なんでここにいるのかと聞かれると返答のしようが無い。

 親同然の親分が清兵衛に捕まり、兄弟盃を交わし、今や土蔵に閉じ込めらているのだ。

 下手をすれば、五体満足な親分のどこかを切り落とされるかもしれず、その命すら危ういのだ。

 不本意と言えども、これに従わなくてはならない。


「面目ねぇ、旦那。これも渡世の流儀ってやつでさぁ。気に入らねえが、ここは仁義を通さなきゃならねぇ」

「なるほど、こいつらみんなそうか。・・・だが、済まんな。同情してやるほどこっちにも余裕がない」

「当たり前で。互いに恨みっこ無しで行きやしょう」


 そんな二人の会話が交わされた後、清兵衛が、声を上げた。


「おうっ! 何、案山子みてぇにぼうっと突っ立ってんでぇ! おめえらの親分さんたちに恥かかすんじゃねえぞ。さっさと片付けろいっ! 」

 清兵衛の発破に手下数人が即反応した。

 「親分に恥をかかす」というフレーズがかなり響いたのだろう。

 恐らく彼らには「親分の命がどうなってもいいのか」という風に聞こえたに違いない。


 斬りかかる数名に、土方がすかさず反応し、刀を抜いて即これを斬り捨てた。

 行きがかり上やむを得ない事でかわいそうとは思うが、同情して斬られるわけにはいかないのだ。

 多勢に無勢だ、一刀のもとに斬り捨てるより他ない。


「高杉さん、あんたは下がっててくれ。こいつぁどうやら俺たちの仕事だ」

「やくざもんだが気を抜くなよ」

 正直、真剣を抜いている経験は侍よりよっぽど多い。

 実践においては、向こうの方が圧倒的に慣れているということは十松とマサとの試合を見て実感した。

「悪いが釈迦に説法だ。こっちは喧嘩慣れしてる」

 そう、ちょっと崩れている様に見せても晋作は長州藩でも名家の出で、言わばお坊ちゃんだ。

 それに比べて、近藤、土方、沖田はいずれも武州日野の郷士や百姓、庄屋の子で、土方に関しては子供の頃から手の付けられない暴れん坊で「バラガキ」とあだ名された、言うなれば田舎のチンピラだった。

 お育ちが違うのだ。

 どちらかと言うと高杉側と言うより、斬りかかって来るやくざ側に近い。


「総司は清国人をやれ」

「わかりました」

「近藤さん、あんたは好きにしてくれ」

「無論」

「俺は、周りを整える」


 そう言って、土方はやくざ者たちの群れの中に飛び込んで行き、リーまでに至る道を切り開いて行く。

 沖田はそれに続いて、群がる手下どもを異常に早い剣で次から次へと倒しながらリーに迫って行った。

 数からいっても二人で全員を相手にできるわけでもないが、集団は自然と分散されて行く。

 残った近藤と高杉にも襲い掛かって来るが、近藤が盾となり晋作は刀を振るうことなく全て近藤が斬り倒して行った。


(強い。いや、ものすごく強いぞ、この者たち)


 晋作は驚いた。

 個々の実力もさることながら、一番驚いたのは土方に対してだ。


 我が強そうに見えたので、大将風を吹かせて全部持って行こうとするのかと思ったら、瞬時に敵の構成を読み取り、味方の戦力を分析して、最も効果的な戦法を見出して的確かつ簡潔に指示を出した。

 その指示をきちんと理解して、すぐに動ける沖田と近藤もすごいが、何より三人の息がぴったりと合っている。

 それぞれの役割や実力を完全に把握し、それを信頼し合っている。

 見事な連携だ。

 しかも、戦力的に未知の晋作をきっちり大将と据えているところも、晋作にとっては意外でもあったし、何より一番年若だから頼り無く思われた気がして少し癇に障った。


 実力は弥助の見立て通り、近藤と沖田は土方よりも明らかに勝ってはいるが、戦術眼と言う点においては圧倒的に土方が群を抜いている。

 一軍を率いる将ということでは、まさしく土方に才がある。


(敵にはしたくないな、こいつは)

 と晋作は思ったが、残念ながらこの後、長州藩はこの土方歳三に戊辰戦争の最後の最後まで苦しめられることになる。


 土方が集団を切り開き、ついにリーの目前に迫った途端、身を翻して追随していた沖田の背後に回り込み、リーと沖田が一対一で対峙し手下集団の先頭部分を土方、その集団後方部分を近藤と高杉が挟むような体制となった。

 

 土方の指示した状況がついに出来上がった。


 すでに、ここまでで当初三十人近くいた手下たちは二十人近くにまで減っていた。


 この状況に焦ったのは清兵衛だった。

 数で十分に優勢だったはずが、あっという間に十人も倒された。

 自分の用心棒の実力は十分わかっていたが、まさか相手がそれに匹敵するほどの実力を持っているとは想定していなかった。

 いや、正直、今頃は四人の死体でも眺めて高笑いをしてることしか想定していなかった。

 つまり、彼は万が一の退路を全く考慮しておらず、今更ながら用心棒のうち二人も身辺から離すんじゃなかったと後悔した。


 彼は完全に嘗めていたのだ。


 だいたい、この公使館にさえ逃げ込んでおけば、誰も手を出さないと思い込んでいた。

 わざわざ、英国に喧嘩を売って来る人間なんていないと、嵩を括っていたのだ。

 もう少し、情勢を冷静に分析する力を持っていれば、読み違えることもなかったかもしれない。


 そもそも二度にわたる東禅寺事件や生麦事件など、イギリスに対する恐怖感を持っていれば起こりえない事件なのだ。

 実際、恐怖に感じているのは、世界情勢や圧倒的な文明格差をちゃんとわかっている幕府の人間だけで、それ以外はわかってすらいないのだから、公使館という国際的なルールなど関係ないのだ。


(だって、向こうのリーダーは上海使節団にいたって言うじゃねえか。上海の状況を見たんだろ? だったら知った上で喧嘩売ろうって言うのかい? それこそあり得ねえだろ)


 そう清兵衛は、心の中で言っているだろう。


 だが、こうして堂々と入って来て、今、自分の喉元にまで彼らの刃が届こうとしているのだ。


 あの時、天元やサトウが言っていたのはこういうことになるってことだったのか、こんなことなら彼らの言う事を聞いておけばよかった、なんてことを清兵衛は微塵も思わない。

 逆にパニックになりかけた彼の頭に浮かんだのは人質にした二人のことだった。


(やっぱり、人質にしといて正解だったぜ)

と言う風に思ったのだ。


 清兵衛は急いで建物の中へと入って行った。

 清兵衛の用心棒であるリーは何も言わずに館に入ってしまった清兵衛の後を追った。

 そうなれば、当然、沖田もその後を追い館の中へ入った。


 集団後方においては、マサが晋作、近藤の前に立ち塞がっていた。


 すると、ずいと晋作を押し退けて近藤が前に出た。

「近藤さん? 」

「顔なじみなんだろう? なら、ここで借りを返させて頂こう。来い、マサとやら」

 近藤が構えた。

「よござんす」

 マサもこれに応じて、あの低い構えを取った。

 それを見て近藤は言った。

「知ってるか、マサ。お前のその構え。それはな、この天然理心流が原型だ」

 そう言うと、近藤はマサほどでないにしても低い姿勢で、八甲の構えより深く引き付ける様な構えを見せた。


 マサが先に仕掛けたが、マサの一撃はそれに合わせて対応する近藤に次々にあしらわれ、ついに近藤の強烈な突きがマサの胸を貫いた。


 近藤が刀を引き抜くのに合わせて、前のめりに倒れ込むマサを高杉が抱き支えた。


「マサっ! 」

「安五郎親分のこたぁ、頼みましたぜ」

「生きてるのか? 親分さんは」

「出入りでほとんどやられちまって、情けねえ話で。早々、降参して手打ちでね。親分衆は牢にぶち込まれ、無理矢理兄弟盃交わされて、この始末ってわけでさぁ。笑ってくんな、渡世の流儀もあったもんじゃねえ・・・」


 そう息絶え絶えに言った後にマサは事切れた。


「わかった。後は任せろ・・・」

 晋作は、ゆっくりとマサを寝かせ、手を合わせた。


 手下の数は、いよいよ十五人を下回った。


「もうやめろっ! 勝敗は決したっ! これ以上は犬死だっ! 各々親分に仁義を通すって言うなら、こんな理不尽で死ぬことは無いっ! これだけの人数がいるなら、今すぐに捕らえられた親分を助け出しに行くのが本当の仁義ってもんだろっ! 違うかっ! 」

 晋作は、残った手下たちに訴えた。


 それに対して、手下の一人が、

「でも、あの清兵衛の野郎が・・・」

「奴は俺がここで絶対にぶった斬る。絶対にだ」

「親分助けるたって、あそこには、まだあいつの用心棒がいやがる。ここには一人しかいねえ」


 それを聞いて、土方がため息まじりに言った。

「あのなぁ、ここであのバカ蝮の清兵衛を守って俺たちに斬られるのと、向こうで親分を助ける為に奴らに斬られるのとどっちがいいのかを聞いてんだよ。どっちが筋を通した話かなんざ聞かなくてもわかんだろ」


 そう言われると、手下たちは互いに顔を見合わせて、

「そりゃそうだ」

と言って、全員、一目散に清兵衛の店目指して走り出して行った。


「近藤さん、総司が一人で中に入った。どうにも心配だから俺が助太刀に行く、あんたは外で清兵衛の野郎が逃げて出て来ねえように見張っといてくれ」

「わかった」

 近藤は直ぐに返答した。


 晋作もこの指示に異存なかった。

 建物の間取りも分からないのに、闇雲に三人揃って中に入れば、清兵衛が抜け出して逃げられる可能性がある。

 晋作が残ればいいが、恐らくは信用されていないのだろう。

 いや、それよりも三人の中で大将は絶対的に近藤なのはわかっている。


「で、高杉さんよ。あんた、どうする? 」

 土方が言いたいのは、恐らく人質となった二人が心配だろうから中に入るのは良いが、俺は守ってやれない、自分の身は自分で守れるかどうかの確認だった。


「心配はいらん。これでも、柳生新陰流と神道無念流を修めている。それに、こいつもある」

 と上海土産の拳銃を懐から出した。


「よし。なら、俺は先に入る」

 そう言って、土方は建物へと向かった。


「高杉殿」

 と近藤が声を掛けた。

「もし、俺が清兵衛を見つけたら、決して逃がさん。殺しもせん。必ず止めはあんたに討ってもらうから心配はいらん」

「・・・痛み入ります」

 そう言って近藤に頭を下げると、晋作もまた館に向かったが、土方が帰って来た。


「ちょっと待った。近藤さんも来てくれ、さっきの指示は一旦無しだ」

 晋作は、意味が分からない。

「近藤さん、あんた正面玄関を抑えてくれ。高杉さん、あんたは俺と一緒に来てくれ」

 近藤は何も言わずに、土方の指示に従うように建物正面に向かった。

「どういうことだ? 」

 晋作は土方に聞いた。




 十九


 沖田総司が清兵衛とリーを追って、玄関の扉を開けて公使館の中へと入った。


 玄関が広いホールとなって、2階に上がる大階段が玄関正面にある。

 さらに、履物を脱ぐ土間らしいものが無く、玄関にカーペットが敷いてある。


 玄関から左右の廊下に分かれていて、廊下にぽつぽつ明かりがついているが薄暗い。

 清兵衛とリーが入って、ここを右に行ったか、左に行ったか、それとも2階に上がったかまでは分からない。

 洋靴でも履いてくれていれば、こつこつと足音でも聞こえて来るのだが、清兵衛は草履に足袋を履いていたし、リーもカンフーシューズみたいだった。


 1階の玄関から廊下までは石張りで仕上げられている。

 階段はカーペットが敷かれているところから見ると恐らく2階も床はカーペット張りなのだろう。

 二人の履物だと、ほぼ音はしない。

 ここは気配で読み取るしかない。

 建物の中にも、まだ手下たちが潜んでいる可能性もある。


(滑るな・・・)


 草鞋や足袋だと滑りやすい。

 沖田はすぐにそれらを脱いで裸足になった。


 表には、まだ、土方も近藤も晋作もいる。

 ここで、どれかを選択して、外れた隙に外へ逃げても問題はない。

 裏口とかがあったら別だが・・・。いや、これほど大きい建物だ。

 恐らくあるに違いない。

 賢い土方の事だから、そこは対応してくれるだろう。

 右側の廊下は、突き当りにドアがある。

 沖田は右側の廊下に進んで行った。


 その瞬間に、背後に気配を感じた、と同時に何かが自分に向けて飛んできたと感じ、すぐに身を翻した。


 それは的中だった。

 飛んできたのは切っ先が尖った分銅のようなもので紐がついていた。

 刀で弾こうと振ったが、すぐに引っ込んだ。

 左側の廊下にこれを繰り出したリーが立っている。


(ああー・・・、いたんだ)


 向こうの部屋のいずれかに潜んでいたらしい。

 背後を取られてしまった。

 リーは玄関から沖田のいる廊下の入口部分にいる。

 幅の狭い廊下に封じ込まれた形だ。

 先のとがった分銅を付けた紐を起用に回す。

 沖田を警戒して、彼の剣の間合いの外から攻撃するつもりのようだ。


(ありゃ、鎖鎌みたいなもんか? )


 似ているようで違う。

 鎖鎌の場合、分銅で剣を封じつつ引き寄せた上で釜で仕留めるものだが、あれは分銅そのもので殺傷する目的の物だ。


 しかも、厄介なのは容赦なく繰り出されるのだが、手足、首、腰、あらゆるところを器用に巻きつかせて回転する反動で繰り出されるため予測がつかず、来ると思ったら来ず、来ないと思ったら来る。

 変則的だ。

 避けようにも廊下の幅しか大きくは避けられない。

 刀で紐を斬ろうとしたが、器用にもすぐに引っ込めてしまう。

 リーはそれを続けてじわじわ間を詰めて来るから、沖田としては後退するしかない。

 こうして、どんどん廊下の奥に追い詰められて行く。

 突き当り、左右の両扉から気配が読み取れた。


 手下が各部屋に潜んでいる。

(くそっ、やっぱり罠だ)


 このまま後退すれば、両側から背後に斬り掛かられる。

 前方のこの攻撃を躱しつつ、両方同時に斬り捨てるのはさすがに無理だ。

 一方を捨て、二方なら何とかなる。

 ドアの手前に来た。

 両側の扉が開いて伏兵が斬りかかろうと飛び出して来た、と同時に、後方廊下の突き当りの扉が開いて、なんと土方が飛び出して来た。


 さらに、リーの背後、玄関から近藤が入って来た。


 沖田は左手の部屋から出て来た者を、土方は沖田の右手から出て来た者を一刀のもとに斬り捨てた。

 近藤はリーを斬ろうとしたが、この男はさすがにそうはいかない。

 器用に身を翻し、近藤の一撃を避けた。

 と同時に、武器を変えた。

 間合いに入られたら、あの武器では対処できない。

 リーの取り出した武器は十手2本、さらにカンフーシューズのつま先に仕込んだ刃物が飛び出した。

 近藤は暇も与えず二の太刀、三の太刀と繰り出すが、いずれも避けられた末に、逆にカンフー独特の動きに対応できず、避けつつ繰り出される両手両足の攻撃に対応するのがやっとだった。


「近藤さんっ! 」

 沖田も土方も、すかさず近藤の助太刀に入ったが、三人がかりでもリーの動きに翻弄される。


「こいつ、ちょこまかとっ」

 うまく間合いが測れない。刃物の数は4対3。

 かつ、リーの武器は、両手両足で長短が思いのまま、打撃技も併用できる。

 かたや、刀が長い故に一定の間合いを取らないと振ることもままならず、下手をすると味方も斬ってしまいそうになる。


 ところが、リーが絶妙の間合いを詰め、剣の間合いに入らせてくれない。

 一人一人相手にヒットアンドアウェイを繰り返す。

 数の優位はあっても、これでは決着がつかない。

 下手に打撃を受けているこちらの方が、持久戦ともなると逆に不利にも思えた。


(こいつ、時間稼ぎをしているのか? )


 土方は、考えていた。

 ここで三人相手にして清兵衛の逃亡の時間を稼いでいるのか、と。

 この建物の玄関で戦っている以上、2階から降りてくればここで捕まえられる。


 入って来る時、裏口の存在を確かめるついでに2階から外に出れる階段は無いことも確認できている。

そこで、リーが時間稼ぎをしているとすれば、清兵衛の居場所はすでに決まったと言っていい。


(よし、じゃ、策に乗ってやろう。こっちも勝負をつけるのはその時だろう)

「近藤さんっ」 

「うむ・・・。トシ、高杉殿は? 」

 この二人については特に説明を要しない。

 土方の考えは、即座に近藤にも伝わっていたようだ。


「裏口に気付いてよかったぜ。これで外への出入り口は全部抑えてある」

「そうか・・・なら、ここで待つとしよう。あとは、高杉殿の仕事だ」

 近藤がそう言うと沖田も何も言わずに、それに従った。


 リーは日本語が堪能ではない。

 というより、ほとんどわからない。

 近藤と土方の会話内容は理解できなかった。


 作戦は土方の読み通りで、リーが三人を引きつけている間に清兵衛を逃がす算段だった。


 肝心の清兵衛は1階の部屋にいる。

 しかも、実は先ほど伏兵が潜んでいた部屋に、人質として縄に繋いだ俊輔と聞多と一緒にいた。

 この機を逃さず、清兵衛は二人と共に部屋を出て、土方が出て来た廊下突き当りの裏口から逃げ出そうとしていた。

 リーは、これを確認した。

 それと同時に、三人も確認すると、沖田が後退する。


 清兵衛は裏口から外へと出て行ったのを見計らって、リーが突破を試みる。


 しかし、これは土方も近藤も読んでいた。


 一旦、突破を阻止するように行く手を阻んで剣を執拗に繰り出すが一瞬の隙を作って、一点突破の道を作った。

 リーはこの道を逃さず、二人の隙間を一瞬のうちにすり抜けた。


 しかし、その刹那、二人の背後に沖田が得意の三段突きを放つ構えを取って待ち構えていた。

 万全な体勢で待ち構えた上で放たれた超高速三段突きに、さすがのリーも対処できない。


 一撃目はすんでに交わしても、二撃、三撃目はリーの喉と心臓を貫いた。


 リーはそのまま二三間走り過ぎて後、崩れるように倒れ、絶命した。


 裏口に出た清兵衛は、俊輔と聞多を引き摺る様に外に出た。


 正直、この公使館以外に逃げ場があるわけでもない。

 ただ、彼に勝機があるとすれば、あと二人の用心棒が帰って来る、もしくは警備の英水兵を伴って出て行ったサトウたちが帰って来ること以外にない。


 それまでは人質を最大限利用して、時間を稼ぐ以外にない。


 ところがリーが引き付けていると安心しきったせいか、外に出る時にも特に確認もせずに飛び出した。

 扉の陰に待ち構えていた晋作の存在に一切気が付かなかった。


 まず、聞多の繋がれた縄を背後から斬った。

 続いて俊輔の縄を斬った瞬間に、清兵衛がようやく気が付いた。


「くそがっ! 」

 清兵衛は駆け出した。


「何処へ行く? お前にここ以外の逃げ場所があるのか? 清兵衛っ? 」

 晋作はゆっくりと刀を抜いて歩を進める。

 月明りに刀が反射している。

 俊輔も聞多もすでに晋作の後ろに回り、縄を解いている。


 清兵衛はもはや人質すら失い、守る手下もいない。

「おいっ! 誰かいねえのかいっ! ・・・天元っ! 天元っ! ・・・くそ、市の野郎もただの使いなのに遅せぇぞ。どいつもこいつも肝心な時に、役に立たねえ。何やってやがんだ、サトウ、早く帰って来い。海兵が来りゃ」

「見苦しいな、清兵衛。さっきまでの余裕はどうした? 待ったぞ、この時を。上海から戻ってからずっとお前を追ってきた」


 晋作は懐から押し花を出して、

「覚えているか、この花を? 」


「ああ? 」


「覚えてなんぞおるまい。貴様とバーンズに踏みつけにされ、打ち捨てられた者たちの数すら言えんだろうからな。ただし、上海最後の犠牲者くらいは思い出せるだろう」

「上海最後? ・・・ああ、あの花売りの娘っこかい? そういや、日本の使節団の来てた時だったな」


「俺もその使節団に居た。上海に絶望していたときに出会った十二、三歳くらいのかわいい花売り娘だ。絶望しかない地獄のような環境で、外国人の俺に、媚びへつらうでもなく、純粋無垢な満面の笑みで花をくれたその少女に俺は日本の未来の希望を見た。その後、時間の許す限り彼女を探し回ったが、ついに見つけられなかった。出発の日、港で商船の積荷の一部を海に捨ててるのを見た。その捨てられた商品の中に、あの時の笑顔がウソのような気のふれた笑い顔の彼女が血と傷にまみれた裸でぷかぷか浮かんでた。出会ってたった3日後のことだ。一体彼女に何があったのか。俺は港の人夫らを問い詰め、船上でも聞き回って、やっと真相を知ったのは帰国した後だった。しかも、あの日あの時、同じ港から出航して日本に来ていたということもだ」


「へぇ・・、なるほどね。結局、お前さんの私怨ってことかい。志だの天下国家の為だのと綺麗ごと言って周りを巻き込んでおきながら」


「悪いか・・・。どれだけ大義名分を立てようと、所詮人が動いて争う理由なんざ私利私欲か私怨だ。俺は正直それに従ってるまでだ」


「へっ、そりゃ違ぇねぇ・・・」


 既に玄関からリーを倒した近藤たちも来た。

 清兵衛は完全に挟まれる位置にある。


「長話が過ぎたな」

 突然、声がした。


 清兵衛の背後から、千栄天元が暗闇から月明かりに照らされ姿を現したのだ。


「それでは折角の好機を逃すぞ。高杉晋作」


 清兵衛の前に立ち、高杉の前に立ち塞がるように、そこで立ち止まった。


「天元ーっ! 遅ぇじゃねえかっ、このバカ野郎っ! どこほっつき歩いてたっ! ほれ、さっさとやっちまえっ! 」

 ぶっきらぼうな言い様だが、清兵衛の声は喜びと安堵に満ちている。


 腕前としては最も信頼できる男が現れたのだ。この男なら、一人でもこの事態をひっくり返してくれる自信があった。


「千栄・・天元・・」

 清兵衛の自信と信頼は、当然、晋作にもわかっている。


 彼に関する情報は少ないにしても、相当な手練れだとは分かっている。

 いや、実際に目の前に立っているだけでも、十分なほど自分には太刀打ちできないことが嫌と言うほど伝わって来る。


(あと少しと言う所で、こいつか・・・っ)


 近藤たちも同じく、この男の放つ異様な気を感じ取っていた。


 しかし、その肝心の天元が、彼らに背を向け清兵衛に向けて話し出した。 

「清兵衛・・・。勘違いをしてもらっては困る」

「ああ? 」

 清兵衛も突然のことで、口が開いたままになっている。


「他の二人と違い、俺はお前の手下になったつもりはない。目的の為に敢て協力してるだけでお前の命令に従う謂れはない」

「なんだとぉ・・・」

「俺の目的はじき叶う。もはや、お前を守ってやる理由などない」

 この絶体絶命の窮地に絶妙のタイミングで登場した救い主であるはずの天元から、予想もしていなかった発言が飛び出したことで、清兵衛はほぼ半狂乱になって吠えた。

「何を言ってやがるっ! 裏切るのかっ! この死にぞこないがっ! 」


 本音でもあり本心でもない。

 本当は、泣いて縋りつきたいくらいなのだろう。

 そうすれば、少しは可愛げも出て天元の気持ちも少しは揺らぐかもしれないのに、生まれついての

ひねくれ者であるが故にこういう言い方しかできないのだ。


 案の定、天元は吐き捨てるように言った。

「口をつぐめ下郎っ! ・・・取敢えずさっさと逃げたらどうだ」


 どうやらこの場で全員から嬲り殺されることからは助けてくれるのだろう。

 逃げる暇は作ってくれるようだ。


「く・・・ぬっ! ・・・くそッ! 」

 文句を言いたいが折角作ってくれた隙だ。

 清兵衛はとにかく逃げるようにまた公使館に向けて走り出した。

 その方向には近藤たちがいる。

 当然、そのまま行かせるわけがない。

 清兵衛の行く手を阻もうと立ち塞がろうとすると、清兵衛との間についさっきまで晋作の前にいた天元が割って入って来た。


「早いっ! 」


 天元は両手を広げ、三人を塞ぐ。

 その隙に清兵衛は公使館へと入って行く。


「清兵衛っ! 」

 晋作は後を追おうとするが天元がいる。

 すると、天元は晋作を見て、「行けっ」とばかりに首を振った。

「・・・・天元? 」

「別に止めん。斬る価値もない外道だ。好きにしろ」


 晋作は、天元の横を通って清兵衛の後を追って公使館へと入り、俊輔も聞多もこれに続いた。

 しかし、近藤らも行こうとするが天元はそれを許さなかった。

「なんだ? おいっ? 」

 あいつらが良くて、なんで俺たちは駄目なんだ? と言わんばかりに土方は天元を睨みつけた。


「これよりは私戦のみ。無用な助太刀はこの千栄天元が許さぬ」

 この三人はただの助太刀とわかっているのだ。


 そこに十松が現れた。

 腕を負傷しているようだが、応急の手当は受けているようだ。

「岡田先生っ? 残っておられたのでは」

「多少無理を言って招待申し上げた」


 この天元の言葉に、土方はカチンと来た。


 相模屋を出る前は怪我などしていなかった。

 ここに来て腕を負傷していながら、共に来たということは、十松に怪我をさせた相手は天元に間違いない。


 それを言うに事欠いて、

「多少無理を言ってだと? ・・・言葉間違えてんじゃねえぞ」


 土方だって天元の強さくらいは十分に感じ取っている。

 まともにやり合える男じゃないことも十分承知している。

 同じように、あの近藤も尊敬している岡田十松という初老の剣豪の強さも分かっている。

 その剣豪が一太刀も浴びせずに腕を負傷し敗れているという事実も受け入れてはいる。

 

 しかし言い方が気に入らない。

 気に入らない奴は、たとえどんなに強かろうと気に入らない。


 さらに言えば、やっぱり彼も剣士だ。

 強い相手を前に、闘わないという選択はしないのだ。

 しかも、これは他の二人にしても言うまでもないだろう。


「さて、まだ時間がありそうだ。天然理心流「試衛館」の近藤勇殿とその門弟たち。試合の前の相手として不足なし。稽古をつけてやる。参れ」


「なんだとおっ! 稽古だぁ? 舐めやがって」

「じゃ、僕が・・・」

「あっ? 総司っ、ふざっけんなっ! 」

「総司・・・。トシ。下がってろ、ここは譲れ。此の者、できるぞ」


 近藤は、天元の並々ならぬ気配を感じ、この冬の夜に汗をかいていた。


 ところが、天元は三人に対して、

「お主ら、何を言ってる。三人揃ってだ。でなくては稽古にならん」

 そう言い放った。


 これを聞いては、三人ともにブチ切れた。

「何ぃっ! 」

「おのれっ、この天然理心流を愚弄するかっ! 」


 しかし、十松は、キレる近藤に向けて、

「近藤さん、そやつは、千葉の小天狗だ」

と、すんなり天元の正体を教えた。


 十松からすれば、三人同時に相手をすると言われても仕方のない相手だと、近藤らに理解させるつもりだったのだろう。


「何? これがっ? あの千葉栄次郎? しかし、確か今年の初めに死んだと聞いてますぞっ」

「生きていたのだ。さらに今や殺人剣を得ておる」

「二十人の剣士相手に汗ひとつかくことなく、全員を一撃で伸したという」

「正直、弥助とどっちが強いって話だよな」

 土方ですら聞いたことがある名門中の名門の天才剣士である。


「・・・なるほど、弥助殿との勝負が目的か。われらはその前座か」

 近藤は冷静さを取り戻し、ゆっくりと構えた。


「舐められたもんだぜ。こりゃ、何があっても倒さにゃならねえな」

 土方も沖田も、落ち着いて剣を抜いて構えた。


「参るっ! 」

 三人が同時に叫ぶと同時に天元目掛けて踏み込んだ。


 天元は下段に構え、低く小さい声で呟くように言った。

「いかようにも。」

 下段から逆袈裟に振り上げると、三人の剣が全て弾かれた。


 と同時に、気が付くとすでに目の前に天元の姿が無く、彼らの背後に天元がいた。


 驚くのはそれだけでなく、三人ともに袖や脇腹の服が斬られていた。

 しかも、体は無傷だった。


「こ・・こいつっ! 」

 もはや、三人ともに戦慄するより他は無い。




 二十

 

 弥助と菊が、実家に着くと、土間で父親が血を流して倒れていた。


「ちっ、遅かったか」

 すでに藤の姿が無い。


「・・あああ~おとっつぁーんっ! 」

 菊が横たわる父に駆け寄り縋りついて泣き出した。


「おお・・、おきくぅ~」

 重傷ながらも父親はまだ意識があった。

「おとっつぁんっ! ごめんなさいっ! ごめんなさいっ! 」

 菊は、まさか自分のせいで父親がこんな目に遭う事は想像もできていなかった。


「菊、どけ。傷を見せろ」

 弥助は泣き縋る菊をほぼ強引に引きはがし傷口を見た。


(傷が浅い。下手くそだな)


 ただ、出血も相当ある上に病身だ。

 このままなら確実に死ぬ。


「すまんな。手短に二つ聞く、誰にやられた? それと妹はどこに連れて行かれた? 」

 父親は、弥助に抱き起され、震える口で精一杯の力で小さく答えた。

「・・・あん・・ま。・・・み・・・せ・・・」

「そうか、わかった」

 見ると父親の右手の近くに手斧が落ちている。


 家を荒らされた形跡はない。

 おそらく突然踏み込んで来て、有無も言わさず藤を浚って行ったんだろう。

 病身ながら必死に抵抗して、最終的に手斧まで持ったところで、偽座頭に一刀の元に斬りつけられたってところだろう。


(見えねえから適当に斬りつけてやがんな。速いにゃ速いかもしんねえが、その程度ってところか)


 昔、侠客に聞いた伝説の盲目の居合の達人と比べると、期待外れもいいとこだった。


(若い娘の目の前で父親が切り倒されるなんて、ひでえことしやがる)


「・・・菊、おとっつぁん、まだ助かるかもしれねえぜ」

 泣きじゃくっていた菊が、弥助の言葉に反応した。

「え? 」

「さて、おとっつぁん運ぶぞっ! 」


 弥助が、父親を抱えて行こうとしたところで、

「旦那―っ! 弥助さんよーっ! 」

と声がする。


 声の主は佐平次だ。


 すぐさま、佐平次が駆け込んで来た。

「ああ? なんだ、佐平次。どうしたい? 」

「おっとっと、弥助さんよっ、てえへんだいっ! 」

「だから何がだ、こっちも大変なんだ。聞いてる暇ねえ。とにかく菊のおとっつぁんを早く玄瑞に診せなきゃならねえんだ」


 そう言われた佐平次はようやく血を流して倒れている菊の父親に目が行った。

「確かにてえへんだ。菊のおとっつぁんは助かるんで? 」

「ああ、今すぐ手当すればもしかしたらな。だから、今すぐ運んでやらなきゃならねえ」

「分かりやした。ただ、そんなこたぁ、このあっしがやりやすっ! 弥助さんは早く、公使館に! ・・・十松先生が捕まりやした」

「はぁ、先生がっ? なんでそうなったっ? 誰にやられた? 」

 と聞いた瞬間に、ふと一人の人物が浮かんだ。

 そうだ、あいつなら十松に勝てるかもしれない。


「清兵衛んとこの用心棒、え~、名前がぁ~・・天元っ! 千栄天元が来て、あっちゅう間に十松先生を負かしちまった。あっしは剣の事はからきしだが、とんでもなく強いくらいはわかりまさぁ」


「で? 先生は、無事か? 」

「腕に怪我はしたみてえだが、玄瑞先生がすぐに手当してやって、後はすんなり奴に付いて行っちまいやして」

「で、公使館へ俺に来いと? 」

「へいっ! お急ぎを。ここはあっしが」

「いや、先に清兵衛の店に用がある」

「へ? 」

「菊の妹がそこに連れて行かれたみてえだ」

「弥助さんっ! 」

 菊が、妹を優先してもらったことに感極まっている。


 しかし、逆に十松を優先されたら泣きじゃくって縋りついて懇願していたことだろう。


 弥助もそれくらいは想像できたから、面倒くさかったのかもしれない。


 弥助の読みでは十松は人質にはされたが、すぐにどうこうするつもりは天元にはないだろうと思っていた。

 十松も素直に従ったと言う事からも純粋に自分との決闘を望んでいるだけだと察した。

 おそらく、清兵衛のことなど天元は気にもしていない。

 全てが片付いて、一切邪魔が入らない状態で自分と勝負を付けたいと思っているのだろう。


 そうとするなら、こっちもそれに応えないといけない。


「清兵衛の店はどこだ? 」

 弥助はそう聞くと、菊が、

「わたし、わかります」

 と言ったが、すぐに、

「いや、やっぱりいい。おとっつぁんに付いといてやれ。佐平次、後は頼んだ。」

 そう言うと、弥助はだっと駆け出して行った。


 菊が父の手を取って泣きじゃくってる中、佐平次はすぐ父親を担ごうとする。

「おいっ、さっさと行くぞ。立ちなっ! 」

「ごめんなさい。あたし、あたしのせいで、あたしが死ねばよかった」

 菊がそう言うと、佐平次は珍しく烈火のごとく怒った。


「バカ野郎っ! まったく、てめえって奴は、見ててイライラしてくらぁ! なんでもかんでも、自分が犠牲になりゃいいと思いやがって、腹が立って仕方がねえ! お前さん見てっと、死んだ姉ちゃんを思い出すんでえ! いいか、二度と死ねば良かったなんて言うな! わかったか! 」


「・・・佐平次さん・・・」

「わかったら、さっさと行くぞ。きっと助かる」

「はい」

 菊も返事をして立ち上がり、佐平次に背負われた父親に寄り添うようにして、小走りに道を急いだ。


 走りながら、佐平次は菊に言った。

「ついでだ。玄瑞先生に病気も直してもらえ」

「え? いいんですか? 」

「なにかごねやがったら、おいらがうまく言ってやらせてやるよ」

 とにかく二人は、相模屋に急いだ。


 ところ変わって、清兵衛の店先では、公使館を出た親分衆の残党が、救出の為に襲撃していたが、店先で全員が止められていた。


「ぎゃあああーっ! 」

 また一人倒された。


 それもそのはず、彼らを相手にしているのが用心棒の一人、偽座頭だった。


 一同は土方の言葉に触発されて襲撃しに来たが、いざとなるとさすがに恐怖で体が前に出ない。


「まったく・・・、恥の上塗りとはこの事だねえ・・・。見苦しい限りよ、お前さんたち」

 偽座頭は、溜息交じりに言った。


 店先や店の中にも、番に置いて行った清兵衛の手下がまだ十分いる。


 それだけでも大変なのに、こんな奴がいたのでは確かに言う通りでただの犬死にである。

 ここに向かうまでは、同じ死ぬなら仁義を通して死ぬと息巻いて来たものの、すでに半数近くがこの偽座頭一人に倒された。


 持つ刀がカタカタと音を鳴らす。

 鳴らしているのが一人じゃない。

 ほぼ全員が、震わしていた。


「うるさいねぇ・・・」

 と偽座頭のこぼした愚痴と妙に被った、もう一つの声が一団の背後から聞こえた。


「なんだ? お前ら邪魔だから下がってろ」


 一団を押し退けて出て来たのは、弥助だった。


「なんでえっ! あんたっ? 」

 一団の誰かが弥助の襟口を掴んで言ったが、無視して弥助が進むから着ていた纏がズレて開けてしまった。


 それと同時に、弥助の背中が露わになる。


 そう背中に彫られた入れ墨が丸見えになった途端、襟を掴んだやくざ者も思わず手を放し、一団から悲鳴にも近いどよめきが起こり、弥助の周囲から一斉に人がいなくなった。


「閻魔の彫りモン・・・、こ・・・こいつっ、「オニヤンマ」だぁーっ! 」


 全員がそれを口にして、逃げるように散ったからだ。 


「こいつぁ・・・? 」

 驚いて、状況が呑み込めないのは、偽座頭である。

 一体全体何が起こっているというのか。


「おい・・・、てめえか偽者はよ」


「・・・あんたぁ、オニヤンマの弥助さんかい? 」


 二人は、相模屋ですれ違うくらいしか面識が無く、当然初対面だ。


 そこに来て、偽座頭市は見知ったような感じで弥助に尋ねて来た。

 ということは、この男も長年裏社会で人を斬って来た男のようだ。


「俺の聞いてる居合の達人の按摩さんならともかく、おめえに聞かれる名はねえよ。おかしいと思ったんだよ。聞いてる通りなら、もうとっくに死んでっか、引退してんだろうしなぁ。凶状持ちでも、こんな奴らとつるむような人じゃなかったはずだからな」


「そいつぁ誤解ですぜ、旦那ぁ。あっしは一度だって座頭の市って名乗ったこたぁござんせんぜ。たまたま、この風体と芸が被っちまっただけでさぁ。あっしは、ただのしちっていう按摩でさぁね」


「ウケるね。じゃ、座頭七か? 」

「へぇ・・・」


「まぁいいや。本物ならあんな下手くそな斬り方しねえからな」

「あんな? 」

「おう。藤って娘、ここにいるだろ? 引き取りに来た。あと、二十両受け取りに来た。今すぐ出せ」

「そうだ、親分を今すぐ出せっ! 」

 弥助の登場で、急に親分衆の残党も勢いづいた。


「うるせえぞっ! てめえらっ、俺の用件が先だっ、黙ってろっ! 」

 弥助が一団に向かって怒鳴りつけると、すぐに静かになった。


「で、どうなんだよ? 」

 弥助は改めて偽座頭に向かって言った。

 それを聞いて、偽座頭はケケケと不快な笑い方をすると、

「あの病気の父親を斬ったことですかい? あれを見て、このあたしを下手くそと言いなさるんですかい? 旦那ぁ、そりゃ早合点が過ぎやすよ」

「・・・あ? 」

「娘の前で、父親殺すほど野暮じゃありやせんよ。ただ、とはいえ、あっしらに手向かったらどうなるかぐらいは身に染みてもらわねえと、示しがつきやせんし」

 偽座頭は、そう言うとまたケケケケと気持ち悪く笑った。


「へぇ・・・、わざとだと言いてえんだな。で? 俺の要求には答えてねえぞ」

「要求? 旦那ぁ、冗談言っちゃいけねえ。はい、そうですかって飲めるもんじゃないでしょうに」

「・・・だな」


「・・・親分・・・」

 後ろに控えている残党たちの一人がうっかり呟いた。


「うるせえなっ! 少し待ってろっ! ・・・直ぐに済む」

「すぐ? 」

 誰かがが聞き返した。

 この偽座頭と戦うのに直ぐに済むと弥助が言った意味を理解できなかったからだ。


 彼らからすればバケモノのように強い偽座頭を、たとえ「鬼閻魔」、いやもといオニヤンマの弥助であっても勝てるかどうかすらわからないと思っていた。


 しかし、当の偽座頭市、いや自称、座頭七はにやりと笑って、

「ま、違ぇねぇ」

と言った。


 言葉の意味を理解したからだ。


 互いに居合で決着をつけると言う事、つまり一撃で勝負がつくと言う事だ。


「どれ? どれだけ早いか確かめてやる。抜きな」

「旦那、そいつぁ無理な相談だ。旦那が抜かなきゃ抜けやせんぜ」

「無理言っちゃって、後悔すんなよ」


 しばらくの沈黙。


 弥助は両手ともぶらりとさせ、刀の柄に手を付けもしない。

 対して座頭七は、仕込み杖の柄を握って構えている。


 明らかに座頭七の方が有利だ。


 しかも居合抜きの達人とも言われている。


 仮に先に弥助が抜いても初動の動きで、どこから斬って来るか読まれてしまう。

 これに対処して早く抜き斬れば、勝ちは間違いない。

 目が見えない不利は、この一対一、さらに互いの間合い、立ち位置が決まっている勝負においてはほぼ無いに等しい。

 些細な音や空気の振動を感じれば相手の動作を読み取ることは達人の域に達した者にとって容易だろう。


 一瞬の互いの居合いにおいて、その息遣い、指先一つの動作でも勝敗につながる。


 ほんの数秒の静寂でもその場所における緊張感のせいで相当な時間に感じたことだろう。

 この場にいる全員、その緊張の只中にあって耐えられずについ、


「あ」


と誰かがうっかり声を漏らしてしまった。


その瞬間である。


 互いが剣を抜いたと思ったら、気が付くと弥助の剣が座頭七を半ば斬った所で止まっていて座頭七はまだ抜き切れてもいなかった。


 この場にいたやくざ者たちには、その経過が全くと言っていいほど見えなかった。


 瞬きすらしていないのに、気が付くとこうなっていたのだ。

「あ・・・」

 再び、誰かから声が漏れ出た。


「遅いねえ・・・。遅すぎんだよ、バ~カ」


 そのまま斬り抜けて鞘に収める。


 血が噴き出しふらふらしながらも座頭七が最後の力を振り絞って刀を抜き切り、

「この野郎―っ! 」

と弥助に襲い掛かろうとすると逆に残党の一団が座頭七に一斉に襲い掛かった。


 全員から刺し貫かれた座頭七は大量の血を噴き上げ倒れた。


「伝説の足元にも及ばねえ。地獄で出直して来い」

 弥助は言った。


 予告通り、勝敗は一瞬のうちに片が付いた。


 敵も味方も、この場にいる全員が、余りのことに少し呆けていると、弥助が清兵衛の手下たちに向けて、

「おい」

と声を掛けた。

 手下たちは、目の前で最強を誇る用心棒がほんの一瞬で倒されたのを見た上で、目の前にいるのが噂に聞こえた「オニヤンマ」の弥助だということ再認識した途端、

「ひぃっ! 」

と返事とは言い難い悲鳴を上げた。


 弥助はさらに言う。

「もう一度言うぞ。藤って娘と二十両出せ・・・、いや、面倒くせぇ、ここに閉じ込めた親分衆・・・いや、とにかく全員出せ。それとここにある金も全部出せ。今すぐだ」

「ひっ・・・ひいいーっ! 」

 もう返事になっていないが、手下たちは揃って店の中に入り全員が慌てて動き出した。


 弥助は店にまでズカズカ入って、框に腰を掛けた。


 大して待たずに、親分衆がぞろぞろと出て来た。

 その中には安五郎親分の姿もある。

 そして、千両箱が弥助の前にずんずん積まれて行く。

 そこへ、この品川で清兵衛に声を掛けられた女たちがぞろぞろと出て来たのは、さすがに親分衆も弥助も驚かされた。


「こんなに・・・。さすがに、これは・・・」


 女たちの中から、藤が姿を見せた。

 藤は弥助を見つけると、駆け寄って来た。

 どうやら、弥助は常日頃、裏口で菊とやり取りするところを見ていたようだ。


 弥助にとって特に興味が無かったから店にも黙っていたのだろうが、菊と藤はそれを恩義に感じていたのだろう。


「弥助さんっ・・・」

 藤もすっかり弥助になついてる様で、目の前で父親が斬られたこともあり怖くてたまらなかったのだろう、弥助の顔を見るなり泣きながら抱き着いて来た。


「おうおう、怖かったな。とにかく、お前さんは相模屋に行きな。姉ちゃんもおとっつぁんと一緒にそこにいる。まだ安心できねえが、おとっつぁんもまだ生きてるぜ」

「えっ? おとっつぁんがっ? 」

「ああ、早く行ってやれ」

「はいっ! 」

 藤は急いで出て行った。


「弥助の旦那・・・」

 安五郎親分が声を掛けて来た。

「お恥ずかしい限りで、断っておきながら、結局旦那の厄介になっちまって面目ねえ」

「マサは? 」

「さあ、ここにいねえってことは、そういうことなんじゃねえんですかね」

「・・・そうか・・・、じゃあ、親分、後の始末はあんたに任せた」

「へ? 」

「この娘っ子たちに、清兵衛の野郎が言った金額を渡してやってくれ。どうせ払ってねえに決まってる」

「店に返さねえんで? 」

「戻りたい奴は戻してやんな。戻りたくねえんなら好きにさせてやってくれ。そこんところは、親分

に任せるわ。・・・おっと、それと」

 そう言うと千両箱に手を突っ込んで、「ひい、ふう、みい」と小判を数え始めて、二十両取ると、

「誰か相模屋まで使いを頼まれてくれねえか」

「へい」

「相模屋にいる佐平次と言う男に渡してくれ、いいか、居残りの佐平次だ。間違っても女将に渡さないでくれよ」

「わかりやした。で、旦那は? 」

「俺は今から公使館に行く」

「公使館って、御殿山のですかい? 」

「お、そうだ。親分、その御殿山の公使館ってどこだ? 」

「知らなかったんですかい? それもとりあえず近くまで案内させやす。ここにいる奴ら、そっから来てやすから」

「済まねえな」

 そう言うと、もう一度千両箱に手を突っ込んで、一掴み取ると、

「構わねえか? 手間賃だ」

 と安五郎親分に聞くと、

「いや、逆にそれだけでいいんで? 」

と言われたから、もう一度手が伸びかけたが、

「いや、荷物になるからいいや」

と言って、案内の手下を引き連れて早々に走り出して行ってしまった。


「まったく、おもしれえお人だ」

 嘆息気味に安五郎親分が呟いた。




 二十一


 清兵衛は公使館に入ると、

「くそっ! ・・・くそがっ! 」

と繰り返しながら、一目散に正面の階段を上って、二階へと向かった。


 晋作が遅れて、刀の柄に手を掛け公使館へと入った。


 玄関ホールにはリーの遺体が転がっている。


「清兵衛っ! 」

 叫んでも、当然、返答はない。


 まず、一階か二階か、一階なら、左右の廊下どちらか。

 そこへ、俊輔と聞多が遅れて入って来た。


「高杉さん・・・」

 聞多が晋作に尋ねた。

 要するに三手に分かれましょうという意味で言ったのだろう。

 相手が会話を聞いている位置に潜んでいるとも限らない。

 余計な会話は、相手を利するだけと聞多も心得ているからこそだろう。

 当然、晋作も同様だ。

 晋作はこれに同意した様に頷き、指で指示した。


 俊輔は二階、聞多は一階右、晋作は一階左、二人も無言で頷き別れた。


「もう、観念しろ、清兵衛」

 晋作は声を掛けながら、一階左側の廊下を進み、一部屋一部屋ずつ確認した。


 奥の二部屋のドアの前には先ほど沖田と土方が斬った手下の遺体がある。

 そして、その先は清兵衛が外へ出た所で捕まえた廊下突き当りの裏口に到達する。


 清兵衛が初めに潜んでいた部屋である。

 二度も同じところに居たりしないだろう。

 まして、裏口から出ても外には天元と近藤たちがいる。


(二階か・・・)


 そう思って、玄関ホールまで戻ると、右側を確認中の聞多を待たずに階段を上がり、踊り場へ。


 踊り場から二階を見た。

 階段を上がると突き当り正面は大きな窓があり、どうやらその先は玄関上のバルコニーになっているようだ。

 二階ホール右手は壁があり、ドアがある。


 どうやら、公使のプライベートスペースになっているのだろう。

 見ると、若干ドアが開いている。


(あそこに潜んでいるのか? いや、誘いかもしれない)


 そこで、再び、

「俊輔ぇーっ!  二階にいたかっ? 」

とわざと大きな声で俊輔を確認しようとした。


 俊輔の回答はない。


 やはりだ。清兵衛は二階にいる。

 俊輔は返事のできない状況にあるに違いない。


 もともと足軽出の伊藤俊輔は剣の腕と言えば大したものではない。

 とはいえ、素人博徒の清兵衛に刀で負けるとは思えない。

 不意に背後を取られて何かで殴られ気を失ったか、もしくは何かで脅されて捕まったか。

 晋作は刀の鯉口を切った。


 その時、伊藤が声を上げた。

「高杉さんっ! 」

 声は二階左の廊下から聞こえた。


「俊輔っ、無事かっ?」

 と言って、階段を上がり、左に折れた瞬間、


〝ダァーッンッ!〟


と激しい銃声が鳴った。


 一瞬の事だったが咄嗟に身を翻して、階段と廊下の壁に身を隠した。


 窓越しに差した月明りが照らした背後の壁に穴が開いて、煙が出ている。


(銃だとぉーっ)


 これでは形勢逆転だ。


 さすがに刀の間合いにまで近づけない。


 落ち着いて、廊下の先を覗き込んだ。

 伊藤に拳銃を突きつけ、盾にしている。

「俊輔ぇっ・・・」

「高杉さん、すみません」

 銃声を聞いて、一階から門多が来たが晋作は廊下に出ようとする聞多の袖を掴んで、壁に引き込んだ。


 一瞬だけ廊下の先に見えた光景で聞多も状況を飲み込んだ。


「ああーっ! 俊輔、何をしとるっ! 」

 

 晋作は、清兵衛の持ってる銃を見た。


 リボルバー。

 見た感じ、自分の持ってる銃と同じ物だと思った。

 スミス&ウェッソン、5連式のリボルバーだ。

 全弾装填済みとして、まだ四発ある。


 聞多がヒソヒソと、 

「高杉さん、いよいよ、そいつの出番ですよ」

と少し興奮気味に言って来たが、晋作は落ち着いて答えた。

「そうも簡単じゃない。大問題が二つある」

「え? 何です? 」

「一つは、言わずもがな、俊輔だ」

「ああ・・・。で、もう一つは? 」

「見ろ」

 晋作は懐の拳銃を出して、装填している弾数を見せた。


 一発しか入っていない。


「ああ~・・・」

 聞多はそれを見て、納得しつつ長いため息をつくように言った。


「しかも、撃つのも初めてだ」

「ええっ? 試し打ちとかしなかったんですか? 」

「ただの珍しい観光土産みたいな気持ちで買ったんだよ。実際に使うことになるとは考えてなかった」

「普段、あれだけ自慢げに見せびらかしといて・・・。で、どうします? 」

「お前、随分と一階で時間が掛かってたな? 何してた? 」

「いや、例の清国人の奴の近くに面白いもんが落ちてたんで、拾って来たんですよ」

 その拾って来た物を聞多は晋作に見せた。


 かたや清兵衛は形勢逆転したと思って余裕だった。


「ははは、切り札は最後まで取っとくもんだなぁっ! 高杉ぃーっ! 刀の時代は終わったんだよ。これからはこいつだっ! 出て来て刀を二本とも床に置けっ! 早くしろっ! この侍の頭に風穴が空くぞっ! 」


「・・・わかった」

 そう言うと晋作は二本とも刀を腰から取り、壁から出してアピールすると、そのまま全身を出して、清兵衛の正面に立った。


 そして、ゆっくりと持っていた刀を床に置くと二、三歩前に出て、両手を袖にしまい懐に入れた。

 清兵衛にとってみれば、そこまで指示していないのにもかかわらず、ご丁寧に刀を完全に取りづらい位置にして、かつ、両手の自由すらも塞いだように見えた。


「それでいい・・・」


(完璧だ。バカ正直な野郎だ)


「おい、もう一人もだっ! 早くしねえかっ! 」

 晋作に引き換え、聞多がなかなか出て来ない。


「おいっ! 」

 と清兵衛が叫んだ瞬間、晋作の後ろで聞多が出て来ると同時に、晋作は前傾姿勢を取った。

 すると、聞多から何やら縄の付いた先の尖った分銅のような物が清兵衛目掛け飛んできた。


 晋作はそれと同時に一気に駆け出す。


 不意を突かれ、清兵衛は俊輔に向けている銃を晋作に向けて撃つか、それとも聞多に向けて撃つか、いやこのまま俊輔を撃つか、それとも向かってくる分銅を避けるか、一瞬逡巡する。


 このほんの一瞬の間に俊輔は清兵衛から離れ、晋作は一気に間合いを詰めた。


(しまっ・・・た)


 そう清兵衛は思ったが今この刹那でできることは、分銅を避けつつ、晋作に向けて銃を撃つしかない。


 しかし、避けることで体制を維持できず、少しよろけて銃口を晋作に向けるのに手間取った上に体が開いた。


 たったコンマ数秒の世界だが、清兵衛にはスローモーションに見えている。

 しかも、わかっているのに体が動かない。

 特に肝心の右手が動かないのだ。

 なぜか、よろけて身体の重心が右に傾いている。

 このままなら右に倒れ込むだろう、無意識に受け身を取るべく銃を持つ右手がその準備に入ってしまっていた。


 近づいて来る晋作の懐から何かが出て来た。


 その何かの先が自分に向いている。


(野郎っ! まさかっ! )


 そう晋作も銃を持っていることを今気が付いたのだ。


 手を懐に押さめたのは両手の自由を奪う為でなく、この時の為に拳銃を握っておくためだったのだ。

 もう外しようのない至近距離にまで迫っている。


(ふざけやがってっ! そりゃ、お互い様だっ )


 何とも言う事を利かない右手を無理やり動かして晋作に銃口を向けたが、その時に晋作の銃が先に火を噴いた。


 弾は清兵衛の左胸を貫いた。


 撃たれた衝撃で右に傾いた姿勢は左に振られたことで倒れることは避けられた。


 が、清兵衛には耐えがたい激痛が走り、呼吸が急に止まって吸うことも吐くこともできなくなった。

 意識も遠のきかけたがまだやれる。


 目線を晋作に向けなおすと晋作はまだ突進を止めない。

 なぜだ?


 銃を撃った右手はまだこっちに向いていたが、左手は下方に後ろ手を回したと思うと、いきなり刀の柄が見えた。


(こいつっ! )


 背中に刀を柄を下に向けて隠していたのだ。


 しかし、二本共に床に置いている。


 ではこれは、

(あの後ろに居た奴の刀か? )

 そう言えば、出て来た一瞬にしか見えなかったが、確かにその時小太刀しか差していなかった。


 気が付いても遅い。

 もはや晋作は剣の間合いに入っていた。

 清兵衛は最後の力で再び銃口を晋作に向け、引き金に掛けた指に力を込めた。


 が、晋作は逆手に抜き、拳銃を持つ右手を柄先にそえつつ、そのまま一気に斬り抜けて行った。


「天誅・・・」


 晋作は呟くように言った。


 清兵衛の銃は空しくその後に火を噴いた。


 大量の血飛沫が清兵衛の体から噴き出た。

 廊下に面した窓から差し込む月明りに飛沫がキラキラと反射している。

 眼前にキラキラ舞い飛ぶ自らの血の飛沫を何故だが、今までに見たことが無いほど美しく思えた。


「・・・ああ? ・・・あ・・つぅ! 」

 忘れた頃に体の激痛に気付く。


「このっ・・てめえ。・・・汚ねえ・・・ぞ」


「切り札は最後まで取っておくんだろ?」

「ふざけん・・な」

 清兵衛は崩れるように倒れて息絶えた。


「やた・・やった。やりましたよっ! 高杉さんっ! 」

 勝敗は決した。


 晋作の私怨は達成した。

 俊輔は素直に喜んだが、

「危なっかしい勝ち方ですけどね。ひやひやしました」

 聞多はそうでもない。


「そう言うな。助かった、聞多」

「いえ。ただやっぱり銃の弾、一発しかないのはやっぱりだめですよ。どっかで買い足して下さいよ。この分じゃ、これからも必要そうだから」


 そう言っている矢先に公使館に水兵たちが大挙して入って来て、たちまち二階にまで上がり、晋作たちを取り囲んだ。


 遅れてサトウもやって来た。

「随分と丁度いい頃合いに来たもんだな」

 晋作はなんとなく彼らの登場を読んでいたように皮肉っぽく言った。


「あんた、確か、バーンズ代理公使にくっついてた」

 晋作がなぜ読んでいたかまではわからないが、サトウが何者かまでは調べてた俊輔と聞多は知っている。

「通訳官の・・・、日本人みたいな名前の・・・えっと、そうだ、確かサトウだったか」

「恐れ入ります。さて、高杉さん。この公使館に火を掛けます。あなた方もすぐ退出して下さい」

「はぁ? 火を掛けるって? あんたらがなぜそんなことをする? 」

 聞多も、さすがにその意図がわからなかったが、晋作だけはわかっているかのように黙って聞いていた。


「それと、バーンズはすでにわが海兵が拘束しました・・・。お気持ちはわかりますが、ここで手を引いて下さい」

「何? 手を引けって? どういうことだ? 」

 俊輔が訊いた。


「私は、本国よりバーンズの不正の事実を暴くように密命を受けてました。この度、その証拠を全て押さえたので、彼を更迭し、身柄を拘束しました。彼は本国に送致され、然るべき裁きを受けるでしょう」

「・・・引けぬ。と言えば? 」

 晋作がようやくここでサトウに言った。


「引いてもらわなくてはなりません。清兵衛は日本人ですからいいですが、バーンズは仮にも我が国の外交官です。極めて政治的な外交問題になる」


 つまり、サトウは本国から上海における高官たちの不正を暴き、外交問題としない為に現地における不正の証拠を当事国にバレないように秘密裏に全て抹消するよう密命を受けていた。

 そのキーマンとなる清兵衛についてはわざと見捨てたのだ。

 バーンズ達汚職高官たちの悪事を暴くのに最も重要な証人になるはずなのに助けようともしなかったのは、もちろん、不正を知ってる清兵衛に生きててもらうと都合が悪いからだった。


 清兵衛は日本人であり、全責任を被せるにはもってこいの人物であり、トカゲの尻尾切りに使うには丁度よかった。


 晋作はそれが英国側の思惑だと読んでいた。


 というより、この公使館に入った段階から、もうそうとしか考えられなかった。


 本来いるべき警備の水兵もおらず、外交官もいない。いるのは日本人の清兵衛とその手下たちだけなのだから、公使館としてはあり得ない状態と言っていい。


 全てのお膳立てができていたのだ。


「ご想像に任せます。本国としてはこの公使館含め無かったことにしたいんだと、私はそう思ってますけどね」

「冗談じゃない。・・・サトウさんよ。せめて、公使館は俺たち長州が火をつけたと報告してくれ。本国にも公儀にもだ」

 この晋作の申し出に驚いたのはサトウでなく、聞多と俊輔だった。

「え? 本気ですかっ? 」


「無かったことになんてさせるか。ツケは必ず払ってもらう」

 これを聞いたサトウは、晋作の思惑をわかってか、少し笑って、

「構いませんよ。ただ、ツケの代償を払うのはそっちかもしませんよ」

と言うと、晋作はこう返した。


「かもしれん。まあ、これからじっくりと腰を据えて付き合っていくことになるんだろうから、貸し借りはお互い様って話だ」

「なるほど、あくまで我が国と対等な関係を希望されるわけですか。期待しましょう、その時が来るのを」


(こいつ、永遠に来ないような言い方しやがる。なめるなよ)


「じゃ、とりあえず。こいつの弾ないか? あったら、いくつかくれ、それで、今回は引いてやる。公使館焼き討ちの汚名も着てやるんだ。それくらいいいだろ」


(交換条件がたったそれだけ? もっと、貰えるでしょうよ)

 これを聞いた俊輔と聞多は、そう思った。

「では、こちらからプレゼントしましょう。・・・スミス&ウェッソンですか。では、こちらを。(箱を出す)ああ、よろしければ、その清兵衛の銃もお持ち帰り下さい」

 

 サトウはほんの挨拶程度のプレゼントと前置きした。


 この〝貸し〟とやらが、後にどれほどの効果を生むことになるのか、歴史の裏側はわからないが、この事件の半年後の文久三年五月に、ここにいる伊藤俊輔と志道聞多、他三名の若い藩士がイギリスへ留学することになる。

 しかも、出航日の二日前に攘夷決行として始めた第一次馬関戦争が始まったばかりなのにである。


 さらに、第二次馬関戦争の際にも、その講和会議に家老の子、宍戸刑馬と名乗って全権大使として晋作は交渉したが長州藩が一方的に攻撃した挙句に徹底的に返り討ちにあっただけなのに、結果的に全部の責任を幕府に押し付け、さらに要求された彦島の租借権についても有耶無耶になって、結局、長州藩は何ら責任を負うことがなかった。

 この時の交渉の内容は、同席して通訳をしていた伊藤俊輔(後の博文)などの回顧録などでも、有名であるし、英国の公式記録としても残っているのだろうが、彦島の租借権を持ち出された時に晋作はごねてごねてごね倒した挙句、長々と古事記まで詠唱して有耶無耶にしたらしい。

 今にして思っても、「そこ有耶無耶にできるの? 」と思うところだ。


 もしかしたら、この時の〝貸し〟とやらが、交渉に大きく影響しているのかもしれない。

 いや、これはただの余談である。


「まずい。もう火をつけたようだ。出ましょう。煙が立ってきた。」

 サトウがそう言って、水兵たちの先導により晋作と俊輔、聞多が公使館を退出して行く。

 火は瞬く間に燃え広がり、中には清兵衛とリー、そして手下たちの遺体も共に炎に包まれて行った。



二十二


 そのしばらく前の公使館の外においては、千栄天元を中心にして岡田は後ろに控え、近藤、土方、沖田が肩で息をしている。


「なんだぁ、この野郎。・・・総司、お前何回斬られた? 」

「僕、3回です。近藤さんは? 」

「俺は2回だ」

「くそっ! 俺だけ5回も斬られてんじゃねえか」

 天元の強さは計り知れなかった。


 三人がかりでかかって行っても明らかに手を抜かれた上に返り討ちに逢っている。

 しかも、全て寸止めか、服を一部斬られているにとどめて、傷一つ付けられてもいない。

 これほど、彼ら剣士にとって屈辱的なものはないだろう。


「こっちは本気で斬りに行ってるのに、一度もかすりもせんとは。・・・これほどか、これ程までも差があると言うのか」

 近藤が息を整えつつ呟いた。


「ああ、悔しいな。血ヘド吐く思いで稽古したってのに、こんなに差がついちまうと、さすがに心が折れちまう」

「土方さんはそんなにしてないでしょ。血ヘド吐くとこ見たことないですよ。酔っぱらって吐く以外」

「うるせぇっ! お前だってねえだろっ! 」


 すると公使館門から大勢の英水兵たちが列をなして入って来ると、一挙に公使館を包囲し始めた。


「なんだ? 」

 近藤たちもこの事態に天元を相手にするどころでは無くなったように、ただ狼狽したが、不思議と水兵たちは天元含め彼らに銃口を向けることも無く、どちらかと言うと、存在を無視するかのようにしている。


 そして、水兵たちの中からサトウが天元たちの前に出て来ると、

「奴なら中にいる」

 と天元がサトウに向かって言った。

「そうですか。・・・あなたが斬ってくれるのでは無いのですね? 」

 そうサトウは天元に言った。


「俺にはそもそも関係ない。ただ、ちゃんと忠告はしてやった。それを聞かなかったのは、あいつの責任だ」

 天元がそう言うと、公使館の中から銃声が響いた。


「そろそろ、決着が着く頃だろう」

「そのようですね」

 サトウがそう言った。


「おい、こりゃ、どういうことだ? 」

 さすがによくわからない土方が見た目は完全に異人なのにヤケに流ちょうに日本語を話すサトウに聞いた。


「あなた方は、お気になされず。こちらの事とは無関係ですから、引き続きこちらの方のお相手をなさって下さい」

 そうサトウはにっこり笑って土方に答えたが、

「いや、そう言われて、はい、そうですか、わかりましたってならねえだろっ! 」

と土方がツッコミを入れたと同時に、もう二発の銃声が公使館から鳴り響いた。


「・・・決したようだな」

 天元がそう呟くと、サトウの合図で水兵たちが一斉に動き出し、サトウは一部隊を率いて、さっさと建物の中に入って行った。


「なんだってんだよっ、おいっ! 」

 土方は再び天元にツッコんだ。

「よその事を気にできるほど、貴殿らは余裕があるのか? 一体、どれだけ斬られれば、己の未熟さに気が付くのだ? それとも、これを理由に休憩でも取っていたのか? 」


 これを言われると、もう返す言葉が無い。

 これに返せる唯一の方法があるとすれば、

「せめて一太刀でも入れんと面目が立たん」

という事でしかない。


「まだ来るか。もはや、実力の程は見えた。これ以上は不毛」

 三人は改めて、構えを取り、天元に挑んで行った。

 

 この間、十松はずっと黙って千栄天元の剣を見ていた。


 そして、過去に斉藤勧之助と立ち会った千葉栄次郎だった頃の剣との違いを見定めていた。


 千葉栄次郎の剣とは、一言で言ってしまえば「速さ」にある。

 そういう意味では、彼の中で天才剣士の双璧と呼べる仏生寺弥助の剣と似ている。

 また、千葉栄次郎の得意としたのが、右片手上段からの面であることも、左上段の面を得意とする弥助と似ている。

 しかし、闘いのスタイルと言うと、二人は両極にあると言っていい。

 弥助は、相手に反撃の猶予を一切与えることなく一撃のもとに倒すのに対して、栄次郎は相手に撃たせて隙をついて一撃で倒すタイプだった。

 それにより負けることもあったが、相手の攻撃をそれで見切って二度目には完膚なきまでに倒している。

 つまり、初見の剣術でも対応し、見切って倒す。

 弥助は、どんな相手でも初手でほぼ倒すので、見切るもくそも無い。

 裏を返すと、初手をかわされるとどうするのか? ということになる。

 出たとこ勝負と言うのが弥助らしいが、そういうわけでも無い。

 何度か躱されたことがあると本人が言っていたが、実際その立ち合いを十松は見たことが無いから、弥助の戦いぶりを正直見たことが無いと言っても過言ではないのだ。


(ただ、相手が千葉栄次郎となると初手では決まらんだろう。そうなると、弥助にはかなり不利な相手となるであろうな)

 そう十松は思った。


 そして、千葉栄次郎ではなく千栄天元として今、近藤たちと剣を交えているのを見て、以前と異なり、北辰一刀流の型通りだけではなく実践的な応用が目立ち、ほぼ我流とも言えた。

 何と言えばいいのだろう、どちらかと言えば、水戸の藩士相手に見せた曲芸まがいの剣術というのが一番近い気がする。

 一見してふざけているように見えて、持ち前の速さを活かし、変幻自在に繰り出す剣は太刀筋を読み切れない。


「千葉栄次郎ならば北辰一刀流ではないのか?型がないというか、変幻自在、太刀筋が全く読めん」

 これを何とか受けている近藤もこう愚痴るしかない。

 気が付くと斬られているのだ。


「我が剣は未だ無形。数多の剣士と幾多の刃を交えても、我が求める真髄の開眼には至らず。足りぬのだ。まだその境地に至る命のやり取りに出会えておらぬ。残念ながらお主らとて、わが求道の贄にもならぬ」

 そう天元は言う。


(弥助相手であれば、それが成ると言うのか、栄次郎よ)


 自分の知らない弥助を天元は知っているのか、それとも、道場時代、練兵館の「閻魔鬼神」と呼ばれた弥助の実力を期待してるだけなのか、十松にはわからない。


 ただ、正直、「見たい! 」と思ってしまっている自分がいる。


 この衝動は、剣士として避けがたいものなのかもしれない。

 しかし、あれこれ思いを巡らす以前に、唯一の懸念があった。


(本当に、あいつは来るのか? )

 ということだ。


 なにぶん気分屋なところがあるし、お金が絡むことなら飛んでも来るが、ただの決闘となると面倒くさがって来ない可能性もある。


 以前も、腕の滅法立つ伊藤何某とかいう道場破りが来た時も、弥助が来て、さんざ打ち負かしたことがあったが、その時も金の無心にたまたま道場にやって来た時で、案の定、手柄を強調してしこたま金をねだった末にまたどこかに行ってしまった。


 菊の実家に行った割には、ここに来るのに結構時間がかかっている。


 佐平次を走らせたのにまだ来ないとなると懸念どころじゃなくなってきた。


(あの恩知らずめ。わしはどうなっても良いのかっ)


「なんだ、こりゃっ? 」

 いきなり土方が異変に気付いて、大声を出した。


 その声に、ようやく十松も気が付いた。

 気付くと自分の背後に熱を感じているし、周囲も赤く照らされている。

 振り向くと公使館に火がかけられ、瞬く間に燃え広がっていた。


「公使館に火がっ! 」

 沖田も近藤も手が止まった。


 建物から水兵に守られつつサトウと晋作たちが出て来ていた。

「まだやっていたのかっ? もっと下がれっ! 火が回るぞっ! 」

 晋作にこう言われると、近藤たちは思った。


(こっちの気も知らずに・・・。自分の気は晴れたか知らんが、助太刀に来ただけなのにこんな屈辱味わうなんて、割に合わな過ぎねえか)


 天元は、晋作に言った。


「私怨は断てたようだな。ならば、お主らも立ち合うが良い。舞台は整った。主役のお越しだ」

「何? 」

 言われた晋作はふいに周囲を見回したが、天元の差す主役と言える人間はいない。


 その時、門の前あたりで数発の銃声が鳴り響いた。


「あれは? 」

 サトウが水兵に様子を見に行くように指示しようとすると、天元が止めた。


「無用だ。サトウ、止めるなよ。ここからは一切手出し無用に願う」


 すると、門のある闇の中から公使館の火の明かりが届くところに姿を現したのは弥助であった。


「弥助っ! 」


 十松や晋作たち、近藤ら全員がその登場に驚いた。


 が、サトウは彼が何者かわからない上に、門の警備に立たせた水兵がいたはずで、こんな男が来たら通すはずがないのにここにいる。

 ということは、さっきの銃声は水兵が撃ったに違いない。

 しかし、その撃った相手がここに来ている。


(どうなっている? )


「おうっ、あんたエゲレスの人だろ。店で公使と一緒にいた。門で三人ばっか伸びてるから起こしてやってくれ。ああ、斬っちゃいねえから心配しなさんな」

「は? 」


 サトウは弥助の言ってることが理解できたが、それはあくまで日本語として理解できただけで、彼が訊きたいのは、水兵は数発発砲している。

 これは威嚇も含まれるだろうが、明らかに狙って撃っているはずなのに、どうやって自身は無傷で屈強な水兵を斬ることもなく制圧したのかということだ。


 後に、仲間の水兵によって意識を取り戻した門の警備担当は顔面蒼白になりながらその状況を語った。


 暗がりから突然姿を現し、男がこっちに向かって走って来るから、「とまれ! 」と言って銃口を向けた。

 当然、他の二人の兵も同様に動いた。

 ところが、男は止まる様子が無い。

「サルめ」

 正直、この日本のサムライというのは、人語(英語)も解さぬサルで、近づけば斬り込んで来る危険なケモノだと思っている。

 五月の事(第二次東禅寺事件)だってある。

 躊躇してたら斬られると思ったので、威嚇無しで撃ち殺そうと思い、男に照準を合わせ、躊躇なく引き金を引いた。

 ところが、そこにいた男はいなくなっていた。

 仲間の水兵も同様に発砲したがどれも当たらない。


 気が付いたら、男はすぐ目の前にいた。

「ぎゃあっ! 」

という声がした。

 立て続けに二つほど声が聞こえたと思ったら、仲間の兵が口から泡を拭いて倒れていた。

 自分一人になって、銃を振り被って抵抗しようとして、一瞬、彼の目を見た。


 その瞬間、右肩から胸、腹にかけて激痛が走った。


 その激痛に耐えられずに意識を失ったと言う。


 話を聞いた水兵たちは、互いの目を見合わせた。

 正直、この兵士は何を言っているのか理解できなかった。

 気が付いた他の兵士も、全く同様の話をした。

 そして、三人の兵士の体には、まるで袈裟懸けに斬られたような内出血した痣がくっきりと残っていた。

 ただ、三人とも言う。

「いや、彼は刀を抜いていなかった。棒や木剣の類も振るっていないし、手も出していない。ただ、目を見ただけだ」

 至近距離で銃の弾を避け、さらに何ら武器を使うことなく、手も出さず人の体に痣を付ける程の打撃を放ち気を失わせる。

「バカバカしい。まったくクレイジーだ。あり得ない。気を失うほど打ち込まれたせいで記憶障害を起こしたに違いない」

 結果、水兵たちはそう言う結論に至った。




 二十三

  

 さて、場面は戻る。


 こうして天元の前に弥助が現れた。


「・・・待っていた。仏生寺弥助殿」

「千栄天元か」


 二人、対峙するが、その距離はまだ遠い。

 ざっと、五メートルといった所か。


「弥助・・。こやつ、千葉栄次郎じゃ」

 十松が言った。


「へぇ~、そうか。先生が負けたって言うからよっぽどの奴かと思ったが・・・、そうか、そりゃ納得だ。一度やってみたかったが機会が無かった」


「俺も同じだ。噂には聞いていたが、貴殿は他流試合に出ないからな」

 そう言う天元の声がやや弾んでいる様にも聞こえた。


「めんどくさいんだよ。あれこれ礼儀作法がどうとかうるさくて」

「ならば、遠慮はいらぬ。今宵は無礼講と参る。いざ語り合おう」

「難しい話は無しだぞ」


「至極簡単明瞭、互いの全てを剣で語らうのみ」


 そう言うと、天元は構えを取った。


 顔は仮面で隠れているが、声だけ聴いていても笑っているのは分かる。


「がっかりさせるなよ」

 そう言う弥助も楽しそうだった。

 刀を抜くと、いつもの左上段に構えて、

「・・・・お面頂戴っ! 」

 と叫んだ。


 これを見て、一同は一斉にツッコんだ。

「それでも、左上段かっ? 」


「バカ野郎っ! ふざけてる場合かっ! 相手見てやれっ! 」

 土方が思わず吠えた。

 それもそうだろう。そんな小手先のこけおどしが通用するような相手じゃないのはこれまでの手合わせで計十回斬られただけあって、よくわかっている。


「・・・いや、ふざけてるのではない。相手を見る為なのだ。自分の全てを出せる相手か。あやつは初手で、それを図るのだ」

 十松は、弥助の定番の初手の意図をそう解釈した。


 試しているのだ。

 いや、逆に、この初手に対する反応で相手の剣を見切るのだろう。

 晋作は、もはやこの勝負を止めることができないのは百も承知だが、きっちりと断っておかないといけないと思い、弥助に言った。


「・・・弥助殿。もうよいのだぞ。こちらは済んだ。殊更戦う理由なぞもう無いのだ」

 この晋作の言葉に対して、弥助は言った。


「そりゃ違う。おれは侍じゃねえ。武士でもねえ」


 それに小声で沖田がツッコんだ。

「同じじゃないんですか? 」

「同じだ。黙ってろ、総司」

 土方が小声で沖田に言った。


 弥助はさらに続けた。

「だから、国だ、藩だ、正義だ、悪だっていうような理由で戦うのは正直あんまピンと来ねえ。闘う理由は生きる為。喰う為。飲む為。バクチ打つ為。女抱く為」

「最低だな」

 土方が呟いた。

「土方さん、うるさい」

 沖田が正直どの口が言ってんですかとばかりに土方に言った。


 弥助はさらにこう続けた。

「ただそれ以外にあるとすりゃ、俺は剣士だ。それだけは譲れねえ。どんなことを言われようが、笑われようが、こればっかりは絶対に認めさせる。誰にも文句は言わせねえ。勝つ。絶対に勝つ。誰にも負けねえ。だから、こいつの挑戦も受ける。背は向けねえ」


 さすがに言葉は拙く、ぶっきらぼうだが、なんともそこが弥助らしい。


 これを聞いた十松は、かねてから思っていた疑問がようやくわかった気がした。


 弥助が自らを侍とも武士とも違うと言うのが、十松はどうしても理解できなかった。

 とにかく勉強嫌いの弥助の事だからその言葉を逃げ口上に使っているだけだと思っていた。

 十松やその周囲も、武士=剣というのが頭にあったが故かもしれない。


 ただ、今、弥助が自らを剣士だと名乗ったことで、ようやく理解できた。

 弥助は、そもそも武士と剣を切り離して考えていたのだ。


 「武士道」というものに含まれる「剣」という存在でなく、「剣」そのものが彼であり、彼そのものが則ち「剣」であるのだ。


(そうか。お前はすでにその境地にいるというのか・・・)


 十松はそれで全てを察した。

 彼がなぜ、道場を飛び出したのか、やくざの用心棒や助太刀など、およそ武士らしからぬ、剣の安売りみたいなことをするのか、それどころか、武士の魂とも呼べる刀を借金や博打のカタにするようにぞんざいに扱うのか、その理由は、彼は既に先人の大剣豪たちが、究極に達する域に到達していたからなのだ。

 

「そうか、わかった」

 弥助の言葉を聞いて、晋作はそう言った。


 もはや分かり切った回答だった。


「弥助・・・」

 晋作は、そこまでわかってはいまい。

 十松は弥助の達した域を、この天元との決闘で見ることができるという期待を持って立ち会うことにした。


「参る」

 天元が言った。


「おう、いつでも来い」

 弥助が返す。互いの距離は未だに約三間弱ある。

 じりっじりっと天元が寄る。

 天元が、残り二間半と言う所で急に立ち止まった。


(気付いたか? )

 十松は思った。


 その通り、天元は気づいた。

 この先から弥助の間合いに入ることを感覚として察した。


(なんだと? この距離でか? まるで槍の間合いだ)

 さすがの元千葉栄次郎もこの間合いの範囲の異常さに驚愕した。


 おそらく、竹刀による試合なら気付かなかったかもしれない。

 真剣での立ち合い、いや命の取り合いという決闘の緊張感があるから気づけた。

 ここから二間半先もある弥助を捉えるには、どうあっても弥助の構えた左上段から繰り出す一撃を躱さなければならない。


 昨晩に見た巻き割の術を見て、あそこから振り下ろされるであろう剣の速さと威力は並大抵なものでない。

 それをわかっていても、敢て踏み込まねば自分の間合いに弥助は入って来ない。


(ならば、行くのみっ! )


そして、一気に踏み込んで行った。


 さすが速さには引けを取らぬ天元である。

 上段から弥助の刀が素早く振り下ろされると、これを素早く右へ足をさばいて躱す、すると今度は弥助の左前蹴りが天元の顔面を襲う。

 これも寸でで躱すが、蹴りは面を捕え、天元の面頬が飛ぶ。

 と同時に反らした姿勢に今度は下段から弥助の刀が素早く振り上げられる。

 これも素早く右へ足をさばいて躱しつつ、弥助の右胴をすり抜けざまに狙い、一旦間合いの外へ。

 

 しかし、弥助は小太刀を右手で逆手に抜き、天元の胴を受けていた。


「おおーっ、初手を躱したっ! 」

 見ていた一同は沸き立った。


「いや、二手目、三手目も何とかかわし、さらに胴を抜いて来るとは」


 天元の素顔は半分以上焼けただれ、目に至っては瞼も無く、右目に至っては目玉がむき出しのようになり、鼻も無くなっている。

 口も半分焼けて歯がむき出しになっている。

 確かにこれでは人前には二度と出られぬだろう。

 しかし、ここにいる者たち皆、その天元の素顔よりも二人が交わす剣技に目が行き、魅了されていた。


「おお、やるな。但し予告通り「お面」は頂戴したぞ」

 確かにその通りではある。

 弥助は、そんな軽い冗談めいたことを口にできるくらい余裕がある。

 そもそも、天元くらいなら初手を躱されるくらいは読んでいた。


 だから、冗談ではなくハナから「お面」とは天元の面頬を狙っての予告だったのかもしれない。


「・・・なるほど、これが、かの仏生寺弥助の剣か・・。噂に違わぬ、なんという剣よ。・・・危なかった。・・・この何とも言えぬ、ヒリヒリとした感触。これこそ求めていたものだ。刹那に垣間見えた道筋、これぞ我が剣の道。礼を申す、弥助殿。今、まさに、我が剣の極意が開眼した」


「・・・そうかい。そいつはよかった」

「なれば、今、ひとたびっ! 」


 天元が再度、弥助に向かった。

 これを迎え撃つ弥助。

 互いの剣が目にもとまらぬ速さで繰り出され、激しく交差し、衝突し、体もまた躱し、また交差し、ぶつかり合う。


 幾重にも交わした剣全てを立ち会った晋作や近藤たちが見えていたのかはわからない。

 ただ、その光景の何と激しく、美しい事か。


 土方に至っては、ただ、嘆息するしかなかった。


(この世に、こんな戦いがあるのか・・・)


 二人は、再び、間合いを取った。




 二十四


 気が付くと弥助の着物はズタズタになっている。


 一体どれほどの剣が繰り出され、それを弥助はぎりぎりで見切っているのだろう。

その証拠に、弥助の体には傷がついていない。


(予想よりも剣先が伸びてきやがる。やっぱ、こいつすげえな。・・・だけどよ)


 弥助は動きづらいとすぐに脱ぎ捨て、上半身が露になるとともに背中の入れ墨も露になった。


 地獄の業火の中、恐ろしい形相で罪人を見据える閻魔の姿が描かれた背中の入れ墨。

 しかし、弥助はまだ天元の正面に立っているので、その入れ墨を見せていない。


「改めて名乗らせて頂こう。おそらく次の一撃で決するであろう」

 天元は言った。


「何? 」

 その言葉を聞いた近藤は驚いたように言った。

 二人とも今の所互角、まだまだやれるはず、出すものを全て出し尽くしたようには見えなかった。


 しかし、その言葉を受けた弥助の方も、

「ああ。そうだな。いいぜ、名乗りな」

と言った。


「・・・天元流っ! 千栄天元っ! 我が剣の真髄、この全身全霊の一撃をもって披露仕るっ! 」


「いいね。出し惜しみは無しだ。俺もそれに全力で答えよう。先生、これ持っててくれ」


 刀を収めて岡田に刀を渡すと、無刀の構えを取る。


「仏生寺一流っ! 仏生寺弥助! 」


「おいおいっ! 」

 その場にいる人間、全員からツッコミが入った。


 自分の流派を「神道無念流」ではなく「仏生寺一流」と名乗ったことではない。


 その前、無刀となったことだ。


 これだけの激しい打ち合いをしていたのに、最後の一撃となるこの期に及んで、無刀で臨むと言うのである。

 バカにしているというより、バカとしか言いようが無い選択だった。


 この天才の剣に対して無刀で勝機があると一体誰が思いつこうか。


「仏生寺一流? 弥助っ? お前、いつから? 」

 一人だけ、違う所に引っ掛かった人物がいた。

 岡田十松だ。

「済まん。先生、俺が見つけた、俺だけの剣だ」

「それが・・・無刀? お前だけの見た剣の極意か・・・。よかろう、しかと見届けよう」


 これは天元の言う通り、これまでの己の剣を突き詰め導き出した剣の神髄を出し合う戦いなのだ。

 それが弥助にとって「無刀」にあるのであれば、それで臨むのが相手に対する最大の礼儀だろう。

 その証拠に、周囲の反応とは違い、この弥助の答えに対して天元は何も言わない。

 彼が冗談でも何でもなく、まして負ける気も死ぬ気でもなく、本気で勝つ為に導き出した答えであることはこれに対峙する天元が一番わかっている。


 弥助と天元、互いに見合う。

 ほんのコンマ数秒の間が、極度の緊張状態により数分にも及ぶ沈黙が続いているように錯覚させている、少なくともこの場にいる者全員が、そう感じていたに違いない。

 それは、アーネスト・サトウ以下英国水兵たちも感じていた。

 

 そして、それは突如として起こった。


 天元が仕掛けた。

 その刹那、ゴウッという音と共に一塵の風が吹いた。


 互いが交差する瞬間、風によって吹き上がる塵により瞬きを余儀なくされ、その一瞬を

見逃した。


 が、再び視界に入って来た光景は、すでに互いが斬り抜けていた後だった。


「どっちだ? 」


 誰の口から出たのかはわからない。

 が、この一瞬で勝負が着いていた。


 なぜなら、いずれも振り返らないまま立っている。


 次の瞬間、天元の体から多量の血が一斉に噴き出した。


「あれ? 」


 これも誰からともなく口から零れ出した、と共に、全員がその事に気が付いた。


 無刀で臨んだはずの弥助の左手に小太刀がある。

 逆に天元の腰にあるはずの小太刀が無くなっている。

 それだけではない。

 天元の手にあったはずの剣が無い。

 その剣は、天元の後方の地面に突き刺さっていた。


 天元自身も振り抜いたような姿勢で自分の刀が無いと今になって気付いたようだった。


 天元はその場で両膝をつく。

「・・・・ゴフッ。・・・なんだ? 何故斬られている? 」


「あの一瞬で・・・」

 十松だけは、風の吹く瞬間、瞬きすることなく両の目で交差の瞬間を見ていた。


 天元の仕掛けて来たのは得意の右片手上段からの高速の斬り込みだった。

 弥助がこれを避けるとしてもその瞬間に左で小太刀を抜いて弥助の右胴を斬り抜くつもりだった。


 しかし、初手の振り上げた右片手上段を振り下ろそうとする瞬間、そう本当に一瞬だけ、握る力が無くなるタイミングがある。

 その一瞬のタイミングに合わせ、右手で柄の先を叩いたことで刀がすっぽ抜けた。

 さらに、左で、既に二の手の為に鯉口を切っていた天元の小太刀を抜いて、逆手で抜いたまま斬り上げて、天元の右脇からすり抜けて行った。


 こんな芸当、できるもんじゃない。


 いかに動体視力が優れていようとも、いかに反射神経が常人異常であっても、脳で処理して行動に移していてはこの一瞬で実行するのは不可能である。


 無心、そう無意識で本能的に反応する以外、これを可能とする方法はない。


 たとえ、それであったとしても、誰しもできることでは当然ない。

 人並外れた優れた動体視力と反射神経を有した上で、それを無意識且つ本能的な反射で強引に動かすことで初めて可能とする。

 しかも、それでも確率は低い。

 これを、最後の極意として勝負に使う弥助がどうかしているとしか言いようがない。

 そうであるなら、驚くことに弥助は天元の最後の一撃を既に読んでいたことになる。

 その上で初手を無力化しつつ二の手を相手の剣でそっくりそのまま相手に見舞うということをやってのけた。

 天元の全てを賭けた最後の渾身の一撃は一切通用せず、完全に見切られ、完膚無き程に封じられたことになる。


 もはや、剣に生きた人生そのものを完全に否定されたほどの屈辱的敗北と言っていい。


「すまねえな。手が抜けなかった。・・・お前が強すぎて斬らずには済まなかった」


「俺は確かに極意を得た。我が剣の真髄を見た。・・・何故だ」

 天を仰ぐように、茫然としながら天元は言った。


「お前が見たのは、ただのまやかしだ。・・・剣ってなんだ? お前さんの言う剣ってのは、このダンビラのことかい? ついさっき、命のやり取りで得た剣の真髄とか言ってたが、悪いな、こいつは刀って言う、折れたら終いのただの斬る道具だ。お前さんが見たのは、ただこいつを上手に使えるコツを思いついただけだ」


「何・・? 」


「どうだ? 自分が縋りついた道具に斬られる気分は? ・・・道具持って命のやり取りに開眼するほど剣の真髄ってのは安かねえよ。道具を捨て、己のみを頼りにした時にこそ道は開く。少なくとも俺はそうだった。剣とは自分、自分自身を剣と成せば、こんなもんはいらん」


 そう言うと、弥助は持っていた小太刀を無造作に放り投げた。

 

 弥助の言わんとすることは、要するに勝敗を決するに至る必要なものとは、生きる意志の強さと言うことかもしれない。

 上半身もはだけて、手にする武器も何もない状況に身を置く事で自らを追い込み、その中で勝機を見出す力、これこそが弥助の見た剣の神髄だと言うのだ。


 「剣」とは何か?


 この疑問の答えは、当時、剣術を習った者なら誰でも答えられるかもしれない。


 本来、「剣」とは刀を差す。

 しかし、剣術と言うのは主に戦国期に隆盛を迎え、各流派がほぼこの時期に生まれた。

 その頃は主に「兵法」と言った。

 要するに敵を屠る術である。


 敵を屠るにあたり、武器は様々だ、遠距離なら弓、中距離なら槍や長刀、近距離なら刀や杖、そして至近距離なら肉体を使った柔術など、他に暗器と言われる多種多彩な道具など、軍事における必要なタクティクスを身に着けるのが兵法である。


 もっとわかりやすく言えば、あらゆる局面でも自分の命を奪おうとする敵を屠り、自分を生かす為の術なのだ。


 江戸期に入り、天下泰平の世となって、「常在戦場」の精神をもって武士は「剣術」を修め続けたが、いつしか精神だけが独り歩きを始めて、最終的に免状だけが独り歩きをし、ただの現代で言う所の必須資格にまで落ちて行ったのは前述した通り。


 その中においても「剣」の道を突き詰めようとした者もいたが、その高みに至ることは無かった。

 なぜかと言うと、答えは簡単、本質が見えなくなっていたのだ。


 本来の意味ではなく、精神性の世界に至ってしまった「剣」とは己をより精神的高みに導く象徴となり、ある意味神格化した。

 その証拠に、帯刀する刀を「武士の魂」と呼ぶ。

 武士道という哲学の一つとなり、自分を生かす術は自分を「活かす」術に変わり、「生」の渇望は「死」への憧れと変わる。


 平和の中で、「死」は美化され、理想となった。


 理想的な「死」とは、剣の道にあって闘いの中に「死」を迎えること、形式にこだわり、厳かな空気の中で自らの名誉を守る為。

 剣が独り歩きした結果が、「死」を極端にまで美しく祭り上げた宗教だった。


 弥助は、常にこれを言っていた。


「こんなもんは、ただの人を斬る道具だ。人を倒すのに、こんなもんは常には必要ない」


 重くて歩きにくいから正直差したくない。

 ただ、差してると時々便利だし、周囲は常に持ってろとうるさいから差しているだけ。

 というのが、弥助の本音だった。


 文盲の弥助は幸いこの異常とも思える精神哲学に触れて来なかったおかげで、本質だけを捉えることができたのかもしれない。


 殺そうと思えば、素手でも殺せる。

 死のうと思えば、いつでも死ねる。


 ただ、俺は生きて居たい。

 単純に、飯が食いたいし、酒が飲みたいし、女も抱きたい。

 だから、今日も生きていたい。


 この極めてシンプルな欲求の為に、生きることを決して諦めない。


 己自身を剣と為せ、とはつまり、あらゆる局面においても生きる活路を見出せるようにしろという意味なのだろう。

 転じて、自分の自由とはこれによって得られるのだと。


 対して、天元。

 いや、この場合、元の千葉栄次郎はどうであろうか。


 おそらく彼は、まさに代表的な「武士道」の盲目的信者だろう。

 己の受けた屈辱を晴らす為に魔道に落ちながらも、結局、自身の最後を常に望みつつ、勝負を挑んでいる。

 その中で死の淵を覗き込み生きることができれば、そこに未だ見ぬ剣の神髄とやら見えて来ると勝手に信じ込んでいたのだ。


 剣を持って命のやり取りを経て、死の境にまで自分を追い込むことで剣の神髄などは得られない。

 「死」を恐れつつ、迎え入れることで己の「死」を意味のある死と考え美化するような者が武器に頼ってる段階ではてんで話にならないと弥助は言っているのだ。 


「なんということか。・・・最後にして、剣を持った初めに父から受けた言葉を思い出すとは・・。剣に囚われ、いつしか、そんな基本的な事を忘れていようとは・・。かたじけない・・」


 ようやく、天元は自分を完膚なきまでに叩き落とした相手を見た。

 そこに見えたのは、弥助の背中に彫られた「閻魔」の姿だった。


「・・・どうせ、地獄の業火に身を焼き尽くすのであれば、相応しき場で相果てよう」

 弥助は、背中越しにその言葉に返した。


「ああ、好きにしな」


 天元は自分の力で立ち上がり、ふらふらと燃え盛る公使館の中へ入ってゆく、と同時に轟音と共に建物が崩れ落ちた。


 弥助はそれをじっと見つめていた。

 そこでようやく、この勝負に立ち会った面々も彼の背中に彫られた、燃え盛る地獄の業火に立つ閻魔を姿を見た。


 十松は、その閻魔を見て思った。


 弥助と立ち会い、負けた者は二度と立ち直ることなく、ついに剣を捨てることになる。

 その者たちは、総じて己の剣に絶対の自信を持ち、あまつさえ剣に奢っていた。

 相手に対して礼を失し、まるで剣が人の評価の全てであるかのように弱者を見下していた。


 弥助の剣は、常にそう言う者たちを容赦なく打ち倒す。


 浅はかな剣の自信を、捕るに足らぬ自尊心を、価値の無い虚栄心を、そして復讐心のみにかられた狂気すら、完膚無きほどに打ち砕く。


 侍でも武士でもない、ただの風呂焚き小僧と言うその男が武士だ、侍だと得意がり、己の立場に胡坐をかいた愚か者に「何も特別じゃない。図に乗るな」と鉄槌を下す。


「閻魔鬼神、思えばなんと因果な二つ名を付けられたものよ。お前も、その名を背負う覚悟であったのだな」


「・・・いや、かっこよかっただけなんだけど」

 弥助はそう言う。

「おい、そこはそういうことにしとけよっ! 」

 そこに居た者たちは、全員弥助にツッコんだ。


 彼はおそらく、そんなつもりもない。

 しかし、彼に与えれた剣の才は、与えられるべき人間に与えられた天賦の才なのだと、十松は思うようになった。


ただ、当の弥助は、自由に生きたいだけなのだろう。


 彼の境遇を一言で表すのであれば、「自由」というのが最も適切だろう。

 ただ、この「自由」という言葉は、この江戸時代にはまだ存在しない。

 明治期になり、英語の「フリー」という単語の訳を表す適切な日本語がないので作られた造語だった。

 この時代、自由という言葉というより概念そのものが無かったのではないだろうか。


 自由の意味するものとは、何かに縛られず、従わず、属さず、与せず、阿らず、傅かず、虐げられず、そういうものを言うと筆者個人は定義づける。


 これをこの時代に存在する同意義の言葉を当てはめれば、「放蕩」が適当かもしれない。

 「自由」という響きは、なんとも前向きで肯定的に感じられるが、「放蕩」という言葉は、聞いての通り、後ろ向きで否定的な意味しかない。


 日本人の基本的な性分として、やはりこれは非常にわかりやすいもので、言葉としての「自由」は前述のイメージの通りだが、立場や人物を表す表現、例えば「あの人は自由な人だ」とか「自由過ぎる人」とか「自由な立ち位置な人」など、どちらかと言うと「放蕩」という言葉とニュアンスは変わらない。


 現在、仏生寺弥助については天才剣士ながら「クズ」と表現される。


 「クズ」と言ってもどうクズなのかと言うと、具体的な話が出てこない。


 では、なぜクズと呼ばれるのかと言うと、道場から勝手に飛び出して、博打好きの酒好き、背中に彫り物を入れ、やくざの用心棒になって放蕩三昧を繰り返し、たまに帰って来たら金の無心をする。


 まぁ、既に書いてもしまっているが、要は「放蕩」であり、「自由」なのが「クズ」と言われる所以なのだ。


 自由の概念が根付いた現代の日本人ですら未だに何かに縛られない、従わない、属さない、与しない、阿らない、傅かない者に対して「クズ」と言ってしまうのだ。


 アンチヒーローのような物語の主人公、例えば「寅さん」や「ルパン三世」など、褒められた生活を送っているわけでも無いが、その日暮らしの自由人で、好きな場所に、好きなように生きている、このような主人公が現実には「クズ」であっても、物語の中では受け入れられて絶大な人気を得ている。


 「クズ」という言葉の中にはなりたくてもなれない、どこか憧れているような感情が見え隠れしている。




 二十五


 長い夜が明け、すでに陽も大分高くなった頃、相模屋では小春と父が寝ていて、二人の間に玄瑞が父の脈を取っていた。


 それぞれの傍らに菊と藤、女将が座っている。


「・・・脈も落ち着いてきた。・・・とりあえず、峠は超えたようだ」

「本当ですかっ! 先生っ! ・・・よかった・・・。本当に・・・」

「よかった。・・・おとっつぁん」

 菊と藤はまだ寝ている父親に縋って、また泣き出した。


「ただし、まだ安心はできない。ひとまず命は取り留めただけだから、しばらくは安静にして、精のつくものを取らせなさい。病気についてもそれで十分回復するだろう。私が紹介状を書くから、そこで診てもらうといい」


「ありがとうございますっ! ありがとうございますっ! 」

「いやいや、お礼なんかいい。ちゃんとお代は頂いてる以上は医者として責任持ってやらないといけないので」

「・・・? ・・・お代? 」

「あれ? 佐平次から聞いてないのか? 」

 玄瑞は、きょとんとした顔をして見せた姉妹に言った。


 そこに弥助が眠そうにあくびをしながら、腕に包帯を巻いた十松と一緒に階段を下りて来た。


「弥助、シャキッとせんか。だらしないっ」

 とまた年甲斐も無く十松に叱られつつ弥助は、またあくびをする。 

「なんだか、今朝は静かだな。寝過ごしちまった。ふぁ~・・・」


 菊と藤の姉妹は、すぐさま、弥助の前に駆け寄ると、その場で土下座して深々と頭を下げた。

「おう、おはようさん。おとっつぁんの具合はどうだ? 」

「ひとまずは峠を越して、脈も安定した。一命は取り留めました」

 これには玄瑞が答えた。

「おう、そうか。そりゃ良かったなぁ」

「なんとっ! なんとお礼を申してよいか。本当に、本当にありがとうございます」

 何度も床にこすりつけるように頭を下げ、礼を言う姉妹に弥助は照れくさそうに顔を背けて、

「やめてくれ。あまりそういうことされるのは慣れてねえんだ」

「素直にお礼を受けてはどうですか、確かに貴方が佐平次に言ってここまで運んでもらった御蔭です。そうでなかったら助かりませんでした」

 玄瑞が珍しく照れてしまっている弥助を面白がりながらも言った。

「だったら、佐平次に・・・」

 そう弥助が言うと、いきなり来島が息を切らして店に飛び込んで来た。


「はぁっ・・っ! やっと着いたぞ。皆を連れて来た。晋作はいるかっ? 」

「来島さん? ・・・ああ、すっかり忘れてた」

 玄瑞が、来島の顔を見て、本当に思い出したように言った。

「何っ? 」

「来島殿、一足遅かったの」

 十松が、肩で息する来島に声を掛けた。

「おお、岡田先生。おや、腕を如何された? 」

 その来島の問いに十松が答える間もなく、さらに玄瑞が来島に、

「晋作なら、もういませんよ」

と言った。

「何っ? 」

 次から次に言われることに、来島の思考が追い付かない。

「急にやることができたと言って、聞多と俊輔連れて、今朝がた早くに出立しました」

「はぁ、やること? だって、え? 聞多と俊輔? え? 」

「昨夜のうちに全部片付きましたぞ」

 改めて十松が、手短に結論を言ったから、

「何っ? 」

 さっきから同じリアクションしかさせてもらえず、来島もパニックに陥ってしまった。

「今頃は御公儀も大わらわでしょうな」

 来島のパニックはさておいて、十松は話を続け、

「そこは、サトウが何とかするだろうけどな」

 弥助も、それに乗っかった。


「あ、そうだっ! 待ってたんですよっ! 来島様っ! ほらっ、ちょいと、こっちに」

 誰もいきさつを丁寧に説明してくれず、ただ一人状況が呑み込めないままの来島を女将は奥へと引き込んで行く。

「はぁ・・、なんじゃい? 」

 来島ももはや為されるがままだった。


 二階の部屋から近藤、土方、沖田が旅支度を終えて出て来て階段から降りて来る。

「おう、もう大丈夫か? 」

 弥助が声を掛けた。

「なんの、弥助殿こそ」

 近藤がそう返して、三人はそのまま土間で草鞋を履くと、土方が弥助に向かって、

「ぜっていお前に勝つっ! 見てろっ! 」

 と鼻息荒く言うと、沖田が藩笑いを浮かべて、

「なんだかなぁ、とりあえず土方さん、免状取ってからにしましょうよ」

「うるせぇっ! 」

 土方が恥ずかしそうに沖田にツッコむ。

「おう、またな」

 弥助は土方の言葉に返す訳でなく三人に言った。


 すると、そこにヒョコッと芹沢が店先に顔を出した。

「ごめん。ここにわしのサイフを・・・」


「おう、鴨じゃねえか。やっと、陣屋から出られたか」

「んん・・・?・・・!・・げっ・・弥助ぇぇ! 」

「てめえはどうやら色々オイタが過ぎるみてえだな。お面頂戴! 」

 と弥助が右手を上段振り上げると、

「ひいいっ! ・・・財布はもういいっ! 失礼するっ! 」

と逃げるように芹沢は駆け出して逃げて行った。


「おい、待て、鴨っ! 」

 弥助が追おうとすると、近藤が引き止め、

「あれ・・は? 」

「ああ、あいつが芹沢鴨だよ」

 そう弥助が言うと、

「やはりっ! ・・・では、これにて失礼するっ! トシ、総司っ! 」

 近藤がだっと駆け出して、土方も沖田も十松に一礼してからこれに付いて行った。

「芹沢先生っ! 待たれよっ、芹沢先生っ! 」

 そう叫びながら、芹沢の後を追い掛けて行った。


「またのぉーっ! 」

 届いてないかもしれないが、十松が去った三人に声を掛けた後にボソッと呟いた。

「ほんにすぐに会えるがの」


「ああ? 」

 その呟きを聞いた弥助が問い直すと、

「浪士組に参加すると言っておったからの」

 十松がそう答えた。


「ん? それと俺にどう関係が・・・ 」

 聞こうと思ったら、突然の来島の大声でかき消されてしまった。


「な、何ィっ? なんじゃ、この請求額はっ? 」

「そんなこと言っても、高杉の旦那が全部つけとけって、おっしゃったんですよ」

 奥に引っ込んでいた来島と女将が戻って来たが、どうやら昨日の近藤たちの豪遊分の支払いを高杉は来島におっ被せてさっさと出て行ってしまったようだ。

「払えるかっ! こんなもんっ! 昨日、30両払ったとこだろっ! 人が江戸と品川を夜通し駆け回ってる間に、あいつは何をしとったんじゃっ? 」


 女将と来島の押し問答が続く中、菊が自分の懐の中に違和感を覚えてなにかと思って取り出してみると、何かをくるんだ包みだった。


「ああーっ! 」

 菊がその中身に驚いて大声を出すと、店に大店の若旦那が顔面蒼白になって、泣きながら突然やって来た。


「小春やーっ! 小春ぅぅーっ! 」

「なんだ? 」

 店先ですれ違った弥助は何かよく分からない状況にただ声に出すしかない。


 若旦那はそのまま上がって、小春の姿を見つけると一目散に駆け寄った。

「小春―っ! ああ、なんてことだいっ! 」

 いきなり来たから、どうなっているのかわからない玄瑞がとにかく声を掛けた。

「いや、どちらの方か存じ上げんが、太夫も、もう大丈夫ですよ」

「ええっ! 本当ですか。よかったぁーっ! 」

 耳元でわーわー叫ぶものだから、たまらず小春も目を覚ました。


「・・・あれ? 大黒屋の若旦那じゃないか? どうされたんでやんす? 」

「どうもこうもないよ。あの佐平次が来て、君が大変だって言うから、飛んで来たんだよ。あたしが身受けする前に何かあったらと思って、生きた心地がしなかったよ」

 これを聞いて、小春も女将も揃って声に出してしまった。


「は? ・・・身受け? 」


 それなら、佐平次が英国の代理公使のお気に入りになったことで無かったことにしてもらうように説得して納得してもらったと報告を受けていたはずだったから、二人とも目が点になっている。


 そう言えば、昨晩、小春太夫が中毒で倒れていた時に、一瞬佐平次が何かを言い掛けていたが、それどころじゃなかったから覚えていない。


「え、聞いてないかい? あの佐平次から。今はエゲレス公使の接待で大変な時期だからしばらくは我慢してくれって。でも、それが終わったらきっちり話通しとくって、前金まで預けたんだよ。十両も」

「十両っ? 」

 女将も小春も声がひっくり返ってしまった。


 改めて、女将は小春に尋ねた。

「聞いてるかい? 」

「いいや、女将さんも? 」

「そういや、その左之字は? どこいやがる? 」

 そう言えば、今朝から姿を見ない。


 女将は佐平次の部屋になっている布団部屋に入ると直ぐに出て来た。

 その手には手紙とおそらく小判が入った包みを持っている。

「若旦那、それってこれかい? 」

「ああ、それだよ。小春、もう心配いらないよ。うちで十分療養しとくれ。お前さんにはもう決してアヘンなんかに手を出すような苦労はさせやしないからね」

「へ? ・・・へ、へい・・・」

 小春にしてみれば、何が何だか分からない。


 女将から包みごと渡された若旦那と話を聞いてた菊は改めて懐に入ってた包みの中身を確認すると、二人とも声をそろえて言った。


「・・・あれ、八両ある(しかない)」


 これを聞いて、玄瑞も言った。

「うん、私も治療費八両貰ってるよ」


 要するに、佐平次が突っ返してやると言ってた清兵衛が出した菊の身受け金十両と、支度金として父親に払うと言った十両、さらに若旦那から身受け金の前金として預かった十両、それぞれから二両ずつ取って、一部は玄瑞に治療費として、一部は菊の懐に入れ、一部は書置きと共に置いて行ったというわけだ。


 占めて三十両。

 だが、内十両は昨晩、ちゃっかり晋作から返してもらった十両、残り二十両は、安五郎の手下が弥助の使いで持って来た二十両ということになる。

 つまり、若旦那から預かった十両は実質ここにはない。


「あの野郎、手間賃それぞれ2両ずつ引きやがったね。・・・あれ? あーっ、結局、あいつ自身の飲み代踏み倒したままじゃないかっ! 」

「その分、十分働いたと思いますよ」

 菊がフォローしたが、

「何言ってんだい! いくらかちょろまかしてんの、あたしが知らないとでも思ってんのかい! 」


 働いて店に還元しつつ、少しづつ中抜きして結果的に大分稼いで佐平次は出て行った。


 しかも、ほぼ女将にバレていた。


「じゃ、このお金入れて下さい」

 菊は八両を女将に差し出した。

 それだけ、佐平次に恩義を感じていたのだろう。

 思えば、なんだかんだと佐平次は目を掛けてくれた。

 言ってたように、病気についても玄瑞に診させた。


「ああ? 何言ってんだい。そりゃ、あんたの身受け代じゃないか」

「ここまでして頂いたんです。ここでまだ働かせて下さい。それに佐平次さんに、なんの恩返しも・・・」

「その佐之字があんたに置いてったんだろ。じゃあ、取っときな。見損なうんじゃないよ、働きたきゃ、勝手に働きな。働かせて金まで取るほど落ちぶれちゃいないよ」

「あ、ありがとうございますっ! 女将さんっ! 」

「それで、妹も」

と言いかけたが、さすがにこうキラキラと目を輝かせてお礼を言っている姉妹を前に言えたもんじゃないから、女将はぐっと堪えた。

「・・・ああ・・いいや、何でもないよ。・・・あの居残りめ、一体どこ行きやがった。ああ、困ったねえ、そうだ、こっちにつけてもらおうかね」

と来島に手を差し出したが、

「払うかぁーっ! 」

と来島は思いっきり手を叩いて返した。

「チッ! ケチだねぇ・・・」


「さて」

と言って十松は弥助の奥襟をつかむと、

「斉藤道場に帰るぞ」

と言うから、弥助はまた駄々をこねだす。

「ええーっ! いやだって、先生っ! 」

「文句を言うなっ! 積もる話だ。弥九郎殿にもちゃんと挨拶しろ」

 嫌がる弥助を引きずるように相模屋の暖簾をくぐって、歩き出して行った。



 二十六


 品川から出て西に向かう東海道中、晋作が三味線弾いて後を聞多と俊輔が続いている。


「♪聞いておそろし、見ていやらしい、添うてうれしや奇兵隊♪」


「なんですか? その歌は? ・・・奇兵隊? 」

 俊輔が都都逸の詞を面白がって訊いて来た。


「いいだろ? 弥助さんが言っててな、それで思いついた。武士でも百姓でも町人でもやくざでもなんでもいい、この際、身分なんざ全部とっぱらって、最強の軍隊を作るんだよ」


「へぇ、それが奇兵隊」


「そうだ。これから忙しくなるぞ」

 聞多が、それに対して言い難そうにしながら、

「あ、でも、俺たち・・・」

「ああ、サトウに誘われたんだろ、エゲレスの留学。いいじゃねえか、行って来い。行って見て沢山奴らの技術を盗んで来い。松陰先生もそう言ってただろ」

 晋作がそう言うと、聞多も俊輔も目を輝かせながら、

「はいっ! 」

 と大きな声で答えた。


 すると、ダダダッと走って3人を追い抜いて行く男がいた。


「あれ? おいっ佐平次じゃねえか。急いで何処行くんだ? 」

 そう俊輔が声をかけた。


「おっとっ! おや、旦那方っ! あっしもね、一つ所に止まってられねえんでさ。なんせ、人生一度っきり、さんざ走って、楽しまねえとおもしろくありやせんぜっ! じゃ、あっしゃあ、これで。お先にっ! 」

 そう言うと、さっさと走り去って行ってしまった。


「全く・・・。あの野郎は面白い男だな。いちいち尤もだ。


 おもしろきことも無き世をおもしろく、

 

 か・・・うんっ、いいっ! こいつはいいっ! よし、俺たちも走るぞ」


 晋作も駆け出して行く。聞多と俊輔の二人もそれに続いて走り出した。


 これから時代は、より過酷な動乱期に入って行く。幕末の麒麟児と言われる高杉晋作というこの若者はまさにこの時代を勢いよく駆け抜けて行く。

 時に無謀とも思えるようなことまで強引に突き進み、そして、時代と共にその人生を短くも太く終えて逝く。

 彼の辞世の句がこの時思い付いたものなのかはともかく、まさにこの句にふさわしい人生であったのかもしれない。


 そしてその背中を追って走る二人の若者は、英国留学を経てその遺志を継ぎ、明治期、日本の近代化を推し進め、ついに欧米と肩を並べる国家を作り上げて行くことになる。


 さて、この物語の主人公である、クズと呼ばれた幕末の剣豪、仏生寺弥助はこの激動期に入る幕末において如何に自由に生きて行くことになるのだろう。


 そして、彼の自由を阻む者、立場に胡坐をかき人を見下す奢った者に対して、期せずして如何に「閻魔」の鉄槌を下して行くのであろうか。


 彼の記録に残る、その人生の終焉まで実はあと七カ月しか残されてはいなかった。






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