3
3
学校祭の期間中、自宅に何度か、風見さんから電話がきたらしい。
たまたま時間がなくて折り返さなかった。帰りが遅くなってしまい、電話をかけてもいい時間帯を過ぎてしまったのもあったけど、やはりなんだか疲れてしまったのが一番の理由だった。申し訳ないとは思ったのだけど、私の家では夜九時以降電話をかけてはいけないという決まりがある。それを盾にすれば、言い訳できるだろうか。
──秋葉くんと梨南ちゃん、か。
学校祭最終日、なんだか身体がだるくて、お風呂に入った後すぐ横になった。
何も思い出したくなくて、仕事を無理やりこしらえて走り回っていた。だからすぐに寝られると思ったのに、なんだか目が冴えてしまう。ぎしぎしと胸の奥で音がするようだった。
──梨南ちゃんとはほんとうに、お似合いだわ。
青大附中の人たちよりはるか前から、そう気付いていた自分に繰り返す。
梨南ちゃんは決してそれを認めることはなかった。周りで一言でも、秋葉くんに似ているといおうものなら、きっと制裁が下されただろう。きっと梨南ちゃんは、自分に似ている秋葉くんを見るのが本当はいやなのだろう。鏡を見ているみたいに感じるのだろう。
小学校に入学した頃から、秋葉くんはずっと梨南ちゃんのことを追いかけていた。健吾が私にくっついてくるのと同じようにだった。私は聞いたことないけれども、特殊学級に秋葉くんがいた時は、「梨南をおよめさんにする」と口走ったらしいとも。それを耳にした男子たちが「やーい、ゆきのこ学級の奴と結構するなんて、やっぱりお前おかしいんだあ」とからかわれた梨南ちゃんが当然立ち向かったのは言うまででもなかった。そうすれば、梨南ちゃんがまた秋葉くんをかばってあげた流れとなり、おばさんがお礼を言う。そして梨南ちゃんは否応なしに秋葉くんに懐かれる。「あっちに行って!」と喉元まで出かかっているのに、言えない、そんなジレンマだったと思う。
女子たちも、「梨南ちゃん可哀想よねえ」と、本人の前では同情したけれども、陰では、
「けど、秋葉と梨南ちゃんって、行動パターンが似てるよね」
そうささやいていた子もいた。決して悪口ではなかったと思う。秋葉くんと梨南ちゃんのしゃべり方がどこかまっすぐで抑揚がないのも、気に入らない人たちに立ち向かう時にまっすぐな視線で余所見せずぶつかっていくところとかも同じだった。
確か小学三年の時、「ゆきのこ学級」の教室に掃除当番を割り当てられて通ったことがあった。その時梨南ちゃん以外の子は、秋葉くんに言葉多く丁寧に説明していた。そうしないとたぶん理解できないだろう、そう思っていたからだった。私もお母さんからそう習っていたし、それが普通だと思っていた。梨南ちゃんだけは、私たちに接する時と特段変わらない言葉遣い……あの、まっすぐした、感情の篭らない声……で話し掛けていたっけ。それが妙に秋葉くんはお気に召したらしく、梨南の手を握り締めたまま床に頭突きしたり、壁を叩いたりしていた。なんでも、そうしていると落ち着くのだという。梨南ちゃんは何も言わず手を握られたまま、床を叩く秋葉くんに寄り添っていた。同じ方向を見据えて、正座していた。
なんだか、ごくごく自然の形に見えた。
それを言ってしまうと梨南ちゃんは激怒するだろう。
だから、私はずっとこくんと飲み込んだままでいた。
──似てない双子みたいに、私には見えるのにな。
青大附中内で、そう感じている人が私だけではない以上、これから先、梨南ちゃんを見る目はだいぶ変わるのではないかなって気がする。
改めて梨南ちゃんの今後置かれる立場を考えてみた。
E組に「隔離」……先生たちがどんなに言い訳しようとも、私たち二年B組の生徒からしたらそうとしか思えない……された状態において、現在のところ何か問題が起こったためしはない。少なくとも二年B組の中では穏やかな時が流れている。私も女子たちに表だって悪口を言われることはなくなったし、男子たちもたまにどつきあいをする程度、梨南ちゃんがいた時のように罵りあうことはなくなった。健吾が完璧に男子たちを抑えているからだろう。
──どんなに殺してやりたい相手であっても、決していじめない、これが俺たちの意地だ。
健吾の力って、男子限定でいえば、本当にすごいんだなって思う。
そして今回、梨南ちゃんが、青大附中の生徒に決していないタイプの男子と「同類」「似ている」そう感じさせてしまった事実をよくよく考えてみた。
本当は学年トップ、もしかしたら青潟市の中学二年生合わせてもトップかもしれない成績。みなそれに一目置いていたはずだった。けど、それは「成績」だけであって、本質は自分たちと全く違う世界の人間。少なくとも私や健吾、青大附中に在籍する生徒たちとは違う雰囲気の人間。決して見下すわけではないけれども、一緒にいて心安らぐ相手ではない。
──ああいう変わった男子と、杉本さんは、同じなんだ。
証明された、と言ったら決め付けすぎかもしれない。
口には出せない。
だってこれは、一種の「差別」だもの。
けど、自分が好きになれない相手を遠ざけたいと感じて、どこがいけないんだろう。
私にはどうしてもわからなかった。梨南ちゃんを嫌いだというわけではない。ただ、一緒に話をしていると全身締め付けられるような痛みを感じていた。自分が頭の悪い、何にもできない女子のように思えて惨めだった。それを感じないようにしてきた。けど、梨南ちゃんから離れて、ふうっと楽に息が吸えて、目の前にいろいろな楽しい出来事が増えてきているのも私には本当のことだった。
梨南ちゃんから離れた心地よさを、私はもう、忘れることができない。
私は目を閉じた。結局、健吾の側にずっといるよう命令され、使い走りをさせられたせいか、学校祭後半は忙しかった。走れば走るほど、考えれば考えるほど、自分がふわっとかろやかに階段を昇っているような気持ちになる。ずっと梨南ちゃんの陰に隠れていた私だけど、本当はこんな風にいっぱい、走り回りたかったんだ。自分でものごとをどんどん決めて、前に進みたかった。
──梨南ちゃんから完全に離れたままでいて、それでも「差別」しない方法ってないのかな。
佐川さんに会いたくなった。どうしてるかな。学校祭、来てくれなかった。
次の朝、いつものように一人で教室へ向かっていた。学校祭が終わるとすぐ、健吾はバスケ部優先で朝練習に出かけていた。評議委員とバスケ部の両立は体力持たないんじゃないかなって思っていたけど、健吾は元気だった。授業中、居眠りしたとこ見たことない。
「ハルー!」
鼓膜破れそうな甲高い声で、ちょっとの眠気も一気に覚めた。
慌てて笑顔をこしらえた。
「おはよう」
ドリ、とはまだ呼びたくない。風見さんだった。鈴っぽいマッシュルームカットを相変わらずきれいに揺らしていた。肩を並べて階段を昇った。
「昨日電話したんだけど、気付かなかった?」
ああそうだ。なんとなく電話の音がしたのは気付いていたけど、起きるのが面倒だったったっけ。やっぱり風見さんだったんだ。謝った。
「ごめんね、学校祭が終わって、なんだかすぐに寝ちゃったの」
「うち、夜遅くても平気なんだけどお」
遅いとうちは電話できないのよ。
「ふうん、そうなんだあ、それでね」
私は風見さんの髪形をまず誉めることにした。だってこんなきれいに、髪の毛の先が丸まって崩れないって、すごいと思うもの。
「ほんと、可愛いな、その髪形」
「え、そうそう? これね、朝一時間くらいかけてブローしてるんだ」
私も人のこと言えないので無言で笑うだけにしておいた。
「で、今日の昼休みなんだけど、大丈夫?」
「何が大丈夫なの?」
もちろん暇なのは承知している。他のクラスの女子とおしゃべりをする程度だし、クラスでは社交辞令ばかりだし。風見さんと話してもいいのだけど、なんだか性急な感じがして少しじらしたかった。ずんずん迫ってくるのを、少し押し留めたい。
「ちょっとだけ、付き合って欲しいんだ。私、給食終わったら、すぐにB組に行くからさ」
「いいけど、どうして?」
ふるふると、髪の毛先が風に揺れていた。どんなヘアブロー剤使っているんだろう。きっと一気に固まっちゃうタイプかな。ヘルメットみたいに見える瞬間がある。相変わらず細い目で風見さんは顔をほころばせた。
「会わせたい子がいるんだ。今日どうせ、放課後は忙しいんだろうなって思ってたし。その辺は私も気遣いしたんだよ」
評議委員会が学校祭の後片付け関連ですぐ開かれることをちゃんと読んでいてくれたことには、感謝した。
「でも、昨日までほんとハル、大変だったよね。ほら、二日目にさ、例のあの子のこと」
二日目というと、説明しなくてもわかる、梨南ちゃんと秋葉くんのことだ。
「あの杉本ってパーなのかな? 何考えてるんだろうね。やっぱりE組にまわされるのも当然だなって改めて思っちゃった。だって、ずうっと真正面、一点しか見てないんだよ。何をするにも、横を向くにも、回れ右するんだよ、体育の時みたいに! なんだかどこかおかしいよね。E組って先生たちいろいろ言ってるけど、絶対少しおかしい……」
「それ以上言っちゃだめよ」
「なんで?」
もし風見さんが、梨南ちゃんの悪口をとくとくと語りつづけたら大変なことになる。
E組に対しての本音を語ることは、「見下しの差別」として認識されちゃうから。
本音はともかく、学校内で「差別」は決して許されないことだから。
「だって、私、嫌いなんだもの、しょうがないよね」
「でも、傷ついてしまうわ」
「傷ついている振りして、傷つけてるのはあのおばかさんの方よ」
止めなくちゃ。また声を張り上げた。もうB組の教室前なのに。他の人たちに聞かれたらどうするの。
「だって、そうじゃないのよ。あの馬鹿。要するに自分のあこがれてる人に認めてもらえないから赤ちゃんみたく騒いでるだけじゃない。こうやって、私はすごいのよって誉めてもらいたがってるだけじゃない。ああいうの見ると、思いっきりひっぱたいてやりたくなるのよね。それにほら、あの立村なんかと」
まずい。慌ててしまった。ここの廊下、二年生しかいないからまだいいけど、もし三年生の耳に入ったら風見さん、どんな目に遭うかわからない。本音はどうだかわからないけれど、立村先輩は一応、評議委員長なのだから、みな「敬語」を使う扱いをしているのだ。
風見さんは私が止めるのを全く聞いてくれない。それどころか首をぶんぶん振りつづけ、髪の毛をベル状態に揺らした。
「そうよ、あの立村なんて、本条先輩の跡継ぎだなんて絶対に認めないわ。本条先輩が評議委員長だった頃はよかったなあ。みんなびしっと、言うこと聞いて、文句言う人なんて誰もいなくって。話もすっきりしてわかりやすくって。なのに、あんな豆腐をぐっちゃぐちゃにしたような顔の男子んかに青大附中を仕切られるなんて、たまったもんじゃない!」
「せめて『先輩』ってつけなくちゃ」
「あんなぐず、どうして敬わなくちゃなんないのよ!」
とりあえず風見さんが、立村委員長を蛇蠍のごとく嫌っていることは理解した。でも私の立場も考えて欲しい。一評議委員としてもそうだ。それに輪をかけて私の場合、梨南ちゃんがらみで立村先輩ににらまれている。これ以上弱みを握られたら身動き取れなくなってしまう。
「でもどうしてそんなに立村先輩が嫌いなの? 暴力はふるってないし」
「本条先輩が最高だからよ!」
──本条先輩?
風見さんの口調は、本条先輩に関する話のみ、とろとろに甘かった。
私の手を握り締め、頬ずりしそうだった。たぶん私のことを、本条先輩だと思って語りかけているんじゃないかなって気がした。けど、本条先輩のことをそれなりに見聞きしている私としては、素直に頷けずしばらく困り果てた。
だって、女子としては、受け入れたくないことばっかりしている人なんだもの。
そんなに目をきらきらさせて、私の手をぶんぶん揺らし語るような男子なんだろうか。
本条先輩って。男子でもないのに、風見さんってば。
「本条先輩、ほんっとかっこよかったよね。新入生歓迎会の時に本条先輩が挨拶された時の、『よくぞ、青潟大学附属中学へ! 俺たちは君たち一年を、全力で応援させてもらうぞ!』こんなありふれた言葉をね、本条先輩はもう、しびれるような迫力で言ってくれたのよ。ううん、うまく言えないけど。ハルも見てたでしょ、きっと見てたはずよ。それにね、頭もぴか一、学年トップを最後まで譲らなかったしね。生徒会の友だちから聞いたけど、本条先輩のクラスってものすごく性格悪い奴ばっかりで困ってたらしいんだけど、あの方が一気に要の奴をぶん殴って、言うこと聞かせたんだって。それ、評議委員会の中でも同じだったみたい。『粛清』っていうのかな? スターリンって言いたくなっちゃうくらい。銀縁めがねだって、立村みたいな馬鹿男子がかけてるんだったら馬鹿に輪をかけてしまう程度だけど、本条先輩だと違うのよ。もう、知性の輝きって感じ。リレーでも何時も本条先輩がアンカーだったし、『青大附中ファッションブック』でもいつもモデルに選ばれてたし。私、規律委員の子から分けてもらっちゃったよ。今年はあの馬鹿立村が相手? 即、ごみ箱へ捨てたわ。ねえねえ、それに知ってる? 『スター誕生』って、本条先輩が主役張った評議委員会のビデオ演劇。これがもう、かっこいいったらないの! きんきらきんのラメだらけのスーツでアイドル歌手っぽくバラードを歌っているとこ見せてもらったけどね。もう、すべてが素敵。『パールシティー』なんて目じゃないわ。他の女子たちは規律委員会の南雲先輩を絶賛してるけど、私からしたら月とすっぽん。次の年の『忠臣蔵』は、松の廊下で浅野の馬鹿殿様さえいなくなれば完璧。ほんと、私、赤穂の馬鹿殿様にしか見えないのよね、立村みたいな奴って。ああ、ほんとあんな素敵な人、いないわよ! 本条先輩だから、生徒会だって評議委員会に敬意を表していたし、納得してたのよ、それがなによ」
「何?」
たぶん、次の言葉はそれだろう。想像できた。
「あの馬鹿男がね。なんで本条先輩の跡に置かれるわけ? 何にもできないで、たーだ、天羽先輩たちに全部後始末任せて、ずうっとあの馬鹿杉本の尻をおっかけていて。頭の悪いE組連中がなんで、青大附中の重要な役職についてるわけ?」
「でも、それは、立村先輩が実際、E組ではなくてD組だからじゃないのかしら」
「同じよ!」
もっともだ。私もほんとは、そう思っている。
「だって、立村って指で数数えてるんでしょ。九九もできないって噂あったけど、ほんとかしら。何か物考える時に数直線を引かないと何もできないとか。そんな奴をなぜ、青大附中に入れたんだろう? そう思わない?」
迷った。どうすべきか。私は風見さんの眼をじっと見据えた。唇を結んでみた。
決して間違ったことではない。少なくとも半分以上は。
でも、それを受け入れることは、今の私にできない。
「そんなこと言ったらいけないわ」
私はゆっくり告げた。また髪の毛をベル揺らしする風見さんに、今度は強気で言い切った。
「私、人の悪口を聞かされるのって、なんだかいやなの。教室に入るわ」
「ちょっと待って、ハル」
無視して二Bの扉を開けた。肩にしがみついてくる風見さんの手を振り払うべきか迷ってそのままにした。振り返りはしなかった。
「ごめん、私、またしゃべりすぎちゃった」
「先輩たちにはきちんと礼儀を守らないといけないわ。私、礼儀を守らない人って、好きになれないの」
それに、と付け加えた。
「もし、風見さんの言う通りだとしても。きっとみんな、言われた相手よりも、言った人の方を軽蔑するわ。一緒に頷いていたほうもね」
風見さんの手が肩から滑り落ちた。涙声かもしれない。ちょっと男子っぽい小さな声。
「ごめん、ハル、嫌いになっちゃった?」
一切振り向かず私は教室に入った。居心地悪そうに私を迎えた女子たちに、たっぷり笑顔で「おはよう」と声をかけた。
私の知る限り、風見さんが夢見ている本条先輩とその実像とはかなりずれがある。そんな王子様タイプの人ではない。健吾からもそのあたりの事情はすべて聞いていたし、なんといっても立村先輩がらみの言動を考えるとそれほどすごい人なのかな、っていう気がした。
──なんで、立村先輩を評議委員長に選んだのかしら。
決して健吾をひいきしたいからそう言っているわけではない。
もし私だったら、健吾よりも、天羽先輩を選んだだろう。
私の目……評議委員会と全くかかわりのない場所にいた頃から見ても、なぜ立村先輩を頭にしなくてはならなかったのか、その理由がわからない。
佐川さんは「いいかい、佐賀さん、敵は立村、奴だけだ」、なんて言っていた。あの佐川さんが恐れる相手なのだと考えれば、用心は必要だろう。すでに私と佐川さんがこっそり連絡を取り合っていることを知っているのだから、危険といえば危険な人物だと思う。
けど、それとは別に、青大附中の実質的権力者である評議委員長の座にふさわしい人とは、どう考えても思えない。外見が梨南ちゃん風に言うと「売れない歌舞伎役者風の顔」というか、それが悪いということではない。小学生向けの学園漫画に出てくるような、いかにも人のよさそうな美少年風に見えなくもないのだけど、全然記憶に残るようなところがない。私もあまり、男子っぽい人は苦手だ。健吾だって本当だったら、私のタイプではなかったのかもしれないと思う。けど、やさしく髪の毛を撫でてくれたり、「おしおきの続きだぞ」とかいって唇に触れたりとか、そのしぐさに自分でもどきどきしてしまう時がある。
たぶん、そのあたりが、健吾と立村先輩との差なのだろう。
どきん、が全くない人。
正直なところ、風見さんの罵倒した立村先輩批評は当たっていなくもない。ただ、それを人前で口にしてはいけない。この学校でうまくやり過ごしていく上で、それは絶対の必要条件だ。なんであんなにわめくんだろう。この前だって、
「私の友だちで、生徒会の子が」
とか言っていたのに。もし少しでも生徒会の人から話を聴く機会があるならば、仮にも青大附中の評議委員長に逆らうと碌なことが起こらないと教えられてなかったのだろうか。
立村先輩なんて正直どうでもいい。
問題は天羽先輩をはじめとする三年男子軍団だ。プラス、轟先輩、と言ってもいい。
あの人たちはきっと立村先輩の気付かないところで、実質的評議委員長の仕事を片付けているんじゃないのか、むしょうに気になる。健吾たちは気付いていないみたいだし、他の委員たちも口には出さないけれども、時々中庭や自転車置き場などで四人固まってひそひそ話をしているのが、どうも胡散臭い。何考えているかわからない。立村先輩専属の隠密、と考えた方が私には納得できる。
本当のところはわからない。もっと知りたいのに、わからない。
佐川さんみたいに、頭がよくなりたい。
梨南ちゃんはあいかわらず、一部の授業にだけ参加した後、すぐにE組へ戻っていた。この状況にクラスのみんなも慣れてしまっているようだった。最初の頃は、梨南ちゃんが教室に入るなりぴんと張り詰めた空気が満ちて、何時爆発するかわからない状態だったのだけど、もう空気でしかないみたいだった。梨南ちゃんも一番後ろの席で、真正面を見据えたままノートを取っているだけ。とりたてて騒ぎを起こすようなことはしなかった。たまに女子が、「杉本さん、元気?」とご機嫌伺いをしているようすだけど、梨南ちゃん本人が全く表情を動かさないまままっすぐE組に戻るので、それきりになる。
別に、私、脅しているわけでもないのに。
「ハルー!」
給食を片付けて、私が廊下に出ようとした時だった。
またあのすっとんきょうな声が響き渡った。
とどろいたって言った方が近いかもしれなかった。
今朝、ちょっときつく言い過ぎただろうか。
でもうっかり甘い顔をすると、こういうタイプの人ってつけあがる。梨南ちゃんで八年も修行をしてきたんだもの。注意しなくちゃ。
「なあに?」
静かに答えた。やはり、風見さんはおどおどと唇を振るわせるようにして、
「さっきは、ごめんね」
まあ、私も、次の必修クラブで顔を合わせる前にはなんとかしようと思っていた。向こうからあやまってくれたのならば、こちらが頭を悩ませる必要もない。五秒黙ったままで風見さんの眼を見つめた後、
「気にしてないわ」
笑わず返した。
「ほんと?」
おずおず見返すところが、なんだか幼い。うちの弟みたいだった。
「あーよかった! なら、今から来てくれるよね!」
「どこに?」
忘れていた。朝、そういえば誰かに会わせたいとか言っていたような気がする。
背中の方をすすっと叩く手があり。振り返ると、健吾が厳しい目で私をにらんでいた。大丈夫よ。なんだか健吾、また私が梨南ちゃんタイプの女子にいじめられるのではないかって気にしているのだろう。大丈夫、もう同じ失敗なんてしない。ちゃんと、言うべきことは言うし、そうできるって私がわかってるもの。
「あいつ、ハルの彼氏?」
「うん」
背を一瞬小さく丸めると、風見さんは私をもう一度見上げて、
「休み時間なくなっちゃうから、すぐ、来て」
断りもなく片手を取って、廊下を走り出した。周りで「廊下を走るな!」って、どこかの規律委員が騒いでいる。違反カード切られたくないな。私は少し息が切れた振りをして、手を解き後を追った。
風見さんは生徒玄関まで全力疾走した後、げほげほと咳をして、
「じゃあ、銀杏の木の下まで、ダッシュしよう!」
言い終わらぬうちに、すのこに立ち、靴をつま先で蹴飛ばすように履き替えた。
「ハルも、早く、早く!」
そんなあせる必要あるのだろうか。それになんで、風見さんそんなに、私に近づきたがるのだろう。言われた通り外靴に履き替え、風見さんを追おうとすると、おなかの給食がたぽたぽ言ってちょっと痛くなった。走るなってことなんだきっと。銀杏の木に向かってひとり駆け抜けている風見さんが、鈴というよりも、季節はずれの風鈴に見えた。
なんだか、可愛い。というか、子どもっぽいというか。
私ははや歩きで、横腹を押さえながら歩いた。
銀杏の木は青大附中のシンボルと言われていた。校舎裏の林に入る前にひとかかえもある銀杏が、まだ青い葉をつけたまま立っている。先に着いた風見さんは、木の幹にうわっと抱きついて、荒い息を整えていた。私が追いついたのを振り返って確認すると、すぐにそこから離れ、
「ナミー!」
校舎内と同じ声のはずなのに、きんきら声がなぜかすうっと通る。
私は立ち止まったまま、まず前、次に後ろ、横、横、見渡した。
もう一度、風見さんが叫ぶ。
「ナミー、早く、出てきてよ!」
──なみ?
やはり私の「ハル」と同じ風に、愛称で呼びたくなる子なのかもしれない。
そんな子になぜ、私を会わせたがるのだろう。
誰かいるのかな。
「声、大きすぎるよ、もう、ドリってば」
私の背後から「ナミー」が返事した。振り返ると、黄色い叢に隠れるようにして、ヘアバンドをした女子が、穏やかに微笑んで立ち上がっていた。隠れていたのだろうか。どうして、私の隣に立つのだろう。じっとこちらを見つめ、「ナミー」はえくぼで答えてくれた。
「ごめんね、無理やりで」
一度も話したことのない、だけど、顔は何度も見たことのある女子だった。
「渋谷さん?」
「ナミー」が目の前の風見さんに動ずることなく受け答えしているのを見て、私も落ち着いて返事をしたくなった。初対面の人と打ち解けるのになれているのかもしれない。だってそうだろう、彼女は、青大附中の生徒ならたぶん誰も知らない人いないだろう。
「ほら、ハルはナミーのこと知ってるよね」
頷いた。知ってはいる。確かに。
「けど風見さん」
「ドリって呼んでよ!」
口を尖らせた後、風見さんは黒い別珍のヘアバンドをした「ナミー」に、
「ほーら、ナミー、やっぱりハルはナミーのこと知ってるよ。私たちやっぱり、三人、親友になる運命だったんだよね。親友の誓いをしようよ。時間ないけど、早く早く!」
もう一度、「ナミー」は私に肩をすくめて見せた。風見さんに、
「じゃあ、何でもいいからドリのやりたいようにして。私、別にかまわないわよ。ごめんね、佐賀さん。ドリはテンションがあがると、もう手に負えなくなるから、好きなようにさせるのが一番いいのよ」
私に向けた言葉は、あえて風見さんに聞かせないように小声だった。了解のしるしに頷くと、さらに「ナミー」はひそひそ声の会話を続けた。
「ここではうまく風見さんに合わせておいて。あとでゆっくり話したいから」
もう一度、念を押すように、
「風見さんのいないところで」
私は黙って笑顔を向けた。とにかくここは穏便に済ませておきたい場面だと、「ナミー」も私も理解していたからだった。
風見さんが言うように、「親友になる運命」だから「ナミー」のことを知っていたわけではない。その点については、たぶん「ナミー」も理解していたはずだ。
だって、あたりまえ。青大附中の生徒ならみな、「ナミー」のことを知っている。
生徒会が評議委員会よりもほんの少し有利な点があるとしたら、全校生徒全員がメンバーのフルネームを知っているかどうかじゃないかと思う。いくら評議委員会が実質的権力組織だとしても、ほとんどの生徒は評議委員会イコール立村先輩とせいぜい天羽先輩、あとは健吾くらいしか知らないのではないだろうか。その点、生徒会は選挙でもって選ぶ関係もあり、いやおうなしに顔を知られる羽目となるのだから。私が知らないわけがない。
──青大附中生徒会書記・二年・渋谷名美子さんを。
ただ、もし彼女……渋谷名美子さん……から、
──ナミーと呼んでね。
そう頼まれたとしたら、どう答えていただろう。
まず絶対頼みそうにはない渋谷さんと目と目で合図し、時計を覗き込む真似をした。風見さんがずっと「友情の証」にしたいらしいきれいな黄葉を探しているところだった。
「ねえ、ドリ、悪いけどそろそろ鐘が鳴るから、佐賀さんと先に戻るわ」
「そんな、待ってよ、ねえ、まだ何にも」
「いいじゃない、急がなくたって、ちゃんとするから」
私の肩を軽く叩くと、渋谷さんは勢い良く走り出した。私も彼女を追いかけた。おなかがちゃんとこなれたせいか、走っても息苦しくなかった。同じ走力なのだろう。肩を並べて駆けるのが苦痛じゃなかった。鐘が空に響く直前三十秒前、私と渋谷さんは無事、生徒玄関に到着した。後ろで、
「もう、なんで! もう私ばっかり!」
騒いでいる風見さんが、りんりんと風鈴ならしそうなかっこうで追いかけてきている。
振り返らず私と渋谷さんは、教室へと戻った。