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佐川さんからの手紙はいつまでたってもこなかった。
生徒会改選告示が月曜の昼休み、生徒会室前に張り出され、金曜日の午後四時で締切となる旨発表された。最初からそのあたりのスケジュールはわかっていることだったし、佐川さんにも手紙で書いておいた。だから、それを見た上で、私がこれからどうするべきか、どういう風に行動すればいいかを、佐川さんが考えて指示してくれるはずだった。
いいかげん、教えてくれてもいいはずなのに。
私が立候補して、どういうメリットがあるのだろう。
私が立候補して、何をなくしてしまうんだろう。
渋谷さんが何を計画して、私を引きずり込もうとしているんだろう。
梨南ちゃんを無理にでも押さえつけなくてもいいのだろうか。
いろんな選択肢がありすぎて、私にはどうしていいのかわからない。
告示のあとも、渋谷さんと風見さんのふたりとは、それなりにおしゃべりをしていた。自然と生徒会室以外で顔を合わせることが多くなり、図書館とか廊下とか中庭とか、いかにも女子たちがたむろしやすそうなところで話をしていた。だから、うるさく友だちチェックをする健吾もそれほど気にしなかったのだろう。気が楽だった。
おもしろいことに、渋谷さんは風見さんの前で決して、生徒会改選の話題を持ち出さなかった。ちゃんと「ドリ」と風見さんの呼んでほしいあだ名で話し掛けているし、笑顔を絶やすことはなかったけれども、私とふたりきりになった瞬間一気に悪口が溢れ出す。それを私は黙ってふんふんと聞いている。そういう感じの繋がりだった。
風見さんも
「やーだあ、なんでふたりの世界作ってるの! もう、仲間はずれなんだからあ」
とかすねてみたりはするけれども、決して私と渋谷さんの話題に割り込むことはなかった。当り障りのない話題、たとえばテレビアニメだとかぬいぐるみとかそういった話、そのあたりで盛り上げることに徹していた。きちっと硬くブローした風鈴ヘアーを振りながら、
「ねえ、ハル、今度一緒にショッピングいこうよ!」
とか話し掛けてくる。
──うまくバランス取れているふたりかもしれない。
なんとなく私の中で、そんな感じがしていた。
「ハル、ねえねえ、最近ふたりともどうしたの。落ち込んでるよお。どうしたの、秘密があるなら私にも相談してよね!」
「はいはい、言うに決まってるじゃない」
「ずるいなー、私たち親友じゃない」
「もちろんよ。私、ドリのそういう素直なとこが好きよ」
互いにうまく綱を引いて均等を保っている。
ふたりはそのあたり気がついているのだろうか。私に見えただけなのだろうか。
木曜日。立候補締め切り前日。
いつものように渋谷さんは生徒会室へ向かおうとした。放課後だった。風見さんにもそのあたりは言い含めておいたようすだった。風見さんもそれほどごねずに、
「それなら選挙終わったらゆっくりあそぼ!」
相変わらず何も考えていない風に手を振って駆け出していった。廊下にはあまり人通りがなく、やっとふたりきりになれた。私が待っていたわけではなくて、渋谷さんの方がほっとしていたようだった。
「うるさいのが居なくなってほっとしたわよね」
「でも」
「私、佐賀さんと一緒にもっと話がしたいの。だから、この前あんなこと勧めてしまったけど」
久しぶりに改選の話が出た。本当だったら渋谷さんも、生徒会室に詰めていなくてはならないはずなのに、こうやってのんびりしていていいのだろうか。
私はあいまいに笑みをこしらえて、向こうの出方を待った。
うっかり口を滑らせてこの前みたいなことになったら、たいへんだ。探りを入れてみようと思った。
「渋谷さん、他の立候補者はもう揃ったの?」
たぶん霧島くんはすでに会長に立候補済みだろう。そう思っていたら、渋谷さんは思いがけないことを口にした。すうっとひたいに垂れ下がった細い髪の毛をよけるようにして、
「毎年、立候補者はぎりぎりまで集まらないのよ。金曜日の放課後三十分間に集まるか集まらないか、去年だってそうでしょう。私たち、第一回の告示ではなくて、補欠選挙でようやく集まったようなものなんだもの」
「ああそうなの」
「信任投票だから、とにかく候補者が集まってくれればそれでいいの。で、集まったら募集を止める。これもいくらでもやり方あるのよ。先生たちも、第一回告示で集まらなかった時に初めて他の生徒たちに声を掛けるだけ。それまでは自主的に立候補する人たちを待っていればそれでいいのよ」
「そうなの」
毒にも薬にもならない相槌を打ちつづけている私。なんだかばかみたい。
「金曜の三時半以降は今回、見物よ。とにかくみな必死になって集まってくるのよ。今回のように私とか他の生徒会役員が陰で手を回している場合は、早い段階で立候補させないで残りの三十分間ですべて片をつけるって形にしているから」
「でも、かえって早めに立候補されてしまったらどうするの?」
梨南ちゃんだったらさっさと会長に立候補しにくるかもしれない。
大丈夫、と渋谷さんは指先を軽く振った。
「ほら、勝ち目おおいにあり、と見極めたらどんどん他の人が立候補しにくるわよね。誰も立候補していないところに足を踏み入れるのって、すごいハードルだと思うのよ」
「そうね、誰も居ないと、そうかもしれない」
「でしょう? 杉本さんだって成績だけはそれなりにいいんだもの。きっと自分が信任投票でないと当選するわけがないということくらい、わかっているはずよ。だから、杉本さんがもし来たらすぐに『すでに会長には立候補者がいるけどそれでいいか?』と聞くことにしているの。そうすれば迷うでしょう?」
「それで、霧島くんを?」
恐る恐る私は尋ねた。
「うーん、そうね。私も最初はそれがいいと思っていたんだけど」
渋谷さんは言葉を濁した。何かひっかかるようなものが感じられた。
「もちろん彼は理想といえば理想なんだけど、やはり一年よね。気負いすぎているというか、男としてのプライドが強すぎてなんか大変そうね。仕事全く知らないくせに、今の段階で威張っているというのはなんだか、私の目が節穴だったかなって気がするの」
「そうなの」
あれだけご機嫌とりをしていながら、なぜだろう。
「でも、まあ、杉本さんほどではないかな。もし杉本さんが立候補したらその時は、当然そうなるでしょうね」
「ということは、まだ会長に立候補してないの?」
肝心かなめのことを私は尋ねた。
「彼も、三時半に生徒会室で待機してもらって、ぎりぎりに提出してもらうことにしているの。ほら、もしかしたら霧島くんよりもレベルの高い男子が自主的に立候補する可能性だってあるわけだし。そうなったらむしろ、霧島くんは副会長か書記、そのあたりに収まってもらえばいいのよ。どちらにしても生徒会に立候補することは決まっているわけよ。私たちが一番恐れているのは杉本さんが割り込んでくることだけだから」
そこまで話したあと、ちらちらっと周囲を見渡した。誰も知り合いはいなかった。耳元にささやきかけてきた。立ち止まり耳を傾けた。
「ここだけの話だけど、最近そちらの委員長が妙な動きをしているようなの」
「そちらの委員長?」
ぴんとこなくて繰り返した。
「立村委員長よ。この三日間くらい、鬱陶しいくらいE組の杉本さんに張り付いているようね」
「梨南ちゃんに?」
「変な行動を取らないように、ご機嫌取りをしたりなんなりしているみたいよ。立候補受け付け時間締め切りまでそうしつづけて、動かさないようにしているようすよ」
思いがけない言葉だった。もちろん、立村先輩が梨南ちゃんにご執心だってことは私も知っている。だからこの前、梨南ちゃんを止めるように報告した。そのあとで手厳しくつっぱねられたけれども、そういえばそうだ。立村先輩は梨南ちゃんを「生徒会長にはふさわしくない」と断言していたではないか。
となると、やはり、そう行動したということか。
「噂はやっぱり流れていたのね。他の評議関連の人たちが情報を集めたのかしら。今の評議委員会って、実際は天羽先輩が仕切っていると聞いているし、轟先輩がその補佐にあたっているともね。ある人から教えてもらったわ。そのあたりで立村先輩に責任を取るように命令したのかなって思ったの」
「責任?」
ますます話がこんがらがってくる。助けて、佐川さん。
「つまり、こういうことよ」
私にあきれることもなく、渋谷さんはわかりやすく続けてくれた。
「今まで評議委員会でさんざん立村先輩は、杉本さんのことをひいきしてきたでしょう。ただの後輩扱いしておけば、事が大きくならなかったのに。それを天羽先輩と轟先輩が言い含めて、杉本さんを増長させたのは立村先輩の責任なんだから、生徒会長に立候補することを力ずくで止めろって命令したんじゃないかしら。評議の人たちって意外と自分たちの委員会内力関係もよくわかってないみたい。気付いていないみたいだけど、わかっている人はわかっているのね」
──当たっている、けどちょっと違う。
私は唇に指を当てて、少しかんでみた。
天羽先輩や轟先輩が命令したという可能性はおおいにある。
生徒会の情報だし、立村先輩が聞いていないなんてことはないはずだ。
ということは、私が話す前にすでに、立村先輩は情報を仕入れていたということだろうか。
佐川さんにもそのあたりのことをもっと聞いておけばよかった。
「つまりね」
口元に小さなしわを寄せ、渋谷さんは言い切った。
「自分たちでしでかした始末を自分たちで片付けてくれるみたいなの。評議委員のみなさまたちは」
「でも、梨南ちゃん、そうかんたんに立村先輩の言うこと聞くかしら」
少し不安がよぎったので私は少し、ひっかかってみた。
「私も梨南ちゃんと本当に長い間友だちでいたけれど、信頼する人に対して素直なのよ。でも一度裏切られたらとことんうらみ続けるタイプなの。立村先輩のことをたぶん、一年のうちは大切な人だと思っていたかもしれない、でも、去年の評議委員長をめぐるごたごたがきっかけで縁きりされたはずよ」
「でも、結構今は仲良しみたいだけど」
渋谷さんはきょとんとした顔で答えた。
「昨日だって連れ立って、駅前のデパートでデートしていたわよ」
「うそ!」
後ろの誰かが振り向いた。慌ててふたり、指を唇にあてて「しーしーしー」と三回。
「驚くのも無理ないわ、佐賀さん。この一週間ずっとよ。三年の先輩が話していたけど、とにかく授業が終わるやいなやすぐ、E組に張り付いて杉本さんのご機嫌取りしているんだって。それもほとんどずっと。評議委員会って今の時期、暇だとは思えないんだけど」
「ううん、暇よ。今の時期はまだ」
健吾が先輩たちから聞いたところによると、生徒会役員改選が行われる時期というのは行事も一段落していることもあってわりかし暇なのだそうだ。だから部活動に所属している委員たちはみな、スケジュールをあわせて新人戦とかいろいろな大会に出るのだそうだ。もちろん委員長とかそのクラスの人たちは別らしい。立村先輩はあれでも評議委員長なのだから、ひまだとは考えられないけれども、たぶん、梨南ちゃんと一緒にいたがる程度には、時間が空いているのだろう。
「それに、今渋谷さんが話してくれたことと合わせれば、そうかもしれないなって思うの。天羽先輩や轟先輩が他のことを片付けてくれれば、たぶん立村先輩ひとりで準備するよりは早くすむだろうし」
「さすが、鋭いわ。佐賀さん、すごい」
私に珍しく、ほっこりした笑顔を見せてくれた。いつも少し冷たげな瞳で振舞う渋谷さんだけど、たまにこんな甘い顔をしてくれる。そういえばいつだったかテディベアを抱きしめて「これ欲しいなあ」と微笑んでいた時も、こんな瞳をしていたような気がする。
「でも、私、自分の目で見てみないと正直なところ、信じられないわ。あの梨南ちゃんがデートだなんて」
あの関崎さんへの気持ちが揺らいだのだろうか。それだったらそれでいいことだけど。私には佐川さんに報告する義務がある。確認したい。
腕時計の文字盤に渋谷さんはさらっと目を落とし、
「たぶん今の時間帯だったらいると思うな。E組あたりで王子さまがお姫さまのお迎えをしているかもしれないわよ。私、これから生徒会室に行くから付き合えないけど、もしよかったらこっそり覗いてみたら?」
ずいぶん自信たっぷり。知りたい気持ちの方が先に立った。頷き、私は渋谷さんへ手を振り、一階へと降りた。
E組……元の教師研修室……の前を通り過ぎたけれども、誰もいなかった。なあんだ、やっぱり噂だけじゃないのかな。
私の知る限り、他の生徒たちが立村先輩と梨南ちゃんの噂をしているところを見たことがなかった。渋谷さんがどこでその情報を仕入れたのか気になるところだけども、もし本当のことだとしたらどうなるだろう。立村先輩は梨南ちゃんのためならなんでもする人だ。梨南ちゃんが嫌がろうが、とことん守ろうとうする人だ。
しばらくふらふらと一階をうろついてみたけど、やっぱりやめた。
あまり遅く残っていると、健吾にまた叱られる。
「そんな暇があるならどうして体育館にこねえんだ!」とか言われそう。
玄関から見上げた空は真っ青で、風がほんの少しだけ冷たく刺さった。
遠くを眺めると、ほんの少しだけ黄色みを帯びた葉がぽろりと落ちていた。
まだほとんどは緑のままだけど、だんだんきみどりっぽい色合いに染まっている。
──こんな日は、銀杏も見て帰ろうかな。
気まぐれに足を向けようとした時だった。
「ハルー!」
いきなり背中から声がかかった。脳天突き抜けるような、空に一番近い声。
「やっぱりここにいたんだあ。よかった! ね、ハル、今、大丈夫?」
風鈴ふりふり頭の風見さんが、砂利をすごい勢いで蹴りながら飛び込んできた。
とっくに帰ったんじゃなかったのか? ほんの少し気が重くなりそうで、慌てて空を眺めた。笑顔を取り戻し、さて振り返る。
「風見さん、びっくりしたわ」
「たぶんここで待ってたらくるよねって思ってたんだ。ごめん、ほんの少しだけいいかなあ」
相変わらず何も考えていない無邪気なおしゃべりが続くのだろう。
私も合わせればいい。
そんなことを想像していたのに、もう一度振り返った時の風見さんの表情は一気にはや代わりしていた。信じられなかった、こんなこと。
「ナミーのことで、お願いがあるの」
きちっと形を整えた風鈴髪がすとんと重みを持って下りている。
まじめな瞳がどうしてかわかんないけど、似合っていた。
私が見たいと思っていたのを勘付いていたとは思えない。でも風見さんの足はすっすと銀杏の木の下へと向かっていた。やはり青すぎる空を見上げているうちにすかっとしたくなったのだろうか。
「さっきまで、ナミーと話、してたよね」
「ええ」
「ナミー、大丈夫だったかなあ」
大丈夫? 何か違う質問を投げかけられたみたいでどきっとした。
私が予想していたのとは違う。渋谷さんが陰で風見さんに言いたい放題言っていたのを私は知っているから、もしかしたら悪口言われているかどうかの確認かと思っていた。
何にも気付かない風に、風見さんはひとりで頷いた。
「ナミー、強く見せようとしてるけど、本当はすごく、気が弱いんだ。生徒会でたったひとり、がんばっているけど、やっぱりつらいんだと思うんだあ」
「強く見せようとしているというより、強い人だと思うけど」
「うん、そうだよね、そうだよね。そう見えるよね」
またこくこくこく、繰り返した。
「ナミーはなんでもしゃきしゃきってやっちゃう子なんだ。だからね、ひとりでなんでも背負い込んじゃうの。それでいつも貧乏くじ引いちゃうんだ。せっかく生徒会が自分の居心地いい場所になりそうな時にね、あんなことがあってね」
「あんなことって?」
すぐに思い当たった。ああそう、梨南ちゃんのことか。
「男子の先輩って、ナミータイプをあまり好きじゃないみたいなんだ。今度立候補しようとしている馬鹿な女子とは違って、しっかり周りに気遣いできる子だから表立っては嫌われていないんだけど、やっぱり目の上のたんこぶみたいなんだ。特に今の会長がね」
「藤沖会長が?」
「そう、あの馬鹿評議委員長と仲がいいし、評議委員会との話し合いものったりくったりと進めて満足しているみたいだし。ほんとはさっさと大政奉還させて、ただの委員会扱いしろってナミーたちは思っているんだけど、会長がどうしてもうんといわないし」
「男子でないと会長になれないところなのね」
このくらいなら呟いてもいいだろう。素直に頷いた。
「そうそう。そうなのそうなの。けどそれはそれでいいと思うんだ。霧島くんが生徒会に入ってくれればナミーも嬉しいと思うんだ。けど、もしあの馬鹿女が入ったりしたら、せっかくナミーの居場所が出来たというのに、あっという間に地獄になっちゃう。ナミーと霧島くんが本当にやりたいことを、全部邪魔されて、ぼろぼろにされちゃう」
風見さんは立ち止まった。気付くとそこは、銀杏の木の下だった。見上げると空が枝の隙間からちぎり絵模様のように散らばり、かすかに天ちかくの部分が黄葉しているように見えた。草のほこりっぽい匂いがかすかにする。風見さんは片手を幹にしっかとくっつけて、一度「わあっ!」と叫んだ。誰もいなくてよかった。
「ハル、生徒会役員選挙、明日締め切りだって知ってる?」
「知ってるわ」
短く答えた。何を聞こうとするのだろう。
「今ね、調べてみたら副会長ふたり分と書記ひとり分のポストが空いてるらしいんだ。会長は黙っててもたぶん、霧島くんが入るらしいけど、副会長にあの杉本って馬鹿女子がきたらしゃれにならないよねえ。書記だって困るよ。なんとしても、信任投票一発当選で終わらせたいんって気持ち、ナミーにはあると思うんだ。だから、ねえ」
言葉を継ぎかけ、私をちらと見た。頷いた。
「ハルなら、ナミーを守ってあげられると思うんだ。私、初めてハルに会った時からそう思ってたんだ」
「どういうこと?」
「生徒会役員に立候補してほしいんだ。どうしても!」
──もしかしてこれは、渋谷さんと風見さんとの二重攻撃なのかしら。
疑わずにはいられなかった。陰でなんと言っていようと、このふたりは小学時代から親友なのだ。私を無理やり生徒会に押し込むために何かたくらんでいるのだろうか。裏を読みたくはないけれども、やはり用心してしまう。佐川さんがいたらなんて言うだろう。どうして佐川さんは手紙をくれないの。風が冷たい。
「でも、私何も知らないし、生徒会にかかわったことなんてないのよ」
「大丈夫、ハルならナミーを守ってあげられるもん。ナミー、何でも私に言ってくれたらいいんだけど、きっと私じゃものたりないんだね。だめみたいなんだ。いつも笑顔でごまかそうとするんだ。けど、ハルにだったらきっとナミー、言いたいこと言えると思うんだ。もしかしてあの馬鹿女が入り込んできても、ハルだったら追っ払えると思うんだ」
「私無理よ、梨南ちゃんにやりかえされるかもしれないし」
「そんなことない! だって、ナミーはハルにだけあんなふうにふたりでおしゃべりしたがるんだよ! それってすごいことなんだよ!」
別に、風見さんへの悪口を言いたい放題ってだけのような気もするけれど。
足元の枯草がしゃかしゃか鳴った。風見さんの早口ことばに近いくらいに。
「だって風見さんは渋谷さんの親友なんでしょ。私、そこまで深い話してないし」
「そんなことないのないのないの!」
また甲高い声で絶叫する風見さん。しつこいようだけど、ほんと人のいないところでよかった。
「私、ナミーとハルのためだったら、どんなことでもしたいんだもん! 理屈じゃないもん」
「なぜ?」
「だって、ふたりが元気だったら、私、それだけでうれしいんだもん! 理屈じゃないもん!」
確かに、理屈じゃない理由だった。私にはどう判断すればいいかわからなかった。どうしてこういうわけのわからないことを言うのだろう。あと一日、佐川さんからの手紙を待ちたかった。明日、立候補すべきか否か、最後の決断を佐川さんに下してほしかった。もしそれで苦しい思いをしても、それは覚悟している。でも、佐川さんが何も言わないままでこのまま進むのは怖い。たった一人、自分が踏みつけられて、足元の枯葉のようにくしゃくしゃになりそう。
逃げたかった。だから尋ねた。
「少し考えさせて。それでひとつ聞きたいんだけど、いい?」
「なあに?」
また風鈴頭をふりふりさせて、いつもの何も考えていないような表情で風見さんが答えた。
「風見さん、知ってる? 評議委員長と梨南ちゃんが仲良く帰っているって話」
ここまで生徒会事情を知っている風見さんだったら、もしかしたら気付いているかもしれない。そう読んだだけのことだった。
「もしそうだったら、私も安心して立候補できるのだけど」
「え? ハル? やっぱりその気になってくれた?」
「梨南ちゃんが生徒会に入らないという前提でなら」
風見さんの細い目が思いっきりほころんだ。
「それが条件? わかった、それなら私、なんとかする! 絶対ね! 親友のためならなんでもするって言ってるでしょ!」
「なんとかすると言われても」
しようがないではないか。そういい返したいところだけど、また一気に駆け出す風見さんを私は追いかけるしかなかった。しゃかしゃかしゃか、足に絡まる枯草を蹴飛ばし、その煙でくしゃみをしそうになりながら私も走った。どこへ行こうとするのだろう。
わざわざ遠回りしなくてもいいのに。生徒玄関にたどり着くや否や、風見さんは私に片手で「おいでおいで」をした。
「さっき、中庭にね、ふたり仲良く座って語り合ってたようすだったのは覚えてたんだ。あんなに堂々と、いちゃいちゃするなんて、相当なものじゃない?」
「いちゃいちゃってどういうこと?」
「だから、ふたりで人目につくような行動してるってこと!」
それは私も人のこと言えないので黙っていた。まず中庭入り口を眺めやると、黒い大きな石の陰に誰かが潜んでいるのが見えた。他にも女子チームや男子チームがそれぞれたむろっているので、それほど目だつことはない。実際カップルも多かった。でもその中で、明らかに異彩を放っている雰囲気だったのが、その石陰に座っているふたりだった。
「あそこに、いたの?」
「私も驚いたわよ! ドリちゃんびっくりって感じ」
両手をほっぺたのとこにぺたっとくっつけてぶるぶる震えて見せた後、風見さんはまたこくっと頷いた。背を翻して今度は一年廊下へと走り出した。すれ違う人がそれほどいないのがかえって緊張しそうだった。声を潜めて風見さんが一度しゃがみこみ、私が真似するのと同時に立ち上がり、
「ほら、見て! 見て!」
小さな声で耳打ちしてくれた。
一年C組の窓がちょうど空いていた。そこからちょうど見下ろすことができる場所。ちょっとしたクッション椅子くらいはある石が三個、コの字型に組み合わさっている。途中のくぼんだ部分をよく椅子代わりにして、おしゃべりする場所として使っていた。
「まさか」
私の思わず洩れたつぶやきを、また「しーしーしー!」と声出さずに風見さんは押さえた。
梨南ちゃんと立村先輩がふたり、並んで座っていた。
空いている窓からその声は、はっきりと聞こえる距離だった。
「これから、『おちうど』に行くか?」
「私はやらねばならない用事があるのです」
梨南ちゃんの相変わらず抑揚のない、一本調子の声が響く。
「先輩には関係のないことです。いいかげん解放していただけませんか」
「杉本、昨日約束しただろ? 今日は一緒にどこかいこうってさ。杉本も頷いただろう」
梨南ちゃん、言葉に詰っていた。約束はどんなに理不尽なものであっても破らない、それが梨南ちゃんの主義だった。立村先輩の口調は穏やかだった。
「でも昨日十分私はお付き合いしたではないですか。デパートの食器展は楽しいものでしたが、立村先輩が相手であった分感動が差し引かれました」
側で風見さんが「そうそう、駅前のデパート七階でね、マイセンの食器展が行われているのよ」と私にわからないことをささやいた。どちらにしても梨南ちゃんが好きなものだろう。
「ごめんごめん、けどさ、せっかく招待券もらったしさ。今日は無理やりつき合わせてしまったお礼に、あんみつでもご馳走できればなと思った次第なんだ」
「先輩、暇ですね。評議委員長ともあろうお方が、なぜこんなに暇でいるんですか」
「今の時期は中間テストも終わったし、学内推薦も片付いたし、だいぶ楽なんだ」
そうか、そろそろ高校へ進むための学内推薦の時期だったんだ。すっかり忘れていた。来年は私たちの番なのに。ここで風見さんも同じことを思ったのか、
「ハルは普通科? 英語科?」
「普通科にきまっているわ」
「あーよかった! 一緒のクラスになれるかも!」
関係ないことで頷き合ってしまった。
「だから、今からゆっくり行こうか。ほら、ひさびさに花森さんの話もうちの親から聞いてきたしさ」
ここで一瞬、梨南ちゃんがうつむいた。横顔がちらと覗いた。クラスで確か、芸者さんになるために学校を辞めた花森なつめさんのことだろう。詳しい事情は知らないけれど、立村先輩の知り合いらしいということは聞いていた。私とけんかして以来唯一の友だちだった人。梨南ちゃんなら、きっとその話、聞きたいだろう。
「どうしてますか」
また、ぼそっと答えた。してやったりとばかり、立村先輩は畳み掛ける。
「だから、その話を『おちうど』でしようって言ってるんだけどさ」
「先輩、私なんかになぜそんなしつこく張り付くのでしょうか? 立村先輩がお暇で、時間を持て余しているのはよくわかりました。私の数学能力を買って勉強を教えてほしいというのでしたら、授業の合間にいくらでも教えます。ですが放課後、少しここまでしつこくするのは、女子に対しても失礼ではありませんか、一種の変態とも申します」
笑いをこらえるのが私も、風見さんもつらそうだ。風鈴頭を必死に振っている。
目の前の梨南ちゃんもこくこくと、長いポニーテールの先をちろちろ揺らしている。
「変態、とまで言うかな、まあ、それも杉本らしくていいけどさ」
「なによりも、先輩、もっと大切なことをお忘れではないのでしょうか。そんなにお暇でしたら、立村先輩は清坂先輩にもっと尽くしてあげるべきではないのですか。立村先輩のように頭が悪くて顔も不細工な男子に、あれだけ一生懸命尽くしてくださる方に対して、失礼すぎるのはないでしょうか。何よりも、清坂先輩が誤解して泣いてしまわれたら、私の立つ瀬がございません」
古臭い言葉の羅列。「尽くす」なんて。「立つ瀬がない」なんて。
「やはり、何か違うよね」
風見さんに答えようとした瞬間、凍りついた私の舌。
「清坂さんとはもう話が終わっている。俺は杉本と一緒にいたいから、こうしている。それだけだよ、杉本」
ごくさらりと、表情も崩れず答えた言葉だった。
隣で風見さんが何も言わず、呆然と黒い石のふたりを見つめているのを感じた。
お互い、こうやって近くにいると、驚きが二倍になって伝わってくる。
ふたりの斜めに腰掛けた姿とその横顔に私はただ、くぎ付けのままだった。
「何をふざけたこと言っているんですか。それよりも、花森さんのことですか」
「そう、一緒に行ってくれるなら話すよ」
「本当に、今回だけです。花森さんの話が終わったら私はお金を払い帰ります」
「だから、俺がおごりたいって言ってるだろ?」
梨南ちゃんはああやっておとなしく、E組で座っていれば、ほしいものが何でも手に入る。
私も、先生たちも、みなそれを知っている。
生徒会や評議委員会で惨めな思いをしなくても、私に八つ当たりしなくても、健吾を罵ったりしなくても、本当に大切にしてくれる人がいてくれる。
無理やりタルタルソースのついたキスをされたり胸をぎゅっと捕まれたりしなくてもいい、どんなにわがまま言っても嫌われるようなことしても、そのままの梨南ちゃんでいいと言ってくれる。困った時には一週間近くも返事をおっぽりだされないで、ずっと側にいたいと言ってくれる。
小首を傾げるように梨南ちゃんの顔を見つめて、にこにこしている立村先輩の姿に私は見とれていた。清坂先輩の側にいる時はいつも顔色ばかりうかがっていて、他の男子先輩たちに比べて小さく見えた人だった。評議委員会の壇上でも、私より年下にしか見えず後輩から馬鹿にされるのも当然と思える人だった。だけど、梨南ちゃんの側ではっきり言い切った立村先輩は、その瞬間に限って、健吾よりも、佐川さんよりも男らしかった。
梨南ちゃんは、全校生徒から昼行灯と馬鹿にされた評議委員長を、一瞬のうちに王子さまに見せてしまう、そんな力を持っているたったひとりの人だって、どうして気付かないのだろう。ほんとは、それだけで十分なのに。E組でずっと立村先輩に言いたいこと言って甘えてもいいと言ってくれる、たったひとりの人がいる。それだけで本当は十分じゃない。
梨南ちゃんをふたたび生徒会および委員会に関係させることは、せっかく梨南ちゃんが手に入れた本物の想いを、どぶに捨てさせることになる。
もう嫌われてしまった友だち、もう私にとってはどうでもいい人だけど。
でも、七年間一緒に過ごした者として、それだけは伝えたい。
──梨南ちゃんには、小学校の頃、秋葉くんがいたでしょう。
──今の梨南ちゃんには、立村先輩が側にいる。
──だから、それで十分満足して。
──生徒会に立候補しても、みんなが傷つくだけ。
私は思いっきり首を振った。耳に挙げたまるい編み込みが片方解けた。
──梨南ちゃんを、どんなことがあっても、生徒会に立候補させちゃ、いけないわ
もうこれ以上見つめつづけると、私たちが見つかる恐れがある。私は音を立てずに立ち上がり、風見さんに合図した。風見さんも大きく頷き返してくれた。
「今、馬鹿評議委員長の言葉、聞いた?」
「うん」
窓を軽蔑するかのようにねめつけた後、風見さんは衿を直すしぐさをして、ゆっくりと呟いた。
「つまり、清坂先輩と、別れたってことよねえ」
「話が終わっている、ということはたぶん」
「杉本さんと一緒にいたい、って言ってたねえ」
「うん、そう言ってた」
返事するどこかが麻痺しているみたいだった。単純な受け答えしかできなかった。
「あのふたり、お似合いだと思わない? 学校祭の時、少し変な男子がまとわりついていた時もあーら、双子ちゃんねえとか思ったけど、ほんとあの時と同じ、そっくり。ああいう風に同じとこで、同じ風に、してるだけだったらいくらでも無視してられるのにねえ」
私の返事を待たずに、風見さんはゆっくりと靴を履いた。
「今まで清坂先輩に迷惑かけるかな、とか思ってたんだけど、もう大丈夫ってことよね。ハル。私ね、絶対、ナミーとハルがにっこり笑ってられること、するからね! だから、ハル、絶対絶対、安心して生徒会に立候補して!」
答えは出ていた。けど、答えはしなかった。
だって佐川さんの声が聞こえない。