211th BASE
お読みいただきありがとうございます。
先日二回目のワクチン接種をしてきました。
打った直後は平気でしたが、夜になると体温が急上昇。
翌日は半日以上寝込んでいました。
それでも思ったよりは上がらなかったので、幸いでした。
これから接種する人は気を付けてくださいね。
私はですが、熱の上がり始めで解熱剤を飲んだのが良かったと思います。
「じゃあお言葉に甘えて。いただきます」
暁は紗愛蘭と同じ箸を使ってしらす丼を一口食べる。釜揚げしらすが柔らかに解れる食感とさっぱりとした醤油味が融合し、これまで味わったことのないような美味しさが口の中に広がっていく……のだが、堪能できるほど冷静ではない。
「どう? 美味しい?」
「は、はい。めっちゃ美味いです!」
感想を述べられるほど味わえてはいない。けれどもそう言えば紗愛蘭が嬉がってくれる。騙すような形になるのは気が引けるが、やはり紗愛蘭の笑う顔を見たいという欲求には勝てない。
「ほんと? こうやってシェアすると、二つの美味しさが味わえて良いよね!」
案の定、紗愛蘭は微笑ましく頬を緩めた。その刹那、暁の胸の奥は綿毛のようなものでふんわりと包まれ、とても温かな気分になる。
「……そうですね。最高ですよ。ほんとに来て良かったなあ」
好きな人と一緒にご飯を食べるだけで、こんなにも幸せを感じられるとは。オムライスが想像より美味しく思えたのも、紗愛蘭が目の前にいるからであろう。
「暁君もそう思ってて良かった。ささ、早く食べて他のところも見にいこう」
「はい。そうしましょう」
二人は再び食べる物を取り替え、残りを平らげようとする。暁が先ほどまでと同様にオムライスを食べ進めていく一方、紗愛蘭はふと食べる手を止め、右手に持っていた箸を見つめる。
(そういえば、私たちって同じ箸とスプーン使ったんだよね……)
紗愛蘭は途端に赤面し、目だけを動かして暁を見る。それから丼で自分の顔を隠しつつ、喉が詰まるのではないかと思える勢いでしらす丼を掻き込んだ。
午後からはイルカやスナメリの泳ぐ巨大水槽を見たり、アシカやペンギンなどと実際に触れ合ったりして回る。
「へえ、アシカの肌ってこんなにもすべすべなんだ。暁君も触ってみてよ」
「え? ……ああ、はい」
生き物を触ることに何の抵抗も無い紗愛蘭とは対照的に、暁は若干戸惑っている。こうした体験をしたことがなく、どうしても怖さが拭えない。
「大丈夫だよ。アシカも大人しくしてるし」
「そうですか。じゃあ……」
紗愛蘭に勧められ、暁は若干身震いしながらもアシカの背中に手を置く。そうしてゆっくりと上下に撫でて感触を確かめる。
「……あ、凄く柔らかい」
「でしょ。びっくりだよね?」
「はい。それにこうやって触られてるのに、ケロッとしてますね」
アシカは明後日の方向を向いたまま、何を考えているか分からないような表情で止まっている。そもそも人間ではないので表情の変化は読み取れないのだが、そこがまた愛くるしい。二人も存分に癒されたのだった。
楽しい時間はあっという間に過ぎるもの。館内を一通り巡回して土産屋まで見終わると、時刻は三時を回っていた。電車に乗る時間を考慮すれば、そろそろ帰らなければならない。
「いやあ、とっても楽しかった!」
「はい。俺も、楽しかったです……」
満足そうに水族館を出る紗愛蘭に対し、そのやや後ろを歩く暁は浮かない顔をしている。終わる寂しさを隠し切れない。
「暁君?」
紗愛蘭が立ち止まって振り返る。暁ははっとした様子で、急いで彼女に追い付く。
「すみません。ちょっとぼーっとしちゃってました」
「大丈夫? 疲れちゃった?」
「いえ、大丈夫です。……紗愛蘭さんといられる時間が終わっちゃうのが、ちょっと悲しいなあって思っただけです。あはは……」
暁は冗談めかして苦笑いを浮かべる。本心ではあるが、本気で言っているとは思われたくはない。せっかく今日は上手く距離を詰められているのに、ここで拒絶されて傷を負っては元も子も無い。
しかし、それはあくまで暁の視点。紗愛蘭がどう思っているかはまた別の話だ。
「そっか。……だったらさ、もう少し一緒にいる?」
「え?」
暁にとっては青天の霹靂だった。驚きのあまり思考が止まりかけるも、反射的に首が縦に動く。二人は適当に飲み物を買い、水族館近くの浜辺で少し休憩することにした。
「ふう……。よいしょ」
空いていた東屋に紗愛蘭が腰掛ける。暁もそれに倣って向かい側に座る。
「すみません、俺の我儘に付き合わせてちゃって……」
「何言ってるの。私だってこのまま終わるの惜しいなあって思ってたし、ちょうど良かったよ」
「そうですか。……ありがとうございます」
紗愛蘭と暁は薄らとした笑みを見せ合う。それが共に恥ずかしかったのか、慌ててそれぞれの飲み物を口にした。
夕方になっても八月に相応しい暑さは衰えないが、それ故に波風が非常に気持ち良い。二人は暫し無言でその快さに浸る。
「……暁君、今日は本当にありがとう」
先に沈黙を破ったのは紗愛蘭だった。水族館にいた時の楽しそうな雰囲気からは一転、哀愁漂う物言いで暁に感謝を伝える。
「いえ、お礼を言いたいのはこっちですよ。そもそも俺から言い出したことですね」
「それはそうかもしれないけど……。……でも、今日はどうしても誰かと過ごしたいなって思ってたから」
「……どういうことですか?」
暁は純粋な疑念と、僅かな恐怖心を抱いて尋ねる。ここで言う“誰か”とは、自分でなくても良かったということか。
「私が新チームのキャプテンになったって話はしたよね?」
「ああ、はい。言ってましたね」
紗愛蘭が主将に任命されたことは、昨日の時点で暁に報告された。その時は暁から送られた祝福のメッセージに対し、紗愛蘭が軽く応えるだけで話は終わっている。
「紗愛蘭さんなら適任だと思います。野球部のこと詳しくは分からないですけど、先輩たちからお願いされたんですよね。ならそれがチームの総意ってことですよ」
暁は紗愛蘭の不安気な心中を察して励ます。すると紗愛蘭はこうなることを予期していたかのように、悪戯っぽく表情を和らげる。
「ありがとう。暁君ならそう言ってくれると思ってた。こんな感じで誰かに元気付けてもらいたかったんだよね。やっぱり今日会ったのが暁君で良かったよ」
この一言にほっとする暁。先ほど出た“誰か”が、自分だった意味を見出せた気がした。
「紗愛蘭さんが元気になれるならいくらでも言います。本気で思ってることなので」
「それは嬉しいな。私さ、キャプテンやるのちょっと怖いんだ。こういうのやったことないし、私にできるのかなって思っちゃうの。けどチームメイトにそれを見せるわけにはいかないから……」
「なら俺に見せれば良いじゃないですか。この前も言ったでしょ。紗愛蘭さんの支えになりたいって」
暁はここぞとばかりに畳み掛け、紗愛蘭の心を掴もうとする。ただこれも紗愛蘭にはお見通しだ。
「ふふっ、それも言ってくれると思ってたよ。何か利用したみたいでごめんね。私、ずるいかな?」
「えー、ずるいですよ。けど紗愛蘭さんのそういうところ、俺は……、良いと思います」
一瞬、“好き”と言ってしまいそうになった暁だが、咄嗟に言葉を変える。今はまだ早い。もう少し待つべきだと踏み止まる。
「そう思ってもらえるなら良かった。じゃあ改めて暁くん、今後ともよろしくね」
「はい。もちろんですよ……」
二人は再度微笑み合う。中学の時よりも紗愛蘭の背が伸びたため、互いの視線は水平に交わる。もう上目遣いが見られないようになってしまったことを、暁は少々残念がるのだった。
See you next base……




