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エピローグ

エピローグ


 日曜日、私は駅前の「佐川書店」の前で躊躇しながら立っていた。

 台風後のお天気は相変わらず秋晴れそのもので、来週いっぱい続くと天気予報では流れていた。今日の服装は、薄い茶色のワンピースにチェックのブレザーを羽織り、カモフラージュ用にエレクトーンのおけいこに使うかばんをぶら下げるという格好だった。たまたま、おけいこ帰りに立ち寄っただけ、そう見せたかった。もし青大附中の知っている人に見られても、これならいくらでもいいわけができるから。

 入っていけば、きっとあの人に会えるだろう。

 佐川さんはいつも、休みの日はおうちのお手伝いをしているそうだ。もうそろそろ公立高校入試の準備で忙しいはずなのに、おうちの人たちは決して休ませてくれないそうだった。たぶん、今入っていけば、レジにいるはずだ。そこで声をかけて、あの人の手が空くまで立ち読みをしていればいい。

 ほんとに、単純なことなのに、なぜか自動ドアのステップに足をかけることができない。

 私はしばらくきらきら光る自動ドアのガラスを見つめて、手提げの柄を握り締めていた。


 ──どうして連絡してくれなかったんだろう。


 ずっと待っていたのに。佐川さんが答えを出してくれるのを、信じて待っていたのに。

 私は結局ひとりで全部決めざるを得なかった。

 一週間前なら決して思いつかなかった、生徒会長への立候補。

 健吾が激昂し、周囲が絶句してしまうようなあの結末を、私は佐川さんに伝えたかった。そして、それが正しかったのかどうか、なによりも佐川さんは私にどうさせたかったのか、あの人の口から聞き出したかった。

 私は間違っていないのだろうか、あれでよかったのだろうか、と。

 

「佐賀さん、ですか?」

 背中から声をかけられ、私は振り返った。

「はい、そうです」

 お下げ髪の、たぶん同じくらいの年頃の女子が、新聞紙で包んだ花束を持って静かに立っていた。一瞬誰かわからなかった。髪形ですぐにぴんときた。何度か会ったことがある、あの人だった。

「水野さんですか」

 しまった、先輩とつけなくちゃいけなかったかしら。慌ててしまった私に、その人はこっくりと頷いた。

「佐川くんを待ってるんですか?」

 少しぴりっと響いたのは「佐川くん」という呼び方。驚くことはないのに。水野さんと佐川さんとは同学年なのだから、「くん」付けでも、もしかしたら呼び捨てでも違和感何もないのに。私は頷いた。

「そう、今ならいるんじゃないかしら」

「でも、お忙しいと思います」

 ちょうど十二時過ぎたばかり。ガラスの自動ドアをすかした向こうには、親子連れやら高校生やら小学生やら、いっぱい人が群がっているのが見えた。奥にいるはずの佐川さんは見えなかった。

「大丈夫だと思うわ。だって佐川くんは、時間作ってくれるはずだもの」

 また「佐川くん」の響きに、私は身をすくめた。

「私が呼んできてあげるから、少し待っててね」

「ありがとうございます」

 堅苦しい返事しかできず、私は邪魔にならないところに場所を移動した。

 すでに水野さんは、佐川さんからすべての事情を聞いて、私たちをカモフラージュするためにいろいろと動いてくれているはず。そう佐川さんからは聞いている。佐川さんと水野さんは学校でも公認のカップルとして行動する一方、青大附中がらみの問題や私との連絡などをこっそりしてくれるはずだとか。ただ、私と佐川さんとがこっそり会って話をしていることを知っているかどうかはわからない。今の態度だと、すべて了解済みなのだろうか。

 どちらにしても、会わないで帰るつもりはなかった。そっと、ガラスの自動ドアが開いたり閉まったりするのを眺めた。なかなか出てこない佐川さん。私ともう会いたくないのだろうか。一切連絡をくれなかったのは、その意志そのものだったのだろうか。


「佐賀さん」

 少しこわばった雰囲気の声に、戸惑いながらも振り返った。

 佐川さんが立っていた。

 白いトレーナーにデニムシャツの衿と裾を覗かせた、ジーンズ姿。

 この前会った時とほとんど姿形は変わっていないのに、なぜか声だけが心持ち低くなっていた。男子の声変わり、なのだろうか。健吾よりもがらがら声ではないけど、太い弦をはじいたような落ち着いた響きが耳に染みた。

「このチケットで、この前行った喫茶店で、待ってて」

 汽車の切符みたいな細いチケットを手渡された。

「いいんですか?」

 問い掛けると、佐川さんはにこりともせずに頷いた。やはり、機嫌が悪そうだった。

「俺も、佐賀さんに話したいことがあるから。ごめん、ちょっとだけ待ってて」

 周囲を見渡し、私にもう一度佐川さんは確認するように、

「今日ここに来ること、誰かに言った?」

 首を振った。まさか、そんなこと、どうして。

「健吾くんにも話してないよね」

「もちろんです」

「知ってる人には会わなかった? さっきたん以外に」

 強く首を振った。佐川さんは少しだけ口元を緩めた。

「だったらいい。とにかく、行ってから話す」

 佐川さんは素早く背を向けると、お店の裏の方へ回っていった。


 指示された喫茶店は、今年の二月、エレクトーンのおけいこの帰り、発作的に佐川さんを呼び出して連れて行ってもらったところだった。確か、呼び出す理由に、エレクトーンのグレード試験で失敗したからということを告げた記憶がある。実際、調子がよくなかったのは確かだったけど、その後試験には通っていたことを私は話していない。ただ、外が真っ暗で雷が鳴り響き、突然何もかもが怖くなってしまい、以前貰っていたレシートにプリントされていた電話番号にダイヤルしてしまっただけだった。

 傘を持って迎えにきてくれた佐川さんは、今とは違ってまだ声も高くて、私と同級生みたいな感じだった。もちろんそれは話すまでのことだけども、迎えてくれた顔を見つけたとき思わず泣きそうになったことを覚えていた。健吾に連絡してもよかったのに、どうしてあの時佐川さんに会いたかったのか、わかるようでわからなかった。

 一人で入る勇気がなかなかなかったけれど、ちゃんとチケットも持っているし、怖いことはないはず。今にも壊れそうな木目まるだしの小屋の戸を開けた。やはりこの前と同じ、暗い照明の中だった。奥で隠れていたかった。どきどきしながら一番奥の席に座った。お客さんのほとんどは、うちのお父さんたちと同じくらいの年代の人ばかりだった。

 ウエートレスさんがメニューを持ってきてくれた。

 ココアを注文した。チケットを見せて問題ないかどうか確認だけした。


 ──佐川さん、いつもと違う。

 カモフラージュ用のかばんから、エレクトーンの譜面を読んでいる振りをしながら、私は佐川さんと水野さんの顔を思い浮かべた。あの二人が水鳥中学では公認のカップル。たぶん健吾と私のような感じで見られているのかと思うと、届いたココアも苦く感じる。

 ──私のこと、どうでもよくなったのかしら。

 もう一度胸を抑えてみた。佐川さんとふたり、雷の鳴り響く中語らった時、ずっと私のことだけ見つめてくれていた。梨南ちゃんのこと、立村委員長のこと、その他青大附中と水鳥中学を巡るいろいろな問題のこと、たくさんおしゃべりしたけれど、一瞬だって佐川さんは私から目をそらしたりしなかった。

 でも、さっきの態度は、違う。

 ──水野さんだって、私になんで親切にしてくれたんだろう。

 私と連絡を取り合っていることが他の人たちに知られると、とんでもないことになるから、その風除けに水野さんがいろいろ手伝ってくれていることは知っている。梨南ちゃんが関崎さんにプレゼントした葉牡丹を、本当は水野さんが世話をしていることも聞いている。

 そこまでなぜ、手伝ってくれたりするのだろう。

 私がずっと生徒会関連の出来事で混乱している間に、もしかしたら水野さんともっと何かの進展があったとしたら。他の学校で、ひとつ年下の女子になんて、かまっている暇なんてなくなったとしたら? 

 気温に比べてココアが熱すぎた。オレンジジュースかミックスジュースにすればよかった。

 苦味の残るココアをすすりながら、少しだけ震えていた。

 ──私に話したいことがあるって、なんだろう。


 思ったよりも待たなかった。佐川さんが息を切らして現れたのは五分くらい経ってからだった。きょろきょろ見渡した後、すぐに私のいるところへ小走りでやってきた。目の前の席に着くと、ウエートレスさんに、

「すみません、アイスコーヒーください」

 やっぱりチケットを手渡した。私のカップを覗き込み、

「ごめん、待った?」

 私は首を振った。無理に笑みをこしらえた。つい耳に手がいってしまう。お食事中に髪の毛を弄ってはいけないと叱られそう。

「佐川さん、私」

「聞いてる、全部知ってる」

 アイスコーヒーのグラスが届く前に、佐川さんはじっと思いつめた風に私を見つめた。

 口を開こうとしたとたん、「お持ちしました」とウエートレスさんの手がテーブルに伸びた。言葉を飲み込まざるを得なかったのだろう。テーブルを指先でつんと叩いた。

「俺がすべて悪かったんだ」

 アイスコーヒーのストローに口をつけず、佐川さんはうつむきながらつぶやいた。

「こんな奴の、どこが天才参謀だって」


 ──天才参謀。

 健吾も、佐川さんのことをそう評していた。

 ──あの人、ぜってえ公立よか青大附中で活躍すべき人だと思うぞ。佐賀、お前もそう思うだろ? あんな立村なんかと違ってな。

 当時の健吾は立村先輩に敬称をつけなかった。最初から佐川さんには「さん」をつけていた。

「どうしてですか?」

 おずおず、尋ねてみた。

「佐賀さん、生徒会長、立候補、したんだろ」

 知っているということは、たぶん隅から隅まで事情を把握しているということだろう。佐川さんの使う「知っている」はそういうことを意味する。

「なりゆきなんです」

「佐賀さんなら、できるよきっと」

「でも、私」

「大丈夫。佐賀さんなら、絶対に大丈夫だよ」

 ぜんぜん太鼓判押されているように聞こえない。苦しそうな佐川さん。声がさらにぎすぎすしてきている。

「本当は最初から、そういう形で計画すればよかったのかな」

「計画ってなんですか? 佐川さん、私を本当はどうしたかったんですか?」

 佐川さんは私の選ぶ役職が「会長」だとは思っていなかったらしい。そうさせる気はなかったようだ。やはり私は手を出すべきではなかったのだろうか。書記か、せめて副会長であきらめるべきだったのだろうか。怖い、不安がよぎる。意味もなくココアをすすった。やはり苦かった。

「私、佐川さんが連絡くださるのを、毎日、毎日待っていたんです。佐川さんだったら、私がどの役職を選べばいいか、わかっているはずだったから。でも、どうしてなんですか? 私、ずっと待ってたのに」

 喉に染みて咳き込みそうになった。自然と涙が溜まりそうだった。

「どうして佐川さん、私に手紙を送ってくださらなかったんですか」

 責めてはいけない。怒ってはいけない。自分に言い聞かせたいのに、できない。

「私だって、こんなことになるなんて、思っていなかったのに」


 しばらく私は顔を覆ったままでいた。そんなに涙があふれたわけではなく、ちょっとだけ切なくなっただけのことだった。でも、顔を見られたくなかった。自己嫌悪だった。

「佐賀さん、ごめん」

 ふっと顔をあげると、佐川さんのコーヒーがまだ手付かずのままだった。氷がどんどん溶けていって、かえって量が増えていた。

「俺もそうすればよかった」

 声が少し詰っている様子だった。まさか、佐川さん、泣いているなんてこと。だって男子なのに、健吾みたいな人じゃないのに。私は恐る恐る覗き込んだ。すぐに佐川さんは横を向いた。

「俺が直接健吾くんと話をすればよかったんだ」

「健吾、と?」

 思いがけない相手の名前に、思わずカップを取り落としそうになる。

「健吾くんに、はっきりと、そう言えばよかったんだ」

「何をですか?」

 どきどきしてくる理由がわからず、私は声を潜めた。

「いいよ、言ったって言い訳になるだけだよ」

「佐川さんは、私に言い訳する義務があると思います」

 首を振りながら私は言い募った。

「お願いです、教えてください」 

 ──佐川さんが私のことを忘れていて、連絡しなかったわけではないってこと。

 ──健吾と何かかかわりがあるってこと。

 ──私が立候補するってことは、佐川さんにとって予想外の出来事だったってこと。

 理由を聞かぬまま、すべてを終わらせたくはなかった。

 佐川さんはしばらく黙っていた。私をじっと、黒目勝ちの大きな瞳で見つめていた。見返しているうちに気付いた。佐川さんの表情がだんだん立村先輩のものに似てきていることを。それも梨南ちゃんを時折見つめている時の重く、静かなものに近いことを。

 どうしてそんな目で、私を見るのだろう。

「たぶんこれが最後になるよな」

 ひとりごちた後、佐川さんは背を伸ばし、初めてアイスコーヒーに刺さったストローへ口をつけた。一口すすり、いつものきょときょとしたいたずらっぽい瞳に戻した。

「俺、健吾くんを青大附中の生徒会長に立候補させるつもりだったんだ」


 ──健吾を?

 生徒会立候補受付後の、いつもよりも激しく憤った健吾の顔が浮かび上がった。

 私は首を振った。何かを言いたかったのだけど、言葉にならない。 

「佐賀さんがね、渋谷さんって人に誘われて生徒会に入るのはいいことだと思ってたんだ。けど、生徒会に一度も関係したことがない人がいきなり割り込んでいくというのは、正直大変だろうなって思ってたよ。ほら、うちの生徒会だって、もし生徒会長の立候補者が俺たちと同じ学年の奴だったとしたら、副会長のおとひっちゃんや総田とぶつかり合って大変だったんじゃないかな。その点、一学年下の内川が会長になったのは、結局よかったんじゃないかなって俺は思ってる。一年だったら、なんも知らなくて当然だし、むしろそういう奴だからこそおとひっちゃんたち生徒会役員たちはめんこがって仲間に入れようとするしさ」

 言葉を切った。またストローでアイスコーヒーをすすった。

「佐賀さんは今、二年だろ。もし一年のうちだったら先輩たちに教えてもらえるけど、二年でいきなりということだったら、きっとベテランの生徒会役員たちと人間関係苦労するかもな。そんな気がしたんだ。もちろんその渋谷さんって人がかばってくれるとは思うけど、女子って怖いらしいしさ。それに佐賀さんにはもう二度と、杉本さんの時のような苦労をしてほしくなかったんだ。渋谷さんって人との付き合いが下手したら上下関係になっちゃったら、また同じことになるんじゃないかって思って、俺なりに考えたんだけど」

「でも、なぜ健吾?」

「うん、健吾くんは次期評議委員長なんだろ?」

 私はあいまいに頷いた。現在の段階では、の話だから。

「立村が指名したんだろ?」

「一応、そういうことになってます」

「けど、これから先は生徒会に権限が移るってことだろ?」

「はい」

「だったら、難破船状態の評議委員会をずっとひっぱっていくよりも、思い切って生徒会長に立候補した方がいいと俺は思ったんだ」

 佐川さんの飲むスピードが速い。もう、水面から氷が丸ごと顔を出している。

「生徒会長に健吾が立候補、ですか」

「うん、立村の顔に泥を塗ることになるけれど、どうせ三年生はあと半年で卒業だよ。次期評議委員長が誰になったとしても、健吾くん以上の奴はいないだろう?」

 問われて私は頷いた。付き合っているから言うわけではなかった。健吾にかなう男子は、まずいない。

「そのまま生徒会が評議委員会を吸収していけばいいんだ。そうすれば立村がどんなにがんばったって、時間の問題。あっさりと『青大附中版大政奉還』は今年中に完了するよ。それで健吾くんが会長に立候補した段階で、佐賀さんが副会長に出ればいいんじゃないかって」

「私が副会長、ですか?」

 佐川さんは目を伏せるようにして頷いた。

「健吾くんがいれば、きっと佐賀さんは他のベテラン生徒会役員たちにいじめられても守られるしね。もし立村や杉本さんが嫌がらせをしようとしても、健吾くんが黙っちゃいないよ。それに水鳥中学生徒会との交流も、評議委員会を通すんじゃなくて生徒会同士の流れになるし、あとはうちの内川会長と仲良くやってくれればそれでいい。結構内川と健吾くん、仲よかったしね」

 そうだった。健吾は内川会長と電話掛け合う仲らしい。

「でも、健吾は立候補しようとしませんでした」

「そうだよね」

 佐川さんはため息をつき、一気に黒い水分をストローで吸い取った。

「内川に説得させるつもりだったんだけど、だめだった。やはり、最初から俺が健吾くんと話をするべきだったんだ」

「どういうことですか?」

 言っている意味がわからず、私は両手でカップを支えた。

「俺の立場、知ってるよね? 俺、生徒会となんも関係ないんだよ。おとひっちゃんにも絶対にかかわるなって言われてるんだ」

 それは聞いている。頷いた。

「だから、俺がもし健吾くんに伝えるとすれば、生徒会役員を通して話をするしかないんだ」

「どうやって話をされたのですか?」

 苦々しい表情で、また佐川さんは項垂れた。

「副会長の総田に協力してもらって、伝言で内川に話をしたんだ。俺が提案したんじゃなくて、総田が考えたってことにしてもらって。できれば、生徒会長は健吾くんがいいと水鳥側では思っているとか、評議委員長としてよりも生徒会長として付き合った方が連絡しやすいんだとか。内川もそれなりにわかっていたとは思う。けど、やっぱり健吾くんはまっすぐだろ。正々堂々としてるだろ。俺、健吾くんがあんなにまじめで義理堅いおとひっちゃんタイプだとは思わなかったんだ」

「関崎さん、タイプ?」

 確かに長距離は強そうだけど。でも、あまり認めたくない言葉だった。私、関崎さんはタイプじゃない。

「健吾くん言ったらしいんだ。これも内川、総田経由で聞いたことだけどね」

 首を細かく振りながら、佐川さんは一息で呟いた。

「『俺を評価してくれた立村さんを裏切るわけにはいかない』って」


 すっかりぬるくなったココアのカップを握り締めたまま、私は今の言葉の意をつかもうとした。

 佐川さんが私のために一番いい方法を選んで、誰にも頭を下げることなく守られるポジションを見つけ出してくれた、そのことがまずは胸に染み入った。私は見捨てられたわけではなかったのだ。

 健吾がもし生徒会長となれば、対抗馬が霧島くんであろうが渋谷さんであろうが勝ち目はないだろう。評議委員長としての座をあえて捨ててまで勝負にでようとした行為を、全校生徒はきっと認めてくれるだろう。実績だってたんとある。

 もちろん評議委員会はもめるかもしれないけれども、すでに単なる「委員会」への路をひた走っているのだから、むしろそれは自然な行動と取られるだろう。私も、もし健吾のようにたくましい男子だったとしたらそうしているだろう。

 その上で健吾の下に私がひざまずく格好になれば、いつものことだ、必ず両腕で守ってくれるだろう。かっとなったら何をするかわからないけれど、私のことを大切にしたいと思っていることだけは百パーセント確実だ。完璧なシナリオのはずだった。

 健吾が会長となった段階で、私はその中で一番上のポジション、つまり副会長を選び立候補すればよい。たとえ渋谷さんと並んだとしても、健吾の寵愛が私に向かっている以上、彼女の下に立つことはない。また渋谷さんも私が上に立つわけではないのだから、余計ないらいらを抱えないですむはずだった。

 ──佐川さん、やはり、あなたの才能が欲しい。

 佐川さんに一緒にいてほしい。どうして、健吾は佐川さんが組み立てたこの案に乗れなかったのだろう。

 もちろん、健吾らしい言葉だとは思う。

 ──俺を評価してくれた立村さんを裏切るわけにはいかない。

 人を裏切ったりするなんて、健吾の性格ではできないだろう。

 正々堂々とまっすぐに生きる健吾だからこそ。でも、健吾に問いたい。

 ──評議委員会なんて、もう、終わっているのに。どうしてプライド抱えてしがみついてるの? どうして、そこから抜け出せるチャンスを佐川さんが与えてくれたのに、どうでもいい立村先輩なんかに義理立てて、残ろうとするの?


「内川・総田経由で聞いたことだけど、佐賀さんが生徒会長に立候補した段階で決意したみたいなんだよね。評議委員長の座を後期奪い取るってことをね」

 頭の奥がしびれたまま佐川さんの言葉を聞いていた。

「佐賀さんが立候補した経緯についても、一応話は聞いてる。杉本さんを追っ払うためだったんだよね」

「はい」

 安心した。ふっと声が出た。

「佐賀さんがたったひとりで、生徒会を守るために立ち上がったんだって健吾くんは思ってるよ。だから、すっごく健吾くんショックだったみたいだけど、佐賀さんを守るために立村へ反旗を翻す決意をしたんだって。最初は先輩の立村を裏切れないって言ってたけど、佐賀さんの立場を見たらもうそんな甘ったれたことは言ってられないって。佐賀さんを守れるのは自分だけだから、後期の評議委員長に立候補して、邪魔な三年先輩たちを追っ払い、せめて佐賀さんが余計な気を使わずに会長としてやっていけるようにするってね。佐賀さんのことを、ほんとにあいつ、好きなんだね」

 どう答えればいいのだろう。健吾が私を好きなこと、それを認めるのはたやすい。

 でも、私は?

 あの生臭いキスを、いきなり抱きしめられる汗臭い腕を、受け入れられるのだろうか。

「わかりません、そんなこと」

「男子同士、なんか、それはわかる」

「でも私」

「だから、もし評議委員長に健吾くんがなったら、あとはもう大船に乗った気持ちでいればいいよ。立村と対決することになった場合、正直、すっごく大変だと思う。佐賀さんは立村をただの蝋人形昼行灯だと思っているかもしれないけど、あいつは杉本さんのためにだったら何でもやらかすし、人だって平気で張り飛ばす奴だ。たぶん、佐賀さんのことは目の敵にすると思う。だからできるだけ早く、評議委員会から隠居してもらった方がいいんだ」

「そうですね」

 立村先輩の、梨南ちゃんに向けるやわらかい表情と思いつめた瞳。

 私に対して冷ややかに見据える、凍ったまなざし。

「とにかく、そうなればもう、佐賀さんは安心して生徒会長になれるよ。俺の計画は狂ったけど、あとは健吾くんがいる。健吾くんがいれば、あとは言われた通りにやっていけばいいよ。俺よりもずっと、それの方がいい」

「佐川さんよりも、健吾の方がいい、ということですか?」

 尋ねた自分の声が震えているのに、ぴくりとした。

「健吾がいれば、私、守られるってことでしょうか?」

「うん、そうだよ」

「佐川さん以上に、頼れるということですか?」

「だってそうでなくちゃ、付き合ってないんだろ」

 いきなり語尾が投げやりになった。背筋が凍る。

「俺、公立だし、本当だったら青大附中のことになんて口出す権利ないんだ。健吾くんの方が絶対いいよ」

「よくありません、だって私」

 また涙が溜まってきそうだった。でもこらえる。泣かない。

 佐川さんはいらだちを隠さずにそっぽを向き、さらに続けた。

「佐賀さんだって、もしこうやって話しているところ、健吾くんに見られたらどうする? 俺はいくらでも言い訳するけど、もし健吾くんに疑われたらどうする? 健吾くん、命がけで守ろうとしてくれてるんだよ。俺みたいな、頭の悪い奴よりずっと頼りになるだろ?」

「どうしてそんなこと言うんですか!」

 思わず叫びそうになり、両手で口を覆った。ここはふたりきりじゃない。ふたりきりだったらいくらでもしがみついて叫べるのに。

「私、健吾には内緒で佐川さんに会いに来てます。私がそうしたくて、来てるんです」

「でも、俺はそんなたいした奴じゃないんだよ。青潟工業に行くような奴なんだ。佐賀さんの周りでそういう奴いるか? そんなレベルの低い学校進学したいなんて、佐賀さんの周りの人は思わないだろ?」

「いいえ、私は思います!」

 話がこんがらがっているとわかっている。でも言わずにはいられない。何が公立進学なのだろう。何が職業科進学なのだろう。そんなの、関係ない。

「私は、佐川さんのようになりたいんです。佐川さんのように、鋭い頭脳が欲しいんです」

「鋭くないよ。俺、はっきり言って志望校すら受からないかもしれないんだよ」

「いいえ、立村先輩より、健吾より、梨南ちゃんより、ずっとずっと上に決まってます!」

 前かがみになり、ぐいと佐川さんに密着したくなった。テーブルが邪魔すぎる。席を移動した。佐川さんの隣に座った。すっと窓際に身を引こうとする佐川さんを逃したくなかった。

「佐川さん、私と一緒に話をするのが、いやですか?」

 目から涙がこぼれそうだった。必死に見開いてこらえた。

「私、佐川さんの邪魔、してますか? 水野さんとのこと、邪魔してますか?」

「そんなことない!」

 首を思いっきり振った佐川さん。少しだけ、呼吸が楽になった。

「さっきたんのことなんて関係ないよ」

「だったら、私を支えてください。私、生徒会長、どうやってやっていけばいいか、わからないんです。健吾が支えてくれるって佐川さん、おっしゃいますけど、そんなの無理です。だって健吾」

 私は精一杯、低い声で呟いた。

「もう立村先輩と共感してるんです。だから、生徒会長に立候補してくれなかったんです!」

「佐賀さん、それは」

「いいえ、聞いてください。私、健吾がもしずっと立村先輩を軽蔑していたら、言われた通りにしていたかもしれません。健吾が平気で立村先輩を踏みつけて、追い払うことに何にも罪悪感感じてなかったとしたら、私、そうしてました」

 ころころっと一粒、頬に伝った。手の甲で押して拭いた。

「健吾はきっと、次期評議委員長に立候補すると思います。私にもそう言ってました。でも、健吾の性格だと、自分に正々堂々と接してくれた立村先輩を見下すことはもう二度としないような気がするんです。あの、梨南ちゃんに対してもE組に消えた段階で、どうでもいい人扱いするようになりましたし。小学校の頃の健吾だったらきっと命がけで守ってくれたでしょうが、今は違います。もしかしたら健吾、私に、立村先輩の味方をしろとかそんなこと言いそうで怖いんです」

「立村の味方をしろ、と?」

「そうです。佐川さんがおっしゃったように、健吾はまっすぐで曲がったことが嫌いです。さっさと生徒会に評議委員会を吸収させようとしても、立村先輩の義理でそれを引き伸ばすかもしれません。私、健吾に百パーセント守られる保証なんて、どこにもないんです!」

 佐川さんはじっと私の顔を不思議そうに眺めていた。

「私、健吾がそういうこと言い出したら、どうすればいいかわからないんです。私が一番信頼できる人は、ひとりしかいないんです」

 もうかたっぽの眼からも涙が転げ落ちた。一粒落ちるとまた一粒。両手で顔を覆った。バランス崩しそうになり、佐川さんの白いトレーナーに頭を持たせかけてしまった。健吾みたいに汗臭い匂いがしなかった。

「俺、ほんっとに、頭悪いんだよ」

「そんなこと絶対ないです!」 

「青大附中の生徒会長を守れるだけの力、あるわけないよ」

「いいえ、今まで私を守ってくれました」

 涙が次から次へと零れ落ちる。

「この前佐川さんが勇気付けてくれたから、私、女子の友だちがふたりできました。生徒会という居場所だってできました。梨南ちゃんのことを嫌っているってこと、教えてくれたから私、今の自分でいられるようになったんです。ずっとそうなんです。佐川さんがいなかったら、私、どうしていいか、わからないんです。佐川さんがいてくれなかったら、どうすればいいんですか。私、健吾と別れてもいいんです。佐川さんが一緒にいてくださるなら」

「それはだめだよ!」

 厳しい声に、はっと私は顔をあげた。

「健吾くんを敵に回したら、佐賀さん、本当に一人ぼっちになっちゃうよ」

「じゃあ、健吾を敵に回さないで、佐川さんと会うことはできないのですか? 佐川さんならきっとわかってるはずです。私、佐川さんでないと、だめなんです」


 まだ私には、佐川さんに相談しなくてはいけないことが山のようにある。

 これからおそらく始まるであろう、立村先輩と健吾との評議委員長選挙。

 まだよく理解できずにいる渋谷さんと風見さんとの関係。

 梨南ちゃんの恋と逆恨みによるトラブルを防止するやりかた。

 何よりも、私が生徒会長として立ち続けるために、どう振舞えばいいのかとか。

 一年前の私は、自分が生徒会長として学校のために尽くす立場になるとは思ってもみなかった。ただ、梨南ちゃんという火の粉を振り払うのだけで精一杯だった。健吾に守られるのが当然とさえ思っていた。いやだと思うことを拒否することも、怖かった。

 けど、佐川さんがすべて教えてくれた。

 私が本当は梨南ちゃんのことを嫌っていることも、梨南ちゃんを「どうでもいい人」として扱うすべを、自分にとって大切な友だちを得る方法を、学校の成績では図れない鋭い才能の見つけ方を。佐川さんがなんと言おうとも、絶対に手放したくなかった。

 これから先、健吾と別れることになったとしても。

  

 私が顔を押し付けるのを、佐川さんはしばらくそのままにさせてくれた。

 そのままでくぐもった声で、

「ごめん。公立の模試の結果がすっごく悪くてさ」

 呟いた。

「佐賀さんに八つ当たりしちゃったね。ごめん」

 言葉で答えるには涙が溜まりすぎていた。佐川さんの

「俺を、佐賀さんの天才参謀でいさせてくれる?」

 唇を細く開き、私は佐川さんの腕にしがみついたまま、横顔を見上げた。

 健吾だったらきっとしようとするであろうことを、佐川さんがしてくれるのをじっと待った。



 ──佐川さん、もう二度と、離さない。


                            ──終──      

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