01 黄昏の境界にて
──通路だった。
石製というには、しっかりした材質の通路を、二人ぶんの足音が歩いている。
灯りはなく、暗がりに満ちていたが、彼らの視界において、闇は障害になっていなかった。
「竜、ねえ」
片割れの一人がそう言った。
膝裏にまで届く、大きいポニーテール。黒髪に映える真紅の瞳は剣呑な鋭さだが、それだけの無感情性はない。むしろ逆で、この暗中さえも愉しまんとする輝きが宿っている。
二十歳ほどに見える彼女は、青いジャケットに膝まである丈のスカート装備。それにロングブーツときて、まるでここにも散歩の一環で来たかのような軽い足取りだ。
「騒音被害ってのは確かに大問題だけどさ。いちいち吼える竜って、そりゃなんなんだ? ここから出られない因果でもあるのかね」
声をかけた先は、その右手を同じペースで歩く相方だ。
──そちらは、彼女の青い軽装に反して、紅蓮の装束。ゆったりとした羽織袴に、歩きやすさを重視した黒革靴。腰には紅色の鞘をさしており、剣士であることを示している。
肩にかかるほどの紅藤色の髪はハーフアップ。厚い前髪から覗くのは、昏さを帯びた静寂の紫眼だ。愉しみを見出そうとする傍らに対し、やはり彼はこの状況を、ただ見つめているだけのよう。
「そんな理屈を考えるのは俺の仕事じゃないだろう。頭脳労働はアガサの管轄だ」
外見の端麗さも中性的なら、その声色さえも中庸。
放たれた声は淡々と、平坦でいながらも倦怠的。ただし諦観というほど枯れたものではなく、単に、これから直面する出来事に対して、純粋な面倒くささを押し殺しているようだった。
「そーだけどさー。物の因果関係ってのは大事だぜ? 推理、推測がなきゃ真実には辿りつけねーの。サクラお前、推理小説とか読んだことないの?」
「なくはないが」
──どちらかというと、現状、常に、その主人公になっている気分なのだ────と。
サクラは、言えない。言うことはない。
決して絶対に。
三年前から今日、この時も。
あの玉座の間で目の当たりにした最悪の結末を、この世で一番信頼しているといっても過言ではない相手にさえも、伝えることはない。
「俺は、まあ、考えるよりは斬る方が」
「得意、ってか。別にいいけどさあ。最強の脳筋ってのは、考える脳筋だと思うケドナー」
「それは言葉の定義から外れてないか」
「物の例えさ。火力ブッパで後先考えず、ってのは、消費の概念を軽視する行為だ。こと私は錬金術師、素材の在庫数には厳しく目を光らせる性質なんで」
「素材のためなら、幼馴染のツテも頼って周回に駆り出すと」
「当然だ。そしてすみません。そして、その寛容さにありがとう」
「別にお前の頼みならいいけどさぁ……」
さらりと告げた言葉に、若干、錬金術師が動揺を見せたのを青年は一切関知せず。
カツカツコツコツ、とひたすら自分たちの足音が響き続けるだけの道を、ぼう、と観察する。
「ここは一体なんなんだろうな」
「道、だろうな。誰かが入ってくるのを予測して造られた──のは確かだ。或いは? 初めから私たちが来ると分かっていたか──だ」
「それは気色が悪い」
「同感」
肩をすくめつつ首肯するアガサ。実際、自分で言ってても薄ら寒さがあったのだろう。
己の決定、行動、掴み取った流れ。その全てが何者かによって意図されたものだとしたら──などと。
思考実験としては悪くない題材だが、実際に当てはめると吐き気を催すほどの悪辣さ。
とはいえ仮定の話に花を咲かせていても、闇は晴れない。通路は長く、長く、永劫のように続いている。
まるで、時間そのものを遡っているような。
或いは、空間そのものに導かれているような。
登っているのか下っているのか進んでいるのか戻っているのか。
我を意識して保たないと、上下左右の平衡感覚すら失いそうな静寂と闇。ここは、明らかに異常なクセして、何の変哲のなさをも兼ね備えた異空間だった。
「……あー、いるな」
その時、アガサが期待に声を上げた。
未だ見えぬ闇の奥。その向こうに、確かに存在の気配を感知したからだ。
「上物だなこりゃ。会話が通じるといいんだけど」
「没交渉の場合は?」
「そりゃあ、平穏に立ち退き頂くか────だ」
親指で首をかっ切る動作を交えるアガサに、そりゃそうか、とサクラは流す。
相手が何であろうと、人類の領域を脅かす危険性があるのなら排除するのみ。
彼らは、そのためにここへ踏み入ったのだから。
「──っと?」
その時、不意に通路が途切れた。
いや──終わったのか。
顔を上げたアガサとサクラが目撃したのは、広い広い大ホール。
円形状の床は、半円しか残っていない。天蓋からは陽光が差し込み、半円向こうの深淵と地上を明確に分かれさせている。
『──よくぞ来た。訪問者たちよ』
空間に、突如として響く言語音声。
サクラもアガサも身構えつつ、周囲を探るが出所は掴めない。
『この地に踏み入ったからには、我に用があるとみた。さぁ目的を告げよ。今の我は気分がとても良い。そちらが望む展開も、やぶさかではないぞ?』
「……万象言語か」
上位の存在から、下位の存在への「語り掛け」に使われる専用言語。
此方に耳馴染みのある言語に自動変換されるそれは、分かっていても気持ちが悪い。サクラの耳に入るのは、もう失われたハズの第一種人間語だ。今や知る者も限られたロストワード、得体の知れない存在がそれを放つのは、いささか嫌悪の念を抱かせる。
「目的、っつーかさぁ。私たちは騒音被害を訴えに来たんだよねー。毎夜毎夜、そっちが吼えててうるせぇって近隣の村から苦情が入ってんのー」
──ここより、そう遠くない場所にある辺境の村。
魔物の素材採集の途中、サクラとアガサはそこへ行きついた。一休みもかねて宿で休んでいたところ、──凄まじい竜の咆哮が聞こえ、村の他の証言者の手を借りつつ、ここを訪れたのだ。
だが元凶らしき竜から上がるのは怪訝の声。
『はて? 遠吠えだと? 我にそんな物寂しい趣味はないが……野犬でもあるまいし』
「まあ、特定の奴にしか聞こえない咆哮らしいが。しかし発声源はここにあると聞いている。お前でなければ、他に心当たりはないか」
『ないが? ……え、ちょっと待て。ホントにそれだけ?』
「なんだ、ただのハズレか」
肩透かしを食らったアガサは、あからさまにガッカリする。
何の関係もないのなら、触らぬ上位存在に祟りなし。おかしな展開になる前に立ち去るが道理である。
「「帰るか」」
数秒と待たず、二人は同時に踵を返す。
が──
『ちょっ! ちょ、ちょっと待てぇーい! そんなことあるか!? そ、騒音被害の訴えだけ!? 汝ら、その、我に挑みにきた英雄とか勇者とか、なんかそういうのではっっ!?!?』
「違います」
「古臭い価値観だなー。そういうのはもういいって」
英雄も勇者も、もう今の時代には必要ない。
神は倒された。平穏の世に、そのような存在が活躍する場はないのだ。
『な、ぜ、だ!? ふ、腑抜けか貴様らぁ! こっちはなんかずっと待っていたのだぞ! この身は竜なり、ならばやってくる者らを迎え撃ち、試練として役割を果たすが定めだとっ!』
「つまりヒキコモリ」
『出られないのだからそれ以外にどーしろとっ!? に、逃がさん……逃がさんぞ貴様らは……ここで何があろうと、我の相手をしてもらう────ッ!!』
刹那──半円の向こう、闇の底から炎が吹き荒れた。
黄金の業火は大気を揺るがし、焼き尽くし、ごうごうと燃え猛る。それらは徐々に一つの形となりて、二人の前に顕現した。
『──我こそは炎を司りし始祖竜が一角ッ! 炎竜エリュンディウスである!! 恐れおののけ人類代表者! 我が聖火の前に平伏せよ────ッ!』
紅蓮の、竜。
燃えるような鱗で彩られたその体長は、軽く六十メートルはある。空中にありながら、その翼や尾は炎化し、メラメラと燃えており、触れた大気を、床を、壁を、じりじりと焼いていた。
加え、巨体から放たれるプレッシャー。上位の竜という存在規格そのものが、矮小な人類二人に叩きつけるのは、焼き尽くさんばかりの重圧だ。一つ呼吸するだけで肺を、精神を、魂に火の手を広がらせかねないソレは、余りにも人と隔絶した絶対強者の威風である。
……だが。
「「──で?」」
二人は。
顕現した赤竜を、冷めきった目で見つめていた。
お前が何者であろうが、だからどうしたと。
地上から仰ぎながら、その程度で何ができるのか? とでも言わんばかりの軽蔑した視線が、炎竜を射抜いていた。
「威張るのは勝手だが、殺し合いたいのかお前?」
「別にいーけどさぁ。人類劣等主義を掲げるなら、もうちょっと勉強してからにしろよ。自分は偉い強い凄いで上から目線やってんの、正直寒いぞぉ?」
『ほーう……人類にしては胆力のある連中であるな。我に一歩も退かず、そのような口を叩くとは! よいぞ、見所ありと認識を改めよう。さもなくば──死ねぃ』
瞬間、炎竜の口から咆哮が吐き出される。
凄絶としか言いようのない炎の嵐。それを前にしても、サクラとアガサはまったく動揺の欠片もなかった。
──敵対行動の確認。
──交渉の余地なしの一方的な敵意。
──結論。こいつは敵である、と彼らもまた認識した。
であれば──
「『黒の万象』」
「【固有理論】」
アガサの背後に黒い棺桶が現れ、サクラの抜いた刀身が閃いた。
瞬間、炎竜のブレスはかき消える。無効化、事象却下。そうとしか思えない異常の発生に、瞠目した竜が見たのは、二人の前に、壁のように顕現した真っ赤な鳥居だった。
「殲滅術式三十番、一斉掃射」
『……は?』
続く展開に、竜は呆ける。
刹那で空間を埋め尽くしたのは、黒い銃身の大群だ。二百……三百を超過する慈悲も容赦もない銃火器群は、指揮者の命に応じ、まったく同時に弾丸を撃ち放った。
『ごッ──ぁ、アア、アああああぁぁああッッ!? なんだそれはッ、聞いておらんぞ──!?』
「こいつはさては馬鹿だな?」
ドガガガガガガガガガァッッ!! と豪雨よろしく集中砲火の合唱祭。
鱗こそ貫通しないが、一度に全身を打ち砕かれない体験に、痛覚に、炎竜は悲鳴を上げる。それを呆れた目で見つめるアガサの横では、次なる真の恐怖が準備を完了させていた。
「神刀抜刀──」
『ッ……!!』
──マズイ、と。
炎竜の本能が、生物としてではなく、存在としての絶対本能が悪寒を感じた。
第六感的に察知したその危険信号は、今受けている弾丸の放火など児戯に等しいと断じ、あの剣士こそが最も恐るべき大敵であると確信を抱かせた。
『──さ、せるかァァァ────!!』
全身全霊で生にしがみつく。足掻き狂う。
その意思に応じた炎の大乱は、渦となってこの空間そのものを焼き尽くす。浮遊展開していた銃身群はそれで灰と化し、跡形も残さない。それは単なる燃焼ではなく、浄化。引火すれば最後、物質だろうと魂だろうと、例外なく燃やし尽くす、超浄化の嵐だった。
「洗霊理論・社門朔月」
『ッ──!!』
再び、顕現する鳥居。
ソレに触れた瞬間、焔は拒絶される。遮断される。消し飛ばされる。
先と同じ光景に、やはり炎竜は理解が及ばず、剣士の姿を見失う。
「喧嘩売る相手を間違えたな、十三番!」
『グゥッ……!?』
次の異常は炎竜の影。そこから、否、この空間に存在するありとあらゆる影から、黒い鎖の束が放出される。それは炎竜の脚を引き、絡みついたところから、延長されるように伸びていく。限界距離はなく、切れ目だと思った箇所から新たに錬成され継ぎ直されているのだ。瞬間的に焔をまとって焼き消そうにも、逆に拘束の力を強めて鎖は無限に絡みついてくる。
『なッ……ニィ!?』
「はいはい無駄無駄、無駄だから。技を見せ過ぎだ──対応したよ」
末恐ろしい発言に、初めて炎竜の思考が凍り付く。
……対応した? 対応しただと? 自分の焔に? 絶対浄化を誇る、聖火の具現を──!?
「っつーワケで。サクラ、あとよろしくっ!」
その合図と共に。
炎竜の遥か頭上を──一人の小さい影が、跳んでいた。
「朔月理論・天幻絶刀」
振り放たれる、絶対一閃。
無情に落とされた一刀は、炎竜に恐怖も敵意も抱かせる刹那もなく────
《center》“──────────!!!!”《/center》
その魂を。その身を。
斬り伏せようとした寸前──どこからか轟き渡った、怨嗟の咆哮が打ち消していた。
「ッ……!?」
激震が天地を揺るがした。
頭の芯に、精神の軸に、魂の核にまで響く天変地異。
震動が起こる。
亀裂が走る。
崩壊が、始まった。
砕けた遺跡の天蓋は落ち、黄昏の日差しが内部に差しこむ。
直後、半分しかなかったホールの床も砕け──その下の深淵より、黒い暴風が吹き荒れる。
「おいこれマズッ────!?」
「────、」
『のぉわぁぁぁあああ────!? 我が何をしたぁぁぁ──ッ!?』
アガサも、炎竜も、サクラも例外なく。
奈落へと──引きずり込まれていく。
「──────────、そこか?」
だが反射で。
ほとんど咄嗟の動きで、サクラは深淵へ向けて刀を振っていた。
──黄金の一閃が、炎竜のすぐ横を通り抜けて、深淵の底へ底へと落ちていく。
完全に刀の感覚に任せた無心の斬撃。
果たしてそれは、地底から吹き荒れた暴風を打ち止め、一瞬でこの場を静寂で満たした。
……そして。
当然の理に従って。
「──あ、落ちる」
「当ったり前だぁあああ────!!」
『あぁぁああああああ────!?!?』
三者三様、平等に落下していく。
深淵への墜落は、空に堕ちるように。
その向こうで輝いた極光に、何もかもが吞み込まれていった──
⛩
やがて震動が収まった頃、そこには何も残っていなかった。
通路も、大ホールも、二人がいた痕跡も、竜がいた気配すらも。
黄金の陽光が照らしたのは、山稜にぽっかりと空いた大穴だけ。
黄昏暦六〇三年。
神殺しと錬金術師の旅路は、こうして始まった。
読んでいただきありがとうございました。
ハーメルン様でも連載している作品の掲載です。
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2023.12.12追記:加筆・修正
2024.05.26追記:加筆・修正