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一般向けのエッセイ

亀山郁夫と悪夢世界

 ネットを見ていたら、ロシア文学専攻の賢い人を見つけました。ドストエフスキーの研究者らしいのですが、その人のブログを読んでいました。

 

 そうすると、そこで亀山郁夫の批判が長々と行われていました。亀山郁夫という人は、他の評判などから、見たら不愉快になるのがわかっていたので、私はできる限り見ないようにしていました。ですが、その人のブログを読んでいたら亀山の主張の要約があって、(亀山という人は本気でこんな事を言っているのか?)と正気を疑いました。ほとんど妄想の産物と言っていい代物です。

 

 私自身は亀山の本を読んでいないので本来は何とも言えないのですが、もう亀山に関するデータは信頼できるくらい積み上がっていると判断しました。友人からも「亀山がこんな事を言っていた」と憤慨の言葉を聞きました。どうやらえらい事になっているみたいですね。

 

 もっともこの文章の趣旨は亀山批判ではありません。そうではなく、何故、亀山が受けるか、受けたかという事です。

 

 件のブログを見ると、亀山は自己愛に取り憑かれた妄想的な人物らしい。まあ自己愛に取り憑かれているかどうかはともかく、妄想的な人物なのは確かでしょう。ドストエフスキーのテクストを元に勝手な妄想を繰り広げているからです。

 

 それで、亀山郁夫という人が何故受けたかと言うと「ドストエフスキーをわかりやすくみなさんに紹介したから」という事になりそうです。亀山訳のカラマーゾフが売れたので、売上にしか興味のない社会が「ドストエフスキーなら亀山」という風潮を作ったのだと思います。

 

 この素人社会はどうにかならんか…という気もしますね。本来なら、こうした事は、玄人の方でチェックを行い、「亀山がいくら素人に受けてもそれは良くないんだ」とはっきり言わなければならない。もちろん、言っている人もいるのですが、そういう人は少数派のようです。

 

 今の世の中は内容とか中身とかに関係なく、ただパフォーマンスだけになっている。玄人のいない素人の世界です。先日、ちらりと見た紅白歌合戦も素人芸のオンパレードでした。この国には本物の玄人がいなくなった。本物がいなくなった。あとはただ虚しいネットでの馬鹿騒ぎがあるだけです。

 

 ※

 

 話を戻します。亀山という人は、ドストエフスキーを媒介に自分の妄想を繰り広げている人物ですが、どうしてこういう人が受けるのか。評価されるのか。

 

 それは世の中、というか大衆、多くの人々の根底は妄想的にできあがっているからです。妄想的な人間というのは、自分を疑いません。自分は正気だと思いこんでいます。

 

 私は文学や哲学を調べていて、ずっと疑問に思っていました。それは高度な哲学、高度な文学になればなるほど、この世界を一種の夢とか、妄想、幻覚、芝居、そうしたものとみなすという事です。どうして知性の探索はそうなっているのか。

 

 実例は沢山あってあげられないのですが、今読んでいるルネ・ジラールの「欲望の現象学」もそういう風に読みました。ジラールによれば、レベルの低い小説ほど、欲望というものはキャラクター自身が抱いている、という風に描かれる。しかし、レベルが高くなると、その欲望には他者の欲望がまじり込んでいる事が示唆される。欲望は、決して、自分自身の意思ではない。他者との競合によって欲望が生成されていく。

 

 これは流行について考えればわかりやすいでしょう。多くの人が殺到するから「自分も」と思うのです。ですが、そうした人達は「これは他者の欲望だ」とは思わない。他人がしている事をして、他人が見ているものを見る。ですが、彼らは自分を疑わない。無意識的に自分を他人に合わせ、他人も自分に合わせているのですが、そうした事を認識しない。

 

 彼らの内部ーー主観においては全ては正常です。彼らは正常だと自惚れている。世界を妄想とか、悪夢とか、芝居だとは思わない。それは何故かと言えば、彼らは、自分の役を本気で信じ切っている俳優だからです。そう言う方がわかりやすいでしょう。彼らは、自主性もないし、自分というものもないのですが、与えられた自分をいつしか自分だとみなすようになったのです。そういう彼らの内部においては全ては平常通りで、「普通」で、おかしい事は何もありません。おかしいもの、異常なものは、正常な世界の外部にあって、それが出てくれば笑えばいいだけです。

 

 しかし、シェイクスピアのような作家にとって、世界は舞台でした。人間は俳優でした。仏教哲学にとって世界は幻でした。ドストエフスキーの小説の作品世界は、悪夢のように描かれています。現実が悪夢のように描かれている。それは何故でしょうか。

 

 答えは簡単です。この世界は悪夢だからです。しかしこの世界が悪夢なのは、自分の事を正気だと思っている人間があまりにも多いからです。彼らにとって世界は悪夢ではない。

 

 自分自身を正気だと思っている人々は、うわ言をつぶやいて様々な事をしますが、そうする事によって彼らは世界という名の悪夢を作り上げているのです。偉大な作家はこれを「外」から書きます。だから、内部から見ている人間には、世界の実像を捻じ曲げられたように感じるのですが、実際にはあらゆるものを認識ーー主観で捻じ曲げているのは人々の方です。そうして作家は、その捻じ曲げている様を描くのです。だから作家は根性が曲がっているように見えて、正直なのです。正直だから世界が悪夢に見えてくるという事です。

 

 亀山郁夫のような人が受けるのは、人々が根底的に妄想を見たがっているからです。妄想は基本的には孤立的なものですが、それがなにかの拍子で大衆と同調する事はありえます。簡単に言えばそういう事象が起こっているのでしょう。大衆は、自分の正常性を「他人と同じ夢を見ているから自分は正常だ」という風に自己確認します。自分が夢を見ていないと、他人を使ってチェックします。だから彼らは社会そのものが奈落に落ち込んでいく時には無力です。彼らは率先して、奈落の底に落ち込んでいくでしょう。悪霊の取り憑いた豚達が率先して湖に飛び込むように。

 

 今の世の中はそんな風になっていると思います。亀山郁夫が暴走しても止める人間がいないというのも、そういう社会の一傾向と解する事ができます。亀山批判があれば「でも受けているからいいじゃないか」と返す。そんな世の中になっています。もちろん、そうした社会のあり方もドストエフスキーは冷酷に描いています。

 

 「カラマーゾフの兄弟」にフェラポント神父というキャラクターがいますが、これはパフォーマンスばかりの神がかりな人物です。今の世の中はフェラポント神父が沢山います。フェラポント神父が「カラマーゾフの兄弟」という本を祭壇に置いていたとしても、実際には本の中身は読まれていません。何が言いたいかと言えば、いつの時代にも真実に至る道は狭く、長く、通俗的見解に達する道は広くなだらかにできているという事です。

 

 

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