冬を忍んで咲く花は
「花鎮めのお祭りを、ご存知ですか?」
ふいに愛音が尋ねてきた。奈良では四月の半ば頃に、花鎮の祭りと言うものを催すのだと言う。桜の花の散る頃に、昔は疫病が流行ったので、邪気を鎮めるのだそうだ。愛音の話では、そこで薬効のある植物、百合の根と忍冬の花を供えるのだと言うのだ。
「すいかずらは、冬を耐え忍ぶ花と申しまして、忍冬とも書きますけど、本当は蜜を吸う花なのです」
どこで手に入れたのか愛音は、新しい花を持っていた。花は秀でた四つの花芯をささやかな形の花弁が包みきれていない可憐な花で、淡い黄色をしていた。愛音の話では先初めは白いのだが、夏が近づくにつれて黄色くなるのだそうだ。
「こうして吸います」
同じくらい淡い色の唇で、愛音は花芯を口に含んだ。戦時下で甘いものに飢えた子どもたちは、こうして空腹をしのぐのだと言う。
「やってみてください」
言われるままに、愛音と同じ仕草で、私は花の蜜を吸った。愛音の青くて、甘い唇の香りはここから来たのだ。
「美味しかった」
愛音は、曇りのない笑みを漏らすと、もう一度私にその唇を味あわせた。
「ありがとう、兄さま」
薄い静脈の浮いた震える手で、引き攣る胸を抑えながら愛音は、笑った。
「…あなたが、教えてくれた味でした」
二日後、愛音は急死した。夜間、突然の心筋梗塞だ。私に抱かれながら、愛音は息絶えた。声ひとつ立てなかった。閉じた目蓋から、夜露より冷たい涙が流れていた。
夏の花に埋もれた愛音に、私は、ついに告げることが出来なかった。
幼い頃別れた母親は死に、姉の碧音は実の父親によって売り払われていたと言うことを。天津で爆撃を受け、匪賊に暴行された碧音に、渡航は不可能だった。根を離れた切り花のようにかすかに生きていた愛音に、真実を伝えることは、私には出来なかった。
「愛音に…妹にやっと、会えるのですか?」
「そうだ。もう、苦しまなくていいんだ。家族のために。祈って」
私は震えるその手に八端十字架を握らせて、何度も囁いてやった。逃げようと這った腰を撃たれ歩けなくなり、爆弾の破片で光を奪われた。深く長かった碧音の苦痛は、ようやく終わりを告げるのだ。
「あのドアの向こうにいる。ドアが開いたら、声をかけてやってくれ。母さんも、お父さんも一緒だ」
私はドアノブにテグスを巻きつけてくくった、手榴弾のピンの抜け具合を調節しながら答えた。
私の生存は、もう長い間、筒抜けだったはずだ。姿を消した私の父、密草重弘は知っている。息子の葵は軍歴上の死を装い、ハルピンで非合法の諜報工作に従事していたことを。当然だ。すべて分かっている。父は同じ手で死を装い、祖国を『スメルチ』に売ったからだ。
「出て来い!」
コザック帽に、バラライカを肩がけしたロシア兵が、乱暴にドアを叩く。窓伝いに屋根に上った私は、指ナイフを携え、その背後に降り立った。
「怪我人が寝てるんだ。乱暴にノックするんじゃない」
二人は銃を構えることなく、私に頸を裂かれた。即死しなかった通路側の一人が、あおのけに階段を転落しながら、トリガーをガク引きした。銃声がハルピンの暮れかけの空に木魂する。集まる足音の多さに背筋を強張らせながら、私は雨どいを使って壁際に降りた。
ハルピンの気温は夏でも、摂氏二十度前後にしかならない。通りには冷たい日中の雨が残っている。私は目を閉じて足音の人数を数えた。ぬかるみの足音は路地裏に隠れた、スメルチ隊員の指揮官の位置を教えてくれる。
人数が十分に部屋の階段を上ったのを確認すると、私は奪った機関銃を片手に裏路地から回りこんだ。ソ連兵と違うスメルチ隊員の制服。
バラライカを持った兵隊は、まだ二人残っていた。歩きながら私は、腰だめにしたバラライカを乱射した。逃げる間もない狭い路地で、応戦した二人は血肉を炸裂させて斃れていく。隊員服を着た蒙古系ロシア人、整形した密草重弘は、目を剥いて私の顔を睨みつけてきた。
刹那、碧音の部屋が爆発した。仲間を殺され猛り狂ったソ連兵が、ドアを開けたのだろう。目の前の男は、瞳を血走らせて私を怒鳴りつけた。
「娘を、殺したな!?」
「お前が、とっくにな」
私たちは向かい合わせに、弾丸を相手に撃ち込み合った。私が弾倉が空になったバラライカを棄てるとブローニングを抜き、トカレフを撃ち尽くした父がコルトを抜いても、銃撃は止まなかった。いつしか私たちは、お互いを抱き合っていた。お互いが、削り取られていく。果てない憎しみも、積年の恨みも、妄執した血縁への情も。思うのはただ、裏切りを疑わず、私たちを信じ続けて死んだ、妹たちのことだった。
愛音が笑っている。忍冬を蜜を吸って。堪え切れないとすら、彼女は口にしたことがなかった。
(…温かい)
ハルピンの夏は、こんなに冷え込んでいるのに。
金臭い血の味の代わりに、青い夏の花蜜の味が私を安らがせていた。私はもはや、瀕死の父を抱いている想いはなかった。眉ひとつひそめずに運命に堪え、密かに息を引いた、愛音の清かに冷たい唇の感触しか想わなかった。
「私が悪かった…悪かったマモル。だから、助けてくれ」
誰かが呻いていた。混濁した意識の中、私は目を覚まさせられた。生きている肉が灼けるこの痛みと、血が流れ出る苦痛。火薬の匂い。他人の肉の匂い。もう、沢山だった。
「頼む…」
「…黙れ」
私は答えた。台無しじゃないか。
(さっきまで、いい夢を見ていたんだ)
「せめて静かに眠らせてくれよ」
(愛音、碧音)
「今、みんなを連れて行く」
穴の開いた自分の胸をまさぐると、私は最後に残した手榴弾のピンを引いた。