105th BASE
お読みいただきありがとうございます。
本章では第一部から取り上げているイップスに触れていきます(用語の詳細については第一部の162話をご参照ください)。
私自身もイップスに陥った経験があるのですが、スポーツ選手にとっては地獄のような病です。
第一部の時も言ったように、イップスは治そうと思って治るものではありません。
おそらく“治る”よりも“克服する”という表現が正しいのだと思っています。
祥にはイップスと戦い続け、苦しみを乗り越えて“克服”してほしいです。
《二番ショート、柳さん》
打席に柳が立つ。一打席目は祥のグラブを弾く内野安打を放っている。
(由比さんの時は待球指示が出ていた。柳さんは同じ左打者だし、何か仕掛けてくるかもしれない)
江ノ藤の作戦を警戒する菜々花。まずはミットを真ん中に構えて様子を見ようとする。祥はコースのことは考えず、思い切って腕を振ろうと投球モーションに入る。
「えっ?」
すると柳はバントの構えを見せてきた。祥は戸惑いながらも投げ終え、マウンドをダッシュで降りる。
「ボール」
投球は高めに外れた。柳はバットを引いて見逃す。
「祥、気にしないで良いから! やってきたらそのままやらせよう」
「う、うん」
バントの構えをしてきたということは、少なくともその球を打ってくることはない。労せずストライクを取れるチャンスなのだが、そんな悠長に考られるほどの余裕は祥には無かった。
(相手バッターがどんなことしてきても関係ない。私はストライクを投げるだけだろ)
祥はそう自分に言い聞かせる。ただ言い聞かせれば言い聞かせるほど、少しずつ、ほんの少しずつ、彼女の胸の中は窮屈になっていく。気付かぬ内に自分で自分を追い詰めてしまっているのだ。
二球目。祥はもう一度真ん中目掛けてストレートを投げる。今度も柳はバントの構えをして揺さぶる。
「ボールツー」
これもストライクが入らない。投球は大きく高めに外れる。
(腰越の見立て通りだ。それにしても右と左でここまで顕如に差が出るとは。左打者の多いうちには相性が悪かったわね)
柳はバットを下ろし、ベンチのサインを伺う。引き続き待ての指示が出ていた。亀ヶ崎バッテリーには苦しい時間が続く。
(ただでさえ祥は左に弱いのに、こうやって揺さぶられたら更に投げにくくなる。一番やられたくない作戦をやってこられたな……)
菜々花の恐れていたことが現実となった。しかもこれは祥にとっての夏大初マウンド。パニックに陥れば、そのまま呑まれてしまうことも有り得る。
「ボールフォア」
その後もストライクが入らず、祥は柳を歩かせてしまった。ワンナウトからランナーを背負うこととなる。
《三番サード、鵠沼さん》
右打者の鵠沼が打席に入る。次の腰越が左打者のため、ここは打ち取っておきたい。
初球、祥はアウトコースにストレートを投じる。鵠沼は打つ仕草は見せなかった。判定はストライクだ。
(右打者にはストライクが入るんだな。なら私は打っていって良いことか!)
(フォアボールを出した後が大事なんだ。この人を絶対に抑えなきゃ)
高揚感を覚える鵠沼と、焦りの見え始めた祥。表情からは分からないが、両者の心持ちは対照的である。こうした精神面での優位性により、鵠沼は自分のバッティングをしやすくなるだろう。
二球目が外れた後の三球目、祥の投げたカーブが真ん中付近に入ってくる。鵠沼は逆らわず右方向に弾き返す。
「セカン!」
鋭いゴロが一二塁間を襲う。愛と珠音はどちらもそれぞれのベースをケアしており、打球は大きく開いた二人の間を抜けていく。
柳は二塁を回ったところでストップ。祥はこの試合で初めて右打者を抑えられず、ピンチを招いた。
《四番レフト、腰越さん》
迎えるは四番の腰越。待球作戦を考えた本人だが、彼女自身も実行してくるのか。
(左を歩かせ、右に打たれた。ここは一気に崩すチャンスだ。でも慌ててはいけない。私も徹底して嫌がることをしないと)
マウンドの祥が足を上げる。それに合わせ、腰越は柳と同様にバントの構えを作る。
「ボール」
祥は指に引っ掛けてしまい、ワンバウンドの投球となる。菜々花が懸命に体で止め、暴投となるのを防いだ。
(四番までもやってくるのか。チャンスなんだから打てば良いじゃん)
菜々花は心の中で悪態を吐きながら、球審にボールの交換を要求する。受け取った新しいボールを祥に渡すと、彼女は腰越をマスク越しに睨んだ。ただそれで打開策が見つかるわけではない。
(むかついても仕方が無い。とにかくストライクを取れれば良いだけの話。祥が気兼ねなく投げられるように私が助けるんだ)
二球目。サインを出した菜々花は、右腕を振って祥が思い切って投げられるよう促す。
「ボールツー」
しかし祥の制球は整わない。直球が外角高めに外れた。
(どうして思ったところにいかないの? しっかり腕を振ってるつもりなのに)
祥は奥歯を噛み締める。いつのまにか息もかなり上がっていた。そして脳裏には、イップスに陥った時の悪夢が蘇る。
(こんなにもストライクが入らないなんて。このまま試合を壊しちゃったら……)
漠然と抱いていた不安は恐怖へと変貌し、祥の身体を蝕んでいく。その中で彼女は投球を続けた。対する腰越もバントの構えを止めることはない。
「ボールフォア」
ストライクは一球も入らず、祥は腰越に二打席連続で四球を与える。これで全ての塁が埋まった。
(エースではないにせよ、仮にも亀ヶ崎の先発を務めてるわけだから結構やると思ってたんだけどね。まさかこうも脆いとは。とにかくこっちとしてはお膳立てができた。崩すのも時間の問題かな)
腰越はバットを置き、悠然と一塁へ走っていく。ここまで自分の作戦が上手くいくとは思っていなかったようだが、結果的に祥には効果抜群だった。
「タイム」
菜々花がマウンドに行き、一呼吸入れる。満塁のピンチではあるが亀ヶ崎は二点リードしている。動じる必要は全く無い。菜々花は祥が僅かでも前向きになれるようにと言葉を掛ける。
「次から右打者が続くし、一人ずつ確実に抑えていこう。前進守備は敷かないから、普通に打たせればアウトにできるよ」
「そ、そうだよね。分かった」
この後の七里、稲村と打ち取れば、たとえ一点奪われたとしても左打者を迎える前に切り抜けられる。そう考えると、祥にとってはラッキーな打順の巡り合わせだ。
《五番ファースト、七里さん》
最低でも亀ヶ崎はリードを保ったまま、江ノ藤は同点にしてこの回を終えたい。そのためには七里の打席がターニングポイントとなりそうだ。
See you next base……




