160th BASE
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大量点差でも亀ヶ崎の選手たちは全く諦めていません。
奇跡を起こすために、大事な大事な主将の打席です!
《五番サード、外羽さん》
奥州大付属は一旦守備のタイムを取る。杏玖はそれが終わるまでネクストバッターズサークル付近で素振りをし、マウンドの輪が解けるのを確認してから打席に入る。
(後輩がヒットを打って、同級生が粘って、皆の想いを繋いで作ったチャンス。私が無駄にするわけにはいかない)
この怒涛の反撃は、杏玖の諦めない姿勢から生まれた。彼女自身にも一打が出れば、同点あるいは大逆転が現実味を帯びてくる。
(一年前、晴香さんからキャプテンに指名された時はびっくりしたよ。正直自分が引き受けて良いものかと思ったけど、皆に支えられて何とか務められたかな)
杏玖は父親と二人暮らしで、料理や洗濯などの家事はほとんど彼女が行っている。主将との両立が大変なことは言うまでもない。
だがそうした事情がありながらも、杏玖は普段から細かな気配りを怠らず、チームの士気を保ち続けてきた。本人は仲間に後押しされたと思っているようだが、そうなったのも杏玖の面倒見の良い人柄があってこそだろう。
(私なんか晴香さんや珠音さんに比べたら、全然上手じゃない。それなのにキャプテンとして凄く良い経験させてもらった。皆には感謝しかないよ。この打席でその恩返しをするんだ!)
初球、吉川が直球を投げてくる。瀬古の要求は内角低めであったが、実際の投球は外角へ行く。
しかし判定はストライク。先ほどまでより球威が上がっており、杏玖はタイミングが遅れてスイングできなかった。
「ナイスボール! この球だよヨッシー」
瀬古からそう声を掛けられ、吉川の頬が微妙に緩む。実は守備のタイムを取った際、コントロールは気にしなくても良いからとにかく腕を振れと、瀬古に言われていた。その言葉が効いたみたいだ。
二球目もアウトコースのストレート。これはボールになったものの、杏玖の見送り方は差し込まれている。
(明らかに球の質が変わった。制球は相変わらず荒れてるっぽいけど、ストライク近辺には集まってきてる。もう四球で崩れるってことは考えにくいかな。なら腹を括って、良い球を打っていくぞ!)
杏玖は一度打席を外し、バットを何度か振る。吉川がストライクを乗るのに苦労していたため、若干消極的になりかけていたが、この素振りでその心持ちを改める。
どれだけ甘い球が来ようとも、打球を前に飛ばせばアウトになる可能性が出てくる。打者にはその恐怖が常に付き纏い、中々打ちにいけなくなることも多い。今のような是が非でも結果を出したい場面となれば尚更だ。
しかし当然ながら、それでは何も起こらない。恐怖心を乗り越え、覚悟を決めてバットを振り抜いた者にのみ、野球の神様は微笑むのだ。
三球目、またもやストレートが来る。真ん中高めに来たところを杏玖は打って出るも、バックネットに当たるファールとなった。ただしっかりとバットを振ることはできている。
(ほんとに球に力があるな……。振り負けないようにしないと簡単に押し込まれちゃう。だけど食らい付いていくんだ。そうすればきっと勝機が訪れる)
四球目、吉川は外のボールゾーンから曲がってくるカーブを投げてきた。杏玖は体勢を崩されながらもバットに当て、ファールで逃げる。
五球目は一転してストレート。この打席で初めてインコースに来た。杏玖は前の球との緩急でタイミングを狂わされる。
(これはカットすべきか? ……いや、僅かに外れてる)
杏玖は咄嗟に見逃した。予想通り球審がほんの少しだけ低いと判断し、ボールとなる。
更には六球目、七球目もストレートが続く。どちらも威力十分でストライクゾーンに入っていたが、杏玖はバットに当ててカットする。
「ナイスカット! その調子で付いていきましょう!」
「ヨッシー頑張れ! 根負けするな!」
両者譲らぬ勝負は、次が八球目。吉川は真ん中低めにスライダーを投じる。ところが左腕を離れた瞬間からボールと分かったため、杏玖にあっさりと見極められる。
これでフルカウントまで来た。吉川はもうボール球を投げられない。
(投手からしたら、ここでフォアボールは絶対に出せない。だから真っ直ぐで確実にストライクを取りにくるんじゃないかな。理想は右中間を抜くバッティングだ)
杏玖はストレートに山を張る。球威を利用し、流し打って鋭い打球を放つことを目論む。
マウンドの吉川がサインを決める。彼女は口元をきつく結んでセットポジションに入り、杏玖への九球目を投じた。
投球は外寄りにコースを直進する。ただしストレートにしては勢いが無く、若干だが低めに沈むような変化を見せる。
(何これ? ……チェンジアップか!)
杏玖はスイングを始めてから気付いた。もうバットは止められない。それでも空振りはしまいと、体ごと前に出して拾い上げる。
「サード!」
空中を揺らめく小フライが、三塁ベース上を通過する。ジャンプした柴田のグラブを越え、フェアゾーンに弾んだ。
「おお! 回れ回れ!」
亀ヶ崎ベンチとスタンドから歓声が上がる中、三塁ランナーの洋子に続いて二塁ランナーの紗愛蘭もホームへ駆け込んでくる。
打球は京子の時と同じように、ファールゾーンを転がってフェンスに跳ね返る。
「グッチ、中継まで返せ!」
今度は坂口が適切にクッションボールを処理し、中継に入った織田に素早く返球する。そのため一塁ランナーの珠音は三塁で止まった。けれども二人のランナーが還り、六対四と亀ヶ崎が二点差に詰め寄る。
「おっしゃあ!」
杏玖は二塁ベース上で高々と拳を掲げ、雄叫びを上げる。チェンジアップは全く頭に無かったが、執念で打ち返した。
バットの芯で捉えたわけでもなく、ヒットになったのは飛んだコースが良かっただけなのかもしれない。だがそれは杏玖がバットを振り抜いたから起こったこと。彼女の諦めない姿勢に、野球の神様は微笑んだのだ。
(チェンジアップが来た時はちょっとびっくりしたな。でも高くなった分バットに当てられた。フルカウントってことで、ピッチャーも投げにくかったかな)
杏玖はヘルメットを脱ぎ、汗を拭いて一息付く。それからふと、一塁側のスタンドを見やった。
(……あ、来てる!)
刹那、杏玖は大きく目を見開く。父親の他にもう一人、来てほしかった人物を見つけたのだ。
「お母さん……」
思わず小声を漏らす杏玖。その視線の先には、穏やかに微笑みながら拍手をする母親の姿があった。
See you next base……




