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竹の葉擦れの君

作者: 曲尾 仁庵

 きっと誰もが出会っているのだと思う。目に見えぬ姿も、聴くことのできぬ声も、触れることのできぬその温もりも全部、知っているのだと思う。でも、忘れてしまう。目に見えないから、耳に届かないから、手を触れられないから、憶えておくことができないのだ。世界と自分が分かたれる前の、共に生きた記憶を。どうしようもなく、忘れてしまうのだ。


 僕たちはいつも、手をつないでいた。


 祖父の家は町から離れた場所にあって、その家の裏には竹林があった。祖父はその竹林をとても大事にしていて、下草を刈ったり、竹同士が密集しないように不要な竹を切ったり、竹が病気になっていないかを見て回ったりしていた。よく手入れされた竹林は、子供心にとても美しく、そして神聖な場所のように感じたものだ。

 祖父の家には縁側があり、その縁側に座る誰か――それは両親であったり、祖父母であったり、親戚の誰かであったのだが――に見守られて、僕はよく庭で遊ばされていた。祖父の家の庭は結構な広さがあり、名前の分からない色々な木が植えられていて、祖父が自作した池や鹿威しなんかがあって、アパート暮らしの僕にとっては新鮮な驚きに満ちた場所だった。僕は池のアメンボをじっと眺めたり、石をひっくり返すと出てくる気持ちの悪い虫に悲鳴を上げたり、鹿威しが傾く瞬間を手で押さえて音が鳴るのを邪魔したりした。

 四歳の時、僕は初めて一人で竹林に入った。その日は近所に住む知り合いが訪ねてきていたらしく、両親は久しぶりに会った知り合いと縁側で話し込んでいたらしい。そんな事情など四歳の僕が知るはずもなく、僕はただ僕の興味に従って、草陰に見つけたバッタを追いかけまわしていた。そして気付けば、誰に見つかることもなく、竹林へと迷い込んでいたのだった。

 ふと気が付いたとき、僕は竹林の中で一人だった。バッタは薄情なことに僕を置いてどこかに行ってしまって、僕は急に心細くなって泣きそうになっていた。自分のシャツの裾を掴んで、涙がこぼれないように必死に耐えながら、僕は誰かが助けに来てくれないかと周囲をせわしなく見渡していた。しかしそう都合よく助けなど来ない。当然だ。両親はまだ縁側で談笑中だろうから。もしかしてこのまま、誰にも見つからずに死ぬのだろうか。僕がいよいよ泣き叫ぶべく大きく息を吸った、ちょうどそのとき、


 どうしたの? ひとり?


と、まるで銀の鈴を転がしたような、きれいな声が僕の耳に届いた。僕はびっくりして、声のする方に顔を向けた。そこには、まるでおとぎ話から抜け出してきたような、とてもかわいらしい女の子が立っていた。年はおそらく僕より二つ三つ上の、おかっぱ頭でやけに古めかしい、でもとても美しい着物姿の女の子。僕はたった今泣きそうだったことも忘れて、ポカンとした顔で彼女を見つめた。


 迷いこんでしまったの? だいじょうぶよ。さあ、手をつないであげる。


 そう言って彼女は優しく微笑み、僕の手を取った。柔らかくて温かい手。年上のお姉さんに手を引かれて、僕はちょっとドキドキしていた。竹林に穏やかな日差しが降り注ぎ、竹の葉に透ける光の中を僕たちはゆっくりと歩いた。僕に心細さを思い出させないようにするためか、彼女は歩きながらずっと僕に話しかけてくれていた。彼女の名前や、この竹林のこと、山に棲む動物のこと。僕が彼女に「きれえななまえね」と言うと、彼女は嬉しそうに礼を言った。

 やがて僕たちは竹林を抜け、祖父の家が見える場所に辿り着いた。家の方は何だか慌ただしい雰囲気に包まれ、祖父母や両親が緊迫した声で何か話しているのが幽かに聞こえた。彼女は僕を見下ろすと、もう大丈夫ね、と言って手を離し、僕の頭を撫でると、じゃあね、と踵を返した。僕は帰っていく彼女の背に、


「またね」


と声を掛けた。彼女は驚いたように振り返り、そして、


 ……またね


 そう返事をした。その声には少しだけ、寂しさが混じっているような気がして、僕は彼女の姿が見えなくなるまでずっと、その背中を見つめていた。

 僕の姿が見えないことに気付いた両親が蒼白な顔をして、今にも外に探しに出ようとしていたところにひょっこりと僕が現れ、両親はへなへなと地面に座り込んだ。祖父母からはどこで何をしていたのかと聞かれたので、竹林でお姉ちゃんと遊んだ、と僕が答えると、ふたりは顔を見合わせ、首を傾げた。この辺りに彼女と同じくらいの年の女の子はいないというのだ。夢でも見たのではないかと言う大人たちに、僕はむきになって本当だと訴え続けたが、まともに取り合ってはもらえなかった。


 それから僕は、大人たちの目を盗んでは竹林に向かった。彼女はいつも、木漏れ日の中にいつの間にか佇んでいた。風が竹林を揺らし、葉擦れの音が周囲に満ちる時、まるでそれが合図のように、彼女は姿を現した。どこから来て、どこに帰るのか、僕は一度も見ることができなかったけれど、当時の僕にとってそれは大した問題ではなかった。僕は彼女に会えるだけで嬉しかったし、彼女も僕と遊ぶことを楽しみにしてくれているようだった。僕たちは竹林の中で、鬼ごっこをしたり、かくれんぼをしたり、竹の葉で作った船を小川に浮かべて競争したりして遊んだ。


 季節は廻り、僕は五歳になった。僕は両親に祖父母の家に行きたいとねだっては、竹林に通い詰めた。彼女はいつもそこにいて、僕を微笑んで迎えてくれた。不思議なことに、彼女は最初に会った時と、まったく変わらない姿をしていた。僕はこの一年で背も伸び、体重も増えて、ちょっとだけ怖がりではなくなっていたけれど、彼女は背の高さも、たぶん体重も、穏やかで優しい性格も、何も変わっていないように見えた。去年、二つ三つ年上のお姉さんだった彼女は、今は一つ年上のお姉さんになっていた。

 いつものように竹林に行き、彼女と遊んでいた僕は、ふと奇妙なことに気付いた。彼女の姿が、その輪郭が、いつの間にかにじむようにぼやけて見えるようになっていたのだ。僕は何度も目をこすってみたけれど、彼女の姿がはっきりと見えることはなかった。僕が彼女にそのことを伝えると、彼女は寂しそうに、あいまいに微笑んで、何も言わなかった。


 六歳になり、僕は小学校に通い始めた。勉強は好きではなかったが、仲の良い友達も何人かできて、放課後や休みの日は友達と遊んで過ごすようになった。自然と祖父母の家に足が向かうことは減り、僕が竹林を訪れることもずいぶんと少なくなった。それでも、僕が竹林に入れば必ず、彼女は僕を微笑んで迎えた。

 その頃の彼女は、もう僕の目には、まるで幽霊のように半透明に透けて見えた。怖いとは思わなかったが、光の加減によってはほとんど目で姿を見ることができずに、僕はしばしばすぐ隣にいる彼女を探さねばならなかった。彼女はときどき意地悪で、僕が彼女を探しているときにこっそりと後ろに回り込んで、急にわっと大声を出して僕を驚かせた。楽しそうに笑う彼女は、もう年上のお姉さんではなく、同い年の友達のようだった。いつも驚かされることに不満を募らせていた僕は、ある日彼女にこう提案した。


「じゃあさ、手をつないでおこうよ。そうしたらわからなくならないよ」


 彼女は驚いたように目を丸くして、そして嬉しそうにふふっと笑って、僕の手を取った。その日彼女はずっと、理由もなくにやけた顔をしていて、僕はその横顔を見ながら、心の中で「へんなの」と思った。


 七歳になり、小学校という場所にも、勉強にも、それなりに慣れて、僕はもう、あまり竹林のことを思い出さなくなっていた。二年生になり、春が過ぎて、僕がようやく竹林を訪れたのは、夏休みになってからだった。懐かしいような気持ちと、どこか後ろめたい気持ちを抱えたまま、僕は竹林へと入った。

 彼女がいるはずの、いつもの場所に立って、僕は空を見上げた。風が穏やかに竹の葉を揺らし、葉擦れの音が聞こえる。僕は辺りを見回した。彼女の姿はどこにもない。慌ててキョロキョロと彼女を探す僕の手に、柔らかなものが触れた。小さな手の感触。集団下校の時に一年生の子と手をつないだときと同じ感触だった。


 もう、私の姿が見えないのね


 彼女は哀し気に、つぶやくようにそう言った。僕は彼女に「ごめん」と謝ったけれど、彼女がどんなふうにその言葉を受け取ったのかは分からなかった。彼女はつないだ手に少し力を込めて、何かを振り切るように、いきましょう、と言った。

 姿が見えない彼女がそこにいる、ということを確認する手段は、つないだ手から伝わる温度しかなく、僕たちはずっと手をつないでいた。手を離さなければならないような遊び方はできないから、結局僕たちは、手ごろな岩に腰かけ、ずっとおしゃべりをしていた。彼女は僕の、彼女と一緒にいない時間の僕の話を好んだ。学校のことや友達のこと、聞いても全然面白くないだろう、本当に何でもない話を、飽きもせずに聞いていた。

 夕暮れが迫り、彼女がさよならを言って、僕たちはつないだ手を離さねばならなかった。手を離してしまえば、もう僕には彼女がどこにいるのか、本当にそこにいるのか、確認する術はなかった。祖父母の家にいる間、僕は毎日竹林に通ったけれど、夕暮れの帰り道、明日は本当に彼女に会えるのだろうかと、いつも不安だった。

 きっと僕は気付いていたのだろう。やがて来る終わりに。そう遠くない未来に、僕は彼女を失ってしまうということに。


 僕はいつの間にか勝手に八歳になって、背も伸びてしまって、きっと彼女の二歳年上になっていた。両親に塾と習い事を増やされ、自転車に乗れるようになって、祖父母の家に行く機会はますます少なくなった。両親の仕事が忙しくなった時期とも重なり、僕が週末に祖父母の家に行きたいと言っても、聞き入れられることはなかった。結局、その年に初めて竹林を訪れることができたのは、五月の始めのことだった。

 祖父母の家に着くなり、僕は竹林へと走った。初夏の朝の柔らかな日差しが竹林を包む。いつもの場所で、いつものように、僕は風の音に耳を澄ませた。竹の葉擦れの音が聞こえる。そして、小さな柔らかい手が僕の手を取った。

 僕は大きく安どの息を吐き、思わずその場に座り込んだ。どうしたの? と聞いてきた彼女に頭を振って、僕は少し笑った。心配のし過ぎだ。僕は立ち上がり、つないでいない方の手でズボンの土を払った。僕たちはいつも座っている岩のある場所まで歩いて、そしてまた以前のように、他愛のないおしゃべりを始めた。

 その日の僕はきっと、不自然なほどに饒舌だったのだろう。話すことはたくさん用意していた。本当のことも、嘘の話も。話すことがなくなってしまえば、彼女もそのまま消えてしまうと思っていたのかもしれない。とにかく僕は、一方的に彼女に話し続けた。彼女は時折相づちを打ちながら、ずっと僕の話を聞いていた。

 やがて太陽は傾き、夕日が竹林を赤く染めた。ずっとしゃべり続けていた僕の言葉をさえぎるように、彼女は僕に、お別れをしなければいけない、と告げた。きちんとお別れをしなきゃいけない、と。


「……どうして?」


 白々しく僕は聞いた。ひどく喉が渇いていて、僕の声はかすれていた。彼女は、わかっているでしょう、と言った。もうすぐあなたは私の言葉を聞くことができなくなるのだと、手を触れることもできなくなるのだと、言った。彼女の声はとても小さくて、聞き取りづらくなっていた。いや、きっと、彼女の声が小さくなったのではなく、僕の方が彼女の言葉を聞き取る力を、失いつつあったのだろう。彼女はたぶん、精一杯に大きな声で、僕に話していたのだろう。もしかしたら、もうずいぶん前から。

 嫌だ、と言いたかった。でも、言うことができなかった。僕の中の冷たい場所が、どうにもならないことなのだと、訳知り顔で納得していた。彼女が僕の手を握る手に力を込めて、そして、言った。


 忘れないで。憶えていられるまで。


 ずっと憶えていて、と、言ってくれなかったことが悲しかった。ずっと憶えていることができないのだと、彼女が知っていることが悲しかった。ずっと憶えてはいられないのだと、分かってしまったことが悲しかった。

 つないだ手に、ぽたり、冷たい感触があった。彼女が泣いているのだと分かった。でもその涙は、僕の手に跡さえ残してはくれなかった。


 ……………………


 彼女が何か言っている。でも、もう僕には、目の前にいるはずの彼女の言葉をほとんど聞き取れなくなっていた。


「聞こえないよ!」


 僕は叫んだ。つないでいるはずの手のひらから伝わる温もりが、急速に失われていく。強く強く、彼女の手を握りしめたけれど、それは少しも役に立たずに、僕はただ、薄れていく気配を、受け入れるしかなかった。そして――


 僕の手の中にあった、彼女の手の重みが、消えた。


――サァァァァァ


 風が竹の葉を揺らす、葉擦れの音だけが聞こえる。彼女など最初からいなかったのだと、幻を、夢を見たのだと、そう言うように。僕は夕暮れの竹林に独り、立ち尽くしていた。


 その年を最後に、僕が竹林に入ることはなくなった。学校に通い、塾や習い事に励み、友達とバカな話をして笑って、そんな日々を繰り返していく中で、僕は少しずつ彼女のことを忘れた。きれいだと思った彼女の名前も、銀の鈴を転がしたような美しい声も、つないだ手の温もりさえ、僕はもう、思い出せずにいる。


 僕はこの春、中学生になった。

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― 新着の感想 ―
[良い点] とっても静かな小説です。 竹どうしが擦れる音が聞こえるようです。 「大人になる」ってことの輪郭をなぞったような感じがしました。ご馳走様です。
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