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黒の死神は透きとおった刺客を殺せない

黒いクジラの大きい背中

 数人の黒づくめの男たちが村はずれの小屋を遠巻きにした。

 二、三人ごとに組になり、物陰に潜む。

 小屋を正面にとらえる場所にいた男が片手を高く掲げた。

 他の男たちが一斉に襟巻を目の下まで引き上げた。

 小屋の前に一台の荷馬車が止まって、御者が降りてくる。

 荷台の幌の中から子供の小さな泣き声が聞こえた。

 男の片手が振り下ろされた。

 物陰の男たちが剣を抜き、一斉に動き出す。

 その中の一番背の高い男が先頭を走る。

 同時に男が叫ぶ。

「動くな!

 両手を頭の後ろで組め!」

 急襲された御者は逃げようとしたが、軽く、足を払われ、地面に倒された。逃げないように背中を踏まれている。

 それよりも早く、他の組が小屋に踏み込んでいた。

 先頭で飛び込んだ男が中にいた連中に叫んだ。

「『王立』騎士団である! 

 人身売買の容疑で貴様らを全員、捕縛する! 抵抗すれば、斬り捨てる!」

 それでも剣を抜いてかかってくるのがいるが、軽く、弾かれて床に叩きつけられる。

『王立』の警務隊は、王立騎士団の中でも精鋭部隊だ。よほど腕に覚えがないと彼らとは打ち合いにもならない。

 小屋の中には八人ほどがいたが、踏み込んだ三人にあっという間に制圧されてしまった。

「あーあ…」ため息がでた。

 賊を縛り上げて、ゾーイは口元を覆った襟巻を下げた。

「で、子供らはどこに隠した?」

 賊の中で偉そうに見えるのに剣先を向けた。男はニヤリと笑ったが答えない。

「ゾーイ、外の子供らは全員、保護した。」

 イ・ルーエ・ロダンが小屋に入ってきた。黒い肌に白い髪の背の高い男だ。『王立』の深緑のチュニックを羽織っている。

「他の子どもたちは?」

「今、しゃべってくれるはずなんだがな。」

 ゾーイの剣が男の頬にあたる。

「他の部屋は?」

「空っぽ。」

 ルーエが部屋の中を見回す。石造りの小さな暖炉に食堂用の大机と椅子。

 大机の下には珍しく、敷物が敷かれている。

 ルーエが剣の鞘で床を叩いた。乾いた木の音がする。敷物のそばも叩いてみる。敷物のせいか少し音が違う。

 ゾーイが睨んでいる男の目が少し泳いだ。

 ルーエが鞘の先で敷物をめくった。床に線が現れる。剣を腰に戻すと、ルーエが大机を力任せに動かし、敷物を引っぺがした。

「床下か。」

 ゾーイが剣の先で床の扉をこじ開けた。暗い穴が現れる。

「灯り!」

 ゾーイの命に『王立』の騎士がランタンに火を入れて手渡した。

 それを暗い穴にかざす。

「誰か、いるのか!」中に声をかける。

 覗き込んだゾーイが顔をしかめた。

「酷い臭いだ。死臭じゃないのか。」

「上から照らしてくれ。中に入る。」

 ルーエが襟巻で鼻を覆うと身をかがめた。

「ルーエ、気をつけろ。」

 ゾーイの照らし出す灯りを頼りに床下に下りる。

 地べたはぬかるんでいるようだ。酷い湿気とカビの匂い。

「誰か、いるか? 『王立』の警務隊だ。」

 ランタンの灯りが一筋、奥まで届いていた。

 その中に子供たちの顔が、寄せ合っていた。


 ◇◇◇


「王都の関所から出てすぐなのに、殺風景ですね。」

 馬車の外を眺めていた看護師のジュリがため息をついた。

 赤っぽい栗髪を三つ編みにして丸く結い上げている。

「まだ、内戦の跡が残っているのよ。」

 ジュリの向かいに座るエリーは往診鞄を手元に引き寄せた。

 エリーは茶黒い髪を三つ編みにして背中に垂らしている。

「センセイは大丈夫なんですか? こんな遠くの往診なんて。」

「院長先生のご依頼だから。

 私でも務まると思われているなら、そう難しいことではないわよ。」

 エリーが微笑んだ。ジュリも微笑み返す。

 王立治療院のエリー・ケリー医師といえば、医者のくせに人嫌いでいつも暗い顔をしているので有名だ。でも、医者としての知識も手技も誰よりも優れている。

『愛想さえよければな。』

 医師も患者もみんなそう思っているけれど、そうじゃないセンセイだから本当に可愛いのに。

 馬車が止まった。

「着きましたね。」

 馬車の扉が叩かれた。ジュリが扉の窓を開ける。見上げるように赤銅色の髪のゾーイが立っていた。

「『王立』騎士団、警務隊のゾーイと申します。

『王立治療院』のお医者様ですか?」

「はい、治療院小児科のエリー・ケリー先生と看護師のジュリです。」

 ジュリが答える。

 ゾーイが馬車の扉を開けて二人を迎えた。エリーとジュリの荷物を下ろし、二人が下りるのを手伝う。ジュリは楽しそうにゾーイの手を借りたが、エリーはその手を固辞した。ゾーイが肩をそびやかす。

 エリーが辺りを見回した。村の診療所らしい。

 ゾーイの部下が二人の鞄を運ぶ。

 その後について三人が歩き出す。

「早速ですが、診察をお願いできますか?

 子供たちはこの奥の別棟にいます。」

 ゾーイが歩きながらエリーに声をかけた。

「人身売買組織から保護されたと聞きましたが。」

 エリーがゾーイに尋ねた。

「ええ。今、親の迎えを待っています。」

 ゾーイもエリーも背が高い分、歩幅が大きい。ジュリが小走りに二人についていく。

「保護したのが十日前。この街に着いたのは四日前です。

 捜索の届が出ていた子供から、親に連絡しています。」

「王都に連れてくれば…?」

「親が、王都に入れません。」

「?」

「ほとんどの親がお金のない平民ですからね。

 半分ぐらいが、自分の子供を、売り飛ばした連中ですよ。」

「!」

「王都では、『人売り』は犯罪者になってしまいますからね…」

 渡り廊下を過ぎると子供の声が聞こえてきた。

「子供相手なんで、女騎士も頼むつもりだったんですが、王都の警備に持っていかれて、野郎ばっかりの隊編成で。」

 ゾーイが肩をそびやかした。

「子供の世話が間に合わなくて。

 ここまでくれば、王都からお医者様や手伝いが呼べるかと。」

「私たちは、お手伝いさんじゃありません!」

 ジュリが口を尖らせ、エリーが困った顔をする。

 ゾーイが中庭の塊に立ち止まった。大きな男の背中に子供がよじ登っている。ほかの子供も彼にぶら下がって喜んでいる。

「おい、ルーエ!

 お医者様が来たぞ。」

 ルーエと呼ばれた男が首にしがみついた子供を剥がしながら、振り返った。

 黒い肌に白い髪、高い背。

 エリーが目をみはり、ルーエが棒立ちになった。

「『治療院』のエリー・ケリー先生と看護師のジュリさん。

 彼は、警務隊のイ・ルーエ・ロダン。兄弟が多くてね、子供の世話に慣れているんです。」ゾーイが紹介した。

「…こんにちは。」

 ルーエの挨拶にエリーが会釈を返した。

「治療院のエリー・ケリーです。」

 エリーの姿は、治療院の白い制服。表情は固いがヘイゼルの瞳はルーエに向けられていた。

 ルーエのほうが困ったように首の後ろを掻いた。

「あの子を見てもらわないと。」ゾーイが催促した。

「ああ。

 先生、こちらです。」

 ルーエが先に立って部屋に入った。

 風通しのいい明るい部屋だ。真ん中の寝台に小さな女の子が寝ている。

 そばには十二、三くらいの女の子が付き添っている。

「彼女は、この村の薬師の娘さんです。」

 ルーエが女の子の肩を叩いた。女の子がエリーに場所を譲る。

「四日前、ここに着いたときはまだ熱っぽいだけだったんですが。」

 エリーが子供の寝間着の襟元を覗き込んだ。高い熱のせいか、息が浅く熱い。首筋や頬に赤い水ぶくれが見える。たぶん身体にも…。

「貴女、『水疱瘡』にかかったことは?」

 子供に付き添っていた女の子にエリーが尋ねた。

「一昨年、かかったことがあります。」

「よかった…。」少し安堵する。

「何です?」

 ルーエが不思議そうに尋ねた。

「ここは代わります。

 貴女は、ヨウド水で顔と手をきれいにしてね。」

 女の子が頷いた。

「ジュリ、『水疱瘡』の疑いがあるわ。まだかかっていない人はここから遠ざけて。潜伏期間は…」

「十日ですね。大事をとって経過観察は十四日って言っておきます!」

「お願いします。」

「病気ですか?」ルーエが声を上げる。

 エリーは、往診カバンから口元を覆うマスクを出して着け、白手袋をはめた。その手で、子供の首元を触った。水ぶくれはまだ柔らかく、かさぶたまでいっていない。初期だ。

 首の周りや少し起こして背中の方も触れる。水ぶくれが拡がっていた。

 エリーは白手袋をとるとそばの手桶の水で手ぬぐいを浸すとゆるく絞って子供のおでこに乗せた。

「センセ?」ルーエの声が不安げだ。

「悪い病気ですか?」

「悪い病気って…、病気に良いも悪いもありませんよ。」

「すみません…。」

「熱と水痘が出来ています。水痘の感じだと『水疱瘡』でまちがいない思います。」

「水? なんです?」

「『水疱瘡』です。流行り病です。王都に入らないでよかったです。」

「そうですか…」

「子供の間ではよく流行ります。

 高い熱が数日続いて、身体に水痘も出ます。

 水痘は体中に出てかゆみを伴うので、辛いと思います。

 でも、その水痘が乾いてかさぶたになって、とれてしまわないと治ったとはいえないんです。

 この子は発症して間がないです。あと、数日は続きます。」

 ああ、ルーエが呟く。

「熱さましの煎じ薬とかゆみ止めの軟膏を使って、様子を見ましょう。

 薬師様に調剤を頼まないと。」

 エリーがてきぱきと話す。前に見た緊張で震える声のとは違う。頼もしいくらいだ。

「『水疱瘡』は、一度、かかれば身体に抵抗力がついて二度目にかかることは殆ど無いんです。

 お薬も軟膏もありますから、流行り病の中では、治療のしやすいものです。」

「そうですか…」

 エリーが新しい手ぬぐいを絞って子供の首筋に当てた。少し子供の表情が穏やかになる。

「この子のお名前は?」

「…エイミーっていったっけかな。」

 ルーエが子供の顔を覗き込んだ。

「熱、まだ出るんですか。」

「たぶん。」

 ルーエがエリーから少し離れた。

「センセイ…、本当にお医者様なんですね。

 小児科か…。そりゃ、火傷や傷の患者は専門外だ。」

 ルーエがうな垂れた。

「俺、とんでもないことを頼んだんですね…」

 エリーがルーエを見上げた。

「そんなことはありません。

 医者は、本当は、専門に関係なく、目の前の患者さんに全力を尽くすものです。

 しり込みした私こそ、恥ずかしいです。」

 エリーが少し目を伏せた。ルーエがドキリとして、首を掻く。

(そういえば、首のとこ、痒いな…)

 ルーエを見ていたエリーの眉間が急に険しくなる。

 エリーが立ち上がるとルーエに近づいた。

「セ、センセイ?」

「診せてください。」

 エリーがルーエの白い髪を持ち上げて、首筋に顔を近づけた。

「セ、センセイ! こういうのマズい!」

 身体をそらせながらルーエが後ずさりする。

「ルーエさん、『水疱瘡』にかかったことは?」

「え?」

「子供の頃、かかったことは?」

「えーっと…」

 ルーエが考え込む。頭を振って答えた。

「覚えがないです。俺、病気なんかしたことなかったから。」

 エリーがルーエの下瞼を押し下げて目を見る。

 ふいの出来事にルーエが固まる。

 エリーの見たルーエは、黒瞳の周りの白目がやや赤い。

 次に首筋をもう一度見る。

「ずっと、エイミーと一緒でしたか。」

「ええ、まあ。」

 エリーが自分の手のひらをルーエのおでこに押し当てた。

 かなり熱い。

 ひんやりして気持ちいい、ルーエは自分に押し当てられたエリーの手をそう感じた。

「罹患しています。」

「へ?」

「エイミーの隣の寝台に寝てください。」

「え、ええ?」

「これから高い熱が出ます! 水痘も出ます!」

 ルーエが酷く困った顔をした。


 ◇◇◇


「で、ルーエ、なんでお前が『水疱瘡』なんだよ。子供の病気だろうが。」

「知るか! 俺のとこでは流行っていなかったんだよ。」

 ルーエの黒い肌に赤いぶつぶつが出ていた。熱で身体がだるくて寝台に突っ伏したままだ。ゾーイが半分、からかいながら見舞ってくれている。

 エイミーとルーエの間で様子を見ているエリーにゾーイが笑みを見せた。

 エリーの手はエイミーの両腕に軟膏を塗っている。

 エイミーの水泡はかさぶたになってきて、熱も下がってきていた。痒みが酷いのか随分ぐずっていたが今は眠っている。

「王都には伝令を出しました。

『水疱瘡』の発生で、先生方も俺達も王都に戻れないと。

 本当、ケリー先生も巻き込んじゃってすみません。」

 エリーもゾーイにぎこちないが少し笑みを見せる。

 横目でそれを見て、ルーエはなぜか口を尖らせた。

「仕方ありません。

 王都に流行り病を持ち込まずに済んでよかったです。」

 エリーの言葉が優しい。

「患者が、エイミーちゃんとお前で済んでよかったよ。

 先生、ほかの子供たちは、無事、潜伏期間を過ぎました。迎えに来た親たちに引き渡しています。」

「よかったです。」

「先生、」ジュリが手桶を持ち上げた。

「お水、代えてきます。

 エイミーちゃんが寝ているなら、先生も休憩しませんか。」

「でも、」エリーがルーエを見る。

「今日、まだ、お食事、していませんよ。」

 エリーが躊躇している。この数日、一番、具合の悪かったエイミーとルーエの側にいてくれた。目を開けるといつもエリーの姿があった気がする。

(いつ、休んでいたんだろう…)

「先生、食事、行ってきてください。

 俺、もう少し、ルーエんところにいますから。」

「行きますよ!」半ば強引にジュリがエリーを連れ出した。

 ジュリが肩越しにゾーイに目くばせする。ゾーイも軽く手を振る。

「何やってんだ、ゾーイ。」

 うつ伏せの顔を少し上げて、ルーエが唸った。

「ジュリに頼んで先生を連れだしてもらった。」

(ジュリ? 親しげに呼びやがって。)

「でないと、話が出来ん。」ゾーイが顔を近づけた。

「なんだ?」

「人身売買の連中、売り飛ばし先を吐いた。

 ちょっと、いい男にしちまったけど。」

「どこだ?」

「フィアールント。」

「子供だぞ。奴隷にもならん幼子だ。」

「前、コルトレイの事件、聞いているだろう?」

「…まさか。」

「可能性は大。」

 ルーエがうな垂れる。

「売った方は、想像もしてないだろうな。

 大切な命が失われなくてよかった。」

「うん。」ゾーイも頷く。

「…随分と、かさぶたになってきたんだ。もうじき治る。」

 ルーエの呟きに、ふふ、とゾーイが笑う。

「あと、なんかしてほしいこと、ある?」

 ルーエが枕元の軟膏の壺を指さした。

「背中に塗ってほしい…」

 照れて赤くなっている。

「届かないんだよ、俺、デカいから。

 痒くて死にそうなんだ! 我慢するの辛いんだよ!」

 最後は泣き声に近い。

 ゾーイが軟膏を指に取った。笑っている。

「先生に塗ってもらえばいいのに。」

「バカ、頼めるかよ!」

 ゾーイがルーエの寝間着を裾からめくりあげて軟膏を塗っていく。

 大きな僧帽筋が整った背中の、黒い肌のあちこちにぶつぶつがある。

「なんか、ヤバイ画だなぁ。後ろから襲ってるみたいだ。

 誰かに見られたら、誤解されるかも!」

 ゾーイが嬉しそうに言う。

「うるせぃ、さっさと…」

 顔を上げたルーエの前に、固まったエリーとジュリが立ち尽くしていた。


 ◇◇◇


 数日後には、エイミーの熱は下がり、かさぶたも落ちて、元気を取り戻していた。

 ほかの子供たちも親元に帰り、残った子供はエイミーだけになった。

 ルーエもほとんどが、かさぶたになり、微熱以外は、痒みとの我慢比べだけになった。騎士服を着たいところだが、少し残った水泡がつぶれると厄介なので、患者用の寝間着のままでいる。寝込んでいた時はそうでもなかったが、起きて動き回るようになると丈の足りないのが気になる。

 脛が丸見えだ。

 そう毛深くはないが、人前ではみっともない。

「おじちゃん!」

 中庭でエイミーがルーエに手を振った。

 ルーエも手を振り返す。中庭を見通せる廊下の手すりに腰掛けていた。そばの柱に背中を預けている。背中の真ん中が痒いのを柱に押し付けて我慢しているのだ。最後の最後に、夜も眠れないくらい痒みが酷い。

(バレたら、ヤダな…)

 エイミーが手の届きそうな高さのトンボを追いかけている。

「エイミーちゃん、すっかり、良くなりましたね。」

 少し顔を傾けて、声の主を見た。エリーだ。

 今日も治療院の白の制服姿。

 茶黒い髪はひとつに三つ編みにされ、丸く巻き込んで結われている。しっかりとした大人の女性。医師様だ。何だか、少し、遠い。

 彼女たちもあらかたの関係者が発症しなかったのを確認して、じき王都に戻るのだろう。

 エリー医師は、エイミーとルーエのためにずっと残ってくれていた。

 そろそろ、治療院に戻っていただかないと申し訳ない。

「エイミーのご両親は? 迎えに来られないのですか?」

 エリーの問いかけにルーエがエイミーの方へ視線をもどした。

「両親はいないそうです。あの子が売られる前に亡くなったそうで。」

「…。」

「売り飛ばした親戚が、迎えには来ないでしょう。

 仮に帰っても、また売られます。」

「では、どうなるのですか?」

「ゾーイが、王都の養児院を探してくれました。そこで、里親か養子先を探すことになります。」

「…。」

「…よくあることです。」

 ルーエが黙った。彼のそばの空気がふわりとした。

 エリーがすこし間を開けて、ルーエの隣に座った。

(え?)

 ルーエが緊張する。

 身体を少し横向けて、寝間着からはみ出た脛を遠ざけた。

 エリーは真っすぐ前を向いていた。エイミーの姿がある方向だ。

「私の名前は、エリー・ケリー・アナスンです。アナスン侯爵の娘です…。」

 エリーの声は小さく、少し震えていた。

(え?)ルーエがほんの少し、エリーを見る。

「ずっと、そう唱えていました。自分を忘れないように。」

 真っすぐ前を見たまま、エリーが続けた。

「子供は逃げる力もなくて。

 心に蓋をして、じっと、何も考えないようにして… 

 そうしていると自分に起きていることも忘れることができました。」

「…。」

「でも、自分を忘れてしまった子供は、生きることも忘れてしまいます。生きているのに死んでいる。

 人売りは、そんな子供を役に立たないと道端に捨てていきました。」

 エリーが膝の上で手を組んだ。

 震えを止めるように。

 その震えは小さいのに、ルーエにまで伝わってくる。

 言葉にできない『面倒くさい令嬢』の…。

「捨てられないように… いつか、帰れるように… 自分を覚えておかないといけない…。」

 そして、顔を空に向けた。

「あの子たちが自分の名前を忘れてしまう前に助けられてよかった。」

「…ですね。」ルーエが小声で同意した。

 ルーエが自分の手を見た。

 マリーが言った『父親の大きな手』。エリーの大好きな『大きな手』。

 似ていると言われたルーエの手は、かさぶたが落ちて綺麗になっている。その手をエリーの手の上に重ねた。彼女の震えが伝わる。

 エリーが驚いたようだ。手が硬直する。

「センセイも、大丈夫ですよ。」

 ルーエは重ねた手に少しだけ力を入れた。そして、すぐ離す。が、その手を逆に握られた。

「え?」

「ルーエさん! まだ、熱があるじゃないですか!」

 彼を見るエリーは医者の顔だ。彼女の両手がルーエの手を包み込んでいる。

「下がったと思ったんですが。

 そっか、背中も痒いはずだ…」

 照れくさそうにルーエが言う。

「ちょっと待っててください。」

 エリーが手を離すと自分の服のポケットを探った。小さな薬壺が出てきた。

 見本用の軟膏だ。

「背中、見せてください。」

 ルーエがもぞもぞと上着を下げた。大きな背中が現れる。

 鍛えられた筋肉にはりがあって、美しさまで感じる。

 エリーが思わず息を飲む。

 こんな生々しい男の背中は、彼女には刺激が強すぎた。思わず目をそむけてしまう。

 ルーエの背中にはまだ水痘が残っていた。自分で傷つけたのか、破れているものもある。痛々しい。

「少し、しみます。…我慢してくださいね。」

 エリーの言葉のあとのほうは自分に言い聞かせているようだ。

 柱にもたれかかったルーエの背中は彼女の言葉に頷いたように見えた。

 エリーは、彼の背中に回って、ゆっくりと軟膏をすりこんだ。

「痛っ…」ルーエが呻く。

 エリーが気をつけながら、ゆっくりと軟膏をひろげていく。ルーエの背中は大きくて、水痘以外の傷はない。よく見ると綺麗な黒肌だ。

 少しずつ、ルーエの背中からこわばりが抜けていく。

「センセイ…」ルーエが小さな声で呟く。

「はい?」

「背中、なでてもらうの、気持ちいいですね…。」

 すうっと声が消えていった。

「ルーエさん?」

 エリーが正面に回るとルーエが寝息を立てていた。

 困ってしまったが、そっと彼の上着を引っ張り上げて肩に着せた。

「おじちゃん、ねてるの?」

 いつの間にかエイミーが戻ってきていた。

「…寝かせてあげましょうね。」

「うん。」

「おじちゃんのせなか、おっきいね。」

「そうね。」

 エリーはエイミーを抱き上げるとまたルーエの隣に座った。

 今度は彼が暖かくいられるようにさっきより少し近くに。

「おっきいせなか、なんのせなか?」

 歌うようにエイミーがいうとエリーを見上げた。

「んー、『クジラの背中』かしら。」

「『クジラ』って、なあに?」

「ルーエさんのお店の看板なの。

 おっきい… 

 おさかな、かしら?」

「おじちゃん、おさかな、なの?」

「なんかヘン!」

 エリーがふふと笑った。

「今度、『おじちゃん』に教えてもらいましょうね。」

 エイミーがにっこり笑った。


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