プロローグ
プロローグ
──あの六年間、私はどうして梨南ちゃんと一緒にいなくちゃならなかったんだろう。
親友、って言葉の意味が、小学校時代とだんだん違ってきているような気がしていた。私にとって、「親友」って誰? 私にとって、大好きな友だちって誰? 何度も問い掛けてみたけれども、答えが出なかった。
この前の日曜日、佐川さんに会った時打ち明けてみた。
「親友? 俺にとってのおとひっちゃんのことかなあ」
いつものように、なんにも気にしてない風に、にっこり笑ってくれた。
「けど、女子みたいにいつもべったりしたりしないしさ。佐賀さん、女子同士ってさ、どういう話するのかなあ。いつも友だち同士、ひそひそ話して笑っているけど、それって男子の俺たちからしたら意味不明なんだよね」
「噂、かもしれないです。テレビ番組とか、漫画の連載とか、あと」
口篭もった。佐川さんは無理やり聞き出そうとせずに、学生服の袖口を軽くひっぱるようなしぐさとした。私と二人並んでいると、それほど背丈が違うようには見えない。男子の中では低い方じゃないかなって思っている。健吾よりはずっと小さいのに、一緒にいると健吾よりもほっとするのはどうしてなのか、わからない。私は肩をすぼめて、ひざに手を置いた。
「男子の場合さ、言うことがそのまんまだから、裏をいろいろ考えることってそうそうないんだよ。生徒会のことは違うかもしれないけどね。だからおとひっちゃんとも、それほど打ち明け話をしたりはしないしさ。たとえば女子って、好きな男子の話とかして喜んでるだろ?」
意識する前にこくっと頷いてしまい、かあっとなってしまいそうだった。うつむいたまま耳を傾けた。
「男子も、一部する奴がいないわけじゃないよ。けど、大抵の場合そういう話したらあっという間に馬鹿にされるかからかわれるかのどっちかだから、絶対に言わないはずだよ。今度佐賀さんが、男子たちとおしゃべりする機会があったら聞き耳立ててみなよ。ほんと、泣けてくるくらい単純な話しかしてないよ」
「佐川さんも、そうなんですか?」
大きな瞳がくるくるっと動いた。また私の顔を見て、こっくり頷く。
本当ならずっと、健吾よりも子どもっぽく見える顔なのに、どうして私は敬語を使ってしまうのだろう。どうしても、佐川さんに対しては、きっちっとしなくちゃと思うところがある。二週間に一度、こうやって青潟郷土資料館で待ち合わせて、資料室真中の大きなソファーに座ってふたり語らっているのは、そんな緊張感が心地よかったからだった。
「うん、俺も、佐賀さん相手でないとこんなまじめな話、絶対にしないよ。だって、ばかにされるにきまってるものな。おとひっちゃんにうっかり、誰か好きな女子がいるとか話してみたらたいへんだよ。すぐ、『どこの誰だ? いったいどういうとこが好きなんだ? もし俺ができることあったらなんでも協力するから言ってみろ』こんな感じで質問攻めに遭うに決まってる。俺がやめてくれって言ったってすぐ、あいつのことだ、行動しまくってせっかくのチャンスをだめにしてしまうに決まってるんだ。おとひっちゃんでさえそうなんだから、他の友だちだったらどうなるか、目に見えてるよ。だから俺は絶対に、誰にも、言わない」
「そうなんですか」
「佐賀さんくらいだもん、俺とまじめな話できる人ってさ」
ほら、と佐川さんは私に、ピンク色のメモ帳らしきものを差し出した。手のひらに収まるくらいの、本当にちっちゃなハート型のものだった。受け取っていいのかな、少し迷うと、
「これ、今日返品した雑誌の付録なんだ。父さんにちゃんとOK貰って持ってきたものだから、大丈夫だよ」
「でも、これは私が受け取っていいんですか?」
問い返した。私だって、このハート型とピンク色に意味がないなんて、思ってはいない。
だって佐川さんには。
言いかけた言葉を佐川さんはさえぎった。
「さっきたんには黄色いタイプの同じ型のをあげるから大丈夫だよ」
何が、大丈夫なんだろう?
胸の真中がちくんと痛んだような気がした。受け取ろう、だって私たち、何も悪いことをしているわけではないんだもの。もちろん健吾に内緒で会って話はしているけれども、このことは今年の三月段階で、ある程度了解しあっていることだった。健吾と佐川さんが互いの学校情報を交換することは約束されていることだったし、たまたま佐川さんのお家が経営している書店に立ち寄る機会が多いこともあって、私が情報を持っていくのも自然なことだった。健吾には、何時行くかまでは報告しないけど、ちゃんと佐川さんに会ってきたことだけは伝えておく。ただ「青潟郷土資料館」で待ち合わせることは言わないでおくけど。健吾もそれほど詳しいことは聞きたがっていないので、説明しないだけのことだった。
佐川さんは「さっきたん」と呼んだ瞬間、思わず顔を私からそむけた。すぐにもとに戻してくれたけども、私も今、見たくないものをちらっと観てしまったような気がして、うつむき直した。
「さっきたん」、愛称で呼ぶ人が、佐川さんにはいる。
同学年の、同じクラスの女子だと噂には聞いていた。
私も一度、顔を見たことがある。お下げ髪のおとなしそうな女子だった。私より一学年上だと言うけれど、言われてみないとたぶんわからないと思う。クラスに混じっていたらきっと同級生の扱いをしただろう。その人と佐川さんが現在、水鳥中学内では彼氏彼女の関係であり、いつもはふたりで登下校していると言う。これは私が聞いたり見たりしたわけではない。全部佐川さんが報告してくれるのだ。そう言っておかないと、いろいろあとでまずいことになるからと思っているらしい。佐川さんは「さっきたん」さんのことを話す時、私の目をいつも見ないようにする。だから私もちゃんと合わせた。
「それより佐賀さん、最近そちらの評議委員会はどうなんだろうなあ。俺たちのとこはそろそろ生徒会選挙が近くて、ばたついているけど」
「評議委員会は三月までずっと同じですから、あまり影響はないみたいです」
実際その通りだし、そう答えるしかなかった。
青潟大学附属中学の場合、生徒会よりも委員会の方が実権を握っていて、ほとんどの学校行事を牛耳っている。健吾から教えてもらったところによると、三年前の評議委員長さんがそういう風に決めたらしい。特段誰も変更する気もなかったらしくって、そのままの状態が今も続いているって話だった。一応、生徒会も機能してはいるけれども、あまり積極的に活動はなされていないみたいと聞いている。私もそのあたりは健吾を通じてしか教えてもらえないのでわからない。クーデターが起こる気配もなさそうだ、ってことくらいだろうか。
佐川さんはひざを抱えて、天井を見上げた。青潟のささくれた古地図が、ずらっと目の前に広がっていた。昔の青潟はたくさんの小さな街に分かれていたけど、いろいろな事情があって合併し、今の青潟市になったって習ったことがある。
「ふうん、そうかあ。順調なんだね」
「表向きはたぶん、そうだと思います」
「表向き?」
私は頷いた。
「立村委員長は今、学校祭と球技大会のことで頭が一杯だと思うんです。特に球技大会、男子クラス対抗リレーの選手に選ばれてしまったから」
「選ばれて、しまった?」
少し驚き目をしている佐川さん。なんだか、ひきずられそうだった。
「そうなんです。これも新井林くんから聞いたことですけど、立村先輩本当だったら、毎年恒例の卓球競技に出てそれで終りなはずだったそうです。卓球だけはあの先輩、ものすごく強いんです。でも今年から、卓球がなくなってしまって、出る競技が見つからなくて、仕方なく男子リレーの方にまわされたって話です」
「けど、それ聞いたらおとひっちゃん、感動すると思うけどなあ。ほら、あいつ、元陸上部の長距離やってたからさ」
関崎さんがすごいことは想像がついていたけれども、私はそんなのよくわからない。
だってあまり、関崎さんには興味がないから。梨南ちゃんの恋する相手、としか頭に焼きついていない。タイプではない、というよりも、どことなく考え方が単純すぎて、話していても面白くなさそうな人だった。
佐川さんは私のつまんなさそうな様子をすぐに勘付いたのだろう。話を元に戻した。
「それで、立村って男子リレーに無理やり入れられたのかな。そんなに足遅いんだ」
「新井林くんが言うには、百メートルのタイムがだいたいクラスで五番か六番くらいなんだそうです。でも、今年、中体連の大きな大会と球技大会とが重なってしまって、いつも出るはずの陸上部員さんが出られなくなったんだそうです。それで、繰り上がりで自動的にってことみたいです」
あえて「新井林くんが」と繰り返した。
「ふうん、そうなんだ」
「でも、繰り上がりですからどうしても、最初の三人メンバーとは力量が違い過ぎて、ここ最近は毎日しごかれているらしいって話、聞いてました。噂話ですから本当のこと、わかりませんけど」
「想像、できなくもないか」
佐川さんはあごのところにげんこつをふたつ、ちょこんとのっける格好でひざにつっぷした。
「それに学校祭がからむってわけか。たいへんだよなあ。おとひっちゃん、生徒会に入ってから陸上部やめたしさ。とにかく、今はそれどころじゃないってことなんだね」
私はしばらく佐川さんにいろいろ話をしていた。本当だったらこういうことは、健吾を通して話すべきことかもしれない。すでに来年の評議委員長候補として、現評議委員長の立村先輩から指導を受けている立場なのだから。私が間に入り込む必要はないはずだった。
「私、どうしても思うんです」
またひとり、おじいさんっぽい感じの人が目の前を通り過ぎた。
「どうしてあんなに、評議委員会にみんなのめりこめるのかなって、思うんです」
「健吾くんたちが? 立村が?」
下から見上げるように、佐川さんは私を見上げた。子犬に似ていた。
「だって、いくら一生懸命に委員会準備をしたところで、やったことを誉めてもらえるのは生徒会の人たちだけなんです。立村先輩も、新井林くんも、どうでもいいことに熱中して、結局先生たちが評価してくれないまま終わっちゃうんです。もちろん顧問の先生とかは認めてくれるかもしれませんが、でも、学校では結局」
「あれ、でも青大附中は委員会最優先主義なんだろ?」
「一応そうなってますけど、最近は先生たちも、部活動や生徒会をやる人たちを誉めるようにしているみたいです」
意外そうな顔で、佐川さんは口をつぼめた。
「委員会の人たちが一生懸命がんばっているのはわかるのですが、ただそれだけって感じがしてならないんです。もっと、やるべきことがみんなあるんじゃないかなってそんな気がして」
うまくいえなかった。語彙はそれなりに見つかるはずなのに、口からぽろんと出てこない。どの言葉を選んでも、嘘つきになりそうだった。
「もっとやるべきこと?」
「はい、評議委員会の人たちはなんで冬休みにビデオ演劇なんでやりたがるんだろうとか、規律委員会の人たちはなんで『青大附中ファッションブック』にあんなに夢中になるんだろうとか。もちろんそれは面白い人にとっては面白いのかもしれませんけれど、しょせん」
言っていいのかな。迷う。人差し指をそっと唇に当てて見た。佐川さんもつられたように自分の唇に触れ、すぐに離した。
「しょせん?」
「学校の中のことだけであって、関係ない人にとっては関係ないんじゃないかなって思うんです。私の考え方って、やっぱり、おかしいんでしょうか」
時計の文字盤を握り締めるようにして、私は続けた。
「私だったら、交流会、もっと、もっとすごくやりたいのに。評議委員の人たちだけじゃなくって、一般生徒の人たちと交流もっとできるようにって。そうすればいいのにって」
そう、佐川さんは実質、生徒会とは関係ない人だった。
「親友」の関崎副会長の付き合いで知り合うきっかけは得たけれど、本当はまったく関係のない人だった。本当だったら健吾を通してしか、お付き合いする機会のない人だった。
「そうか、そうなんだ」
もう一度佐川さんは、座ったまま前かがみになり、げんこつの上にあごを乗せた。
「だったらさ、佐賀さん、そうすればいいんだよ」
少し冷たくされたような気がして、涙が出そうになった。どうしてだろう。健吾にはこんなこと感じたことないのに。佐川さんの言葉って、いつもは温かいのに、たまにこういう風に突き放されてしまう。甘えすぎだよ、そう言われているみたいだった。健吾には一度もこうされたことないのに。すぐに佐川さんはいつものようにやさしくしてくれる。その笑顔が元に戻るまでの間、思いっきり泣きたくなってしまう。今もそうだった。佐川さんはどうでもいい風に、言い放つ。
「佐賀さん、本当はやりたいこと、いっぱいあるんだろ?」
「私、もう梨南ちゃんと離れたし」
「あの人は最初からいなくていいんだから、計算になんて入れてないよ」
また、ぐさっとくる。唇をかみ締める。
「俺、よくわからないんだけどさ。今の佐賀さん、なんだかつまらなさそうに見えるんだ。いや、手を抜いてるとかそういう意味じゃないよ。一学期の頃はすっごくさ楽しそうでさ。だけど、夏休みあたりからなんだか違うんじゃないかなって気がしてならないんだ。なんとなく、俺が感じるだけなんだけどね。やりたいことをぐぐっと飲み込んで、知らないふりしてるだけなんじゃないかって気がしてならないんだ。俺の直感で」
「直感」……佐川さんのよく使う言葉。
「佐賀さんは今、評議委員で、クラスの女子たちからも信頼されて、困った人間からは離れていられて、健吾くんには宝物みたく守られてるよね。本当だったらさ、それで満足するって男子はみんな思うな。けどさ、俺が見た感じだと、佐賀さんそんなのだと面白くないのかなって気が、すっごくするんだ。守られてるだけじゃやだなって、思ってないのかなあ。小学校の頃の俺見ているようでさ」
「佐川さんと、似ているってことですか?」
問い返した。やさしく顔をほぐす笑顔。よかった。怒られてないんだ。
「俺、おとひっちゃんにずっと守られてきたんだよね。弟分だったし。けど、中学入ってやっぱしそれは違うなって思うようになったんだ。小学生の頃の俺だったら、佐賀さんにこうやってまじめな話なんて、絶対してないよ。きっとおとひっちゃん通じて、健吾くんと連絡しあう程度だよ。けど、何かが違うって思ったとたん、世界が変わったんだ」
「世界ですか?」
「そうなんだ。だからかな」
いきなり佐川さんは立ち上がった。時計を除くしぐさ。もう閉館時刻なのかもしれない。たった今来たばかりなのに、もう一時間も経ってるなんて、思いたくない。
「俺もそろそろ、店の手伝いしなくっちゃなあ」
「あの」
受験勉強はどうされてるんですか? 尋ねようとした。見透かしたように佐川さんは頭を掻きながら、
「俺、学校の成績ぼろぼろだから高望みしてないんだ。ほら、言ったよな、俺、青潟工業受けるつもりでいるんだ。たぶんあの程度だったら大丈夫かなって思うんだけどさ」
私は黙っていた。佐川さんは口先で「成績が悪い」とか言うけれど、ほんとはそんなこと爪の先ほども思っていないって知っている。「学校の成績」は悪いけど、「頭」の出来とは違うんだってこと、わかってる。
たぶん、佐川さんに出会わなかったら、私もわからないままだったと、思う。
郷土資料館を出る時、水鳥中学の人たちと顔を合わせない用心のため、私が先に帰るのがいつものパターンだった。五時だけどまだ夕暮れ道は明るかったし、二人で歩くなんてこと、できるわけがなかった。もし「さっきたん」と呼ぶあの人に会ってしまったらどう言い訳すればいいんだろう。もし健吾と鉢合わせしてしまったらなんて考えると眠れなくなりそうだ。
でも、佐川さんと会うには、健吾と「さっきたん」さんの存在が、どうしても必要だって、私にはわかっていた。佐川さんもあえて口には出さないけれども。お互いの会話で、「健吾くん」「さっきたん」「新井林くん」「水野さん」、ふたりの名を混ぜないことはなかった。くるっとコンパスで円を描き、その輪の上をとことこ歩くのが、私と佐川さんとの関係なのかもしれない。
「暗いから、バス停まで送るよ」
「あの、でも」
「言い訳は考えてるから大丈夫」
私と肩を並べると、やはり同じくらいの背丈しかなかった。もしかしたらうちのクラスの、一番背の低い男子と同じくらいかもしれない。もし一年遅れていたら、同級生だったかもしれない。そうしたら私も佐川さんを「くん」付けして呼んでいたかもしれない。
「私、どうすればいいんでしょうか」
「それは佐賀さんが決めればいいことだよ。俺は知らないよ」
また、ひゅんと冷えてくる言葉に、項垂れる。佐川さんはすぐに勘付いたのか首を小さく振って、
「佐賀さん、今、学校で誰とつるんで遊んでる?」
「ええと、遊んでません」
厳密に言うと、必修の刺繍クラブで一緒になったD組の子たちとたまにおしゃべりしたりはしている。クラスの女子たちとは当り障りのないことしかしゃべらないし、梨南ちゃんのことも考えてあえて聞き役に徹していた。もっともそれほど苦しいことはなかった。小学時代の友だちがたくさんいたし、それに健吾にもしっかり守られている。淋しくはなかった。
「そうなんだ、じゃあ、もし何かしようとすると、ひとりぼっちになっちゃうんだよね」
「かもしれません」
「だったらさ、佐賀さん、俺とまず約束してくれないかなあ」
佐川さんはいきなり立ち止まり、小指を出した。
「まず二人、味方の女子を作るって」
「味方?」
「そうだよ、もし本当に、やりたいことするんだったら、あの学校では誰か味方が絶対必要だよ。女子の味方だよ、絶対にさ」
健吾、ではない。承知していた。
「そうしたら、俺も佐賀さんがどうしたいか考えて、いい方法見つけるよ」
「本当ですか」
その時の私は、佐川さんが何を言いたいのか全く想像つかなかった。
「指きりできる?」
「はい」
初めて指を絡めた。やわらかいけどちょっとだけささくれてて痛い佐川さんの指先。触れている間、健吾に「おしおき」されている時より、身体が震えた。
──親友。
もう、私にとって梨南ちゃんがそういう存在でないことだけははっきりしていた。
離れて淋しさを感じなくなった相手は、私にとって「どうでもいい人」なのかもしれない。
その感覚にまだ慣れないでいる。そう思ったらいけない、六年間、曲がりなりにもふたり仲良しでいたのだし、命令されることも、わがままに引っ張りまわされることも、言いなりになる振りをしたことも、自分の身を守るためにはしかたのないことだとも感じていた。そうしなくてもいい学校生活が存在するなんて、青大附中に進学するまでは想像したこともなかった。
でも、梨南ちゃんから離れて以来、何かが変わった。
一本調子の「はるみ、いったいなんでこんな見苦しい格好をしているわけ。きちんと礼儀正しくしなさい」と、髪形を指差すしぐさを一切視界に入れる必要がなくなってから、深呼吸が思いっきり深くできるようになった。呼吸するって、こんなに、空気いっぱい、肺に入ることなんだって感じた。
もう、元に戻ることなんて、考えられなかった。
──もし本当に、やりたいことするんだったら、あの学校では誰か味方が絶対必要だよ。女子の味方だよ、絶対にさ。そうしたら、俺も佐賀さんがどうしたいか考えて、いい方法見つけるよ。
佐川さんがいい方法を見つけてくれるというのなら、必ず、大丈夫。
紺色の刺繍布にひしゃく星を刺繍した空が広がっている。明日は必修クラブの日だ。
そうだ、やってみよう。私はさっきまで佐川さんの指に絡んでいた小指を握り締めた。
学生服の後姿に約束した。