99th BASE
お読みいただきありがとうございます。
各地で猛暑が続いていますね。
亀ヶ崎の選手たちはこの中で野球をやっているのかと思うとぞっとします。
とにかく熱中症には気を付けてほしいです。
《後攻の亀ヶ崎のスターティングメンバーは、一番ショート、陽田さん》
電光掲示板に取り付けられた時計が、午前十一時を指した。今日は朝から太陽が照りつけ、この時点で最高気温は三六度を計測している。昼過ぎになればもう少し上昇するかもしれない。
《七番セカンド、江岬さん》
これから亀ヶ崎は夏大二回戦に臨み、神奈川の江ノ藤高校と対戦する。スタメン発表ではお馴染みの名前が呼ばれていくが、今日はバッテリーの二人だけが違う。
《八番キャッチャー、北本さん。九番ピッチャー、笠ヶ原さん》
先発投手は真裕ではなく祥、更に捕手も優築ではなく菜々花が務める。この試合に勝てば明日には三回戦が控えているため、亀ヶ崎としてはエースを温存させるのが狙いだ。
「次、スライダー行くよ」
「よし来い!」
ブルペンでは祥が投球練習中。彼女の投じたスライダーは、低めから曲がってワンバウンドする。菜々花は腹に当てて前へと弾いた。
「オッケーオッケー。悪くないよ」
「う、うん」
祥は終始不安気な顔をしている。練習試合では何度か先発マウンドに上がっているが、公式戦では初めてとなる。緊張するのも無理はない。そんな彼女を菜々花がどうリードするかが鍵となりそうだ。
「祥ちゃん、調子はどう?」
真裕が様子を見にやってくる。彼女の問いかけに対し、祥は歪に笑いながら答える。
「ま、まあまあかな。良くもなく悪くもなくって感じ」
「そっか。それくらいが一番良いね。自信を持って投げれば大丈夫だよ」
「う、うん。ありがとう」
祥の笑顔が作り物であることを、真裕はすぐに悟っていた。しかし登板前の投手に過度なプレッシャーを与えるのは禁物。同じ立場である彼女はそのことをよく分かっているので、にっこりとした微笑みと軽く言葉をかけるだけをして戻ることにする。
(祥ちゃん、かなりナイーブになってたな。けどきっと良い投球をしてくれるはず。イップスを乗り越えたことを証明してほしい)
真裕は祥の苦しみを間近で見てきた。彼女が逃げずに戦い続けたことも知っている。だからこそ、今日好投する姿が見られることを心の中で願っていた。
「ただいまより、亀ヶ崎高校対江ノ藤高校の試合を始めます。礼!」
「よろしくお願いします!」
試合開始の時刻となった。挨拶が終わってグラウンドにサイレンが響く中、祥が強ばった面持ちでマウンドに登る。
(まさか私が先発を任されるなんて……。怖すぎるけど、やるしかない)
高校から野球を始めた祥。左利きということで投手に任命されたが、去年の秋に投球障害、いわゆるイップスに陥ってしまった。以降一年間ずっと悩まされ続け、今尚苦しみは消えていない。
だが祥は投手を諦めなかった。イップスから逃げずに立ち向かい、登板を重ねて徐々に結果を残していった。今日の先発はその賜物と言える。恐怖はこれからも簡単には拭えないだろうが、決して悲観する必要は無い。
「ブルペンでも球は走ってたし、多少コントロールがバラついても抑えられる。だから安心して。しっかり腕を振って投げることだけは忘れないでね」
「分かった」
投球練習を済ませた祥の元に菜々花が駆け寄り、鼓舞する。それから菜々花はミットを外すと、左手を差し出す。
「始まる前に手を握っておこっか。ちょっとは落ち着くでしょ」
「う、うん……。やっておくよ」
祥は菜々花の手を掴み、強く握りながら深呼吸する。自分自身の汗の匂い、スタンドに飛び交う歓声、整列前に飲んだスポーツドリンクのほんのりとした甘み。それまで鈍くなっていた感覚が微かに戻り、胸の痞えも少しだけ解消された気がした。
「どう?」
「良い感じだと思う。ありがとう」
「なら良かった。それじゃ、頑張っていきますか!」
菜々花が一度ミットを大きく叩き、定位置に戻っていく。江ノ藤戦、プレイボールだ。
《一回表、江ノ藤高校の攻撃は、一番センター、石上さん》
江ノ藤のトップバッターを務める石上が、右打席に入る。祥と菜々花は早々に一球目のサイン交換を終える。
(平常心を意識して、いつも通り投げることだけを考えろ)
祥がノーワインドアップから第一球を投じる。高めのストレート。見送ればボールだが、石上は打ってきた。
「センター!」
高く上がったフライが外野に飛んでいく。けれども勢いは無い。センターの洋子が二、三歩前に出て落下点に入り、難なくキャッチ。まずは祥が一つ目のアウトを取る。
(これはめっちゃ助かったなあ。初球のボール球を打ち上げてくれた。どんどん振ってくるのは悪いことじゃないけど、コントロールに不安のある祥としてはそっちの方がやりやすいはず。粘られて球数を投げさせられるとしんどくなるからね)
菜々花もマスクの中で安堵の表情をする。彼女も夏大では初のスタメン。祥ほどではないが緊張していたので、これで少しは落ち着けるだろう。
《二番ショート、柳さん》
続いて打席に立つのは左打者の柳。この左打者が祥にとって課題の一つとなる。
元々祥は左打者に投げ辛さを感じていたが、昨秋の練習試合で死球を与えてしまったことで苦手意識が強まった。加えてその試合ではそこから大きく制球を乱し、イップス発症のきっかけとなったのである。
(二人目にして左バッターか……。けどこの一年で大分抑えられるようにはなってきてる。だから怖がらなくたって良い)
祥は自らを叱咤しながら一球目を投じる。低めを狙った投球だったが、またも高めに浮いてしまった。柳が見逃してボールとなる。
「良いよ良いよ。その感じで投げてきて!」
菜々花はそう声を掛けて返球する。球威はあるので、祥がコントロールに気を取られてその良さを無くさないよう注意を払っていた。
(ボールにはなってるけど、大きく外れているわけでもない。この投球を繰り返していけばきっとストライクに集まってくる)
二球目も菜々花はストレートを要求する。祥の投球も今度は低めに来た。しかし球審には僅かに外れていると判断される。
(ツーボールになっちゃった。やばい……)
(ボールが続くとどうしても祥は弱気になる。それを解消していくのも私の役目だ)
三球目。サインを出した菜々花は二、三回ほど首を縦に動かし、祥を安心させようとする。それが功を奏したのか、ストライクゾーンに投球は行った。
「ナイスボール!」
野手陣やベンチから声が飛ぶ。祥は少しだけほっとしつつ、菜々花から返ってきたボールを受け取る。
(良かった。ストライク取れた)
四球目、祥は続けてストレートを投じる。こちらもストライクになりそうだ。柳はスイングし、バットの芯に近い部分で捉えた。
「うわっ!」
速い打球がワンバウンドして祥を襲う。捕球しようと出された彼女のグラブを弾き、一二塁間へと転がった。すかさずセカンドの愛がカバーに回るも、柳が一塁を駆け抜けるまでには間に合わない。ピッチャー強襲の内野安打が記録される。
「大丈夫?」
「うん。グラブに当たっただけ」
菜々花が祥の身を案じてマウンドへ向かう。他の者も寄ろうとしたが、祥が自ら制する。幸い体には当たっていなかったみたいだ。しかし今のヒットで初回からランナーを背負う形となってしまった。
See you next base……




