106th BASE
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9月も中旬に差し掛かり、夏が一気に過ぎ去った気がします。
今年の夏の猛暑は一瞬だったなあ……。
《五番ファースト、七里さん》
祥はロジンバックを触り、七里と対峙する。ただその瞬間、両肩に重だるさを感じた。
(こ、この感覚は……)
ストライクが入る気がしない。この倦怠感こそ、祥を苦しめるイップスの症状である。
(投げなきゃ。これを乗り越えるために今までやってきたんだろ!)
祥は何とか力を沸き上げようと強く首を振り、七里への投球に向かう。一球目はアウトコースを狙ったストレートだ。
「ボール」
投球はすっぽ抜けてしまった。初球から狙っていた七里だが、これでは打ちにいくこともできない。
「大丈夫だよ! いつもの祥の球なら打たれないって!」
ショートの京子が定位置から声を掛ける。他の者も声援を送る。皆祥を励ましたいという気持ちは一緒だ。
二球目。祥は再び外角に直球を投げる。今度は際どいコースに行った。
「ボールツー」
ところが球審の手は上がらなかった。苦しむ祥には追い打ちをかけられる判定となる。
「くう……」
思わず眉間にきつく皺を寄せる祥。ここで気持ちを切らしてはいけない。もちろん祥もそんなことは分かっているが、ここから持ち直すことは非常に厳しい。
「ボールフォア」
結局右打者の七里にも四球を与えてしまった。押し出しとなり、柳が労せずホームイン。江ノ藤が一点差に詰め寄った。
「セブン、ナイスセン! この勢いで逆転しようぜ!」
息巻く江ノ藤の選手たち。反対に祥は限界寸前だった。
(もう駄目だ……。今の私じゃ、夏大のマウンドなんて無理だったんだ)
祥は自軍ベンチを見やる。その目は交代を望んでいるようだった。
(まずい。祥の気持ちが切れかけてる。ここはもう一息入れるか)
すかさず菜々花はタイムを取り、今度は内野陣を集める。守備位置も含めて意志を統一しなければならない。
「す、すみません……」
祥は帽子を深く被って目元を隠し、力無くナインに謝る。己の無力さを痛感し、ここに立っていることが堪らなく申し訳なかった。
「何言ってるの。まだまだこれからでしょ。少しくらい点取られても取り返せるから」
杏玖がそう言って祥の右肩を優しく叩く。しかし祥は俯いたままで、再びベンチに視線を動かす。
ところが隆浯が交代を告げる様子は無い。その代わりに、真裕が伝令としてマウンドへと走ってきた。
「おお、真裕。監督は何か言ってた?」
杏玖が尋ねると、真裕は小さく頷く。それから守備隊形についてベンチの指示を伝える。
「三塁ランナーが還ってくるのは仕方無いので、それ以降の点は防ごうということでした。なので内野は基本、二塁でのゲッツーシフト。打球によっては杏玖さんと珠音さんはホームでアウトを取りにいっても良いですが、フィルダースチョイスには気を付けてください」
「分かった」
「はーい。了解」
まだ回も浅く、亀ヶ崎はリードしている立場にある。無理なことは決して行ってはならず、確実にアウトを増やすことを優先したい。
「じゃあまずは最初のピンチ、各々のできることをしっかりやって乗り越えよう!」
「おー!」
「お、おー……」
杏玖の掛け声に他の皆が呼応する中、祥だけが一人遅れる。その後輪が解け、真裕もベンチに帰ろうとする。
「ま、待って真裕」
その前に祥が真裕を呼び止めた。菜々花も同時に立ち止まる。
「ん? どうしたの祥ちゃん?」
「ごめんね……。先に謝っておくよ」
「どういうこと?」
真裕は首を傾げる。祥は恐る恐る、且つしどろもどろになりながら言う。
「……だって、私がこのまま投げたら、きっと試合がめちゃくちゃなっちゃう。真裕を温存させなきゃいけないのに、全然駄目駄目でごめん。私なんかが投げるべきじゃなかったんだ……」
祥は更に下を向く。暑さのせいか気怠さのせいか、目に映るプレートが歪んで見えた。
三人の間に数秒の沈黙が流れる。真裕は一度深く呼吸をすると、何気無さを装って祥に問いかける。
「……じゃあ、降りる?」
「え?」
「ちょっ、何言ってるの真裕。監督は交代だなんて言ってないでしょ!」
菜々花は驚き目を丸くする。祥も思わず顔を上げた。真裕は二人の反応に構わず、珍しく淡々とした口調で話し続ける。
「祥ちゃんが降りたいのなら、もう投げたくないと言うのなら降りれば良いと思う。祥ちゃんは祥ちゃんなりによく投げたし、おそらく次の美輝さんも準備はできてるよ」
「いや、だからちょっと待ってよ真裕。いくら後ろの投手がいるとはいえ、ここで祥が勝手に降りるなんて……」
「菜々花ちゃんは黙ってて。これは祥ちゃん自身が決めることだから」
割り込んできた菜々花を制し、真裕は祥に答えを求める。祥は真裕の顔を見ることができず、あちこち視線を動かしてどぎまぎする。
「こ、ここで降りても良いってこと……?」
「うん。祥ちゃんがそうしたいなら」
「そっか……」
祥は一歩踏み出そうとする。だが真裕の言葉には、続きがあった。
「祥ちゃんはイップスになって、全然投げれなくなって、それでも投手を続けたいって言った。この一年間必死にイップスと戦って、今このマウンドに立ってる。本当に凄いことだと思う。それだけ頑張った人が自分から降りたいって言ったって、誰も責めやしないよ。だから本当に投げたくないのなら、私に付いて降りておいで」
真裕が後ろを振り返り、改めてベンチへと歩き出す。その足取りは心なしか普段よりもゆったりとしている。まるで祥の歩くスピードに配慮するかのように……。
ところが祥の足はそれ以上動かなかった。やがて真裕がファールラインを跨ぎ、交代のタイミングは失われる。これで祥の続投が確定。彼女は降板を思い留まったのだ。
「祥……。まだ、投げてくれるんだね⁉」
「うん……。投げたい」
菜々花が仄かに表情を明るくして聞くと、祥はそう言葉を絞り出した。そして次の瞬間、彼女は目を真っ赤に腫らし、胸の内を解き放つかのように菜々花に訴えた。
「私はまだ投げたい! ここで降りたら、これまでの頑張りが全部嘘になる。何のために野球をやってるかも分からなくなる。それだけは絶対にしたくないんだ!」
祥は高校から野球を始めたため、入学時点で他の選手と比べて大きく遅れを取っていた。しかしサウスポーということで投手に抜擢され、自分も活躍できるのではないかと希望を持つことができた。
真裕たちと一緒に、グラウンドで輝きたい。その想いが原動力となり、祥はイップスの苦しみにも耐えてきた。それをここで無にするわけにはいかない。
祥の訴えは菜々花の胸に突き刺さる。女房役として、応えないわけいかない。
「祥の想い、確と受け取ったよ。私も祥に降りてほしくないし、交代が告げられるまでは投げ抜いてほしい。だからどんな結果になろうとも、逃げずに一緒に戦おう!」
菜々花はミットを手前に差し出す。祥がそれにグラブを重ね、二人は暫し互いの心を通わせる。重かった祥の身体は、徐々に軽くなっていった。
「ありがとう菜々花。元気が出たよ」
「お、なら良かった。じゃあ行こうか!」
「うん!」
試合が再開する。祥は己の力で、この苦境を打破できるのか。
See you next base……




