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遅刻するぎりぎりの時刻まで郵便受けを覗いていた。
佐川さんの手紙はこなかった。
──私を助けてくれないんですか。
青大附中と水鳥中学まで走って捕まえたかった。
すがり付いて答えを聞きたかった。
そんなことできるわけもなく、立候補申し込み最終日、私は学校へと向かった。
台風が今夜上陸すると、行きがけのテレビニュースで流れていた。
どんどんめちゃめちゃに降ればいい。駅前なんか水浸しになればいい。
私が泣いてるって佐川さん、やっと気付くだろうから。
「ハルー! おはよっ!」
昨日のまじめな顔なんてどこへやら、風見さんが廊下で私を捕まえた。
「おはよう、どうしたの」
「どうしたのってえ、やっぱり今日とうとう、決戦の時じゃない! ハル、わかってるよね。放課後になったらすぐに生徒会室へダッシュするのよ! ナミーも待機してるはずよ」
「うん、でも」
どうしろというのだろう?
「だかあらあ、ハル、一緒に立候補するでしょ?」
もちろん、決めたことだけど、まだ決まっていない。私はあいまいに頷き微笑み返した。
「でも、どちらがいいのかわからないの」
「立候補? 書記? 副会長? それとも会長?」
「会長なわけないわ」
言葉に出してみて、思わず首を傾げた。「書記」にしても、「副会長」にしても、「会長」にしても、どれも私にはぴんとこなかった。「生徒会書記の佐賀さん」「佐賀副会長」それとも「佐賀生徒会長」? どこにも私の居場所はなさそうに見えた。
「でも、選択肢はみっつあるのよね、ハル、いい? ぎりぎりまで迷っていいけど、絶対、絶対、立候補してね!」
「ぎりぎり?」
言い方が少しひっかかった。風見さんは私が最初思っていたよりも、かなり頭の回転が速い人なのではと感じていたけれども、まだつかめないところがある。ある意味、渋谷さんよりもわかりづらい人かもしれなかった。いつものかっちりブローした風鈴髪を細かく揺らしながら、指をくわえて細めで笑っている。
「そ、ぎりぎりまでどれがいいか考えていいと思うんだ。ナミーも今、かなり悩んでるはずだもん」
「悩むといってももう決まってるでしょう?」
生徒会長を狙いたくても狙えない立場の渋谷さんのことだ。副会長以外考えられないはずだ。
そんな思い込みを覆すように、風見さんはぽろっと気になる言葉を口にした。
「私、ナミーには副会長になってほしいんだ」
「じゃあ私、やはり」
書記に? そう尋ね返そうとした。やはりなじめない「書記」の言葉と立場。
「ま、あとで説明するね。ナミーにばれるとまた『親友やめる!』っていわれちゃうもん!」
あのしょうもない風見さんが、と笑うには、あまりにも意味ありげな言葉の羅列だった。まだ思い切れそうにない。佐川さんがここにいて話を聞いてくれたら、きっとどうしたらいいか教えてくれるはずなのに。
ふと、すれ違った他クラスの女子の髪が軽く肩にぶつかった。お下げ髪だった。
ごめんねも言わなかった。
──一言くらい、あったっていいのに。
珍しく気が立った。
私が何を考えているかわからないであろう、健吾が脇の机で落書きをしている。
健吾くらい成績がよいと、授業を真剣に聞かなくても結構楽に点数が取れてしまうみたいだった。このまえの中間試験も、梨南ちゃんを抜かした計算でいくと学年トップの数字だったという。梨南ちゃんがどんな成績だったのかは知らないけれども、なんだかまだ越えているとは思えない。健吾もそのあたりは気付いているはずだと思っている。
そっと横目で覗いてみる。理科のノート脇には、丸をたくさん書いて矢印を×、横線、斜めといった風に書き込んでいる。なんのことだか最初わからなかったけど、見ているうちにだいたい見当がついた。きっと、バスケのポジションかなにかだ。土曜の試合で負けたから、新しいポジション取りなどを考えているのだろう。
私が相談する隙間なんてないだろう。今の健吾には。
生徒会改選が終わるまでの短い間しか、部活動に専念する時間が健吾にはない。
終わったらすぐに、後期委員の選出がホームルームで行われ、おそらく自動的に健吾と私は評議委員へ再選されるだろう。最後の半年、よほどのことがない限り、変わらない現実だ。
もっとも、それは絶対ではない。ないけれど、今のところ取り立てて問題が起こる気配はない。私が波風を起こしさえしなければ。
──私がもし立候補したら?
あわてて健吾から目をそらした。私はあまり成績いい方でないから、健吾みたいにいたずら書きなんてしていられない。先生の眠そうな声を聞き流しながら、必死にノートを写した。
──もう健吾と評議委員はできない。
梨南ちゃんから奪い取る形で得た評議委員の座だけど、いざ自分がその場所に座ってみると、なんだか弟の面倒を見ている時とおなじような気分になる。お砂場遊びも超合金ロボットを合体させるのも、どれもすべてがばかなかしく見える。夢中になり突撃してくる弟の相手をしていると、どうしようもなく疲れる。それと同じものを健吾に感じていた。
──だったら今度、評議委員誰になるんだろう?
思いを巡らせた。E組にまわされた梨南ちゃんが戻ってくることは十中八九ないだろう。
だったら同じだ。誰がなっても、しょせん評議委員は変わらない。
三年の先輩たちはみな、評議委員会を守ることに必死だけど、私たち二年生が答えを出すのはきっと、
「誰が評議委員になったって、するべきことはいっしょ」
それだけだろう。これから先、生徒会にすべての権限が移ったあとは、指示を出すのもみな生徒会長でありまたその役員たち。指示されたことをこなすのが評議委員会を始めとした委員会集団の役目。
──健吾、ごめんなさい。
私は一呼吸置いて、一言「ごめんね」とノートに書き込んだ。
健吾に見せる気はない。すぐにシャープで塗りつぶした。
──ものすごく怒るだろうな。
今のうちに、心の準備をしておこう。どう言い訳しようか。健吾のことだ。突き飛ばされるかもしれない。ひっぱたかれるかもしれない。もしかしたら押し倒されるかもしれない。
──押し倒される?
何を想像していたのだろう。自然と頬が熱くなる。
ここ最近、健吾が私にする行為のひとつひとつに、なぜか嫌悪を覚えている。
今までこんなことなかったというのに。
もちろん、一年の時に初めてキスを経験していたけれども、これほどまでではなかった。負け試合の後や、評議委員会で少しもめた後、ふたりきりの闇にまぎれて、いきなり抱きすくめられる時がある。最初はきっと私を求めてくれているのだと思って素直に受け入れていたけれど、最近は中学生の範疇を越えるような部分を……たとえば胸とか……触れてこようとする。もちろん意識して避けるようにはしているけれども、時々ふたりっきりになるのが怖くなる。匂いもだんだんあぶらっぽくなってきた。
健吾が何を求めているのか、わかるようでわからない。
私がしてほしいのは、たった今、生徒会に立候補すべきか否か、それをはっきりと決めてくれて、そっと隣り合って肩に触れるぬくもりだけで、にっこりしている人だった。一緒にいて、私が選択肢を選べない時に笑顔で支えてくれる人だった。
佐川さんのように健吾がしてくれたら、どんなにか。
あの人はまだ、生臭い匂いがちっともしなかった。どんなにくっついても、そうだった。
──私が欲しいのは、そんなんじゃないのに、健吾。
心の中で問い掛けてみる。相変わらずポジション研究に余念のない健吾を、もう一度横目で見る。
──梨南ちゃんは贅沢よ。あんなにやさしく立村先輩が好きだって言ってくれてるのに、なんで満足しないのかしら。秋葉くんの時だってそうだったわ。梨南ちゃんはあのふたりが一番ふさわしいのに。健吾のこと思っていても、もし私のようにあんな風に、胸を捕まれたり、脂臭い舌を口の中に入れられたりしたら、嬉しい? 梨南ちゃん、下品な男子は嫌いなんでしょ? すぐに手の届く人なんだもの、どうして妥協しないの?
ふつふつと、忘れかけていた泡立つものが湧いてきた。
──私なんて、手が届かないのよ。梨南ちゃんみたいに!
今までずっと、梨南ちゃんは私の持っているものを欲しがっていると思ってきた。手に入り用がないものばかりねだっているように見えた。でも、昨日確かに耳にした、立村先輩の言葉は、私が欲しいものだった。すぐ側で、理想の形で思ってくれて、いやらしい視線もなにもない、やさしい瞳。それだけでいい、どうすればいいかを指し示してくれる人が欲しかった。今の私にはべたべたした暑苦しさと、放りだされた寂しさとがぐるっと取り囲んでいるだけだった。
もうE組に行って梨南ちゃんを覗き込む必要もない。他の人たちも生徒会選挙そのものには関心があるけれども、立候補者が揃うまではまだどうでもいいというスタンスを崩さなかった。締め切られてから、の話だ。クラスの話題にも上がっていない。桧山先生がさりげなく、立候補締め切りのお知らせを帰りの会で口にしただけだった。健吾よりも一秒早く私は立ち上がり、礼をした。扉へ急いだ。健吾がかたく私の肩に手をかけた。
「おい、佐賀、どうしたんだ」
「ちょっと用事あるの、先に帰ってていいわ」
さらっと手が落ちるように首と肩を降った。どうせバスケ部の練習があるのだろうし、それ以上説明する気はなかった。だって納得なんてさせられない。健吾は自分の都合いいことしか納得しようとしないもの。
「ちょっと待てよ、おい」
聞こえないふりをして、私は生徒会室へと向かった。
二階の階段を昇る途中で渋谷さんと風見さんがふたり一緒に私を追いかけてきた。両脇から、私をはさむような格好になった。
「佐賀さん、来てくれるのね」
渋谷さんが耳元にささやいた。
「ハルー! 今日は最後までお付き合いよっ!」
相変わらず脳天に響き渡るような声で、話し掛けるのは風見さんだった。
どちらも、何に立候補するのかまでは問わなかった。助かった。ぎりぎりまで言葉を飲み込んでおけるから。
生徒会室に、副会長の渋谷さんから足を踏み入れた。
すでにたくさんの生徒たちが集まっている。満員御礼の垂れ幕が下がりそうなほどだった。もう椅子に座る余裕はない。座っているのは藤沖生徒会長と霧島くん、そして他の男子数人だった。生徒会役員の人たちばかりだった。立って壁にもたれたり、紙をいじったりしているのは女子たちだけだった。やはりこういうところでなにげなく、男尊女卑の思想が根付いているのだと感じた。
「とりあえず、これ、渡しておくわ」
「ありがとう」
渋谷さんは前髪の根元を少し持ち上げる格好でヘアバンドをしていた。額がまるくでて、いっそう顔立ちが際立っている。りりしい、というには女子っぽいふくらみがほっぺたに残っている。ちらと霧島くんが私たち三人に視線を向けた。あごでしゃくるような挨拶を送ってきた。むっとした様子の渋谷さんに後ろの風見さんは、
「ナミー、がまん、がまんよ」
肩をぽんぽん叩き、無邪気に笑みを浮かべていた。渋谷さんとしてはどちらにしてもかなり気分はよくなかったみたいだけど、風見さんときたらそんなのどうでもいいって顔していた。
私は手元に届いた「立候補受付用紙」をじっと見つめた。
昨日風見さんが話してくれた通り、今のところ持ち上がり生徒会役員数人を除き、ふたり分のポジションが空いている計算となる。厳密には生徒会長をふくめた三人分。
青大附中の生徒会では、性別でポストを分け合うということがなく、男子だけ、女子だけ、という形でも全く問題がない。たまたま去年は男女半々となったけれども、別の年には男子のみの執行部という時期もあったのだという。今年はもしかしたら女子の方が比率として高くなるかもしれないといわれているけれども、生徒会長のみ男子であればプライド保つことができるはずだった。それゆえの、霧島くん立候補だろう。
生徒会長が埋まり、あとは副会長か、それとも書記か。
──必然的に、私は書記なのね。
心でまだ納得できないものを感じていた。書記の仕事というと、ノートを取りつづけることしかイメージがわかない。なんとなく評議委員会と同じ仕事のように思えた。
──それで、渋谷さんが副会長なのね。
本当は会長になりたいだろうけれど、無理に波風立てる必要もない。渋谷さんはしばらく紙をひらひらさせていたが、藤沖会長のもとに駆け寄っていって、何か話し掛けていた。何を話しているかは聞こえない。私は隣にいる風見さんと目を合わせた。
「今ね、ナミー、あと三十分、守りきれるかってこと、相談してるんだよ、きっと!」
ひそひそ声で風見さんが答えた。
「心臓ぱくぱく言ってると思うなあ。でも大丈夫。見てて。私ちゃーんと、ナミーを守るもんね」
「守るってどういうこと?」
昨日から風見さんの言葉が妙にひっかかっていた。
「ドリにはね、とっておきの魔法があるのよ。まかせといて!」
風見さん、自分のことを「ドリ」と呼ぶのはなんだか間抜け。
「風見鶏」のドリちゃんって、決して名誉ある名前じゃないと思うのだけど。
このまま書記立候補記入欄に「佐賀はるみ」と名を入れれば、それですべて終わるはずだ。同時に渋谷さんが「副会長」に、霧島くんが「会長」に登録すれば丸く収まるはず。でもなんでみな、その話に触れようとしないのだろう。他の男女関係者はみな、ちろちろと戸口の方を眺めては不安そうに顔を見合わせている。
渋谷さんの側でもうひとり、確か会計係だという女子がまくし立てている。名前、忘れてた。あまり印象深いタイプの人じゃなかったからかもしれない。声がとんがっていた。
「大丈夫? 本当に大丈夫なんですか? 会長」
「ああ、立村がその点はなんとかするって言ってるしなあ」
受け答える藤沖会長に、不安みたいなのは感じられなかった。やっぱり男子かな。
そこに割り込んだのが、やはり渋谷さんだった。両脇の髪の毛を風見さんっぽくぷるぷる震わせ、机を指先で数回叩いた。
「そうのんきなこと言ってていいんですか! 最後の最後でどんでん返しされたら大変ですよ。会長、責任取れますか!」
「取るもなにも、あと十分もすれば締め切りだろ。渋谷さんも早く書いて出せよ」
「ええ、わかってます、でも」
歯切れが悪かった。渋谷さんは反対側の角でいらいらして机をはじいている霧島くんにちらちらと視線を投げた。たまに視線が重なるのだが、かなり霧島くんご機嫌斜めとあって、ろくに口も利かなかった。手元には申し込み用紙がそのまま伏せてある。まだ提出していないのだろう。ということは、私も渋谷さんも霧島くんも申し込みをしていない。三人分のポストは空いている計算となる。
「ハル、準備したほうがいいんじゃないの」
「うん、わかった」
ちびた鉛筆を一本借りて、書き込もうと思った。でもやはり「書記」というのがひっかかってしまう。もし当選したとしても、することが評議委員と変わらないのならば、つまらない。書記という仕事が想像つかないだけかもしれないけれど、なんだか抵抗あり。一度書いて、すぐ消しゴムで消した。最後の一分で書き込んで渡せば、それでいいんだもの。もう少しだけ迷おう。
いきなり引き戸がぎゅっと引かれた。
見知らぬ男子だった。
「全員、戦闘準備に入れ!」
──戦闘準備?
戸惑う中、生徒会室にいる全員が立ち上がり、スクラムを組むような格好で中腰になった。私は片手に鉛筆と申し込み用紙を握り締め、壁に張り付いた。話の流れから言って、おそらく生徒会室の人たちが誰を迎え撃つのかは、想像がついていた。
「失礼します」
勢い良く走り込もうとしたのは、やはり梨南ちゃんだった。
髪の毛を高くポニーテールにし、真っ黒いリボンを大きく結んで、真正面を見つめていた。その後ろにしつこく張り付いている人も一緒に飛び込んできた。一瞬たりとも離れようとしない。変なところで感心した。
「杉本、やめろ! こっちに来い!」
立村先輩がおなかから出る声で怒鳴っているのを、初めて聞いた。
敷居すれすれで梨南ちゃんが立ち止まり、九十度方向を変えて立村先輩に向かい合った。
「いいかげんにしてください。私にしつこく付きまとうのは一種の犯罪です」
「だからもうやめろって言っただろう、杉本はこっちにいる方が絶対にいいんだ」
「要するにこうやって私がやろうとすることを、先輩は邪魔しようとするのですね」
いつものような棒読みの言い方。私はなれているけれども、他の人たちは生の梨南ちゃんをじっくり眺めるのが初めての様子だった。隣で黙って見据えている風見さんがいる。
「時間がありません。消えてください」
「だから入るなって言ってるだろう」
立村先輩が両手で梨南ちゃんの右腕を引っ張った。これって一歩間違うと、梨南ちゃんじゃないけど「一種の犯罪」になってしまうのではないか。転ばせるほどではなかったようだけど、振り払いはしなかった。
「立村先輩、どうしてそんなに私が立候補するのを止めようとするのですか。私だけではなく、先生たちも高く評価してくれたからこそ、私は」
「違うんだ、だからこっちこい。説明してやるから」
「時間がなくなります。あと十分ありますね。失礼します」
「だから話を聞けよ」
もう立村先輩の顔は頬にうっすらと赤みがさしていた。色白だから真赤、ではない。すうっとおしろいと頬紅をはたいたように見えた。食紅でうっすらと赤が浮き出すおもちのよう。
「時間がないのです、だから離してください。先生を呼びますよ」
「呼びたいなら呼べよ。聞かれて悪いことなんてない。全部説明するよ」
ずいぶん強気だ。最奥席から椅子を引きずって、藤沖会長自ら、ゆっくりと敷居まで足を運んでいた。それを追いかける格好で、渋谷さんが私たちの側へ戻ってきた。私たちの目の前には、やはり不機嫌そうな霧島くんが唇をまげて座っている。
「とにかく、あと八分だけ立村委員長が押さえてくれればいいのよ。私たちもそろそろ書きましょうか」
私と霧島くんに向けて、渋谷さんは声を掛けた。ふいっと向こうを向く霧島くんにかがみこむようにして、渋谷さんはもう一度繰り返した。声が堅い。
「早く、書きましょう」
「なんで先輩の言う通りに書かないとまずいんでしょうかね」
ずいぶんとむくれた態度だった。はっとした風に渋谷さんが言葉を投げつけようとした。霧島くんがすぐに畳み掛けた。
「最初の約束と違うんじゃないですか、僕は納得いきませんよ。僕の申し込みたい通りに書きますよ」
「あれだけ言ったじゃない、約束したでしょ」
「横暴ですよ、何が今更、先輩面するんですか。たかが一年しか違わないくせに」
「だってちゃんと約束してくれたじゃない」
いったい何が起こったのだろう。私も慌てて手のひらで「書記」のところに自分の名前を書き込もうとした。うまく掛けなくて所々穴があいてしまった。一刻一刻と締め切り時刻が迫っているというのに、目の前の立候補予定者ふたりは、いきなり言い争いをし始めている。本当に私書記でいいんだろうか。なんだか違う、そんな気がする。
廊下で、藤沖会長が見守るなか「痴話げんか」にも似たやり取りが続く。
そしてここでも。
判断に迷った。一瞬を突いて風見さんが廊下へ飛び出した。
「あんたたち、さっさと消えなさいよ!」
ちょうど藤沖会長に隠れる形で、風見さんの背中は見えなくなっていた。一歩足をずらした会長と、ざわめく他の生徒会関係者たち。私は斜め前に渋谷さんたちの口論を、廊下側に梨南ちゃんと立村先輩を罵倒する風見さんの声を両方聴いていた。
人差し指を突きつけて、風見さんのけたたましい叫びが響いた。
「あんた、悪いけど立候補して、勝てると思ってるわけ? あんた自分が先生に評価されて立候補するつもりでいるだろうけど、大嘘だってことここにいる生徒会関係のみんな知ってるって知らないわけ? ほーら、やっぱりだまされてるのね。みんな知ってるのよ。あんた以外みんなよ。へたしたら一年だって知ってるわよ」
「何様のつもりかしら」
静かに言い返す梨南ちゃん。それが憤りのきっかけだということを私は知っている。だから緊張するはずなのに、風見さんは微動だにしなかった。立村先輩は押さえた手を離さなかった。
「杉本って言ったわよね、あんた。つくづく思うんだけど、あんたオペラが好きだとか音楽が好きだとか勘違いしたこと言ってるけど、自分の声、一度でも録音して聞いてみたことがある? とてつもない音痴だってこと、みんな知ってるからあえて知らないふりしているのにね。だからピアノを習おうとしても覚えられなかったんでしょう。有名よ。音程取れないからでしょ? あの、学校祭にきた男子タイプがあんたにはお似合いなのに、何馬鹿みたいに頭のいい人ばかり追いかけてるんだかって、みんな馬鹿にしてるのよ。それも知らないで可哀想に」
マシンガントークそのもの。トーンが高い、頭に響く。
その合間にも渋谷さんと霧島くんは
「だからなんでいまさら!」
「そっちが横暴だって!」
ひたすら言い合っている。
「この前学校祭で追っかけてくれた男子いるでしょう。ああいう男子だったらいくらでも好きになってくれるのにねえ。立村程度の相手があんたにはお似合いなのよ。こいつみたいな奴を相手にして、人目につかないところでこっそりいちゃいちゃしてればいいのよ。ハルやナミーや他の人たちの迷惑にならないところでね」
「それは失礼じゃないかしら。私を馬鹿にしているとしか思えない言い方だわ、それにどんなに不細工で頭の悪い先輩であろうとも、一年上である以上は先輩と呼ぶべきよ」
またまっすぐに、感情の篭らない声が響いた。全員固唾を飲んで見守っている。いや、目の前の渋谷さんと霧島くんだけが言い合いを続けている。
「あんた馬鹿ね。先生たちがあんたを立候補させようとした理由、本気で能力を買ってくれたからとおもいこんでるわけ? あんたの鼻をいいかげん明かしてやるために、落として痛い思いさせて反省させるために決まってるじゃないの。そんなこともわからないわけ? きっと駒方先生けしかけたんでしょうねえ。学校祭の喫茶店やった時みたいに、すごいすごい、あんたしかできないとか言って。悪いけどそんなの、他人に迷惑を掛けさせないようにするためならいくらでも嘘八百言えるのよ。わかってないわね。ほんとにあんた、十四歳? 病院に行って調べてもらった方がいいんじゃないの?」
すでにもう、それ専門の病院に行くよう命令されていることを私は知っている。
そして梨南ちゃんがなんで、ピアノをマスターできなかったかも知っている。
梨南ちゃんは、音程を区別して聞き取ることが苦手だった。自分の耳に聞こえる歌と、他の人たちに伝わっている音とは違うということを、いまだに気付かないでいるってこと、私は小学校の時、お母さんから教えてもらった。
──私、どうすればいいんですか。佐川さん。
想像もしていなかった自体に、私はそっと一歩後ろへ下がった。隠れてもそばには、まだ言い合っている渋谷さんと霧島くんがいる。静かに篭ることなんてできない。陰から梨南ちゃんを覗き見つつ、ふたりのやりとりに耳を傾けた。私、ひとりぼっちだった。
梨南ちゃんは唇を尖らせた。立村先輩の手を振り解こうとし、手を払いのけようとした。ふらついた立村先輩を突き飛ばすようにして、今度は風見さんの前に立ちはだかった。要求した。
「時間がないわ、どいて」
「どかないわよ!」
ハエを叩くように思いっきり風見さんは梨南ちゃんの腕を打った。まずいそれ、梨南ちゃんが狂ってしまう。止めなくちゃ。なのに、足が動かない。
「先生たちの狙い通り、悪いけどあんたが立候補した段階で落選確実のシナリオはちゃーんと組まれているってわけ。今、空いているポストはね、書記と副会長だけどそんな人の下に立つようなのいやなんでしょ。わかってるわよ」
「選挙は役員を選ぶために存在するのよ。対抗馬が出てどこが悪いわけ。こんなところで自由な選挙を邪魔して、いんちきをやり遂げようとするなんて、腐っているわ、生徒会」
そのくせ、ちらちらと時計を見る梨南ちゃん。私にまだ気付いていないようすだった。あと四分。私も書かなくちゃいけないのに、目の前のふたりが決着つきそうになくて、まだ迷っている。思わず「会長・書記・副会長」すべてに書き込んでしまった。消す暇なかったらどうしよう。
「会長に立候補する? ふうん、そうなの。勝ち目ある?」
ゆっくりと振り返った風見さんは、言い争う渋谷さんと霧島くんを指差した。あまり迫力のある状態でないのが、説得力ない。
「悪いけど会長候補はね、今のところ一年の霧島くんか、もしだめなら副会長の渋谷ナミーよ。いい、どっちが立候補しても、あんたがぼろ負けするのが目に見えてるわけよ」
「そんなことないわ」
言い切った梨南ちゃん、まっすぐすぎて穴が空きそうな瞳がぎらぎらしている。隣で立村先輩が「杉本、だからやめろ!」そう怒鳴っているのも聞こえない風に。気が付いたのは風見さんの方らしかった。「そうだ、言っとかなくちゃ」と独り言。
「あんたのことをね、私は先輩だなんて少しも思っていないから、隠したいだろうけど言わせていただくわ」
高らかに言い放ち、次に風見さんが指差したのは、立村先輩の方だった。
「悪いけどお似合いすぎるわよね。私、品山小学校に五年の時までいたのよ。いっこ上の、救いようもないくらい泣き虫で、犯罪者で、人でなしで、あの浜野先輩を再起不能の大怪我させた馬鹿男の話を全部知ってるわけよ。聞きたい?」
私はすでに健吾から聞いているから、聞きたいとも思わなかった。
硬直したまま動かない立村先輩をじっとねめつけたまま、風見さんは舌打ちした。いつもの無邪気な表情とは裏腹の炎あふれる瞳だった。隠していたのは、スケバンの仮面だったのか。
「サッカー部のスターだった浜野先輩のこと、忘れるわけないわよねえ。私、浜野先輩の妹の友だちと仲良かったから全部聞かされたわよ。浜野先輩って、いじけ虫のあんたがこれ以上いじめられないようにっていろいろかばってくれてたそうじゃない? ずっといじめられていて、それが本当は当然だったのに逆恨みして、クラス全員から総すかんくっていたあんたのことを、『俺がかばってやる!』って懸命に仲間に入れてあげようとしてたの、知らないで! 有名よそれ。誰にも遊んでもらえなくて、ちょっと話し掛けたらすぐ泣き喚いて、それでしかたなく放置してたらまわりからいじめをやったと思われて、みんなうんざりしてたってね。ひとりぼっちで本読んでいて淋しそうだから、一緒に探検ごっこに入れてやろうとか、サッカーに混ぜてあげようとか、いろいろしたみたいよ。可哀想な馬鹿男子のために、今日はあれやろう、明日はこうしてやろうって、一生懸命考えてただって! なのにね、最後の最後にね」
もちろん聞こえているのだろう。立村先輩は視線を逸らしていた。梨南ちゃんの方を見ようとしたけど、すぐにうつむいた。目がうつろで、かすかに風見さんの方を何か物言いたげに見つめていた。でも止まらなかった。風見さんにはそんなの関係なさそうだった。
「どんなに一生懸命遊んであげようとしても、結局どうしようもなくて、しかたないからみんなで静かに青大附中へ送ってあげようってしてたのに、あんた何したわけ? なんであんなことしたわけ? なんで、浜野先輩を土手から突き落として、足にものすごい怪我させたわけ?」
「怪我って、それは」
ようやく立村先輩が言葉を発した。淡い、かすれた声だった。
ゆさゆさと揺れたのは、目の前の藤沖先輩だった。腕を組むようにして、風見さんの隣に立った。まるまる風見さんが見える。
それにもかかわらず、相変わらず言い合っている渋谷さんと霧島くん。
「僕がなんで会長やったらいけないんですか! 最初そういう話だったでしょうが!」
「だから言ったでしょう。一年で万が一、対抗馬が出てきたら落ちるかもしれないって! 安全策だって言ったでしょ!」
「うるさいですよ。結局渋谷先輩は、僕を踏み台にして会長やろうとたくらんでただけでしょう。男子をだますなんて最低もいいとこだ。こういうこと、他の会長たちが聞いたらなんというんだか」
聞いていたのは、私だけだった。渋谷さんも私が聞き耳立てているなんて気付く余裕あるわけない。私がからくりを発見したなんて、きっと思っていない。
──最初から、渋谷さんは会長を狙ってたのね。
──佐川さんの言う通りだったのね。
男子でないと絶対に受け入れられない藤沖会長を説得するために、まずは霧島くんを連れて来て会長候補と決める。それから渋谷さんは霧島くんと交渉して、ぎりぎりで会長の座を譲ってくれるように頼み込む。最後の数分間でその入れ替えを行う。そう計画していたのに、霧島くんがOKを出さなかった。だから、こんなに、もめている。
私のたどたどしい言葉を聞き取って、そこまで読みきった佐川さんに今どうしても会いたかった。心の奥から、あの人を呼んだ。
風見さんの告発は続いていた。
「浜野先輩と卒業式に決闘したっていうのは、見方を変えれば男らしいって言われるでしょうね。恩をあだで返されたってことさえしらなければね。一生懸命仲間に入れてあげようとして、結局しっぺがえし食わされたら普通恨むわよ。浜野先輩って本当の男だわ。『あれは男同士の決闘だったんだ、だから、もうあのことは忘れろ』って、同じクラスの連中に話したんだってよ。ふうん、そうなんだ、足のどこかわかんないけど、ひどく痛めてしまって、サッカー部でいまだレギュラーに入ることができなくなったって噂聞いたけど、それって、誰のせいなのかなって思ったわ。みな、その話聞いた人、口を揃えて言うわよ。あの逆恨みの馬鹿男のせいで、将来はオリンピックのサッカー選手になれるはずだった浜野先輩が、人生棒に振ったってね」
梨南ちゃんは静かに立村先輩をにらみつけた。今の話をどう受け止めているのかわからない。もし、今まで梨南ちゃんが立村先輩にしてもらったことを考えるのならば、そのくらいのことは許すべきだろう。他の誰もに嫌われたとしても、梨南ちゃんは嫌う権利なんてないはずだ。だって、菊乃先生や健吾や小学時代の同級生、そして私にしてきたことを考えれば、当然のことに決まっている。
「先輩、本当ですか、人間として、そんな、最低なこと」
「とっくに知ってるだろう」
呟き、うつむき、横を向く立村先輩。風見さんはちらと、隣の藤沖会長に体をねじって首を傾げた。どういう表情か、私の立ち位置からは見ることができない。
藤沖会長がそのまま風見さんの前を通り、立村先輩を覆い隠す格好で立ちはだかった。
背中が大きい人だった。その声が一言、響いた。
「立村、今の話、事実か」
「事実は、事実だ」
姿は藤沖会長の背に覆われて見えなかった。聞こえた声はかすれていた。振り返った藤沖会長が言い捨てた言葉だけ、はっきりと聞こえた。
「悪いが、もうお前とは、話をしたくない。理由はわかっているだろう」
戸を閉めようとしたのを、慌てて風見さんが抑え、滑り込んだ。隙間なく、今度はきっちりと閉めた。ドアの向こうからかすかに梨南ちゃんが棒読みで告げているのが聞こえた。
「私も、もう二度と立村先輩と話をすることはありません。人間として、もう近寄りたくない人です」
いつものトーンで告げたらしい。と同時に、閉められた引き戸が一気に全開した。
「申し訳ないのですが、あと一分あります。生徒会長に立候補したいのです」
全員、ふたたび、態勢を整えようとした。慌てている。まさか梨南ちゃんがそこまで罵られて、それでも立候補しようするなんて想像できなかったのだろう。私からすると、梨南ちゃんの行動は読み通り。だけど、何ができるのだろう。
「もう一度言います。私は生徒会長に立候補したいのです。申し込み用紙をお願いします」
確かに、あと一分残っていた。のろのろと誰か女子ひとりが、紙を用意しようとした。時間稼ぎをするかのように。梨南ちゃんはすでに胸ポケットの生徒手帳からボールペンを取り出し、かちっとノックを押し書き込む準備をした。渡したら、すべてが終わる。
それを見た時、私の中で何かがはじけた。
非常事態にやっと気付いたのか、渋谷さんと霧島くんが慌てて紙に自分の名前を書こうとしている。でも間に合わない。梨南ちゃんは書くのが早い。五秒もすればすぐに提出してしまえる状態だ。口汚く罵りながら隣のふたりがシャープをちくちく言わせているほんのわずかの間。
──佐川さん。
私は片手に握り締めていた用紙を取り出した。すでに書き込んであるもの。
今私が思うまま動いたら、きっと生徒会は大変なことになるってわかっている。
もしかしたら渋谷さんも、私と友だちでいてくれなくなるかもしれない。
でも、私しかいない。
梨南ちゃんを、本来いるべき場所へ返すことができるのは、幼なじみの私しかいない。
立村先輩が待っている、廊下へ私は梨南ちゃんを連れ出してみせる。
そのためには、これしかない。
前に固まっていた数人の男子の隙間から、私は梨南ちゃんの視界に入る場所まで歩いていった。初めて私がいることに気がついたのだろう。
「はるみ、あんたなんでそこにいるの」
目を大きくまん丸くしている。教室で接するのと同じように、私はにっこりした。
「もちろん、立候補するためよ。梨南ちゃん」
「あんたなんかが、何できるというの」
怖くなかった。なぜだろう。小学校時代は一度も逆らえなかったのに。言われた通り、梨南ちゃんが絶対に正しい、そう言いつづけてきたのに。かつては親友だと思い込んでいたけれど、今は一緒にいるだけで憂鬱になる、できれば話もしたくない、通りすがりの女子だった。私を見下すことによって梨南ちゃんは自分がえらいって思おうとしている。ほんとは誰もそんなこと思ってくれないのに。立村先輩や秋葉くんがいくらでも可愛がってくれるのに、健吾や関崎さんのように立派な肩書のある人ばかり欲しがっている。
──梨南ちゃんを、立村先輩のもとへ戻すのよ。
私は用紙の「書記」「副会長」の部分に記した名前を二重線で消した。
開いて梨南ちゃんの鼻先に突きつけた。
「私、会長に立候補することに決めてたの。今出すわ」
後ろで立ちすくんでいる会計の女子に手渡した。彼女は黙って受け取ってくれた。
「もし梨南ちゃんが会長に立候補したら、私に勝てると思う? 周りはみな、梨南ちゃんのことをいじめた悪い子だと思い込んでいるし、二年はみな梨南ちゃんの敵に回るわ。もしかしたら立村先輩たちが三年の票を取りまとめてくれるかもしれないけどそれだけよ。それに」
思いついたまま、私は言葉を続けた。
「もし副会長か書記か、それに立候補してだまって信任投票となったとしても、私の下で梨南ちゃんがまんできる? 私なんかの命令を聞く気になれる? 私なんかに命令されて、がまんできる?」
目がぎらぎらしている。片手の握り締めたこぶしが震えている。唇を震わせていた。
「私、梨南ちゃんがそんな恥ずかしいことがまんできるなんて思ってないわ。だからお願い、ここから出て行って。これ以上、人を傷つけないで。早く、立村先輩に謝ってあげて。今、味方でいてくれるのは、立村先輩と秋葉くんだけなのよ」
私と梨南ちゃんは黙ってにらみ合った。私は見つめただけだった。
頬が真赤に膨らみ、梨南ちゃんの肩ががかすかに揺れている。でも平気。梨南ちゃんはこれ以上何も言い返せない。私の風下に立つ以上に、梨南ちゃんにとって惨めなことはない。
「ナミーも霧島くんも、ほら、さっさと書いたでしょ。ほら私が持ってってあげる」
後ろの方で三つ巴の言い争いがまだ続いているようすだった。それを仕切っているのが風見さんらしかった。
梨南ちゃんを一切入れるわけにはいかない。背中には熱いものが支えてくれているようだった。隣でひそやかに男子たちが、
「おいおい、ちょっと予定が狂ってるぞ」
とささやいている。ごめんなさい。私もこんなことになるなんて思っていない。渋谷さんか霧島くんかどちらかが会長に立候補すれば、私はたぶん落とされる。それでいいのだ。私の役目は、梨南ちゃんを不戦負で生徒会から出て行かせることだけ。
──梨南ちゃんを止められるのは、私だけ。
私と対決して、今の梨南ちゃんに勝ち目はない。霧島くんや渋谷さんと対決しても同じだけど、私とぶつかったらかつての恥をすべてあらわにされるだろう。
プライドを何よりも大切にする梨南ちゃんが、それを捨ててまでつっかかって来るわけがない。
明らかに負け戦なだけなら、梨南ちゃんも勝負に出るだろう。
でも、女子として、健吾への片思いや立村先輩の横恋慕や秋葉くんとの追いかけられっことか、絶対に認めたくないものをあらわにされるようなことは、死んでもしたくないだろう。
「あのー、すでに四時過ぎたんですが、いいですか。締め切って」
会計係の女子ふたりが、机の上に置いてあった大きな目覚し時計を持ち上げて揺らした。
全員私たちに視線を集中させていたけれど、すぐにだらだらと元の位置に戻り始めた。
「もう用はないでしょう。外には立村がまだ待っているようだから、帰った方がいいでしょう」
ぶっきらぼうながら丁寧な言葉遣いで、藤沖会長が梨南ちゃんをエスコートし、戸まで連れて行った。おとなしく外に出て、また梨南ちゃんが振り返ろうとするのを見計らい、藤沖会長はその鼻先でぴしゃりと戸を閉めた。一気に全員から「ほおっ」とため息が洩れた。
「ナミー、そんなしょんぼりしないでよ! ナミーのためなんだから! これからよこれから! 霧島くんも、今回は副会長でいいじゃない。ナミーとハルのために、ばりばり働いてよ!」
さっきまで立村先輩を口汚く罵った風見さんが、いきなり手のひら返したように甘えてしゃべっている。力が抜けたように椅子に腰掛け放心状態の渋谷さんに、私はどう声を掛けたらよかったのだろう。風見さんは私にピースサインを送ってきた。
「ありがと! これで完璧な生徒会になるわよね! ねえ会長、女子だって悪くないですよねえ! でしょでしょ!」
藤沖会長はじっと私の顔を見詰めていたが、黙って頷いた。
「もう俺は、口出ししないことに決めた」
「どうしてですか」
尋ねていた。藤沖会長が無理やり笑おうとしている風に見えたから。
「人間を見る眼が、俺にはなかったってことだ」
思わず私は耳のほつれ毛を押さえてうつむいた。
──佐川さん、私、こんなことになるって思ってなかったのに。
信任投票、全員当選確実。私はもう、来週の選挙が終わったら、生徒会長になってしまう。
ひとりはしゃいでいる風見さん、脱力している渋谷さん、机を叩いている霧島くん。
会計係の女子が片手に持っている立候補申し込み用紙には、「書記」に渋谷名美子と、「副会長」に霧島真と殴り書きで綴られていた。二枚とも「会長」の欄に書き込まれた後があり、二重線で消されていた。