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風見さんとしばらくおしゃべりした後、
「そろそろ戻らなくっちゃ」
一瞬でも切り上げ時を読み間違えたら、また話が長引きそうだったので、まずは立ち上がった。かばんも持った。
「ええ? もう行っちゃうの?」
「うん、評議委員の仕事がまだあるかもしれないから」
本当は健吾のご機嫌伺いだけで、二年評議女子が動く必要なんてないのだけど、だらだら語らっているのも落ち着かない。目の前の風見さんはかくっと首を切られたように項垂れた。そんなに極端に落ち込まなくたっていいのに。だって風見さんには私よりもクラスの女子友だちがたくさんいるじゃない。
「うん、じゃあ、また明日ね」
コップとドーナツの入っていた袋を捨てて、もう一度挨拶をして廊下に出ようとすると、風見さんがまた追いすがってきた。
「そうだ、ハル、聞いていい?」
胸ポケットから生徒手帳を取り出し、開いて私に見せた。オレンジ色のシャープペンシルが刺さっている。アドレスページだった。たくさん女子の名前が並んでいた。
「これに、電話番号、書いといて」
「ええ?」
「あとで電話できるじゃない」
もちろん、女子同士、なかよし同士、電話番号を交換しあうことは普通のことだった。めずらしくない。私の場合だと、一年の頃から梨南ちゃんと健吾がらみのトラブルもあって、同じクラスの女子とは直接電話番号交換をしたことが全くない。恐らく頼めばもらえるのかもしれないけれど、どうせクラス連絡網もあるし、年賀状も無理に出す必要がないし。小学校時代の友だち以外、アドレスを持ってはいなかった。
ただ風見さんとは、そこまで言われるのなら電話番号くらいいかもな、とは思った。クラスが違うと電話番号を知る方法も、まずないから。
私は簡単に「佐賀はるみ」と電話番号だけを書き記した。住所は書かなかった。
「ありがとう! じゃ、あとでね」
手を振って別れた。
──なんで風見さん、私と友だちになりたがってるのかしら。
もちろん、私にも友だちがいないわけではなかった。ほとんどが小学校時代の友だちで、梨南ちゃんと縁を切ってからその繋がりはさらに強くなったような気がしていた。みな、心ひそかに梨南ちゃんへの抵抗感を感じていたんだなって、初めて気がついた。
でも風見さんの個性は、今まで友だちでいた子たちとはなんとなく違っていた。
元気で、笑顔で、物事すぱすぱ言って、それが嫌味にならない子。
私のことを応援してくれる女子。
刺繍クラブの席でたまたま一緒に刺していたグループの子。
まあ、B組の女子たちと社交辞令めいた言葉をやり取りするよりは、風見さんと一緒に行動するのもいいかもしれない。今のところ、まだ私の中では「ドリ」と呼ぶところまで来ていないけれども、流れに沿ってその辺は合わせていこう。
私は三階へと向かった。
風見さんがさっき用心するように話していた音楽室をうまく迂回し、反対側の階段から昇っていくと、そこには視聴覚教室が用意されている。もちろん今日は学校祭だから、学校のビデオ上映で占拠されているのだけど、隣の準備室を特別に今回、評議委員会用に使わせてもらっていた。ビデオやデッキやいろいろなものが積み重ねられているけれど、大きめの机を並べるだけのスペースは保たれていた。ただ、全学年の評議委員が座るだけの広さはないので、結局のところ健吾をはじめとする男子評議の二年、三年が入れ替わり立ち代り利用するだけだった。無言のうちに女子は追い出されている感じだった。
女子の先輩たちもかなり文句を言って立村委員長を責め立てていたけれど、結局押し切られたようだった。それならそれで、という感じでみな別の場所に自分の仕事場を用意しているのだから、それでもいいのではという気もした。
ノックして、一声かけると、「どうぞ」と女子の声が返って来た。
たぶん三年の轟先輩だ。少しかすれた感じ、ハスキーボイス。
「ああ、佐賀さん?」
てっきり轟先輩だけかと思ったら、奥の席に天羽先輩と更科先輩が仲良く肩を並べて座っていた。轟先輩はノートを持って、無理やりっぽい笑顔を作った。そんな無理しないでもいいのに。笑っていてもそうでなくても、轟先輩のかもし出す雰囲気は変わらない。
「ああ、新井林ならな、立村と打ち合わせしてるよ」
穏やかに天羽先輩が扉を指差した。さっさと出て行けってことだろう。更科先輩がにこやかにうんうんと頷いた。天羽先輩が大きな狛犬だとしたら、更級先輩はチワワ。二匹のお犬さまとの対談中を邪魔してしまったみたいだった。
「たぶんすぐ用事終わると思うから、行ってみたら?」
轟先輩がまた促す。相当私がいると困るのだろう。
「どこで打ち合わせしているのでしょうか」
「たぶん、喫茶室の方だと思うよ」
更科先輩がまたこくこく頷きながら、壁を今度は指差した。
「そうですか。探してきます」
私は一礼して、視聴覚準備室から出た。
三年の先輩たちと接する時は、できるだけ物事を波立たせないように気をつけているつもりだった。やはり、事情があるとはいえ、生え抜きではない評議委員は浮いてしまうのもしかたのないことだと覚悟はしていた。健吾にも言い含められていた。梨南ちゃんとのこともあり、三年女子の先輩にいじめられるのも覚悟していた。
でも、なんとなくだけど、三年男子の先輩たちはそれほど私を嫌っているように見えなかった。もちろん一人を除いてだけどもだ。また女子の先輩たちも、清坂先輩と霧島先輩の二人が冷たい視線を投げつける以外はそれほどのこともなかった。「案ずるより産むが易し」って本当だって思った。今は私も、気兼ねなく健吾の側に座って評議委員会を眺めていられる。
私は部屋を出た後、少し迷った。
音楽室の方向へ進むべきか、それとも階段を下りて他の展示を眺めるべきか。
さっき風見さんも話していたけれども、音楽室は現在、「喫茶室」として梨南ちゃんと西月先輩の占拠地となっている。梨南ちゃんがもともと、おしゃれなお茶やお菓子に詳しいことは有名だし、きっと美味しい紅茶でもてなされるのだろうとは想像している。でも、ほとんどの二年生たちは……少なくとも梨南ちゃんがどういう子であるかを知っている人……は、決して近寄らずに一階のお茶場で喉の渇きを癒す。
ただ、先生たちや保護者の人たちはやはり、美味しい飲み物の方に惹かれるらしく、しっとりした雰囲気でにぎわっているらしいとも聞いている。梨南ちゃんもきっと、全身全霊で珈琲を注いでいるに違いない。西月先輩も口を利けないのは相変わらずだけど、梨南ちゃんのやりたいことをサポートするために学校祭前日までずっと準備に没頭していたという。三年女子の先輩たちが流してくれた噂によるとだった。
それはそれでいいのだろう。
私も、梨南ちゃんたちが一番落ち着くのはそのやり方だと思う。
なんで立村先輩が無理やり梨南ちゃんを手元に置きたがるのか、私には理解できない。
立村先輩の側でまた、評議委員会を始めとするあらゆる場所で不協和音が起きたら、今度はどう責任取るつもりでいたのだろう。
天羽先輩たちがその辺しっかり押さえたのは、正解だと思う。
一部の噂で、立村先輩よりも天羽先輩の方が本来は評議委員長としてふさわしいとされていたとも聞いた時、やはり第三者の方がはっきり見えるものなんだなって感じた。
どうしよう、それにしても。
健吾と会って、これから手伝いすることがあるのかどうかとか、帰ってもいいのか確認した方がいいのだろうか。
たぶん黙って帰ったら、健吾は百パーセント怒る。私に電話をかけてきて、
「馬鹿やろう! なんでさっさと俺に断りもなく帰るんだ!」
とか言い出すに決まっている。どんなに仕事がなくても、健吾ってそういう人だ。目の前でなら私が何をしても許してくれるけど、そうでなければかっとなる。
やっぱり、無理にでも探して声かけた方がよさそうだ。あとあと罰ゲームみたいなこと要求されるのも、ちょっと疲れる。
気乗りしないままつま先を音楽室へ向けた時だった。
ものすごい勢いで、手をつないだ生徒がふたり、駆け抜けていった。男子と女子とだった。ふたりとも見覚えのある顔だった。うち先頭のひとりは、いやというほど顔を見つづけてきた女子だった。私と目が合ったとたん、露骨に横を向いた。私がいるということにすぐ気付いて無視したのだろう。一瞬、なんで罵倒されないで通り過ぎたのかわからず私は目で二人を追おうとした。と同時にすぐ気が付いた。もう一人の男子は、制服を着ていなかった。
──梨南ちゃん?
──あの男子、もしかして?
梨南ちゃんは制服姿で階段を降りる寸前、もう一度私をじろりとにらんだ。
威嚇した、という風だった。片方の手を、私服の男子に握らせるようにしている。私に何か言いたげに口を動かしたけれど、声は聞こえなかった。聞きたくもなかった。
その後正面をじっと見据えると、ちらっと後ろにくっついている男子に振り返った。手を振り払おうとしたけれど、その男子は幼くかぶりを振った。手をぶらんぶらんと動かした。
梨南ちゃんのポニーテールも一緒に揺れた。周囲ですれ違う青大附中の生徒たちが、
「手、つないでるんだあ」
面白げに眺めている。その視線から離れたそうに、また梨南ちゃんは手を振り解こうとする。相手の男子はまたぶらんぶらんと動かす。もちろん、手を握り締めたままだった。
私はその様子を黙って見つめることに徹した。たぶん、梨南ちゃんは私に絶対見られたくないだろう。目をそらしてあげるのももちろん礼儀かもしれないけれども、そこでもし梨南ちゃんがその男子を傷つけたとしたら、フォローするのは私の役目ではないだろうか。
だって、その男子は。
いきなりけらけら笑い出した。
まん丸い目で、坊主頭で。梨南ちゃんの手首をがっしり握り締めたまま。
「梨南、約束したじゃないかあ。僕と一緒に、学校一周してくれるって!」
──秋葉くんが、なんでいるんだろう?
「佐賀」
聞きなれたしゃがれた声が後ろから聞こえた。振り返ると健吾、肩を並べて立村先輩、もうひとり大人の女性が後ろに控えるように立っていた。私に軽くあごで、梨南ちゃんたちの方を見ろと合図をした。立村先輩が少し私から離れるように身体をはすに向け、女性と話をしていた。
「どうもありがとうございます」
「いえ、これでよかったんでしょうか」
「本当に助かったわ。ありがとうございますね。今日もし、梨南ちゃんに瞬が会えなかったら、ずっと一日中いじけていたに決まってますから。瞬ね、ずっと梨南ちゃんに学校祭を案内してもらえることを楽しみにしてきたんですよ。カレンダーに花丸つけてね」
ジーンズにトレーナーといった、なんとなくだけど青大附中の校舎ではあまり見かけない格好だった。それもかなり染みだらけ。だいたい顔を見ていて思い出した。きっとこのおばさん、あの人だ。私は立村先輩と健吾の間に入って頭を下げた。
「こんにちは。佐賀です。秋葉くんお元気ですか」
「あら、はるみちゃん、お久しぶりね。梨南ちゃんと同じクラスなんでしょう?」
私は頷くだけに留めておいた。秋葉くんのお母さんがはたして私と健吾、そして梨南ちゃんを巡る修羅場を知っているかどうかはわからなかったからだった。
「健吾くんも大人になったわねえ。うちの瞬とは大違いだわ」
最初から、違うに決まっているのに。
健吾も苦笑いして頭を掻いた。
「じゃあ、これで俺たちも、帰ります」
「本当に、ありがとうございます」
立村先輩が少し困ったような顔をして、それでも評議委員長らしく、
「それでは音楽室までご案内します」
しっかり背を伸ばし、秋葉くんのお母さんを先導して行った。私と健吾が残されて、自然とふたりきり。健吾も私の顔をちらと見ると、階段の方へと親指を立てて誘った。
「お前、さっきまでどこいたんだ」
まただ。健吾は私がひとりで行動するのをものすごく嫌うんだもの。
「刺繍クラブの女子と一緒に、一階のお茶場で座ってたの」
「そうか、ならいい」
ちっともよくなさそうな口ぶりで、健吾は階段の踊り場まで下りていった。私も後に続いた。
「さっきまで何してたの」
「明日の準備だ。片付けとか、荷物出しとか、男子でないとやれねえことばっかりだ」
「立村先輩も一緒に?」
「三年を立てないでどうするんだ、ったくばあか」
健吾はちらっと私を小突くようなしぐさをした。
「まあ、今回は仕事ったって三年が全部やっちまってるからなあ。俺としては楽だ」
「じゃあ、私、帰っていい?」
とんでもないって顔をする。やっぱりまずそうだ。でも私がいても、たいして役には立ちそうにないのに、どうしてだろう。
「何言ってるんだ。やること山ほどあるんだぞ。掃除とか」
「だって、さっき視聴覚準備室に行ったら、三年の先輩たちが密談してるんだもの。私は入っていけないわ。どこか別の場所とかないの?」
このあたりは事情ありらしく、健吾は腕組みをした。すっかり焼けた二の腕がぱりぱり言いそうだった。
「とにかく俺から離れるんじゃねえよ。それでいいだろ」
「いいだろうたって、私がつまらないわ」
「俺の側ならつまらなくねえだろ」
無理やりな理屈に、ため息が洩れる。健吾は訳のわからないことを言い出すくせがある。あまり抵抗しない方がいいのだけれども、なんだか私をもの扱いしているような時があって、少しいらいらしてしまうこともある。もちろん、私はそんなこと見せたりしない。かわりに、話を逸らす。
「あのね、健吾」
「なんだ」
「さっき、何があったの?」
二階の方でまた、ばたついた足音が響き渡った。普通のお客さんとは違う、スリッパのぺたぺたした音と上履きの出す音とは全然違う。生ぬるい笑い声がかすかに聞こえ、ついでに笑い声もほわっと広がっていた。なんだか純粋に面白がって笑うのではなく、馬鹿にしたような雰囲気だった。二階の階段をけたたましい叫び声と一緒に降りていくのを聞いた。
「梨南、次は一階だよね、一緒にジュース飲むんだよね!」
返事は聞こえなかった。しばらく無言で聞き耳を立てたまま、私たちは窓辺を眺めていた。中庭が見える場所だった。たぶんあの調子で走っていたら、梨南ちゃんと秋葉くんは中庭に出ていくだろう。たぶんここから、見えるだろう。
健吾はしばらく何かを飲み込むように喉仏を膨らませていたけれど、肩を落とすようにして、
「たいしたことじゃねえけどな、まさか秋葉がな」
鼻の頭をこすった。人の気配がして三階の階段を見上げると、手すりに手をかけるようにして立村先輩が立っていた。見下ろしていた。
「ああ、すいません、今行きます」
「いい、話が済んでからで」
すぐに姿が消えた。立村先輩はやはり、私たちがふたりでいると無意識のうちに遠慮してくれる。最初からそのあたりは計算済みなのであえて私の方から動かなかった。ただ健吾の方が少しおどついているようなのが意外だった。去年の今ごろ、立村先輩と評議委員長の座を争っていた頃に比べて一番何が変わったかというと、健吾が敬語を使っているってことだろう。少し違和感を感じてしまう。私が考えていることを健吾が見抜くわけがない。
「秋葉のかあちゃんがさ、ちょうど俺たちふたりで話している時に声かけてきたんだ。俺の顔覚えてたんだろうな。まあ、秋葉本人は俺なんぞ見たくもねえって面してたし、かあちゃんの尻に隠れてたけどな。とにかくあの女に会わせてほしいって言うんだ」
「健吾、案内したの?」
立村先輩がいるんだから、押し付けてしまえばよかったのに。
「しゃあねえだろう。一応は先輩を敬うのが礼儀だ」
男子の序列関係を叩き込むなんて。評議委員長に向けての指導って私が想像するよりもものすごく厳しいんだろう。あの健吾が梨南ちゃんのいるところへ人を案内するなんて、ものすごい変化だと思う。
「それで、騒ぎになったの?」
想像できることを尋ねた。健吾も小さく頷いた。
「そりゃあな。そうなるだろうな。けど、やっぱり秋葉の方が上だったってわけだ。小学校のいつだったか約束してくれたことをだ、あの女が果たさないのはおかしいって言い張って、しょうがないって感じで学校案内させることに成功したってわけだ」
「小学校のいつなのかしら」
「知らねえよ。なんでも『青大附中の学校祭に招待してデートしてあげる』みたいなことを言い含めたかなんかしたらしいぞ。秋葉が言うにはだ。かあちゃんもセットで喜んでるもんだから、あの女も逃げ切れなかったというわけだし、秋葉が騒ぐとしゃれにならねえし、他の連中も拍手で応援するしで、な」
大体想像がついた。秋葉くんが突きつけた約束。梨南ちゃんは約束したことを反古にするなんて絶対にしない。そういう子だ。どんなに理不尽なことであっても、どんなに惨めになったとしても、梨南ちゃんは約束を破ったりしない。
「秋葉くんは小一の頃から、梨南ちゃんが大好きだったんだもの。人前でそれを言いたくなるのも、無理ないわ」
私は思い出していた。
秋葉くんという子は、小学校一年の段階で同じクラスだった。別に人に迷惑をかけるとかそういうことはなかったのだけど、耳の遠い人のようなしゃべり方……内緒話ができないような大きい声を出す……こともあって、二年から四年まで特殊学級「ゆきのこ学級」に回された。このあたりの事情は私もよくわからないのだけど、お母さんが言うには、
「秋葉くんのお母さんが、なんとしても普通学級に回してほしいと言い張って、学校が折れたらしいのよ。公立の小学校は、保護が必要な子に手をまわす余裕ないから、本来ならば特殊学級の先生に任せた方がいいのにね」
とのことだった。
なんでも大きい声で話す以外、特に問題を起こすこともなかったらしい。私もクラスが違ってからは全く思い出すこともなかった。
ただ、秋葉くんにとって梨南ちゃんは初恋の人だったらしい。
とにかく、梨南ちゃんを見かけるたびに、場所問わず、
「りなーん、あそぼー、一緒にあそぼーよ」
叫ばれると、やはり迷惑だとは思う。梨南ちゃんはとりたてて罵倒することもなかったかわり、秋葉くんが近づいてくる気配を避けるように努力していた。もっともそれはほとんど、かなわなかった。なにかかしらあると秋葉くんのお母さんが梨南ちゃんに、
「ほんと梨南ちゃんのおかげで、瞬はいつも楽しく学校に通えているのよ、ありがとう。これからもよろしくね」
そう「約束」させてしまったから、邪険にするわけにいかなかったのだろう。
梨南ちゃんに「約束」させれば、大概のことは片付く。もっと早い段階でこの事実を知って利用すればよかったなって、今になって思う。
ちらちらと立村先輩が私たちを見下ろしている。言いたいことがあれば言えばいいのにって思う。だから無視している。健吾の方が少し落ち着かなくなっているけれど、ここで私が動かないとこのままでも問題ないだろう。
「そろそろ来るかしら」
私は窓から中庭を見下ろした。健吾も一緒に真似をした。ばたりばたりと階段をゆっくり降りる音。立村先輩が私たちの背後に立っているらしかった。健吾がまた、
「すいません、今行きます」
「いいよ、まだ急ぎじゃないからさ」
私は何も気付かない振りして、外に目を留めた。中庭では一年生主催の縁日が開かれている。そこで清坂先輩や霧島先輩がいろいろと声をあげて指導しているようすが窺えた。小さな子供用プールにいっぱい、水風船を浮かべている。まだ小学校くらいの子たちがしゃがみこむようにして見入っていた。
「立村先輩、私も戻ります。場所、使いますか」
「え?」
戸惑ったらしい。私は自分が今までいた窓辺を指差した。
「たぶん、これから梨南ちゃんたちがあそこに来ると思うんです。もし、何かがあった時、秋葉くんのお母さんに連絡できるかなって思うんです」
「何かって、そんなことはないだろう」
「いいえ、梨南ちゃんと一緒だったら、何があるかわかりません」
私は言い切った。立村先輩の動きが止まった。
「私も、一階に下りて待機していた方がいいと思うんです。どうせ仕事はないようですし、もし何かがあった時にすぐ対処できるように」
「佐賀さん、その言い方はないだろう」
「今まで、梨南ちゃんのことでいろいろありすぎましたから、用心はした方が絶対いいと思うんです」
立村先輩は小さく首を振ると、私の隣まで来て、しっかと中庭を見下ろした。
「降りるならそれでもいいけど、杉本を危険物みたいな言い方するのは失礼だよ」
いくらでも言い返すことはできる。梨南ちゃんが起こすトラブルに一番不安を感じているのは立村先輩なのだから。立村先輩が私たちをちらちら見ていたのは、梨南ちゃんが心配でならないって、私が気付かないわけがない。
「佐賀、やめろ。ほっとけ」
「だって、私も評議委員だもの、お手伝いしたいわ」
私はもう一度、立村先輩の隣に立ち、予想通りふたりが駆け抜けているのを眺めた。大笑いする声が背後からまた響いた。どうやら、ものすごく盛り上がっている中庭の様子を観覧したいと思っている人が、まだいるらしかった。ひとり、ふたりと増え、誰かの声がまた聞こえた。
「杉本とお似合いだよなあ、あの男子。誰? 小学生?」
「本能をコントロールできない同士よね」
まさか、思わず振り返ると、私の真後ろにはいつのまにかマッシュルームの頭が揺れていた。どうしてここにいたんだろう。他の人たちも中庭いっぱいに響く秋葉くんの声に聞き入っていた。
「梨南、ねえ、ヨーヨー釣りしようよー。約束したよね。一緒に遊ぶって」
黙って秋葉くんの手をひっぱったまま突っ立っている梨南ちゃん。
顔かたちは違うけど、私の目にはふたごの姉弟に見えた。
立村先輩が身動きせずに、ずっと見入っているのを放置して、私は窓にたかる群れから離れた。風見さんには気づかない振りをして、健吾と手をつないで階段を下りた。




