56th BASE
お読みいただきありがとうございます。
オリンピックの延期が決定しました。
寂しい気持ちもありますが、世界的な事情を考慮すればこの判断で良かったと思います。
信じればきっと、1年後に素晴らしい結果が訪れるでしょう。
それは突然の知らせだった。
「え? 京子はお休みなんですか?」
放課後、部室で着替えようとしていた私たちに杏玖さんが教えてくれたのだ。
「そうだよ。体調不良だって」
「体調不良……」
私はそれだけ言って口を半開きにして固まる。京子ちゃんがこうして部活を休むのは滅多に無い。小柄ではあるが体は強く、毎日のようにゲームやら何やらで夜更かししているにも関わらず全く体調を崩さない。練習嫌いとはいうものの決してさぼったりずる休みしたりすることはないので、仮病とかそういうわけでもないのだろう。
「終礼後すぐに私のところに来て、今日は休ませてくださいって言ってきたんだよ。顔も青ざめてて生気が無かった気がする。二人は知らされてなかったの?」
「ええ……。私たちも昼休み以降は会っていなかったので。大丈夫かな?」
紗愛蘭ちゃんは曇った顔で腕組みをする。私もひっそりと不安を募らせる。
「ここのところ試合でも練習でも思うようなプレーができてなかったみたいだし、精神的にもダメージがあるのかもね。ただ真裕も紗愛蘭も心配なのは分かるけど、二人とも練習には集中してね。ひとまず明日には回復することを祈ろう」
「は、はい。分かりました」
杏玖さんの言葉に、紗愛蘭ちゃんが慌てて返事をする。一方の私は黙って頷いた。私まで紗愛蘭ちゃんと同じように京子ちゃんを心配していると思われたくはなかったが、何の反応もしないわけにはいかない。それから私たちはそそくさとユニフォームを身に纏い、グラウンドへと駆けだした。
今日の練習はフリーバッティングから入った。私は一巡目で早々に打ち終えると、ブルペンで投球練習を行う。
「スライダー行きます」
私は外角低めに向けてスライダーを投じる。ところが上手く指から放せず叩きつけてしまい、投球はワンバウンドとなる。優築さんがプロテクターに当てて止めようとするも、ボールは横に大きく弾かれた。
「あ、すみません」
今日は全体的に思うような制球ができていない。私は帽子を脱いで謝りつつ返球を受け取ると、ふとグラウンドに目をやった。
「ショート」
「オーライ」
誰かの放った打球がショートの真正面に転がる。守っていた昴ちゃんは勢い良く前に出ると、走りながら捕球して素早くスローイングへと移る。今日も動きは軽快だ。
ブルペンから見える光景はいつもとさほど変わらない。ただ一つ違うとすれば、京子ちゃんがいないこと。いつもなら昴ちゃんがいる位置には彼女がいる。そうでないことがとても寂しく感じられた。
……いやいや、私は何を考えているのだ。椎葉君には一旦距離を置いてみても良いと言われたばかりだし、自分でもそれで納得したじゃないか。だから今日京子ちゃんが休んだのは好都合なはずだ。
だとしたらどうしてこんなにも胸がざわつくのだろうか。本能的に京子ちゃんのことが気になって仕方ないとでもいうのか。
「真裕、どうしたの?」
「へ? ああいえ、何でもありません。もう一回スライダー行きます」
優築さんの声で我に返り、私はピッチングを再開する。結局最後まで調子は上がらず、終始不快感ばかりが漂っていた。
全体練習が終わり、私はブルペンの整備に取り掛かろうとする。
「真裕先輩、手伝います」
そう言いながらこちらに近づいてきたのは春歌ちゃんだった。先ほど私が投げた直後に、彼女も同じ場所を使用していた。
「ああ、ありがとう」
私たちはてきぱきと作業を進める。私のことを嫌いと言っている春歌ちゃんだが、こういうところは非常に協力的に動いてくれる。だからこそ距離を縮めにくいというのもあるのだが、こういう部分を上手に活用して少しずつでも心を開いていきたい。
「そういえば今日は京子先輩いなかったですよね。聞くところに寄ると体調を壊したらしいですけど、学校も早退したんですか?」
軸足の位置に空いた穴に水を注ぎながら、春歌ちゃんがいきなり質問する。私は胸の内を悟られないよう、努めて気丈に振る舞う。
「分かんない。私も今日部室に来て初めて知らされたから」
「そうなんですか。長引くと夏大に響きますし、あんまり酷くないと良いですけど……。京子先輩がいなくなったらショートは誰がやるんでしょう」
春歌ちゃんは意味ありげに呟く。私から何か引き出したいのだろうかとも疑ってみるが、とりあえず率直な意見を述べる。
「いるじゃん、昴ちゃんが。今のままだったらどっちがレギュラーになってもおかしくないと思うよ。体調不良云々じゃなく、実力的にも」
「へえ、真裕先輩も言う時は言うんですね」
驚いたように口を丸くする春歌ちゃん。私は意に介さず、水の溜まった穴に土を埋めて固めていく。
「けど良いんですか? 京子先輩がその話を聞いたらきっと悲しみますよ」
「……そうかもね。でもそれくらいでへこたれてるようじゃ駄目でしょ」
いくら上手くいっていないとはいえ京子ちゃんは引きずり過ぎているし、そのせいで焦ってミスが重なってしまう悪循環に陥っている。だからどこかで吹っ切らなければならない。それができないのならレギュラーとしてやっていくのは厳しいと思う。
「言いたいことは分かりますけど……。まあ真裕先輩じゃ、京子先輩の視点には立てないですよね」
「え? どういうこと?」
「京子先輩みたいな人たちの気持ちは理解できないんだろうなってことです。もちろんそれが悪いとかじゃありません。どうしようもない部分もあるんだと思います。良く言えば真裕先輩には才能があるっていう証明でもあるんですから」
「何が言いたいの? 意味が分からないんだけど」
私は眉を顰めて春歌ちゃんを見る。春歌ちゃんは小刻みに首を横に振り、僅かに表情を和らげる。
「すみません、ちょっと嫌らしい言い方をしてしまいました。要するに京子先輩だって思うことがあるんだろうなってことです。とにかく早く戻ってきてくれると良いですね。さて、ブルペンの方はこんな感じで大丈夫でしょうし、道具は片付けておきます」
「あ、ありがとう……」
春歌ちゃんは私からトンボを貰い、置き場所であるバックネット裏に駆けていく。明らかに言葉を濁された。けれどもその真意を読み解くことはできず、私は首を傾げたまま暫く立ち尽くしていた。
See you next base……




