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水姫~みずき~

作者: ちょこぱい

 ……ホラー以外の要素もたくさん盛り込んでみました。楽しんで頂けると嬉しいです。



 バイトから帰って、ベッドに身を投げだしてすぐ、ドアの呼び鈴が鳴る。疲れていて、出るかどうか迷っていると、外から男性の声がする。


「須藤さ~ん。お荷物とどいてます~」


 安普請のアパートはこれだから。

 やれやれと、玄関をあけると、この辺りの担当なんだろう。知った顔の配達員が「ここにサインお願いします」と言った。事務的に手続きをすませ、「ご苦労様」と一言かけて戸を閉めた。


 マグカップだろうか。小さめの箱を受け取り、差出人を確認して嫌な気持ちになる。山瀬香織、五年前わかれた妻だった。


 今更なんの用だか、ロクな事にならないと判っていた。


 俺は包みを開ける気にならず、手持無沙汰に包みをコンコン、と叩いてみた。


 すると。


 手の中の包みから、軽いノックが返って来た!

「おわっ」

 驚いて包みを落としてしまう。

 ずれたメガネをかけ直す。


 あいつ!


 嫌がらせで俺に生き物を配達してきたのか!

 突然の事と、嫌悪感で心臓がばくばくしている。


 床に荷物を転がしたまま、震える手でスマホを握り、香織に電話をかける。いつも黙っていると思われたら、迷惑このうえない。文句を言ってやる。


 香織は金に執着する女だった。


 つきあっている時はデート代を俺が出していたから、子供ができて一緒に暮らし始めるまで、その事に気がつかなかった。他に我慢できないような何かがあった訳ではない。とにかく、金に関してのみ、香織の価値観はおかしかった。妄執と言っていい。


 子供は女の子で『あかり』と名付けた。生まれてすぐは三時間おきの母乳が必要になるが、香織は母乳を与えるたび、「これは仕事だから」と俺に現金を要求するようになった。俺の給与はそのまま家計なのだから、金の受け渡しには全く意味がない。俺から香織に流れているだけだ。


 最初は育児ノイローゼの一種だろうと金を払ったし、母乳から粉ミルクに変え、俺が家にいる時にはミルクを交代して与えた。


 ところが、俺が育児のバックアップを始めたのは、金を払いたくないからだろうと、香織は口汚く罵りはじめたのだ。『金を受け取った』という実感を求めているらしかった。


 冷静に考えてみると、香織は家事と育児をうまくこなしていたし、金を要求していること以外、精神を病んでいるようには見えなかったのだ。


 逆に俺は、それが怖かった。


 生まれたばかりのあかりの事は気がかりだったが、香織が別れ話のたびに養育費の話をするので、金で縁が切れるものなら、と養育権を譲ってしまっていた。


 俺の人生は、香織に出会ったことで終わったんだ。


 電話のコールが続くのを、イライラして待ち続けた。俺からだと判って、出ないつもりか。


 留守電になる前に、ケータイがつながる。俺は怒りを抑えて「もしもし」と言った。


『もしもし、朗良さん?』

「……お義母さん」


 電話に出たのは香織の母、光代だった。香織に負けず劣らず、苦手な人物だった。

「……ご無沙汰しています。香織に変わってもらえますか」


 光代はため息をついて言った。

「……香織ね、死んだよ」


「え?」

「香織、死んだんだよ。朗良さん、今から出て来れるかい?」

「え? どういうことですか。死んだって、何でまた……」

「それも合わせて話すから、今から香織のマンションまでおいで」

「……そんな。ここから一時間はかかりますが……」

「待ってるよ」

 電話は一方的に切れた。


 俺は部屋着のまま、ケータイと財布をジーパンに突っ込んで部屋を出る支度をする。


 床に転がったままの包みを、さっきより嫌な気持ちで一瞥し、スニーカーをはいて玄関を出た。


          ■


 電車を乗り継いで、香織のマンションまでやってきた。


 閑静なベッドタウン。

 シングルマザーにしては豪華な造りのマンションで、俺は毎月支払っている養育費のことを考えると、内心複雑だった。


 ドアを開けたのは光代だった。


 部屋の中に入ると、そこで生活していた痕跡は、まったく無くなっていた。引っ越しでもするかのように何も残っていない部屋の真ん中に、光代が座った。俺は居心地悪く、向かい合うように座った。


「香織ね、変死だったんだよ」

「変死?」


 光代は部屋の隅を指差した。

「そこにあったベッドの上で、溺死していたんだって」

「……溺死って、溺れてたってことですよね。何に溺れたんですか?」

「それが判らないから『変死』なんだろうよ」


 深いためいきをついて、光代は続けた。

「……おかしな話だよ。わたしがこの部屋にかけつけた時には、キッチン、お風呂場、手洗い場……蛇口という蛇口、針金でぐるぐる巻きに固定されてた……。香織がやったのかねえ……」

「……どういう事なんでしょう。何故そんな事を……?」

「さあねえ。死人に口なしだよ。真相は、もう誰にも判らないのかもしれないね。……とりあえず、他殺かもしれないからって、警察が検死?するんだって。済んだら朗良さんの所に連絡いくように手続きしておいたから」


「え? なに言ってるんですか。僕はもう関係ないですよね……!」

「あの子の父親だろ?」

 光代が顎でしゃくって見せた場所には、小さな女の子が立っていた。

「……あ、かり……?」

 もう五歳のはずだ。思ったより小さくて細くて、心配になる。


 ……髪は肩が隠れるくらいの長さだが、毛先が伸びっぱなしになっている。手入れがされていなかったらもっと酷いことになっているだろうから、お風呂やブラッシングは行き届いているのだろう。


 Tシャツと七分丈のズボンは洗われているものの、使用感が出てしまっている。生地がゆるんで、プリントが掠れていた。


 あかりが母親とどんな関係だったのか……おそらく愛情の希薄な二人ではなかったか。あかりの容貌は、そんな印象を与えていた。


 光代の口調は、まるで愚痴を言っているようだ。

「うちは店商売しているから、あかりを引取るのは無理なんでね。子供からしても父親の所に行く方が順当ってもんだろ」

「ちょっ……本人がいる前で何の話してるんですか!」

「なぁ、あかりもお父さんの所に行きたいよな?」


 あかりを見ると、無表情な顔して光代をみつめている。その様子が、俺には何の話をしているか、理解しているように見えた。


 光代が苦々しく吐き捨てる。

「……母親が死んだっていうのに泣く訳でもなく、不気味な子だよ。まったく」

「ちょっと!」

 あまりに大人げない言葉に腹が立ち、一言いってやろうと思った時。

 部屋がぐらぐらと揺れ始めた。地震だ。

 大きい。


 いつまでも続く地震に、思わずあかりを抱き寄せて、頭に覆いかぶさる。部屋が片付いていて良かった。落下しそうな物がない。


 地震がおさまって、抱きしめていたあかりの顔を覗く。

「……あかり、大丈夫か?」

 あかりは口をひらかず、俺の顔をみて、こくりと頷く。


 光代が立ち上がり、言った。

「……何だろうね。次から次へと、変な事ばかりだよ。じゃあ、そんな訳で。この部屋の処分は済んでるから、鍵をかけたらポストに入れておくように。あかりの衣類は分けておいたから」

 紙袋をおいて、さっさと帰ってしまった。


 マンションの前に立ち尽くす。

 本屋と弁当屋バイトを週七で働いて、家賃と同じ額の養育費を払っている俺に、家族を養える余裕なんて、ある訳なかった。


 途方に暮れる。


 あかりは、こちらをただ見つめていた。


 俺はしゃがみこみ、目線をあかりにあわせる。きっと、あかりの方が不安に違いない。あかりの目を、正面から覗き込む。


 あかりは視線を逸らすことなく、こちらを見つめ返す。『目は心の窓』と聞いたことがある。あかりの目からは、強い意志の力を感じる。


 第一印象は、母親からの愛情不足を感じたが、少なくともあかりはその事に負けているようには見えなかった。強さ、真っ直ぐな気持ちが、俺には見えた。


「……あかり、パパと一緒に、暮らそうか」

 まっすぐこちらを見つめるあかりが、頷く。


 口数の少ない子なんだな。

 そういえば、俺も言葉が遅かったと母親が言っていた。遺伝かな。


 俺は立ち上がり、あかりの手をつないで、ゆっくり駅方面に歩き出す。あかりの手が、きゅっと握り返してくるのが判った。


 俺もあまり口達者な方ではないから、ただ、ただ、歩き続ける。ゆっくり。


 あかりが生まれた時の事を想い出していた。

 これから父親としてやっていけるか不安で、でも、それよりもっと嬉しくて……。人間とは思えない程ちいさな手は、指で触れると握り返してきた。


 今も、そんな気持ちだ。


          ■


 俺のアパートに、ふたりで帰ってきた。

「あかり、今日からここで暮らすんだよ」

 鍵をあけるなり、あかりが部屋に転がり込むように飛び込んだ。

 意外だった。トイレを我慢していたのか?


 俺がドアを閉めると、とんでもない光景が目に入った。


 香織が送ってきた包みを、ばりばり破って開けているのだ。

「あかり! 駄目だ、それは!」

 何が入っているか判らない。ネズミだったりしたら、不衛生で怖い。

 包みを取り上げようとすると、あかりは右手をいっぱいに広げて俺を制止した。

「さわっちゃ、だめ」


 ……初めてあかりの声を聴いた。

 五歳児の迫力ではなかった。


 あかりが包みを開けると、新聞紙にくるまった塊が出て来た。卵よりちょっとデカいくらいだ。


 新聞紙の中からは、結晶化した原石が出てきた。ゴツゴツして、紫に透けている。

 あかりは嬉しそうに、光にかざしてみていた。


 じゃあ、あのノックは何だったんだ?

 あかりの様子を見ていると、俺の気のせいだったかという気がしてきた。

「……それは、あかりの物なのか?」

 あかりは頷く。


「……パパ、おみず」

「ああ、喉が乾いたか。待ってろ」


 あかりの声は思ったよりハスキーで、聴けるだけで嬉しくなる。ウチにはひとつしかないコップに水を汲んでいると、あかりが「……こおり」と言った。確かに今日は暑い。


 渡したコップの水を飲むのかと思ったら、あかりは氷水のはいったコップの中に、紫の石を沈めた。


 不思議な光景だが、あかり風の遊びなんだろうと納得した。大事にしている石なんだろう。宝石の原石なのかもしれない。そう考えてみると、女の子が好きそうな物なのかもしれなかった。


 あかりの見せた笑顔で、俺もホッとしたのだろう。腹がすいている事に気づいた。特に買い物もしていない。今夜はカップ麺でも食べよう。


 お湯を沸かし、あかりが使う食器を考える。ごはん茶碗だろうか。割り箸を準備して、あかりと初めての食事をする。


「ごめんな。しょっぱなからこんなで。明日、買い物にいこうな」

 麺をすするのに必死になりながら、頷くあかり。その姿が歳相応の女の子に見えて、なんだか安心する。


 ……バイト、どうすっかな……。

 行く先不透明ではありながらも、家に灯りがともったような、あたたかさを感じていた。


          ■


 雑音で目が覚めた。


 大勢で話しているような、笑っているような……。女の子が声をひそめて、笑いあっている。テレビか?


 俺は飛び起きる。うちにテレビはない。


 枕元に置いたメガネを急いでかけて、あたりを見渡す。


 隣を見ると、パジャマ姿のあかりが、例の石を朝日に照らし、角度を変えながら輝くのを楽しんでいる。あたりまえだが、他には誰もいない。……夢でも見たか。


 夕べ、俺は寝入りばな凄い事実に気がついた。

 今月のバイト代は入ったばかりで、香織に養育費をまだ払っていなかったという事実だ。


 亡くなった人に対して非情な物言いだが、あかりの生活用品を買いそろえるのに、充分な蓄えだった。


「あかり。着替えてコンビニに朝ごはん買いに行こう」


           ■


 コンビニで買ったおにぎりを腹に詰め込んで、俺はスマホを握った。


 バイト先に、電話しないと。今日と明日は本屋のバイトの日だった。


 本屋は慢性的な人手不足で、シフトは絶対だった。生活費の事を考えると、休んでいる訳にもいかない。


 ただ、あかりとの生活を始めるために、どうしても準備期間は必要だ。とにかく、店長に話を通さなければならない。


 ただでさえパワハラ気味な店長だ。風邪をひいても、来いと言う。はたして休みをもらえるか……。


 俺は、のどがゴクリとなるのを聞いてから、店長のケータイに電話をかける。

 数コールで出るなり、店長が、がなる。


『須藤くん? 休むのは困るよ! 誰が雑誌ならべるの?』

「店長、話を聞いてください。別れた妻が亡くなりまして……」

『それが須藤くんと、どう関係あるの?』

「娘をひきとる事になりました」

『じゃあ、バイト代、必要だよね?』

「それは、もう。ただ、娘を連れてゆく訳にもいきませんから、預かってもらう所も探さないと……」

『じゃあ、うちの店の雑誌は誰が並べるのよ』

「すみません。申し訳ないんですが、他の方に声かけてもらえませんか?」

『もう店あけるまで一時間もないよ! 俺だって仕事あるし!』

「すみません! 申し訳ないです! なにぶん急なことで……」

『そんなに言うなら自分で探して……ぐぶっ』

 ……水っぽいごぽごぽした音がする。

「……店長? どうしました?」

 ガツンと、たぶんスマホが床に落ちた音だ。

「店長!」


 ……大変だ。倒れたのか?

 通話を切って、店舗の方に電話する。

 頼む!

 誰か出てくれ!

「……はい、もしもし橋本書店でございます」

「もしもし! 須藤です! 今、店長とケータイで話してたんですが、様子が変でした! 店内さがしてみてください!」

「え……あ、ああ、はい。判りました」

 通話を切って、あかりを抱きかかえ玄関に向かう。とりあえず店に。


          ■


 店はうちから徒歩十五分ほどの距離で、走ったから七、八分かかって到着しただろうか。まだシャッターが閉まっているので、裏口から入る。レジの脇から人の気配がする。


「安田さん!」

「須藤くん! 救急車よんでくれ!」

「はい!」

 俺はあかりを自分で立たせると、ケータイで119に連絡する。

 安田さんは心臓マッサージをしていた。

 店長は口から泡をふいて横たわっている。唇が真っ青だ。

 書店の場所を通報したあと、店長の様子を聞かれたので安田さんにスマホを渡す。人口マッサージってどうすればいいんだっけ。店長の胸に手のひらを当て、気がついた。


 店長の口は泡をふいている。水……? 俺は祈るような気持ちで、店長の顔を横に向け、気道を確保するために口を開けた。こうして吐しゃ物が喉に詰まるのを防ぐ、と習った記憶があったからだった。


 こぼこぼと音がして、口から大量の水が流れ出る。


 溺死……。


 香織の変死体の話が頭をよぎる。


 嫌な連想を頭から追い払い、心臓マッサージを始める。間に合ってくれ。

 一定のリズムで心臓をマッサージし、口から酸素を送り込む。救急車が到着するまで、休むことなく繰り返した。


          ■


 安田さんと相談して、今日は書店を休むことになった。安田さんが救急車で店長につきそってくれる事になって、俺はあかりの事もあったので、その場で解散することとなった。


 気がつくと、あかりは例の石を胸に抱いていた。慌てて抱きかかえて来たから、置いてくる間がなかったのだ。


 書店のシャッターの前で、今度はゆっくり、あかりを抱きかかえる。

「びっくりさせて、ごめんな、あかり」

 おでこをくっつけると、あかりは真っ直ぐ俺の瞳を覗きこんだ。

「突然の事だったけど財布もってきたし、買い物してこうな。茶碗とか、箸とか」

 笑顔を見せることは少ないが、あかりの表情はだいぶ柔らかくなったと思う。


 銀行のATMでお金をおろし、駅周辺で一番おおきい100円ショップにやってきた。


 どんな茶碗がいいか、あかりに選ばせると水色の花柄を選んだ。ご飯とみそ汁用に二個揃える。新しい家族が女の子だという実感が、じわりと滲んでくるようだ。


 コップを選ぶ時、あかりはロック用のでかいグラスを持ってきた。

「……石をいれるコップはこれがいいんだな。判った。じゃあ、あかりがお茶を飲むのはどれがいい?」

「……」

 でかいグラスの半分もない、可愛いコップを持ってきた。やっぱり、そんなモンだよな。


 歯ブラシや、風呂用の椅子など、店をぐるっと回ると必要なものが色々みつかった。帰り道は、けっこうな荷物になった。片手はあかりと手をつなぎ、片手は山ほどの生活用品。なんだか贅沢な気分だ。


 商店街を抜けようとした時、電気屋のテレビに目がいった。


 電車の脱線事故があったようだ。突然の惨事に緊張と興奮が隠せないキャスター。


 身近な不幸に、バイト先の店長の行く末が連想された。どう確認すればいいのか判らない。救急車に乗り込んだ安田さんの連絡先は判らなかった。無事を祈るばかりだ。


 突然たちどまった俺の顔を見上げている、あかり。心配をかけたくない俺は、いま思いついたように、明るくふるまった。


「あかり、たい焼き食べたことあるか?」

 ふるふると首を振るあかり。

「それはイカン。美味いんだぞ~」


 電気屋の向かいのたい焼きやで、買い喰い用に一尾かう。今はいろいろ味が選べるんだな。散財だらけだが、気が大きくなっているようだ。俺自身、たい焼きなんて何年振りだろう。


 ほかほかのたい焼きを、あかりの目の前で半分にわける。アンコがたっぷり入っていそうな頭の方を、包みにくるんであかりに持たせた。

「熱いぞ。やけどしないようにな」

 あかりが一口たい焼きに口をつけるのを見届けてから、俺も食べる。上品な甘さを味わいながら、あかりの今までの生活に想いをはせた。これまで香織とどんな生活を送っていたんだろうか。無口なあかりがそれを話すことは、これからも無いのだろうと、少し淋しく思えた。


「どうだ、あかり」

「……おいしい」

「そうか。よかった」

 複雑な気持ちのまま、こうしてあかりと日々を重ねてゆきたいと、願った。


          ■


 家に荷物を置いて、昼ご飯までまだ時間があったので、近くの幼稚園を訪ねてみようと思った。書店のバイトは先行きが見えないが、あかりを預かってくれる場所は、どうしたって必要になってくる。


「あかり、石は置いていこうな。重いだろ?」

 あかりは首を振る。本当に嫌そうだ。


 こんなに大事にしている物を、香織はどうして俺に送って来たんだろう。逆に、あかりは大事な物を取り上げられた経験から、こんなに石を離さなくなったのか……。


 嫌がることを無理にすることもない。


 あかりは石を抱いたまま、俺と手をつないでいた。

 家のそばにある幼稚園を訪ねた。軽い気持ちで。


 幼稚園の応接室に通され、園長先生がいらした。白髪の穏やかそうなご老人だった。


 俺はあかりを預かってもらいたい経緯を話した。

「須藤さん、幼稚園と保育園の違いは御存知?」

「あ……いいえ。どう違うんですか?」


「幼稚園は午前中お友達と遊んで、お弁当を食べたら子供たちは家に帰るんです。対して、お仕事で子供の面倒がみられないご家庭は、保育園に預けます。保育園には、ご家庭の収入がラインとなって、裕福なご家庭は預けられない仕組みになっています。須藤さんのご家庭の場合、幼稚園ではなく、保育園のほうが必要だと思われます」

「……そうだったんですね。ここは幼稚園か……」

「保育園の申請は区役所でおこないますが、須藤さんの場合は急を要しますものね。一時保育という制度もありますが、保育園に直接ご相談が必要だと思いますよ。一番近くの保育園、御存知かしら。ちょっと待っててね。」


 園長先生は地図を持ってきて、俺に見せてくれた。

「えー、今ここね。この公園をまっすぐ進んで、ここにスーパーがあるから、左に折れると、ここに公民館と隣接している保育園がありますよ」

「判りました。ありがとうございます。さっそく行ってみます」

「そうですね。……あかりちゃん、おとなしく待っていて、偉いわね。……ねえ、お父さん?」

「なんでしょう」

「これから男手ひとつでお子さん育てる事になって、本当に大変でしょうけれど、頑張ってね。毎日は無理ですが、どうしてもあかりちゃんの預かり場所がなくて困ってしまったら、うちにご連絡ください」

「……心強いです。ありがとうございます」

 園長先生は、優しく微笑んだ。

「お父さん。あかりちゃんは女の子だから、髪の毛むすんであげて。慣れるまで時間がかかるけど、せっかく長い髪が似合っているから、可愛くしてあげてね」

「あ……気づきませんでした。そうですね。練習します」


 幼稚園をあとにした。

 園長先生の人柄に感動しながら、保育園をさがす。

「あかり、もうちょっと頑張れ。朝からドタバタで、ずいぶん歩いたよな」

 我慢強い性格なんだな。逆に俺が気をつけてあげないとな。


 辿りついた保育園は、想像以上にでかい建物だった。

 応接間に通されて、やってきたのは体格のいい女性で、おそらく園長先生なのだろうが、不機嫌なのを隠そうとしない。


「いま給食の時間なんですよ。電話してからいらしてくれればいいのに……」

「すみません。気づきませんで。先ほど行った幼稚園でご紹介を受けて直接まいったもので……」

「幼稚園で紹介? なんて幼稚園?」

 俺は名前をださない方がいいと感じた。


「……急に子供を育てる事になりまして、幼稚園と保育園の違いも先ほど知りました」

「じゃあ、保育園に子供あずけるためには区役所で申請が必要だってことも勉強されましたよね?」

 ……先程の園長先生が思い出される。人を比べるのは失礼だと思いながらも、こんなにも違いを見せつけられると、愕然とする。

「……私も生活費のために働かなければなりません。急な事でしたので、ご相談を……」

「ご相談?」

 園長先生の声がヒステリックに高くなる。

「待機園児って言葉、ご存知? みんな空きが出来るの待ってるんですよ? 特別扱いしろってこと?」

「……申し訳ないです。本当に困ってまして……」

「みんな困ってるんですよ! 無認可の保育園、訪ねてみては?」

「……無認可、ですか?」

「そう! 保育料バカ高いところ!」

 俺はだされたお茶を眺めながら、ここにあかりを預けるのはやめようとぼんやり考えていた。そのお茶の表面が、こまかく波立っている。


 あ、と思った時には揺れが酷くなっていた。地震だ。

 とっさにあかりを抱き抱える。でかい。


 その時、聞こえた。ごぽぽっと、水があふれる音。


 どこかで聞いたことのある音だった。つい最近のことだ。


 揺れがおさまって、ふと園長を見ると、異常に気がついた。

 園長先生は立ちあがって、喉をかきむしっていた。口からはごぽごぽと水があふれている! 書店の店長と電話していた時に聴いた音だ! ……空気を吸おうと水を飲みこむ音がする。逆流する水が鼻からあふれる。目から流れているのは水なのか涙なのか……。


「大丈夫ですか! 誰か! 誰か来てください!」

 俺は大声で叫びながら、園長先生の元にかけよった。

 園長先生は白目をむいて、後ろに倒れ込む。俺は体を支えようとするが、力がたりず、床に直撃するのを妨げる程にしかならない。


「誰か! 誰か来てください!」

 大きな地震のあとで、保育士さんたちがばたばた走り回っている。子供たちを守るのに必死なんだ。


 応接室を出て、保育士さんを捕まえる。

「園長先生が倒れました! 来てください!」

「ええ?」


 騒ぎが大きくなって、人が集まってきた。


 俺はそんな中、まったく別の事を考えていた。


 香織の溺死。

 店長の口から流れ出た、水。

 今回の園長先生。


 ……これは、偶然なんかじゃ、ない。


 恐怖の中、俺は視線をゆっくり、あかりに向ける。

 あかりは無表情のまま、保育士さんたちに介抱される園長先生を見つめていた。


「誰か救急車よんで!」

 保育士さんの叫び声で我に返り、俺はあかりを抱きかかえ、走り出す。

 あかりが、やったのか?

 何か、不思議なチカラを持っているのか?

 これから、どうすればいいんだ?


 下駄箱で急いでスニーカーを履きながら、泣きたい気持ちであかりを抱きしめる。あかりを抱きかかえたまま、靴を持って、その場から逃げ出した。


          ■


 どこをどう走ったか、緑の多い公園のベンチに、あかりを座らせる。持ったままの靴を、片足ずつ、履かせた。


 俺は一番聞きたくない事を、あかりに尋ねた。


「あかりが、やったのか?」

 まっすぐ俺を見つめ返す、あかりの目。

 ゆっくり、首を振る。


 ……俺は脱力して、その場に座り込んだ。

 ……よかった。

 あかりが嘘をついていないことは、目を見れば判る。

 俺はあかりを信じていられる。


 ……いや。待てよ。


 今回の事は、偶然じゃ、ない。

 怪異が目の前で、三回。


 今した会話を思い返してみる。

 俺はあかりに「やったのか」としか、尋ねていない。

 首を振ったあかりは、何の話だか判っていたのか?

 そもそも、五歳の娘に理解できる話なのか?


 もう一度。


 今度は、自分が疑いを持たなくていいように、出来うる限り、慎重に言葉を選んだ。

「園長先生が溺れたのは、あかりが、やったのか?」

 俺の声は震えていた。

 まっすぐ見つめるあかりは、はっきり首を振った。

「……じゃあ、誰がやったのか……知っているのか……?」

 俺はあかりを怖がらせないよう、声を落として、聞いた。


 頷く、あかり。

 心臓がはねあがる。抑えてはいたが、俺は気がついたらあかりの肩を掴んでいた。

「……誰が、やった……?」

 思った以上にしっかりした口調で、あかりが言った。

「……水姫……」


 木陰の鳥が一斉に羽ばたく。

 全身に鳥肌が立つ。


 怖い。


 『みずき』が何者なのか、聞くのが、怖い。


 三件の怪異。

 とてもじゃないが人の手のおよぶ処ではない。

 死人も出ている。


 よく考えろ。

 園長先生が倒れた時、地震があった。あかりに最初に逢った時も、地震があった。何か関係あるのか?


 遠くでパトカーのサイレンが鳴っている。


 香織の変死。遺体は警察に引き渡している。

 店長とケータイで話していたのは俺だ。救急車で運ばれた先、どうなったか判らない。

 園長先生が倒れたのは……。


 ちょっと待て!

 今、一番怪しいのは『俺』じゃないのか?

 三件の怪異の、共通点は、『俺』だ!


 サイレンは一台だけじゃない。


 俺とあかりが保育園に訪ねたところと、逃げ出したところも、きっと誰かに目撃されている。


 どこからか見られている気がして、不安にかられる。


 警察に追われているかもしれない焦り。事情を説明して、判ってもらえるんだろうか。

まとまらない思考。あかりを守らなければいけないという使命感。


 俺はあかりを抱えて、突き動かされるようにその公園をあとにした。


          ■


 人を隠すなら人の中。


 そんな言葉を思い出し、人のいる方へ、いる方へ歩いていたら、家から三駅も離れた場所にいることが判った。


 駅前のファミレスにはいった。外食は滅多にしなかったが、あかりに食事をさせねば、と思ったからだ。あかりを抱えて歩いたせいで、俺も体力的にキツかった。


 あかりを隣に座らせて、メニューを見せた。

 ふと、思う。こんな時だというのに、家族でファミレスなんて、自分には縁のない幸せなシチュエーションのような気がした。


「……あかり、なに食べたい?」

 真剣にメニューとにらめっこしている。しばらく悩んだすえに、あかりはオムライスを指差した。デミグラスソースのかかっている奴だ。大人用のメニューだったので、俺と半分ずつで食べることにする。その代わりドリンクバーを二人前注文しようとしたら、六歳以下はサービスらしい。助かる。ファミレスとはよく言ったもんだ。


 ……これから、どうしたらいいんだろうか。

 メロンソーダを飲んでいるあかりを見ながら、考える。


 警察に追われていかもしれない今の状況は、絶望的な気がした。こんな話、誰が信じてくれるだろうか……。


 ……逆に、この状況を信じてくれそうな人は、いないだろうか。


 俺は藁をもつかむ気持ちで、スマホを開いた。『オカルト・相談』で検索をかける。

 ……どのサイトも「諦めないで相談」とうたっているが、俺自身がその窓口を信じられなかった。話を聞いて、はたして解決できる力なんて、あるんだろうか……。人が死んでいるのに……。


 オムライスが運ばれて来て、あかりが例の紫の石を机に置いた。ちょうど皿を置く場所だったので、俺は石をどかそうと手を伸ばした。


 触れた瞬間。


 冷たいイメージがフラッシュバックのように流れ込んできた。

 体が痛いほど冷たい。しびれる。


 耳元で、水滴がしたたる音。余韻がいつまでも響くような……。

恐ろしい暗闇と静寂。


 あかりが石を俺から取りあげるまで、どれだけ時間がかかったか判らなかった。気がついたら、ファミレスの雑踏があたたかかった。


「……あ、かり。おまえその石、持っていて、平気なのか?」

 俺は息があがっていた。

 あかりは怒ったように、こっくり頷く。


 そうだ。あかりはその石に「ふれるな」と、俺に言っていた。


 直感で、その石こそが、『みずき』なのだと判った。


          ■


 すれ違う女性たちの話し声がきこえる。

「ねえ、飛行機事故が起きたってラインニュースでやってる!」

「うそ!」

 ……ぶっそうなニュースなのに、話し声はどこか呑気にきこえる。

 朝方、たい焼き屋の前で電車の脱線事故のニュースを聞いたばかりだ。沈む気持ちに追い打ちをかける。


 人通りの多い街中。俺達が歩いている歩道も、仕事帰りの人であふれている。


 日が暮れてきていた。さすがにファミレスで時間をつぶすのに限界がきて、あかりの手をひいて駅に向かっていた。どんなに考えても、帰る場所は、家以外に考えられなかった。


 あかりの速度でゆっくり歩いていると、車道の先に黒い高級車が止まった。


 最初は気にも留めなかったが、黒いスーツの男がふたり降りてきて、俺たちの前に立ちはだかる。


 ……やばい。

 これは、もしかしたら警察よりやばいのかもしれない。


「『水姫様』をお迎えにあがりました」


 ふたりの男達が言い終える前に、俺は全身で体当たりした。


 やばい、やばい!


 あかりを抱きかかえ、いま来た道を走り出す。

 どうすればいいんだ! この人混みの中、男達ふたりから逃げ切れるのか?


 歩道の前を、女子高生の集団が歩いてくる。避けられない。

「すいません! 通してください! すいません!」

 大声で叫ぶと、女子高生の集団は、ぱっくり真ん中から分かれ、道を開けてくれた。ありがたい。


 走り抜けようとするところ、腕を強い力でひきとめられる。

 ショートカットの女子高生が、かがんで俺をひっぱっていた。

「追われてるんでしょ? こっち!」

 腕をひかれるまま、脇道へはいる。後ろでは女子高生たちが男ふたりに絡んで、通せんぼしていた。あれだけの女子高生に囲まれて、どうにかできる男はいない。「ちょっとオジサンどこ触ってんの!」「まじキモーイ!」……女子高生、最強説。


 脇道の脇道を抜け、もうどう帰っていいのか判らない。


 俺はあかりをおろして、肩で息をした。女子高生は、女の子の身で俺を先導してくれたのだから、かくやと思いきや、ぜんぜん余裕の表情だ。


「おじさんがタックルしてるの見ちゃった。お嬢ちゃん庇ってたから、助けないと、と思って。お役にたてた?」

「……ありが、とう……」

 息があがって、うまくしゃべれない。

 それより『おじさん』呼ばわりが気になった。俺、まだ三十だが。


          ■


「わたし、田中莉央。土地勘あってよかった。助けてくれた友達から、ラインきてるよ。男達、黒い車に乗って行っちゃったって。ここ車道に面してないから安全じゃないかな」


「頭いいんだな。本当に助かったよ。俺は須藤朗良。この子はあかり」

「あかりちゃん、よろしく。飴ちゃんお食べ。お姉ちゃんオヤツいっぱい持ってるんだ」

 莉央ちゃんはあかりの隣に座り、飴玉を握らせた。


 人懐こい莉央ちゃんにひっぱられているのか、あかりはずいぶん莉央ちゃんに心開いているようだった。隣どうし座っている姿が、とてもリラックスしている。不思議だ。


 表情豊かではないあかりだが、俺にはだんだん気持ちが読み取れるようになってきていた。


 あかりは飴の包みをすぐ開けようとしている。俺は、その飴をつまみあげると、包装紙をあけてやる。落としたら、あんまりだ。むきだしの飴玉をあかりの口の中に直接ほうり込む。


「お母さんみたい」

 莉央ちゃんが、からかうように呟いた。


 ビル街の路地裏。

 夕日が届かず薄暗いが、隣のビルのネオンが足元を照らしてくれていた。飲み屋の裏口が並んでおり、人影はまったくない。比較的きれいに見えるビルのステップに、三人並んで腰かけていた。


「……実は、昨日パパになったんだ」

「……それ、冗談?」

 莉央ちゃんは、俺達に事情があるのを感じとっていたようだった。


 迷惑をかけてしまうかもしれないという罪悪感もあったが、何より今の俺とあかりには誰かの助けが必要だ。莉央ちゃんが頼りになるのは、もう知っている。


 俺はなるべく知っていることを取りこぼさないよう、昨日からの出来事を莉央ちゃんに話した。黒服の男達に追われる事になった所まで。


「んー、オカルトの話はよく判らないから、専門家に聞くしかないと思う。今の私達じゃ、どうしたって知識不足だよ」


 莉央ちゃんはとても歳下とは思えなかった。この時には俺の中で、歳の上下関係は皆無だったし、莉央ちゃんが荒唐無稽な俺の話を全面的に信じていてくれていたのが、何より嬉しかった。

「あと、今の話きいて思ったのは、『はたして黒服の男たちは、敵かどうか』だよ?」


 意外だった。


「おじさんが逃げたから追いかけて来た可能性もあるよね? 『みずき様』を迎えに来たって言ってたんなら、敵かもしれないし、味方かもしれない。あかりちゃんの大事にしている石が『みずき様』なら、もともとは向こうの持ち物だった可能性すらあるよね。そういうニュアンスに聞こえない?」


 ……たしかに。

 黒服の男達に威圧感を感じて、逃げ出した。いま判っているのはそれだけだ。相手の情報を聞きだせなかった事が、今更ながら悔やまれた。


「警察に追われているかは確認できないし、いま一番の問題は、『今晩の宿』だよ」

「……たしかに。俺一人なら野宿も考えられるけど……」

 莉央ちゃんと俺は、あかりを見る。五歳の女の子に、そんな事させられるか?


「……んー。ちょっと待ってて!」

 莉央ちゃんはスマホを取り出し、どこぞに電話をかけ始めた。

「もしもし、アヤちゃん? ちょっとお願いがあるんだけど……」


          ■


「お待たせ~」

 路地裏から現れた莉央ちゃんは、Tシャツとジーンズ姿だった。

「制服どうしたの?」

「友達に持って帰ってもらったの。おじさんはこれに着替えて。友達のお兄ちゃんの」


 大きめの半袖のパーカーだった。確かに、今までのTシャツを着替えるだけで、だいぶ追手からは逃げやすくなる。


 莉央ちゃんが俺のTシャツを小さくたたんで紙袋に入れながら、あかりに向かって言った。

「あかりちゃんの服は、今から買いに行こ。子供服専門店なら、安く買えるんだって。時間との勝負だから。行くよ、おじさん」


 あかりの手をひいて、さっさと歩きだす莉央ちゃん。

 ……つくづく頼りになる味方ができた幸運に感謝しながら、俺はあとを追った。


          ■


「あかりちゃん、どっちが好き?」

 子供服専門店で、莉央ちゃんがあかりのワンピースを選び、二択にして選ばせる。

 あかりはグリーンの小さな花柄を指差した。エリもついて、ふんわりしたシルエットなのに、俺のTシャツより安い。


 他に、寝巻き用に使うロングTシャツと下着を買って、足早に店を出た。


「おじさん、財布みせて」

 俺はジーンズのポケットから出した財布を莉央ちゃんに渡す。全幅の信頼をおいていた。


 莉央ちゃんは財布の中の札を数えて、俺に返す。

「……思ったより軍資金は、あるね」

 朝方、銀行のATMに行って金をおろしていたのが良かった。今月の生活資金を計算している余裕は、今はない。


 時間は十八時をまわっていた。


「正面突破、ビジネスホテルに泊まろう」

 俺は少し予想していた台詞だった。

「……莉央ちゃん、そこまでは甘えられないよ」


 目撃されている俺とあかりの情報に、莉央ちゃんは含まれていない。つまり、三人でいる限り、ただの親子連れに見えるのだ。そして、動き回る時間が遅くなればなる程、子供を連れた姿は目立ってくる。莉央ちゃんが急いでいた理由は、ここだろう。


「……うちね、両親の仲が、よくないの……」

 莉央ちゃんはあかりの手をつなぎながら歩いていた。あかりは紫の石をかかえているから、片手しかつなげない。莉央ちゃんの方が、よっぽど母親に見える。


「……普段から友達の家を渡り歩いて……家に帰るのが、嫌なの。親も、そんな私を見ないふり、してる。家族はバラバラだし、お互いもう何の期待もしていない。……でも、今こうしてるのは、それだけじゃないよ!」

 莉央ちゃんは俺を見る。

「……おじさんと、あかりちゃんの、役に立ちたいんだよ! 親子の絆を守りたい。それがあたしの『やりたい事』なの……!」

 泣いているかと思った。

「……出逢ったのが、あたしで良かったと、思わせて……」


 ……俺が何も言えないでいると、莉央ちゃんは判りやすく元気にあかりに話しかけた。

「夕飯はなに食べよっか~。あかりちゃんは何たべたい?」

 ……ずるいな。


 彼女に甘えるしか、方法はないのだろうか。困った気持ちのまま、歩いた。


          ■


 コンビニでカレーを二人前かってきて、ホテルの部屋の中で、三人でたいらげる。いつも食べてるカレーも、大勢で食べると御馳走だった。トレーを片づけたあとも、まだ部屋に香りが残っている。


 あかりは例によって例のごとく、水のはいったコップに石を入れていた。この行動には、何か、意味があるんだろうか。


「おじさん、スマホの充電、大丈夫?」

 ハッとする。見ると電池は半分程へっていた。家に帰れない今、スマホは命綱だった。

「あたし充電器、持ち歩いてるんだ。使って」

「……何から何まで……」

 ほんと、頭があがらない。


 俺が充電器をセッティングしていると、莉央ちゃんはコンビニの袋を覗いていた。

「これ、おじさんが買ったの?」

 見てみると、あかり用に買った髪ゴムだった。

「……莉央ちゃん、あかりの髪ゆわえようと思うんだけど、教えてくれる?」


 莉央ちゃんは急に立ち上がり、洗面所に向かった。コームを取りに行っていた。

「あたし、髪結うの、好きなんだよね!」

 目がイキイキしている。


 ……色んな人がいるんだなあ。


          ■


 気がつくと、朝だった。


 昨日は朝からあかりを抱いて走りまわったせいで、寝落ちをしたらしい。昨日より体が重い気がする。筋肉痛が翌日くるって、そんな歳なんだろうか……。かけっぱなしだった眼鏡は耳からはずれていて、かけなおすと部屋の様子がやっと見えるようになった。


 隣のベッドでは、莉央ちゃんがあかりの腕枕をして眠っている。

 あかりが寝巻き用のロングTシャツを着ているって事は、お風呂にもいれてもらったのだろう。……本当にありがたい。


 体をおこすと、俺の体にはタオルケットがかけられていた。


 ふたりが寝ている間にシャワーを浴びる。

 何もしないでいると不安が頭をもたげるので、必死に体を洗った。


 あかりを守りたい気持ち。

 莉央ちゃんを巻き込みたくない気持ち。


 いつまでこんな日が続くのだろうか……。


          ■


 シャワーからあがると、莉央ちゃんとあかりは目を覚ましていた。

「おじさん、おはよう。朝ごはんの準備できた~」

「ごめん。起こしちゃったかな」

「ううん。今日はやること一杯あるから、早起きできてラッキー」


 コンビニのおむすび、カップのみそ汁。惣菜の唐揚げをひとつずつ。

「お野菜あればよかったね」

「上等だよ」

 三人で手をあわせて、食べはじめる。

 みそ汁の湯気があるだけで、朝イチの食事に相応しく感じる。

 

「今日は情報収集の日にしたいんだよね」

 莉央ちゃんがおむすびを頬張りながら言う。


 俺とあかりだけだと何も話さないから、莉央ちゃんの賑やかさはそれだけで楽しい。


「おじさんは何か予定してた?」

「いや、特に計画もなく……昨日、莉央ちゃんに会う前に、ケータイで相談できる人がいないか検索かけたんだ」

「ほお! それは興味深い! どうだった?」

「んー……今までオカルトに真剣に向き合ったことが無かったから……正直どこも胡散臭く感じて、連絡できなかった……」

「そっかあ。でもさ、今一番必要なのは、オカルトの知識だと思うんだよね。どうやって信頼できる情報を拾うか、が今日のテーマね。なんて検索かけた?」

「『オカルト・相談』で」

「……自分のこと『オカルト』って言うかな。……『霊媒師』とか?」

「なるほど」

「力になってくれる人に出逢えるといいんだけど」


 俺は口にださなかったが、莉央ちゃん以上に力になってくれる人に出逢うのは、確率的に不可能な気がしていた。


          ■


 食事を終えると、莉央ちゃんはホテル備え付けのテレビをつけた。ニュースを片っ端からチェックする。

「警察の動きが、何か判るかも」


 ……どのチャンネルも、大きな病院の火災を報じていた。夜中に発生して、未だ消し止められていない。昨日、電車の脱線事故と、飛行機事故があった。


 ……死者の数を考えて、まさか、という気持ちが芽生える。


 ……俺の視線は、朝日に輝く紫の石に移っていた。あかりがコップに水をいれて、窓際に置いていた。


 まさか。


「おじさん?」

 莉央ちゃんに声をかけられ、我に返る。

 全身、変な汗をかいていた。


「他のニュースやってないから、テレビつけっぱでスマホ使おう」

「う、うん」


 ……ただの想像だ。口にすると恐ろしい事がおこりそうで、俺はその想像の話を、莉央ちゃんにする事が出来なかった。


          ■


 『霊媒師・相談』と検索すると、人名が並んで出てきた。昨日より信頼できそうな情報だった。ベッドの上で三人座って、真ん中にケータイを置く。


「ねえ、おじさん。電話相談が主流っぽいよ。何件かかけてみて、比べてみよう。この気軽さが、商売なのねえ」

「じゃあ、電話相談のあと、直接あいに行ける人がいいな。……この岸田って人、どうだろう」

「うん。スピーカーホンにして。こちらの情報は最小限。『みずき』について相談。何か知っていそうだったら、直接あう約束。そんな感じで」

 俺は頷いて、コールを鳴らす。緊張する。


『はい。岸田でございます』

「もしもし。ご相談したい事があり、お電話しました」

『どのような事でしょうか。順不同でかまいませんので、思いついた事からお話し下さい』

 落ちついた感じの、話しやすい男性だった。

「身近に三件の怪異がありました。どれも生死に関わる件です」

『それはどのような?』

「……何というか……水気のない所で、急に人が溺れるんです。喉に水が直接わいたかのような……」

『……それは重い霊障のようです。御心配でしょう。一度、事務所においで下さい。今どちらにおいでですか?』

 莉央ちゃんが顔の前でばってんを作る。現在地を知らせちゃいけない。

「……匿名で、ご相談させて頂きたいのですが……」

『……判りました。では御連絡先を』

 ぷつん、と電話がきれる。莉央ちゃんが通話を切っていた。

「……ヘンだよ」

 泣きそうな顔だ。

「電話相談だもん。相手は日本全国、どこにいるか判らないはずだよね? 尋ねるなら、『どちらにお住まいですか』だよね? 『今どちらにおいでですか?』って、まるで、こっちが出先なの、判ってるみたいじゃない?」

……言われてみれば、少しおかしな言い回しだったかもしれないが、そんなに神経質にならなくても……。


 俺がそう言いかけた時、ケータイが鳴った。知らない番号。……リダイヤルだ!


 あの話の流れでコレは只事ではないと、さすがに俺も思った。


 莉央ちゃんが俺からスマホを取りあげて、電源を切る。


 ……状況がよくなった気がしない。俺達は顔をみあわせる。チェックアウトの時間が迫っていた。


          ■


 莉央ちゃんが自分のスマホを持ってきた。

「……『みずき』の正体も判らないけど、私達を追いかけてるのが何者なのか、そっちの方が重要かも。おじさんとしては、この件を、どう決着つけたい?」


「……死人が出なくなるのは、もちろん重要だけど……正直言うと、家に帰って、あかりと日常生活を送りたい。それが一番の望みだ」

「……だよね。んー、情報の漁りかたを変えるか。今のところ、一番怪しい黒服の男達の正体に、焦点をあてる? 『みずき様』と繋がっているのは間違いないし、相手が何者か判らないと、突破口が見えないよね」

「……でも、もしもさっきの霊媒師みたいに、黒服の男達と繋がっていたら? スマホでランダムに選んだつもりだったのに……」

「『みずき様』発言の事を考えても、黒服の男達はオカルト関係じゃない? 違う角度から、もう一件、どこかに相談してみようよ」

「違う角度から?」

「そう。オカルト抜きで」


          ■


 莉央ちゃんはスマホで「トラブル・相談」と検索をかけると、中に探偵事務所の名前が混ざって出てきた。凄い速さでレビューをチェックしている。

「……大手の事務所はあえて避けて、『誠実だった』ってコメントを信じてみよう。ここ。事務所の名前も載ってないけど、成果をあげるまで相談無料だって」

 スマホをスピーカーホンにして、祈るような気持ちで通話ボタンを押す。


『はい。立川探偵事務所でございます』

 事務的な女性の声だった。どこか冷たく感じる。

「……ご相談したい事があってお電話しました」

『ご相談は無料になっております。どうぞ』

「……説明が難しいのですが、男達に追われていまして……その、誰に追われているのか、調査をお願いしたいのですが……」

『……もっと詳しく説明お願い致します。どういう状況で『追われている』と感じましたか?』

 俺は『みずき』の話をせずに、昨日の黒服の男達の事と、さっき別の所に電話した時、様子がおかしかった事を、たどたどしく説明した。


『……お話はだいたい判りました。こちらとしては雲をつかむような話です。現実的に考えて、ご相談者さまを護衛する形で、黒服の男達と接触するのが一番かと思います。調査費などは情報と交換と考えて頂ければ早いですが、護衛となると費用は人件費としてかかります。いかがなさいますか?』


 俺としては、誰でもいいから助けてほしかった。だが、莉央ちゃんが顔の前でバツを作る。

「……いえ。他をあたってみようと思います。ありがとうございました……」

『またのご利用、お待ちしております』


 俺が、何で今の所じゃ駄目なのか尋ねる前に、莉央ちゃんが喰い気味で叫ぶ。


「今のところ、も一回電話して! 電話切るのをごねないって事は、私達の事おっかけてない証拠だよ!」

 俺は慌てて、リダイヤルした。


          ■


 俺達は探偵事務所の前に来ていた。


 古いビルの一角、事務所はガラス張りで、中が透けて見える。五人くらいの所員が、忙しそうに働いている。暇そうな人がいないので、しばらく三人で立ち尽くしていた。


「すいません。先ほど電話した者なんですが……」

「あ、どうぞ。お入りください」


 応接間に通されソファーにかけて待っていると、パンツスーツの女性があらわれた。いかにも仕事ができそうな、どこか冷たそうな印象のある人だった。


 名刺を見ると、「白川ゆり」さんというらしい。

 俺達は『みずき』の話を、このタイミングで話そうと決めてきていた。


 白川さんは話を聞くと、「しばらくお待ちください」と言って、パーテーションの奥に消えていった。


 俺達を待たせて、他の仕事をしてるんじゃないかというくらい待たされて、白川さんが戻ってくる。机の前に、一枚の名刺を差し出した。


『一条忍』とある。


「……以前、超常現象のケースでお世話になった霊媒師です。私は直接おあいして一緒に仕事をしたのですが、力があり、信頼のおける人物です。私共より、お力になれると思います」


 俺と莉央ちゃんは、顔をみあわせた。一番辿りつきたかった人物かもしれなかった。


「ありがとうございます。今からお会いしてきます!」

「……ご相談は無料になっております」

 白川さんは冷たい顔のまま、去っていった。


          ■


 名刺を頼りにやってきたビルは、先程の探偵事務所より、また更に古く、ひと気を感じない。他の事務所の前を通っても、はたして使われているのか怪しい有様だった。


 ドアには『一条』と、まるで一般住宅のようなネームプレートがあるのみで、帰っていいという選択肢があるなら、悩んでしまう程だ。


 本当に、ここでいいのだろうか。


 俺がまごついていると、莉央ちゃんがしびれをきらし、かなり乱暴にドアをノックした。


「すみません! お話がございます!」

「どうぞ」

 ……中から声がしたので、ドアを開ける。


 部屋の中は思った程さびれた感じはなかったが、そんな事はどうでもいいくらいには衝撃的だった。


 事務所の真ん中に、修験者の恰好をした、中年……いや、熟年女性が仁王立ちしていた。手には錫杖が握られている。


 俺は思わず、あかりと莉央ちゃんをかばうように立ちすくむ。逃げた方がいいのか?


「一条忍、加勢いたします!」


 大声にビビる俺の脇をぬけて、あかりが部屋に入ってゆく。

「あかり!」

 俺は追いかけたが、意味はなかった。


 一条と名のった修験者は、立膝になって、目線をあかりに合わせ、話しかける。

「……お父様達を必死にお守りになって、ご立派でしたね。ここからは、私もご一緒いたします」


 そう言った一条さんの顔は、ご近所のおばさまといった、優しい表情だった。


          ■


「お話は白川さんから電話で伺っております」

 一条さんは、ソファに座った俺達に、丁寧にお茶を煎れながら話した。


「……まず言わなければならないのは、あかりちゃんの事です。この子の『力』、『霊能力』と言っていいですが……非常に強い『力』を持っています。そして、その力の使い方を、生まれながらに知っている。まさに、天才と言っていいでしょう」

 あかりの頭を、愛おしそうに撫でる。


「……その呪われた石の、ドロドロした巨大な狂気を、実に上手に抑え込んでいる」


 ……俺はどこか遠くの話を聞いているような、焦点の合わない気持ちで聞いていた。


「その石は、水の姫と書いて『水姫』と言います。とある貧しい農村が産み落としてしまった『あらがみ様』です」

「『あらがみ』……とは?」

「人の手に負えなくなった怨霊を、神と祀って鎮めているのです。もともと水姫は『霊命道』という宗教団体の御神体でしたが、どこをどうして世に放たれたものか……昨夜から日本中で厄災が続いておりますが、水姫と無関係ではないでしょう。あかりちゃんがいなければ、どうなっていた事か……」


 俺は思いきって、聞いてみた。

「……身近な人が、亡くなっているのですが……」


「おそらく、あかりちゃんが動揺した瞬間、水姫を抑えきることが出来なかったのでしょうね。国を揺るがす程の力を、こんなに小さな女の子が独りで抑え込んできたのです。あかりちゃんはこれからも、この、大きな力の重圧に耐えてゆかねばなりません。……微力ながら、私もお力添えしたいと考えております」

「……それは在り難いお話なのですが……まだ、話がよく呑み込めてなくて……水姫は、元あった処に戻せばいいという事なんですか?」

「そこなんです」


 一条さんは顔を近づけて、声をひそめて続けた。


「近頃、霊命道には良い噂を聞きません。元々、国家を裏から支えてきた歴史ある団体です。力をつけ過ぎ、野心を持ったのではないかと……。水姫の流出も、その辺りの事情があるやもしれません。水姫を返すだけで話が済めばいいのですが、そうはいきますまい。……いま、一番心配なのは、あかりちゃんの存在です」


 一条さんは、あかりを気の毒そうに見つめた。

「この子の力は大き過ぎる。霊命道が見逃してくれるとは、とても思えません。そして、私の見立てが間違いなければ……今のあかりちゃんの魂は、水姫と混じり合って……」


 そこまで言って、一条さんは急に立ちあがると、デスクの奥の窓を全開にした。


「追手です! 霊命道でしょう! 逃げます! こちらへ!」


 言い終らないうちに、事務所のドアがぶち破られて、黒服の男達が入ってくる。


 錫杖を床に打ち鳴らし、ジャランと激しい音がする。

「一条忍、参る!」


 飛びかかった一条さんは、一振りで三人の男を薙ぎ払い、叫ぶ。

「窓から逃げて! その『ひさし』は鉄板で補強されています!」


 ひさしとは、窓の上にかかった細い屋根の事だ。


 あかりを抱いて窓の下を覗くと、降りることができる位置にひさしがある。構造的に、下の階のひさしは、本来もっと下にあっていい。逃走用に設計されたものに違いなかった。


「莉央ちゃん!」

「はい!」

 迷いなく、あかりを預けると、俺はひとりで窓枠をくぐってひさしへ降りる。足元は思った以上にしっかりしている。


 次はあかりの番だ。莉央ちゃんがゆっくりあかりを窓から差しだしてくる。慎重に外の俺が受け止めると、今度は莉央ちゃん自身がひさしに足をおろす。


 一条さんは事務所の中で、男達と戦っていた。凄い。まるで少林寺拳法のようにくるくる回りながら男達を蹴りとばしてゆく。あの衣装は伊達じゃないんだ。


 俺は叫ぶ。

「一条さん!」

「はい!」

 それを合図に、撤退をはじめる。多勢に無勢だ。俺はあかりを抱いて、ひさしを駆けだした。莉央ちゃんも、後ろからついてくる。目で確認はできないが一条さんも、しんがりを勤めてくれているはずだった。


 ひさしは少しずつ低くなりながら、隣のビルの非常階段に繋がっていた。


 道路に出ると、どっちに向かっていいか判らず、立ち往生する。そんな俺のそでを、莉央ちゃんが引っぱる。

「おじさん、こっち! 車道から離れなきゃ!」


 しかし、いつも細い路地を選べばいいという訳ではないという事が判る。その道は袋小路になっていた。ひきかえせない。俺はあかりを莉央ちゃんに預け、塀によじ登る道を探した。あかりを連れて、登れる所を。


 その時、パシュっと、缶ビールを開けた時のような音がした。

 何がおきたか判らなかったが、俺は自分の体が道端に横たわっている事に気がついた。


「おじさん!」

 莉央ちゃんの悲鳴。


 肩に凄まじい痛みがはしる。……銃で、撃たれたのか。銃まで、持っているのか。

 テレビなんかで聴くデカイ銃声がしなかったのは、サイレンサーという奴か。


 銃に対する恐怖は、更なる恐怖で塗りかえられた。


 ごぽぽ。

 水の溢れる音。


 見ると、苦しんでいるのは莉央ちゃんだった!

 口から水があふれ、空気を求めて手が彷徨う。


「あかり!」

 俺は必死で、苦しんでいる莉央ちゃんの傍らに立ち尽くすあかりを抱きしめた。

「あかり! パパは大丈夫だから! 水姫を鎮めろ!」

 あかりは放心状態で水姫を抱きしめている。

「あかり! 集中するんだ! 水姫を鎮めるんだ!」


 ……莉央ちゃんが苦しげに咳き込んでいるのを聞いて、俺は間に合った事を知った。ヒューヒューと音をたてて息をしている。


 あかりは震えていた。目を大きく開いて、肩で息をしている。

「……大丈夫だ、あかり! 莉央ちゃんも大丈夫だ! ……よく、頑張ったな」

 力一杯あかりを抱きしめる。


「……須藤さん」

 一条さんは戦うことをやめていた。

 俺は肩を撃たれ、莉央ちゃんは溺れかけ、あかりも平常心を保つのは難しい……この状態で、銃を持った相手への抵抗はどう考えても無駄だった。


 気づけば黒服の男達に囲まれていた。


          ■


 男達に連行された俺たちは、黒塗りの高級車に詰め込まれる。一条さんは別の車に乗せられた。動けるのは彼女だけだから、危険と判断されたのか。


 走り出した車が、ガクンとつんのめるように止まった。エンストだ。


 見るとボンネットから白い煙が勢いよく立ち昇っている。運転していた男が車を降りて、様子を見に行く。慌てて戻ってくると、助手席の男に「エンジンが水浸しだ!」と報告していた。こわごわ俺達を見ている。


 ……あかりの様子を見ると、口をひきむすんで踏ん張っている。水姫をコントロールしきれていないのか。黒服の男達が溺れている様子はない。俺はあかりの手を握る。


 あかりを挟んで、莉央ちゃんが座っていたが、俺は莉央ちゃんの手も引き寄せて、あかりの膝の上にのせた。莉央ちゃんはたった今、溺れ死にそうなめにあったばかりだ。わだかまりが出来ない事を、ふたりの手を握りながら祈った。


「降りろ」

 男達にうながされて車を降りる。銃口は俺にだけ向けられていた。莉央ちゃんやあかりに向いていないだけ、ずいぶんマシな扱いだと思った。


 エンストした車を乗り捨て、ビル街を歩かされる。肩が痛む。

 地下の廊下を歩いたかと思えば、大きなビルのエレベーターに乗せられる。


 ビルの屋上にはヘリポートがあり、遠くからバリバリと轟音をたててヘリがやってくる。俺らが相手にしている『霊命道』という組織の大きさを思い知る。


 遠くからやってきたヘリの模様に見えたものが、お札などに使われる梵字に覆われているのだという事が判る。水姫の影響を受けないための対策のようだった。


 一条さんも合流し、俺達はヘリに乗り込んだ。


          ■


 ヘリの窓からは大きな富士山が見え、広い広い緑の絨毯が続いていた。樹海という奴だろう。

 長時間ヘリに乗って、時間の感覚が判らなくなっていたが、陽はかなり落ちてきていて、美しい景色が俺には逆によそよそしく感じた。


 ヘリが降りたった場所には、大きな朱塗りの建物がいくつもあり、俺達は中心に位置する一番大きな建物に連れてゆかれた。足元は白い石が敷き詰められていて、手が行き届いているのが素人目にも判る。


「……霊命道、総本山になります。私達が入れるのは、ここまでです。奥にお進み下さい」

 黒服の男達が、俺達に話しかけてきて、そこで別れる事になった。


 ……銃口は無くなったが、広い屋敷のどこにも逃げ場がないことは判っている。霊命道との圧倒的な力バランスは、黒服の男達がいるかどうかは、もはや関係なくなっていた。


 俺はあかりの手をひいて、莉央ちゃんと一条さんも一緒に、長い板張りの廊下を歩く。ふすまが全開になっている部屋に入るが、腰かけるものなどなく、ただひらけた空間の中、所在無く立ち尽くして、何かが来るのを待った。


 ……長い待ち時間、否が応にも肩の痛みに意識が集中する。見るとパーカーの肩口から出血していた。借り物の服なのに……と、ひどく場違いな感想が浮かぶ。体が重い。


 遠くから、シャンシャン……とたくさんの鈴が鳴り響くのが聞こえる。ゆっくりこちらへ近づいて来る。


 俺達が入ってきたのとは反対のふすまがスルスル音もなく開き、大勢のお坊さんを引き連れた巫女さんが入ってきた。


 ただひとり、女性だったという事もあるし、他が白黒の衣装の中、真っ赤な袴を身につけ、髪には煌びやかな装飾品をまとい、巫女さんが特別な身分だと判る。歳の頃は莉央ちゃんと変わらないだろうに、袴と同じ真っ赤な口紅が、毒々しく感じる。


 大勢のお坊さんを背後にはべらせ、俺達の正面にその女性はやってきた。鈴の音が止む。

 静けさの中、巫女さんは話し始める。


「……長い道中、ご苦労様でした。『水姫様』をお連れ頂き、感謝しております……」


 俺は腹立たしさを感じながら、返事をする。銃をつきつけておきながら、言うに事欠いて「感謝」って。


「来たくて来たんじゃない。『水姫』は返すから、俺達を家に帰してくれ」


 何とかして、こんなこと早く終わらせて欲しかった。


「……もちろん、こちらの用事が済めば、戻って頂きます」

「用事?」

 今の俺達に、何が出来ると思ってるんだ?


「……そう敵意をあらわにされませんでも……まずは私共『霊命道』の教えを、簡単に御説明いたしましょう」


 巫女さんはまるで俺たちなど見えていないように、唄うように話しだした。


          ■


 この宇宙が、どんな膨大なエネルギーで動いているか、考えたことはありますか?


 太陽が、それこそ星の数程あるのです。核燃料が燃え続けるように、太陽は、それはそれは膨大なエネルギーを使って、そこにある。


 その片隅、地球という星で我々は生かされている。プランクトンのような目にするのも難しいような微小な生き物から、鯨のような巨大な生き物まで、『魂』というエネルギーで動いている。


 『魂』は太陽エネルギーのような膨大な量こそありませんが、いわば濃縮されたエッセンスの様なものです。純粋で、濃い。


 仏教には『輪廻』という考えがあります。魂は死んで、また生まれ変わって生を得る。


 霊命道でも同じです。ただ、そこには理由がある。肉体を持ち、様々な経験を経ることで、『魂』が磨かれるのです。どんどん純粋なエネルギーを精製するための、『輪廻』はシステムなのです。


 その純粋な生命エネルギー『魂』は、宇宙エネルギーの一部となり、世界を回してゆく。


 では。


 ――精製する段階で、混ぜてはならない不純物は、どうなると思いますか?


 悪霊、怨霊。……そういった負のエネルギーは、『輪廻』システムに戻してはならないのです。


 負のエネルギーの整理をおこない、純粋な『魂』エネルギーの精製をする事こそが、我々の御神体、『水姫様』の偉大なる役割なのです……!


          ■


 一条さんが、冷めたような質問を投げかける。

「……その、ご自慢の『水姫様』は、いったいどうやって作られたんだい?」

 そうだ。一条さんの事務所で、確か貧しい農村で産みだされた、とか言ってなかったか?

 ……『あらがみ様』だと言っていた。


 それまで気持ちよく話していた巫女さんの表情がはなじろむ。

「……興味がおありなら、お話いたしましょう。人柱の少女が、六人いりました」


 ……『いりました』って……言葉はマイルドだが、『人柱』の意味からいって、殺されたって事だよな?


 その場の緊張を楽しむように、巫女さんは話し続けた。

「……体を固定した状態の眉間に、しずくが落ちるように調整するのです。……雨垂れ、石をも穿つと申しましょう。一滴では何も感じない水滴でも、同じ個所に当たり続ければどんな痛みをもたらすか……想像できますか」


 俺は水姫に触れたとき聞いた水滴がしたたる音を思い出し、背筋が凍る。


「……大陸から渡った技術です。痛みによって気が触れた『魂』が怨霊となる。霊感の強い少女が、六人そうして犠牲になりました。……その尊い犠牲の上に、私達の世界は成りたっている。……ときに、『七人ミサキ』という怨霊を御存知ですか?」


 ……急に話題が変わり、追いつけない俺に、一条さんが鋭く叫ぶ。


「『七人ミサキ』……若者の霊が七人犠牲になると、強い怨霊が生まれるという話です! 須藤さん、あかりちゃんを守って! ……ちっ、時間かせぎか!」


 俺は何が起こっているか判らなかった。急に四方八方から読経が聞こえてきた。十人、二十人の声じゃない……! 部屋を囲まれている!


「あかりちゃん!」

 莉央ちゃんの声に振り返ると、あかりが崩れ落ちるところだった。苦しそうに体をくの字にして床に横たわる。酷い汗だ。


「……たいへん栄誉な事ですよ。あかり殿には、『水姫様』の一部となって頂く。今まで何人試しても、『水姫様』は新しく加えたい魂を喰ってしまわれた。力の強い少女が、七人揃うことで、『水姫様』の呪術は、完成するのです!……そう、今度こそ!」


 俺は苦しむあかりから視線を巫女に移す。どうしても我慢ならなかった。

「……そんな事、許す親はいない!」

「『水姫様』がここにあるのは何故だと思う!」


 巫女の後ろに控えた男達が悲鳴をあげる。

 ……喉をかきむしり、苦しそうに喘ぐと、口から勢いよく血反吐を吐いた。


「御前様! 御下がりください!」

 巫女が男達に守られるように囲まれる。

「……ちっ、血液も『水』の眷属という事か……」

 次々と男達が血を吹き出す。……目から、鼻から……。地獄絵図だ。


「……パパ、はなれないで……」

「あかり!」

 か細い声に、引き戻される。俺はあかりを抱きおこす。あかりは『水姫』を抱きしめていた。


 部屋の四方のふすまが開いて、坊さん達がなだれ込む。


「『水姫様』を奪うのじゃ! あかりの意識が力をコントロールしておる!」

 御前様と呼ばれた巫女の叫び声が聞こえる。


 一条さんは錫杖を奪われていた。武器がなくても強かったが、俺達の四方を守るのは無理がある。


 あかりがどこまで水姫をコントロール出来ているのか判らないが、俺達を捕らえようとしている男達が次々、血を吐いて倒れていく。


 一条さんが戦いに夢中になり、俺達と離れた途端、吐血した。


 しまった。あかりの守備範囲から漏れたのか。あかりはこんな状況の中、仲間を守ってくれていたという事に改めて気づく。


 血を吐いても戦いをやめない一条さんのために、俺はあかりを抱いて移動する。一条さんの近くにあかりを連れてゆけば、彼女はまだ助かるかもしれない。


 一条さんの動きが鈍くなったところを狙われた。


 鼻血を出した坊さんが、あかりを力づくで俺からむしりとる。一瞬の出来事だった。


「あかりを『水姫様』ごと、『むろ』へ投げ入れろ! 呪術は後から何とでもなる!」

 巫女は死者の数だけ、焦っているようだった。自分を守るための文言を唱えながら指示をだした。


 俺は三人の男に押さえつけられ、もがく。

「あかり!」


 鼻血の坊さんは、あかりを肩に担いで裸足のまま庭を走ってゆく。


 庭には太いしめ縄で囲まれた岩場があり、紙垂が何本も風になびいていた。神聖な場所なのか。あかりはそこに投げ入れられた。


 中は空洞になっているようで、あかりが投げ入れられて、ドボンと入水音がした! ……空洞の下は、水だ!


 『水姫』の力を封じた事で、男達の意識がそちらに向いて、隙ができる。俺は押さえこまれていた男達を振りきり、岩場に走った。


 しめ縄の中の岩場には、真っ暗な穴が開いている。迷わず穴へ飛び込んだ。

「あかりーっ!」


          ■


 水に飛び込んだ衝撃と共に、千本のナイフを突き立てられたような痛みが体を襲う。この冷たさは凶器だ。


 ……こんな中に、あかりが!


 飛び込んだ拍子にメガネがふっとび、それでなくとも暗い水の中で、あかりを必死に捜す。


 ……緑色に白い花柄が水面に浮かんでいた! あそこだ!


 冷たさで動かない体にムチうって、泳ぐ。


 浮いていたのは、あかりの背中だった。俺はあかりの顔を水面から出して、陸に上がれる場所を探す。一番ちかい場所を!


 水から体が出ると、今度は自分の体重がずっしり重く、思うように動かない。


 あかり!

 意識がない!

 水を飲んだのか?


 あかりを抱きしめると、みるみる体温が失われてゆく。恐怖で体が震える。


「……あかり! あかり!」


 落ちてきた穴からは夕陽が降り注ぐ。莉央ちゃんと一条さんはどうなった? 早く上に登らないと!


 …………?


 一瞬、時間の感覚がおかしくなる。


 穴に落ちたのは、日暮れだった。

 ……今は、夜中、なのか?

 無数の星が輝いている。


 いや、穴を見上げると、ちゃんと夕陽は差しこんでいる。


 じゃあ、あの星々は……。


 ……メガネを無くし、視力が落ちた俺には、星にしか見えなかった。


 静けさの中、神経を澄ますと、ぐちょぐちょと水気を含んだ内臓のようなモノが擦れあう音が聞こえる。


 満天の星空のように見えたモノ――それは無数の、目だった。


 さっき巫女が『魂』の不純物の話をしていたのを思い出す。水姫は悪霊、怨霊のたぐいを、『魂』のサイクルから別ける役割を持つと……。


 この洞窟は、悪霊、怨霊を閉じ込めるためにあるのか……?


 ゴンズイのように寄り集まった異形の者達は、俺とあかりに気づいて、少しずつ近づいてきている。


 ……駄目だ。あかりはまだ五歳だ。こんな終わり方をしちゃいけない。俺はいい。あかりは、あかりだけは……。


 意味なんかない。俺は心から、何かにすがった。

 喉が嗄れんばかりの、叫びだった。

「……誰か! 誰か、たすけてくれええっ!」


 ぴちょん……。


 水のしたたる音。

 長い余韻。


 あかりの手の中で、水姫が輝いていた。


 背後から、強い風が吹く。一陣の風が吹き抜けた、その時。……俺は、見た。


 白い少女たちが、手をつなぎ、悪霊、怨霊の塊に向かって走ってゆく。……六人、だった。


 眩しい輝きに包まれて、俺の意識は遠のいていった……。


          ■


 あの日、100円ショップで手に入れたロックのグラスに、氷水と水姫をいれ、朝日にかざす、あかり。こうすると、水姫が喜ぶのだそうだ。


 マンションの一室。簡単に造られた神棚に、あかりがロックのグラスを供える。

「パパ、手あわせるよ」

「おう」

 俺は食事を中断して、神棚に向かう。あかりとふたり、丁寧に手を合わせる。


 これが、あかりと俺の日課になっていた。


 あれから一年が経とうとしている。あかりは小学一年生になっていた。


 あの日、あかりと俺は、水姫に助けられた。


 一条さんの話では、『荒神』だった水姫が、あかりという強力な魂と混ざることによって、意志という方向性を得たのではないかという事だった。


 拷問を受け、人の手によって恨みを持たされた魂が、心から求めたモノ――父性――を、俺の中に見い出し、「守りたい」という気持ちがひとつになったのではないか、と。


 人柱など、やはり許せない。

 少しの犠牲なら、と諦めるには、人の命は重すぎる。


 存在してはならない力――水姫――が、今の世の中を支えている。それは、俺にとって呑み込めない『事実』だった。


 どうしても必要だというのなら、せめて『荒ぶる神』などではなく、心を鎮め、『守り神』になってはくれないだろうか。


 ……拷問を受け、世を恨む悲しさは、俺には計り知れない。そんな気持ちを鎮めるなんてことは、無理難題にも思える。


 だけど。


 あかりと俺を「守りたい」という気持ちも、『水姫』の中には、確かに、あったのだ。俺達が生きているのが、何よりもその証拠となった。


 あかりの魂が混じり合うことで、『水姫』が意志を持ったのだというのなら、それは『荒ぶる神』を鎮める足掛かりにはならないだろうか。


 あかりが水姫と深く結びついてしまった今、この可能性に賭ける他ない、というのが正直なところだ。


 俺は、『水姫』を鎮める方法を知るために、いま霊命道に身をおき勉強している。


 御前様とよばれる霊命道のトップは、あかりを水姫の七番目の人柱にすることを諦めてはいない。水姫を今よりも更に強い力を持たせ、霊命道の地位を上げようと目論んでいる。……今は、水姫をコントロールできるあかりを便利に使っているが、虎視眈々と、チャンスを狙っている。それを阻止するために、俺は人生を賭けようと決めた。霊命道に身を置くのも、外からあかりを守るより、中で情報を集めた方が有利だと考えたからだった。


「おじさん、味噌汁のこってるよ。ちゃっちゃと食べてくんないと、後片付けできないから」

 ……莉央ちゃんは高校を卒業して、うちで食事の世話をしてくれることになった。彼女は料理の腕前もなかなかのものだ。


 家に帰りたがらなかった莉央ちゃんがウチに住み込みたいと申しでた時、俺は恩返しをする時が来たと思った。御両親に挨拶をしに行き、了解を得て、今はここで働いてもらっている。


「あかりちゃん、お迎え来ましたよ~。体操服は私が持ちました!」

 ……一条さんも住み込みで、あかりの警護を担当してくれている。霊命道の件で、出血が多すぎ左目の光を失ってしまったが、戦闘能力に衰えは見えない。


 『あかりを守ることが、日本を守る事』だという一条さんからの申し出を、有難く受け取った。


「パパ、いってきます」

「……いってらっしゃい」


 玄関を開けるのは黒服の男達だ。命をかけて、あかりを守ってくれている。


 あかりは政府要人の通う国立の小学校に通っている。


 ……思っていたのとは、だいぶ違ってしまったが、俺はあかりとの生活を取り戻していた。俺には、それ以上の望みはなかった。


 独り暮らしをしていた時は、「香織と出逢ったことで、俺の人生は終わった」と本気で思っていた。でも、違った。

 あかりが、俺の人生の始まりだった。


 ……いつの日か荒神の『水姫』が、心安らかな『守り神』となってくれる事を夢みつつ、俺も、みんなも、今日という一歩を、歩きだす……。





                   2021.08.31          おしまい


最後までお読み頂き、ありがとうございました。

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