00 始まりのエピローグ
その大陸は、黄昏時で静止していた。
地平線に眩く落陽は空を黄金に染め、それ以外の色を見せることはない。
ラグナ大陸。そこは終末の最前線にして、神と魔族が争う戦場──だった。
「神を討ち取りました」
恭しく頭を垂れ、膝をついたのは一人の青年だった。
流された白い長髪はぼさぼさ、血で染まった白の羽織袴も、まさに決戦帰りの様相でボロボロだ。玉座前だというのに刀は腰に帯びたままだったが、誰もそれを咎めることはない。そも、今の彼に細かい礼儀作法を考える余裕など、無かった。
気力も余力も完全に使い果たした抜け殻状態。
十八歳程度に見える姿は、しかし数千年を生きてきた老兵のように疲弊していた。
跪いた背後には、蝋のような白い遺骸が一つ。
これこそが彼の持ってきた神殺しの証拠品。魔族が長年追い続けた、「神」の死体である。
「……貴殿、名をなんという?」
玉座──高い階段の上に置かれた王座から、声が響く。
ベールに隠された顔から性別を推し量るのは難しい。声も中性的で男か女か分からなかったが、報告者にとってそんなことは興味の外だった。
「持ちえません。呼び名であれば、サクラ──と」
遠い昔日。幼馴染に使われていた名を適当に答えつつ、サクラは一つ息を吐く。
いつになったら終わるのだろう。いつになったら帰れるのだろう。
こんな茶番など、どうでもいい。名誉も栄誉も欲しくはない。そんなものを与えられたところで、明日の「仕事」が何か変わるわけでもないのだから。
玉座に来たのも、人類としての義務報告だ。職場の上司からそのように命じられたから来ただけで、命じられていなければ直帰していた。まぁそんなことをしていれば、しばらく人類は神の死に気付かずにいたかもしれないが。
「そうか。ではサクラ──神殺し、大儀であった」
王の賞賛。サクラがこの国の兵士であったなら恐縮や感動の一つもあったかもしれないが、なんの思い入れもなければ、国民でさえないサクラには連絡音声にしか聞こえない。
「その被験体は、我が国で預かろう。よくぞ持ち帰ってきた。望む報酬を言ってみよ」
被験体。サクラは一瞬、意識を死骸へやる。
今の人類の主要技術は錬金術だ。国王までも、神を「材料」として認識することに、若干の納得はあったが釈然としなかった。……ただの気持ちの問題だ。
「……必要ありません。神の排除によってもたらされる平穏こそが、私の求めていた最大の戦果です」
心にも思っていない戯言だ。金貨も地位も、今後の生活にはなんの役にも立たない。表面上だけの優等生面をしておけば、国王も適当に解釈してくれるだろう。
「謙虚だな。いや、貴殿も疲れているのか。ではこうしよう。報酬は──」
それでも英雄には褒美を与えなければ、一国の王としての面子が立たないのか。
何を言われようと、サクラは「結構です」の言葉を脳内に準備し──
「──サクラ。月界線の神子よ。
最後の人間として、名誉ある死を貴様に与えよう」
「……は?」
閃光が起こった。
ズヴァチィ!! と自らに降りかかってきた雷電を、反射的にサクラは斬り捨てる。
「っっ……!!」
頭は現状に追いつかない。だが、疲弊しきっていた身体は即座に戦闘態勢に入っていた。
積み上げてきた経験と研鑽は、まるで今の一瞬のためにあったかのよう。そんな錯覚をしながら、サクラは刀を構えたまま玉座を仰ぐ。
「何を驚いている? 私が貴様の正体を忘れているとでも思ったか? 舐めるなよ人間。神側につき、多くの魔族を殺した貴様らの所業──神殺し一つで帳消しにできるとでも?」
王の語った論理は、サクラの思考を止めるには充分なものだった。
それは、余りにも返す言葉がない。事実だ。己が人間であることも、他の人間がどのような蛮行をしでかしたのかも、変えようのない事実。だが──
「……正論だな。反論の言葉がない。だが唯一王、判断を下すにしては即決すぎないか? ここで俺を殺せば、臣民からの信頼が落ちるぞ。平穏を始めるにあたり、神のみならず英雄の血まで欲するのか」
「どうでもいいことだ」
彼の命乞いを、王はあっさりと切り捨てる。
「民からの信頼? 騎士からの忠誠? 私はそんなもののために数百年この座にいたわけではない。結論を言えばな、神殺し。私にとって、お前は邪魔だから排除するだけだ」
「な……」
「神を殺すほどの逸材。失うのは惜しい──だが、排除することで得られる平穏の方が重い。どうだ英雄、大衆のためではなく、私一人の平穏のために死ぬというのは?」
「何を──言っている」
言っていることは、分かる。
だがそれは一国の王が展開する論理としては稚拙すぎる。邪魔だから排除する? それこそ、人類が邪魔だからと殺し続けていた神と何も変わらない。
「いいか英雄。我々人類は、神という共通敵がいたから団結できていただけだ。この平穏も長くは続くまい。神が現れる以前の時代も、あらゆる種族は争いあってきた。お前の功績は、その時代に逆戻りさせるだけのことだ。そしてその時代になれば、お前はやはり頂点に君臨するだろう。その時、私の味方になる可能性は、お前が神子である限りあり得ないことだ──ならば、ここで殺しておく。お前の生存によってもたらされるものは、平穏よりも災禍の方が大きいものと知れ」
チ、とサクラは舌打ちした。
「ご高説どうも。だがそんな未来のことなど知るかクソ野郎。だいたい、人界内部はそっちの管轄だろ。今の文明に、異界からの脅威に対抗できるほどの力があるのか?」
「『社』が務める人界守護か。それこそ全く興味がないな。国が滅ぼうと人界が荒れようと、私には関係のないことだ」
「……それは王としてではなく、お前自身の本音か? 人間よりも見ていられないな」
「私の在りようを勝手に計るか、傲慢だな。まぁ敵対者への態度としては妥当か。ならば一つだけ、ハッキリと伝えておくとしよう」
そこで王は、白杖を手に玉座から立ち上がった。
「──私はね、世のため人のため、この国を作ったわけではない。そもそも王になりたかったわけでも何でもない。周囲が必要としたから収まっただけだ。そして私の代わりは誰にでも務まる。ああ、そう思えばこの役目から解放されるのは、お前が終末神を殺してくれたおかげだな」
「……目的はなんだ」
「先も言ったろう──貴様の死だ」
杖が振るわれる。雷撃が降り注ぐ。
玉座の間を破壊するかに見えたソレは、サクラのみを狙って追ってくる。刀で軌道を逸らせば、それは何の破壊も周囲に与えることなく霧散した。
……卓越した魔力操作だ。敵のみを的確に殺害する技術──流石は戦乱の時代、人類の統合国家を興してみせた王なだけはある。人類の中では間違いなくトップに位置する武芸者の一人だろう。
「剣技はエディンバルトを越えているか……その刀の力か?」
敵に答える義理などない。
だが──攻撃こそ捌けるが、奴を殺すことはできない。
これは神殺しとは違う戦いだ。王を殺せば、人類全員を敵に回すことになる。
そうなれば晴れてサクラは正式に逆賊となり、寿命の最期を迎えるまで、世界の敵として生き続けることになるだろう。
実に面倒くさい相手だ。
「クソが、人類の王まで敵に回るとは世も末だな……!」
「人類の王、か。本当に私がそんな殊勝な存在に見えるのか?」
「……な、に?」
それはどういう意味だ。
いや、間違いなく目の前にいるのは唯一王だ。六百年前にこの人類国家アルカディアを興し、あらゆる人類種を率い、導いた偉人。サクラとは方向性の異なる偉業をなした者に違いは──ない。
「そうだな、確かに私は人類に貢献した。貢献してやった。己の矜持と尊厳を売り渡す行為と同義だったがな。だが連中の力を借りなければ神殺しは不可能だと思っていた。いきなり出てきたお前が事を為してしまうまでは」
攻勢は止まらない。それにサクラは、捌き、かわし続けることしかできない。
「虚を突かれたというか無駄骨を折ったというか、お前がここに来るまで無力感に苛まれていたのだがな。しかし人類としての生はそういうものだ。だからそこは諦める。そしてお前を殺して私は本当の平穏を手に入れる」
──最悪の可能性がサクラの頭によぎる。
分からない。なにも確証はない。
だが、しかし、仮にそうだとするならば──!!
「──我が真名はアルスティエラ。
かつて巫女によって人類に堕とされた……真なる終末の神である」
残酷な運命の開示に、サクラはその時、自分がどんな顔をしたか分からなかった。
◆
「アルスティエラ……!? それは創世神の名前だろう……!?」
この世を創り出したという、始まりの神──アルスティエラ。断じて終末の神の名ではない。
だが奴は今はっきりとそう名乗った。真なる終末の神だと。信じたくはないが、それが虚言だと判断するための材料を今のサクラは持っていない。
どういうことだ。
何が起こっている──いや、何が起きていた?
歴史の裏側で何があって、こんな未来に辿り着いている?
人類の王が、神? それを今の他の人類は知っているのか?
「ま、信ずるも信じないも自由だ。私が唯一覚えている私の矜持は、今の名前だけだからな」
「ぐぁッ……!」
雷光に追いつかれる。捌き損ねた一条の光線に吹き飛ばされ、サクラは床に転がった。
……息が上がっている。疲労がここに来て五感を鈍らせている。宿敵を討ち取った後に、こんな展開が待ち受けているなど思いも寄らなかった。
(……終末神は知っていたのか……?)
チラと近くにある死骸を見る。
終末神ラグナロク。それがサクラが討ち取った神の名だ。奴は神に相応しい力で、六百年間もこの地上を脅かしていた。
どこからどこまで真実なのか。
誰が敵で、誰が味方だった?
──分からない。なにも、この場にある事実を、事象を、理解しきれない……!
「私の数百年ばかりの時間は無駄になったが、無意味ではなかった。では別れの時だ、最新の英雄。……剣豪サクラ。お前の無意味な時間を礎に、私は本来の力を取り戻させてもらおう」
「ッ……!!」
敵が来る。立ち上がろうと腕に力を込めるが、起き上がるのがせいぜいだ。
意地だけで顔を上げた時、目の前にはもう、杖を持った神王が立っていた。
「【人理創世】──」
向けられた杖が光を灯す。
……一番目の人理兵装。今の人類が持つ最高峰の兵器が一つ。
それを惜しげもなく個人に向けるとは。どうやら相手は本気で、サクラを排除対象と見なしていたようだ。
「……ふざけるな……」
避けようもない死の間際。
彼の中にあったのは、もう幾度となく抱いてきた、絶望だけだった。
死ぬのは別にいい。
だが殺されるのは話が違う。
己の死は己だけのものだ。他の誰の手にも渡しはしない。
名前も、自由も、理不尽も別にどうでもいい。
だけど自分の終わりだけは、奪われる謂れはない──!!
『──時系連続体、座標特定。干渉を 実行します』
カッと白杖が輝くと同時、別の光があった。
空間に響いたのは女性らしき機械音声。その相手を、サクラは嫌というほど知っていた。
刹那、彼は自分の生存を認識する。向けられていた兵器は、何の効果も発動していない。
「……!? 今のは……!」
唯一王は怯んでいる。ここが最後の好機だ。
即座にそう判断したサクラは、物言わぬ戦利品──ラグナロクの遺骸を掴み、その場から一気に飛びさがる。
「ッ、待て神殺し! ソレだけは置いていけッ!!」
「断る!!」
奴の本当の狙いはコレだ。どういう動機か知らないが、コイツの死体を欲しがっている。
ならば取るべき選択は逃亡一択。後ろを振り返った時、入口の扉が白い光に塗りつぶされた。
次元転移──すなわち、逃げ道だ。
「貴様ッ……!!」
唯一王から追撃の気配がする。光へ飛び込む傍ら、サクラは振り向きざまに斬撃を放った。
「【神殺す黄昏の刃】」
抜き身の刀には、今は黄金の焔を帯びさせていた。ラグナロクでさえ煩わしくしていた焼却の斬撃は、一瞬の時間稼ぎには充分すぎる。
「待──」
「──お前は必ず殺す。楽に死ねると思うなよ、敗残者!!」
手応えはない。吐けるのはつまらない捨て台詞。この場の勝者は己だという宣告のみ。だが今はそれでいい。
そのまま、サクラはこの空間との境界を乗り越えた。
◆
──これが三年前の顛末。
“黄金の終末戦争”──ラグナロク。
それは現行人類たる魔族と、四柱の神々による生存競争。
神々の降臨からおよそ千年の時を経て、人類最後の大戦は終結した。
これによりラグナ大陸は約千年ぶりの平穏と人類の覇権を取り戻す。
されど世界の危機は、厄災は未だ多く。
神の支配から逃れた後に何が起きるかなど、この時はまだ、誰も知らなかった。
真・第一話。
後の1~5までも加筆・修正したのでよろしくお願いします。
展開は若干変わったけど流れ自体はそんなに変わらず。
これからもちょくちょく修正していくと思いますー。