161st BASE
お読みいただきありがとうございます。
杏玖の見事な一打で二点差まで迫りました!
奇跡の大逆転が本当に起こってしまうかもしれません!
幼い頃の杏玖は、親子三人で手を繋いで散歩をするのが大好きだった。父親の三郎が左、母親の優美が右、その真ん中に杏玖が入っていた。
しかし杏玖が小学五年生の時、両親が離婚。優美と三郎方の祖母との不仲が原因で、精神的に耐えられなくなった優美が家を出ていってしまったのだ。当時の杏玖には理解できず、いつかは優美が帰ってくると思い込んでいた。
だが何日経っても優美は帰って来ない。そして離婚から一ヶ月ほど経過したある日、杏玖は面会交流という形で優美と再会する。そこで告げられた一言は、今でも彼女の耳に残っている。
――お母さんはもう家には帰れないの。お父さんをよろしくね。
(……あれは衝撃だったな。あの時のお母さん、顔は笑ってたけど、ほんとは凄く悲しんでるのが伝わってきた。よっぽど辛かったんだろうな)
それから数年後に祖母は他界。優美が苦しむ要因はほぼ無くなったが、かと言って簡単に復縁できるものではない。父親も母親も互いに、今日まで独り身の状態が続いている。当然、三人で手を繋ぐ機会など無い。
一方、杏玖は定期的に優美と会い、連絡も取り合っている。野球の試合でも杏玖が誘うと、優美は可能な限り駆けつけてくれた。
(私が野球をやっている限り、お母さんもお父さんも試合を観に来てくれる。家族の繋がりは消えないんだ。お父さんとお母さんがこれからどうなっていくかは分からないけど、少なくとも仲は良いままのはず。だから私は私のできる範囲で、二人をサポートしていきたい)
杏玖は家族の絆を繋ぎ止めるため、グラウンドに立ち続ける。いつかまた、三人で手を繋げる日が来ることを願って。
一塁側のスタンドでは、優美と三郎が少し距離を取りつつも並んで腰掛けていた。これを見ても二人の仲が決して悪いわけではないことが分かる。
「……ねえ、サブちゃん」
「……何だよ?」
優美が三郎に小声で話し掛ける。三郎は相変わらず無愛想に、優美の方を振り返ることなく返事する。
「杏玖ってば、いつの間にかこんなに立派になったのね。あの子には辛い思いさせたけど、逞しく育ってくれて良かった……」
我が子の成長に安堵する優美。気が付くと仄かに目頭が熱くなっていた。幼少期に離婚を経験させてしまったことをずっと引け目に感じていたが、少しだけ蟠りが解けた。優美は更に続ける。
「もしも杏玖が許してくれるのなら、私たちはもう一度歩み始めても良いのかもね」
「……どういう意味だよ?」
三郎は惚けた振りをして尋ねるが、その真意は分かっていた。だが自分からは言える勇気が無い。優美はそんな彼の不器用な性格を知っている。昔から全く変わっていないことが、素直に嬉しかった。
「今度また二人で、デートしてみない?」
そう言った優美はほんのりと頬を赤らめる。三郎はグラウンドを見つめたままだったが、照れ臭そうに相好を崩し、答えを返した――。
《六番レフト、琉垣さん》
打席には先ほどあと少しでサヨナラとなる一打を放った、六番の逢依が入る。二塁ランナーの杏玖が生還すれば同点。奥州大付属は外野陣のみ前進し、とにかく杏玖を還さないことを優先する。
そしてここで、球場の雰囲気に変化が生じる。亀ヶ崎の攻撃に魅せられた観客の一部から、逆転を期待する声が上がり始めたのだ。
「おいおい、向こうのチームやるじゃんか」
「こりゃ逆転あるぞ! 頑張れ亀ヶ崎! 奇跡を起こせ!」
奥州大付属ムードが一転し、亀ヶ崎への声援が大きくなっていく。逢依の初球、吉川の投球が高めに外れると、それだけで拍手が起こった。
(ん? 何だか私たち、めっちゃ応援されてないか?)
何事かと混乱した逢依は、思わず打席を外す。観客の応援する対象が変わった。これは逢依だけでなく他の選手たちも感じている。特にマウンドの吉川には、自分が打たれることを期待されているかのようにすら思えた。
(……何だよこれ。さっきまでこっちを応援してた癖に。一気に私たちがヒールになっちゃったじゃん……)
吉川は自暴自棄になりかける。優勝を決めるためのマウンドに上がりながら、一つもアウトを取れぬまま三失点。その上観客からは悪役に仕立てられそうとなれば、こうなっても仕方が無い。
しかしこの状況下でも、奥州大付属は吉川を代えない。舞泉に投げさせるという手もあるはずだが、その選択を採る気配はベンチに見られない。
二球目、吉川はインコースへストレートを投げようとする。だが思うようにコントロールできず、真ん中に入ってしまう。
(甘い球来た!)
逢依は積極的に打ち返す。快い金属音を奏でた打球が、吉川の足元を通過していく。
「ショート!」
ヒットになれば試合は振り出しに戻る。ところがセンターへ抜ける前に、織田が回り込んで捕球した。それから落ち着いて一塁へと良い送球を投じる。
「アウト」
「むう……。捕られたか」
一塁を駆け抜けた先で逢依は空を仰ぎ、悔しさを露わにする。だが今のショートゴロで珠音がホームイン。更には杏玖も三塁まで進んだ。
《七番セカンド、江岬さん》
あと一歩で同点のところまで来た。打席にはもう一人の“あい”が立つ。
「ボールツー」
初球、二球目とストレートが外れる。吉川の制球は三度狂っていた。
(もしやこのままフォアボールを選べたら、私がサヨナラのランナーになれちゃう? ウイニングランができるかもじゃん!)
とっておきの悪戯を思い付いた子どものように、愛が愉快気に白い歯を零す。彼女はムードメーカーとしてチームを明るくしつつ、精力的な二塁守備と勝負所で際立つ打撃でレギュラーの座を確固たるものとしてきた。逢依が広げたチャンスを愛が活かすという流れは、幾度となく見られた光景だ。
(この一年はめちゃくちゃ楽しく野球をやれたなあ。何だかいっつもワクワクしてた気がする。ルーあいとのコンビも最高だったね。残るは優勝で締め括るだけだよ!)
三球目がストライク、四球目がボールとなり、迎えた五球目。外へと逃げていくスライダーを、愛は悠然と見極める。
「ボール、フォア」
「おっしゃ。やったぜ!」
愛はしたり顔で一塁へ走っていく。遂に逆転のランナーが出塁。奇跡へのお膳立ては、完全に整った。
See you next base……
吉川’s DATA
ストレート(最高球速107km:常時球速100~105km)
カーブ(球速85~90km)
スライダー(球速95~100km)
★チェンジアップ(球速90~95km)




