128th BASE
お読みいただきありがとうございます。
先日48歳でプロ野球のトライアウトを受けた新庄剛さんが、現役復帰を断念されたそうですね。
トライアウトではバットの芯で捉えた打球が多く、ヒットも打っていたので少しばかり期待してのですが、オファーは残念ながら届かなかったようです。
しかしあの年齢で、しかも15年のブランクがありながら本気で復帰を目指し、あそこまで仕上げてきたのは本当に素晴らしいと思います。
何歳になっても私たちに夢を与えてくれる新庄さんは、いつまでもスーパースターです!
二点差の六回裏、チャンスで珠音の打席を迎える。初球の投球がワイルドピッチとなり、二人のランナーは二塁、三塁へとそれぞれ進む。ヒット一本で同点の場面ができあがった。
浦和明誠は一度守備のタイムを取る。佐伊羅は伊調にボールを手渡すついでに、語調を強めて戒める。
「伊調、冷静になれ。出したランナーはデッドボールと当たり損ないの内野安打だ。全く打たれてない。相手からも打たれそうな気配を感じないだろ」
「あ、ああ……。そうだな」
あれよあれよという間にピンチを迎えてしまった。しかし伊調はこうした状況を何度も切り抜けてきたからこそ、今ここに立てている。落ち着いて投げれば、どうということはないはずだ。
「四番を歩かせることはしないぞ。こっちには二点のリードがあるんだ。逃げずに向かってこい」
佐伊羅は右手で握り拳を作り、伊調の胸に当てる。伊調は口を真一文字に結ぶと、深々と頷いた。
「分かった。逃げてたまるもんか」
その後、浦和明誠は守備位置の確認を行ってからタイムを解く。伊調は珠音の投球へ移る前に、マウンド上で大きく深呼吸をする。
(めちゃくちゃ心臓がバクバク言ってるな。さっきまでの私はそれにすら気付けてなかったということか)
この場面で平常心になれという方が難しい。伊調はそうした中で、自分のできる投球をするしかないのだ。
カウントワンボールからのリスタート。伊調は三塁ランナーを見てからセットポジションに入り、珠音への二球目を投じる。真ん中付近から鋭く曲がる、これまでと同じスライダー。珠音もついバットを振ってしまう。
「これだよ伊調! ナイスボール!」
佐伊羅からの声掛けに、伊調は少し勇気付けられた表情をする。珠音からも空振りを取れたことが自信になったようだ。
(これがスライダーか。打とうと思っても打てる球じゃないな。ここはセオリー通り、高めに浮いた球を狙う)
珠音は打つゾーンを上げる。三球目、伊調は続けてスライダーを投じるも、珠音のバットは全く動かない。
「ボール」
投げ損ない以外では、伊調のスライダーを平然と見送ったのは初めてだ。しかしこれによって珠音の狙いが佐伊羅に読まれてしまう。
(今のをこれだけ簡単に見逃せるってことは、低めを捨ててる可能性が高いな。ならそれを利用させてもらう)
四球目、佐伊羅は内角低めにミットを構える。伊調はそこを目掛けて直球を投じた。
「ストライクツー」
ここも珠音は反応しない。低めを振らないことを徹底できているが、追い込まれてしまった。
(ほんとに低めは打ちにこないんだな。じゃあ次も同じコースで……)
佐伊羅は珠音を一瞥する。その瞬間、体が金縛りにあったかのように固まった。
(どうしてこんなにもどっしりしていられるんだ……。追い込まれてるんだぞ)
石像の如き不動の構え。そんな珠音の荘厳な立ち姿に、佐伊羅は恐怖すら覚え、配球に迷いが生じる。
(本当にインローの真っ直ぐで良いのか? スライダーの方が無難じゃないのか?)
悩みながらも佐伊羅はサインを出すと、ミットで地面を叩く。それに対して伊調が首を縦に振るまでに、若干の時間を要した。
(その球で行くのか……。いや、大丈夫だ。佐伊羅はこれで抑えられると思ってサインを出してくれてるはず。だから信じて投げろ)
上昇していく心拍数を唾を飲み込むことで抑え、伊調はセットポジションに入る。ただすぐには投げようとしない。珠音との間には静かに降りしきる雨の音のみが流れ、刻一刻と時は刻まれる――。
ようやく伊調が足を上げた。斜めの角度から左腕を振り、珠音への五球目を投じる。
(……いかん!)
刹那、佐伊羅は肝を潰す。彼女の要求は低めのスライダー。しかし投球は外角高めのボールゾーンから曲がってきた。
(……来た。これを待ってたんだ)
珠音は得意の右方向へと打ち返す。大きな飛球がライトに上がる。
「ライト!」
予め後ろに守っていた九重は更に後退する。どうにかフェンスの手前で落下点に入り、最後は軽くジャンプして打球をグラブに収めた。
「あー、越えなかったかあ……」
珠音は一塁を回ったところで減速し、不満気に頬を膨らませる。しかし三塁ランナーの洋子、二塁ランナーの紗愛蘭は両者タッチアップ。犠牲フライで亀ヶ崎が三点目を挙げる。
「これで一点差。ナイスバッティング」
洋子が拍手を送りながらホームを踏む。ベンチも難攻不落と思われた伊調のスライダーを捉えたことで、一層意気が揚がる。序盤の劣勢が嘘のように、形成はほぼ逆転した。
(完全にしてやられた……。紅峰は最後まで低めを捨てて高めだけを待ってたんだ。こっちが勝手に悩んで、結果的に伊調の失投を招いてしまった)
佐伊羅はマスクの奥で表情を歪める。追い込むまでの過程を考慮すれば、四球目と同様にインローへのストレートが効果的なのは明らかだった。けれども珠音の泰然たる雰囲気に惑わされ、サインを出す寸前で配球を変えてしまったのだ。
伊調の立場から言えば、スライダーの選択はかなり酷であった。三球目をしっかり見切られている上、フルカウントにはしたくないという心理も働く。サインにも頷くまでにも投げるまでにも時間を要したのは、そういった負の感覚を中々拭えたかったから。これではコントロールミスも必然的だったと言える。
だが幸いにも打球に滞空時間があったこと、加えて長打警戒のシフトを敷いていたことで、ライトフライには留まった。珠音としては二塁ランナーまで返したかっただけに、まだまだ浦和明誠にも逃げ切るチャンスはある。
「ごめん。せっかくスライダーを要求してくれたのに、投げ切れなかった」
「気にするな。私も自分の考えを貫けなかった。その時点で負けてたよ。……でもまだこっちがリードしてる。下を向く必要は無い。抑え切ろう」
「ああ、もちろんだ。追い付かせはしない」
浦和明誠バッテリーは互いに励まし合って仕切り直す。同点のランナーを三塁に置き、打席には主将の杏玖が入る。
See you next base……




