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次の日、「水野五月」さんから、クラフト紙封筒の手紙が届いた。
なんだか学校から特別のお知らせを送られてくる時と同じような感じで、ちょっとどきどきした。表書きの書き方ががっちりと力強くて、丸っこい文字だったから、誰から来たのかをそれほど考えずにすんだ。家の中で封を切ると、家族……特に弟……に読まれてしまう可能性がある。そのまま外に持ち出して、図書館で読むことにした。
◆
佐賀さんへ
昨日のことで、僕なりの考えをまとめたので読んでください。
それから、この手紙はすぐに細かくちぎって捨ててください。
これから連絡する時は、電話か、ここの住所に「水野さん」あてに送ってください。
◆
殴り書きだけど、ふしぎとまん丸い文字が連なっていて、ほっとする。
佐川さんってこういう文字を書くのね。
図書館の本棚陰にもたれて、私は続きを一気に読み入った。
◆
その一 まず、できるだけ現評議委員長の小学校時代の過去について探りを入れること。
風見さんという人を使って、わかる範囲内でどういうことが起こったかを調べてください。
その二 生徒会の内示と立候補締め切りがいつ頃かをすぐに調べること。
その三 杉本さんが立候補することを現評議委員長が知っているかどうかを、わかる範囲でいいんで調べること。
その四 今考えていることを、絶対に渋谷さんには話さないこと。
その五 霧島くんという男子には気をつけること。
その六 もし立候補するとしたら、副会長にすること。絶対に書記や会計には回らないようにすること。
今度来るのはいつですか。連絡ください。
◆
いきなりここからサインペンでの書き込みになっているのは、きっとあとで思い立って付け足したからかなって思った。そこのところだけ健吾の文字にちょっと似ていた。
◆
もしやれるなら、佐賀さんの方で現評議委員長と話をして、杉本さんの立候補について知っているかどうかを聞いてみたほうがいいかもしれないです。
なぜかというと、もし知っていたとしたら応援するか止めるかのどちらかの立場に立つと思うからです。佐賀さんは必ず、杉本さんの友だちだったから心配だったというふりをして聞いてみてください。
その段階で現評議委員長が知らないふりをしていたら、思い切ってばらした方がいいです。
もし知っていたら、心配している振りをして新井林くんにしゃべった方がいいです。
渋谷さんに怒られたら、泣いてごまかしてください。
佐賀さんはとことん、杉本さんのことを心配して言っているのだというスタンスを崩さないでください。
◆
署名はなかった。佐川さんって、なんだか子どもっぽい手紙の書き方をする。
でも、それがあの人の狙いなのかもしれない。
私は数学のノート、空いたところに人名名詞をすべてイニシャル化してメモした後、細かく破いてごみ箱に捨てた。本当にちっちゃく、紙ふぶきになりそうなほどだった。ついでに「水野五月」さんの住所もメモしておいた。いざとなったらこちらに連絡を入れればいいということなのだろう。佐川さんと一緒に歩いていた、あのお下げ髪の人なのだろう。
──連絡なんて、入れないわ。
私は両耳の上に丸めた髪の毛がほつれていないかどうか、指先で確かめた。
佐川さんの考えていることは短くてあっさりしているけれど、私のすべきことだけは明瞭に綴られていた。昨日、少しパニック状態で佐川さんに泣きついた私だけど、本当はこの六つのことだけを考えて行動すればいいだけなのだと気が付けば、怖いものはなかった。
それなりに私も昨夜、ベッドの中で考えていたことだもの。
まず、生徒会役員選挙告示についてはすでに、渋谷さんから教えてもらっていた。
来週の月曜から金曜にかけてだけども、毎年なかなか候補者が集まらないのが恒例なので、先生たちに声かけをお願いして集めてもらったりするのがいつものパターンだという。今年も梨南ちゃんのことを除けば、ほとんどもう決まったも同じようなもの。霧島くんを会長に置けば、あとは自動的に現在の生徒会役員が入り込み、それでまとまるのではないかという。ただ、どうしてもひとつのポストが空いてしまう可能性があるので、そこを私で埋めてほしいらしい。佐川さんが心配するまでもなく、たぶん副会長のポストになるだろう。
とにかく、梨南ちゃんを生徒会に踏み入らせてはいけない。
これが最重点課題だろう。
それさえ終われば後はともかく私が心配することなんてない。渋谷さんだって、私に対して求めるものはそれだけではないかなって気がする。佐川さんはあまり心配してないようなこと言ってるけど、梨南ちゃんのことだ、常識が通用しない彼女のことだ、空気を読めずに一気に物事を崩壊させてしまう、そういう可能性はおおいにある。
渋谷さんもきっとそのことを心配しているに違いない。
なら、まずはここから手をつけた方がいいような気がする。
次に、佐川さんの言う、「現評議委員長」の過去についての掘り起こし。
これも私なりに気になっていたことだった。
梨南ちゃんにとって現在唯一の味方と言えるのが、立村評議委員長だろう。実際、梨南ちゃんがどう思っているかどうかはわからない。ただ私からしても健吾から見ても、他の人たちから判断しても、立村先輩が梨南ちゃんを宝物のように守りたいという様子は感じられた。もしかしたら気付いていないのは梨南ちゃんと当の立村評議委員長だけかもしれない。
はたして立村先輩は梨南ちゃんが生徒会長に立候補しようとしているということを、気付いているのだろうか? いや、梨南ちゃんがというよりも駒方先生たちがといった方が正しい。駒方先生は梨南ちゃんを「しつける」ために、まずは落選経験をさせようとしているだけだけども、もし立村先輩がそのことに気が付いたら、まずどうするだろう?
──絶対に、梨南ちゃんを守ろうとするはずだわ。
一学期、確か修学旅行が終わった直後、コピー室で私を追い詰めて、問い詰めようとした立村先輩の表情があらわに浮かび上がる。あの時の立村先輩は恐ろしかった。何も考えていないような整いすぎた真っ白い顔と、一言言い方間違えたら私を殺そうとでもしかねないようなまなざしが、怖かった。立村先輩が私と佐川さんとの繋がりを持ち出して脅そうとした時には、身の危険を感じてしまった。手を触れられて健吾みたいにエッチなことをしたさそうなしぐさをするなら悲鳴をあげられる。でも、あの瞳にはそんな余裕なんて感じられなかった。とにかく、梨南ちゃんを傷つける人は、どういう手であっても容赦しない、そういうまなざしだった。
いざとなったら私にも切り返す方法がある。立村先輩が佐川さんを殴りつけた場を私は見ている。私と佐川さんは単なる「お友だち」。もしばれたとしてもいくらでも言い訳ができるけれども、立村先輩が佐川さんにした行為は「他校生への暴力」だ。まだ八ヶ月くらいしか経っていないし、時効にはならない。私が一言、先生たちに告げ口した段階で、立村先輩は停学か退学か、どちらかになるだろう。暴力行為に関して青大附中の校則は厳しいのだから。
決して怖いことはないけど、できればお互いなあなあのままで終わらせたい気持ちもある。
無理に罵りあいなんてしないですむように。
そのためには、まず立村先輩の弱点を大至急探り出す必要があるだろう。私の知る限り、立村先輩の過去といえば、
・一年時、杉浦先輩に恋焦がれて追い掛け回し、先生に厳しく注意されたことがあったらしい。周りでは全くのデマと思われているが、ほとんどの二、三年女子は事実であったと認めている。
・二年時、宿泊研修中に何を思ったのかバスから抜け出して脱走を図ったことがあるらしい。その点については担任の菱本先生がもみ消したので、停学にならずにすんだらしい。
・水鳥中学で、佐川さんを殴りつけたことについては、言うまでもない。れっきとした暴力だろう。
・品山小学六年の時、自分をかばおうとしてくれたクラスメートを逆恨みし、卒業式の時に不公平な決闘でもって相手に大怪我させて逃げ出したらしいということ。もっともその時は相手の人が嘘をついてごまかしてくれたので、全く問題にならなかったらしい。
今のところ、わかっているのはこの程度だけども、こうやって書き出してみるとすごい量かもしれない。もし立村先輩が私と同級生だとしたら、たぶん一切存在を無視するタイプの人だと思うし、お付き合いの対象には決してならないだろう。
その一方で、梨南ちゃんと同じ経験をしているから理解しあえるのも納得、と感じるところもある。うまく言えないけど、学校祭で梨南ちゃんにひっつきまわっていた秋葉くんとそっくりな気がしてならない。梨南ちゃんがいやがれば嫌がるほど、「杉本、さ、一緒にこっちへおいで、ほら評議委員がだめなら交流委員においで、ほらE組においで」と引きずりまわし張り付いている立村先輩と、見事に重なる。
──これって、すごいかもしれないわ。
私は思わず身を震わせた。
だって、こんなところで、梨南ちゃんを大切にしたがる男子のタイプがはっきりするなんて思ってなかったんだもの。
となると、私がまずすべきことは、梨南ちゃんを立候補させないように、立村先輩に協力を要請する。これじゃないかという気がしてきた。
親友とは思えないにしても、同じ小学校で過ごしてきた梨南ちゃんをこれ以上傷つけるのはあまりしたいことではない。たぶん霧島くんと生徒会長一騎打ちになった場合、すぐに落とされるのは目に見えている。それに生徒会にうまく入れたとしても、かつての評議委員会と同じようなことになりかねないだろう。そう立村先輩に頼んで、梨南ちゃんを説得してもらうというのはどうだろう?
立村先輩だって今は評議委員長。たぶん、問題が起こらなければこのまま後期も評議委員に選ばれ自動的に長になるだろう。それに、評議委員長としての素質がないとして、あえて下ろした経験だってあるのだから、決して梨南ちゃんを生徒会長にしたいとは思っていないだろう。本来はE組で梨南ちゃんを守り、抱きしめてあげる立場の人なのだから。
──だから、どうやって切り出せばいいかしら。
閉館までずっと私は、考えつづけていた。どうすればいいんだろう。
──立村先輩に梨南ちゃんのことを話した方がいいってどういうことかしら。
最後に付け足された佐川さんの文章に、ついついひっかかってしまった。
直接話をした時には、「杉本さんは落選するために立候補するんだから無視してていいんだよ」と無視の形を取っておられた佐川さんだけど、何か考えが変わったのだろうか。いきなり立村先輩に探りを入れるようにとか、渋谷さんたちが隠していることをばらしなさいとか、かなり方向を変えるような言葉を綴っている。
そういえば佐川さんって、私よりもずっと、立村先輩を警戒しているような気配を感じる。
もちろん怒らせたくない人だとは思うけど、私からしたら単純に評議委員会で遊んでいるだけの年上の男子にしか見えないし、正直、こういうタイプの男子は好みではない。
男子はどうして、過剰なほど立村先輩を警戒するのかな。
私だったら、どうするだろう。
図書館を出た瞬間、結論が出た。
──立村先輩に尋ねてみようかな。
だいぶ外は暗くなっていた。健吾やお父さんお母さんには、「こんな暗くなるまで歩くんじゃない」とか怒られそうだけど、今はひとりで考えたかった。佐川さんの言葉は私だけのものだもの、他の誰にも取られたくない。
さっきメモした、水野さんへの住所がちらっと頭をよぎったけど、すぐに忘れようと決めた。まずは私ひとりで、やってみよう。
次の日、私は早めに学校へ向かった。
健吾のバスケ部朝連に付き合っていた頃は朝六時登校も珍しくなかった。でも今はそれどころではないこともわかっているので、お互いの了解もあって別々に通っている。健吾は学校祭が終わってからずっと、秋の新人戦と練習試合の連続で、ほとんど話す暇がない。以前の私だったら淋しくも思ったのだろうけど、どうせクラスが一緒なのだしかまわないと割り切ってしまえた。
もっとも健吾はその態度が物足りないらしく、
「たまには練習見に来い」
なんて言う。女子に見られて恥ずかしくないのかしら。走ったりボールを奪い合ったりしている姿は、醜いとは思わないけど、毎日見て楽しいものでは決してない。もっと語りたい、おしゃべりしたい。そういう時間があったなら。
「私、友だちと話があるから、またあとで行くわ」
しかたないので帰りの時間だけ合わせておくことに決めていた。渋谷さんにも風見さんにも、そのあたりの事情はきちんと話しておいたから大丈夫。こういう時、公認の彼氏彼女関係というのは楽だった。暗黙の了解で理解してもらえるから。
八時前に到着した後、健吾の靴がちゃんと外履のスニーカーに置き換えられているのを靴箱で確認し、私はまず、E組の教室へと向かった。
E組の教室、といっても、以前は「教師研修室」と呼ばれていた一室で、手書きの表札が掲げられているようなところだった。他の教室と見た目変わらないけれども、本棚に大量の文学書が並んでいるところとか、ビデオテープやカセットテープがうずたかく積もっているとことか、駒方先生の専門である絵の具の使い捨てた跡が大量に残っているとか、そういうところが少し違っていた。うまく言えないけれども、私たちの学年が高学年だとしたら、E組の教室は低学年扱いされそうな、そんな雰囲気だった。
そこにいつも、梨南ちゃんは隔離されている。
本人はどう思っているかわからないけど、「隔離」で間違いないと思う。
他の生徒たちが出入りすることもかなりあると聞いている。大学の授業を受けることが許されている生徒や、特別に指導が必要な人とか。またそこに属する人の友だちなどもうろうろしている。私の知っている限りだと、西月先輩が最近は梨南ちゃんの面倒を見ているらしい。天羽先輩に振られて、きらわれものの先輩に押し付けられて、精神的に衝撃を受けたということで、いまだに口が利けなくなった人だ。建前は「被害者」扱いされてE組と現在のクラスを行き来している。梨南ちゃんを中心に、三年の先輩たちがたむろっているのは以前から知っていることだった。
そんな中、もともと敵外視されている私が出入りするのはお門違いかもしれない。
私だって、こんなこと、ほんとはしたくない。
でも、今しかチャンスがないのもほんとのことだった。
私はE組の廊下前に立ったまま、来る人を待った。
──確か立村先輩は、品山から毎日、自転車で通っているはず。
立村先輩はいつも、早めに学校に来るらしいと健吾から聞いていた。
「立村先輩」
読み通りだった。八時五分前。ほっそりした姿の立村先輩が、ふらふらした感じで廊下の向こうからやってきた。ひとめでわかった。男子には珍しく真っ白い顔立ちと、それでいて私に対しては厳しいまなざしを知っていた。
「佐賀さん?」
まだE組には誰も来ていない。まだ七時台だもの、それはあたりまえ。梨南ちゃんは八時過ぎにならないと入ってはいけないと、強迫観念みたいなものを持っている子だ。立村先輩くらいだろう。だから待っていたのだ。
「何か、用?」
言葉だけはやわらかいけれども、どこかつっぱねるような響きが感じられた。用心しているというのだろうか。私と話す時、立村先輩は丁寧なんだけど、四角張った言い方をする。
「はい、今少しよろしいですか」
私もそのあたり、わかっているのできちんと礼儀正しく話す。
「梨南ちゃんのことなんですけれども、先輩はご存知ですか?」
「杉本のこと、ってなんだろうな」
とぼけているのか、本当に知らないのか、そのあたりはきちんとつかまないとまずい。立村先輩の眼が本気になっているのは、やはり梨南ちゃんの存在がしっかり根付いているからだろう。
「はい、私、友だちから噂で聞いたことなのですけど、これお話しておいた方がいいと思いまして待ってました」
「人前では話せない内容か?」
かりっと、刺のある答えが返ってきた。立村先輩、私に対して攻撃に入りそうだ。こういう時、どうすればいいんだろう。一緒に佐川さんがいてくれたら、こんなに足が震えたりしないのに。身体が震えているのがわかる。こんな、秋葉くん程度の男子に対してなぜ、気圧されたりするんだろう。私は息を整えた。一気に告げた。
「梨南ちゃんが、生徒会長に立候補したいという話を聞いて、私、心配になったんです」
「生徒会長?」
立村先輩はまっすぐ私の顔を射た。無感情な、それでいて突き放すような視線だった。
「はい、私も梨南ちゃんに確認しなくちゃと思って、心配になったんです」
「なんで佐賀さんそんなこと、杉本に確認しないといけない?」
「だって、私は」
かみ合わない気持ちを無視して、答えた。
「私、梨南ちゃんの友だちだったから。友だちならちゃんと、本当のこと言ってあげないといけないと思ったんです」
「友だち?」
ぞくりとするくらい、冷たい言葉が立村先輩から返ってきた。私は歯を食いしばり、それでもおびえた風に見えないように、無理やり真剣な顔をこしらえた。ほつれ毛が気になったけど、なんとか指を動かさないようにがまんした。
「新井林くんに話そうかと思ったのですが、 二Bの生徒にまで広まってしまうと大変なことになってしまいそうな気がしますし、それにできたら、梨南ちゃんにこれ以上恥をかかせたくないんです」
「恥をかくってどういうこと」
「はい、生徒会改選で圧倒的不支持で落とされる可能性があるということです」
「そういえば佐賀さん、最近生徒会室でよく話をしているようだけど、噂はそのあたりからか?」
話を逸らされそうだ。私はあえて口をつぐんだ。
「友だちに迷惑がかかるので、内緒にさせてください」
「それはどうでもいいけどさ。とにかく杉本が立候補するなんて話は、俺も聞いてないな」
本当だろうか。あとで佐川さんに指示を仰がなくちゃ。立村先輩の口調は少し疑問を感じる風にやわらかかった。
「佐賀さん、わかる範囲でいいんで、教えてくれないかな」
「立村先輩は、梨南ちゃんを止めてくれますか?」
「止めるもなにも、それがデマかどうかわからない段階で何も言えないよ」
「私も、噂しか聞いていないんです。だからわかりません。でも、梨南ちゃんがこれ以上傷つくのはいやなんです。だから約束してくれませんか。梨南ちゃんを守ってください。私、新井林くんや二年B組の人たちや、その他梨南ちゃんに迷惑をかけられた人たちのことを考えるとこれ以上、彼女を守ってあげることはできないのですけど、やはり、ずっと友だちでいてくれた梨南ちゃんがまたずたずたになるのを見るのはいやなんです。お願いします、梨南ちゃんを助けてあげてください」
立村先輩の表情は変わらなかった。私をずっと見据えたままだった。どう気持ちが揺らいでいるのかは読みきれなかった。
「事実だけでいい。杉本が来る前に早く話してくれないかな」
「はい、梨南ちゃんはE組で、駒方先生に推される形で、生徒会長に立候補することになっているそうです。普通の生徒会改選だったら問題なく信任投票で決まると思うのですが、今年はすでに何人か会長候補がいるそうです。だから、その人がいる以上、梨南ちゃんに勝ち目はありません」
「どうしてそんなこと聞いてるの」
渋谷さんから聞いたと言えるわけもなく、私はもう一度繰り返した。
「友だちに迷惑がかかります。言えません」
「それに、杉本に勝ち目がないと、どうしてそう言い切ることができるんだ?」
「梨南ちゃんはもう、嫌われているし、みんなから馬鹿にされているからです」
私は一呼吸置いた。立村先輩の視線を跳ね返した。
「先輩、学校祭の時に、他の学校の生徒が梨南ちゃんをひっぱりだして走り回っていたことを覚えておられますか」
「ああ、あったなそんなこと」
一瞬、不機嫌そうに廊下の天井を見上げた立村先輩。あまり思い出したくなかったのだろうか。
「あの時、周りの子や梨南ちゃんを知っている人たちはみな言ってたんです。やっぱり、ああいう程度の男子が梨南ちゃんには合っているんだって」
「それは失礼じゃないかな」
「はい、人間は平等ですから当然です」
言い返した。
「あのことがなければ、まだ梨南ちゃんは生徒会長として評価される可能性があったと思うんです。梨南ちゃんのことを知らない人たちがたくさんいるうちは、うまくすれば当選するかもしれません。だけど、あの時、梨南ちゃんという人をたくさんの人たちが評価してしまって、見下してしまった以上、それ以上の扱いをしてもらうことって難しいと思うんです。もし立候補しても、対抗候補の人は梨南ちゃん以上に知られていないですし、嫌われてもいないはずですからずっと有利です。どうでもいい人たちは、嫌われ者よりも、知らない人の方に投票するはずです。そうなると、梨南ちゃんはどう見ても不利ですし、さらに選挙中、顔を全校生徒にさらけ出してしまいますのでさらに嫌われてしまいます。私、思うのですが」
思いに任せて語り続けた後、私は付け加えた。
「たぶん駒方先生は、梨南ちゃんをたっぷり傷つけて反省させるために、立候補させようとしているんだと思うんです。大人ってひどいです。落選確実なのに、さらに傷つけようとするなんて酷いです。梨南ちゃんが覚悟しているならそれはしょうがないと思いますけど、ただ煽り立てて、可能性があるとか言っておだてて、実は陰で舌を出しているなんて、最低だと思います」
立村先輩がちらと振り返り、誰か来ないかを確認した。
「それ、誰から聞いた?」
「友だちからです。言えません」
同じことを繰り返した。
「私はもう、梨南ちゃんから嫌われていますし、何を言われてもしかたないと思ってます。私のことを嫌うならそれでいいです。でも、これ以上梨南ちゃんが傷つくのを見るのは私、辛いんです。たぶん新井林くんに話しても止めてくれるとは思いますけど、やはり、梨南ちゃんを大切にしてくれる人に止めてもらった方が納得すると思うんです。だから、お願いします。立村先輩、梨南ちゃんを止めてください」
あふれた言葉は私も止められなかった。話している真っ最中はそれが真実だと思えるし、涙があふれそうになったりもした。言葉はすべて、白々しく聞こえるだろうとわかっていても勢いにのっているとそれが本当に感じられてくるのが不思議だった。
立村先輩の表情は全く動かず、私を凝視していた。
この人は私と佐川さんのことを知っていて、私のことを軽蔑している。もしかしたら憎んでいるかもしれない。大切な梨南ちゃんを傷つけた張本人だと思い込んでいるかもしれない。
──佐川さん、助けてください。
静かににらみ合った。何秒間か経ったろうか。
「わかった、佐賀さん。どうもありがとう」
まったく頬をほころばせず、立村先輩は小さく頷いた。
「佐賀さんから聞いたとは言わないで、杉本に確認してみる。佐賀さんの言う通り、杉本は生徒会長に不適格だと思う。ただ、あくまでも噂である以上、あまり広がらないようにしたほうがいいな。とにかく、今のことは、他の人たちに決して話さないようにしてくれないかな。理由はだいたいわかっていると思うけどさ」
立村先輩は腕時計を覗き込んだ。私も自分のを確認した。八時五分にまだ針が動ききっていなかった。
「杉本がそろそろ来る。佐賀さんは教室に行ったほうがいい。それとさ」
私が一礼して、背を向けようとした時、立村先輩の声が矢となり刺さった。
「佐川に伝えておいてくれないかな。他校のことで口出しするなってさ」