聖騎士姫シンデレラ 前
リュウマはルーツィア姫|(人魚姫)に礼を述べ、大きく息を吸い込んだ。水の中に潜るためである。
外に出るためには、潜るしかない。だが、ほんとうに外に出るだけでいいのだろうか。
水に飛び込む前に、迷った。
シンデレラ姫が訓練で使う城の庭園にもつながっているという。
シンデレラ姫に会えるかもしれない。
リュウマは、聖騎士としても名高いシンデレラ姫の凛々しい姿を思い浮かべるだけで、気持ちが昂った。
だが、果たして会って何を言えばいいのだろう。魔物の討伐の報告をすることはできる。だが、アリス姫のことをシンデレラ姫に相談することはできない。アンネローゼ姫(白雪姫)の暗殺が成功するしないにかかわらず、実行犯がリュウマであれば、シンデレラ姫が糾弾されることは免れない。せめて、知っていてはいけないのだ。シンデレラ姫に相談するぐらいなら、アリス姫の命令を素直に実行したほうがいいのに決まっている。
リュウマは迷ったまま、水の中に入った。潜ろうと努力する必要はなかった。鎧を着たままだったのだ。装備の自重で、緩やかに水の底に向かう。
部屋から水路に入ると、周りにはほぼ明かりがないことがわかった。
この状況で、どうやって出入口を見つけるのだろうか。
そもそも、どこに向かうのかをはっきり認識もしていないリュウマに、向かうべき先を見つけられるはずがなかった。
ある程度進んだところで、部屋からずっと、出口がないことを確認した。息も次第に苦しくなってきていた。
おそらく、ルーツィア姫のところに戻るまで、息はもたない。ならば、進むしかない。
リュウマは懸命に進んだ。進み続けた。
出口らしき場所は一向に見えてこない。
ルーツィア姫は尋ねた。『この場所から、どうやって出るつもりなのか』というのは、水の中で呼吸できる生物でなければ、水の中を潜ってもどの出口もたどり着けないという意味だったのか。
最初に尋ねられた時、聞き流してはいけなかったのだ。きっとリュウマが深く追求しなかったために、リュウマは水の中で呼吸できるのだと、ルーツィア姫が判断してしまったのかもしれない。
苦しい。
結局、んな場所で死ぬのか、とリュウマが思い始めたとき、青い輝きがリュウマをかすめて飛び去った。
その輝きが何であろうと、考える余裕はなかった。
我慢ができず、息を吐いた。
呼吸器である肺の中に、高圧の水が流れ込んだ。
意識を保つことはできなかった。
死ぬ。
確実にそれだけを理解しながら、リュウマは闇に落ちた。
頭の中に、金属が打ち鳴らされる甲高い音が響いた。リュウマは死んだという自覚があり、頭の中で響く音が死者へのいざないに聞こえた。
打ち鳴らされる鐘の音だろうか。死後の世界のことなど、考えたこともなかった。ただ音だけが響き、周囲の様子を見ることができず、焦りだけが募った。
動けない。
必死に体をよじり、大きく、体が反転した。
「おお! 気が付いたか!」
聞き知った声だった。ずっと、憧れていた。力強く、遠くまで良く響きながら、心地よい声だった。
――シンデレラ姫。
そんなはずがない。死後の世界に、シンデレラ姫がいるはずがない。
思わぬ力が宿り、リュウマは体を起こした。目を開ける。
周囲がかすんで見えた。だが、その中央にいる凛々しい姿だけは、はっきりと見ることができた。
「姫様……」
美しい。リュウマがシンデレラ姫に会った時、常に抱く感想はいつも同じだった。聖騎士と呼ばれ、常に鎧をドレスのように身にまとうシンデレラ姫は、民衆を守るためにいつでも戦いに赴くことを、その出で立ちから主張しており、それを疑う者はいない。
「うむ。ルーツィアが連れてきたのだ。次に会ったら、よく礼を言っておけよ。非常に珍しいのだぞ。あの意地悪なメルジーナが必死になって人を助けることも、ルーツィアが泣くこともな」
シンデレラ姫は手にしていた長い剣を肩に担いだ。次第に視界がはっきりとして来る。生垣に囲まれた庭園だった。シンデレラ姫の私的な訓練場だろう。リュウマも来たことがない場所だった。周囲の生垣はバラで作られ、見事に花を咲かせている。シンデレラ姫の身分としては決して華美なものとはいえないが、街中の剣道場ぐらいの広さはある。シンデレラ姫に向き合うように、金属で作られた人型があり、リュウマの頭の中で鳴り響いたのは、死者をいざなう鐘ではなくシンデレラ姫が訓練をしていた音だと知れた。
「助けた……メルジーナが……」
状況を理解しきれず、リュウマはただシンデレラ姫が教えてくれたことを反復した。メルジーナは海の妖精だが、人に親切であるとは聞いたことがない。水路の中で意識を失いかけた時、すぐそばを青い光が駆け抜けたことを思いだした。あの光は、メルジーナだったのだ。
――水路?
思いだした。リュウマはルーツィア姫の部屋から水の中に入り、息が持たずに死にかけた。ルーツィア姫がリュウマを罠にかけたとは思えない。リュウマがうかつだったのだ。
「ここは、シンデレラ姫の訓練場ですか? ルーツィア姫の部屋から、最近つながったと聞きました」
首を捩じると、背後に噴水があるのが見えた。噴水から絶えず水があふれ、どこにともなく消えている。この水が、ルーツィア姫の部屋につながっているのだ。噴水の脇に棚があり、タオルが置いてあるのは、訓練後に水浴びでもするのかもしれない。
「ああ。水場を作らせたとき、ルーツィアの発案で、魔法でつないだのだ。以来、ルーツィアが私と二人だけで会いたい時はこの場所を使っている。私が自分で入ったことはないがな。ルーツィアは半狂乱だったぞ。リュウマを殺してしまったかもしれないと騒いでいた。メルジーナが魔法で肺から水を吐き出させるまで、私も死んでいるかと思ったほどだ。リュウマ、水の中では息ができないと、ルーツィアに言わなかっただろう。メルジーナがたまたま見つけなかったら、本当に危なかったそうだ」
「申し訳ありません。まさか、このように長い通路だとは思いませんでした。それに……私が水中で呼吸できるとものと、ルーツィア姫が思っているとは思いませんでしたので」
「ルーツィアが自分の基準で考えれば、当然そうなるさ。私やリュウマのように、地上でしか生きられない生物の方が不思議なのだろう。運が良かったな。だが……」
シンデレラ姫は険しい表情でリュウマを睨みつけた。剣を肩に担いだままである。ゆっくりと近づいてくる。顔をしかめているつもりなのだろうが、その表情すら見惚れるほどに美しい。ただリュウマがそう感じているだけかもしれないが。
次第に近くなるシンデレラ姫の姿に目を奪われながら、当然不安になった。
「シンデレラ姫、どうされました?」
近づいてくるシンデレラ姫に、リュウマは騎士として礼をとろうとした。シンデレラ姫は近づきながらそれをとどめた。まだ無理をするなということだろう。だが、リュウマは騎士として、臣下としての礼をとった。
「リュウマが生きていると知ってからは、ルーツィアはかなりむくれていたぞ。リュウマよ、ルーツィアの誘いを三度も断ったそうだな。ルーツィアが泣くことも珍しいが、あれに誘われて断れる男はそうはいない。私の騎士は、ずいぶん罪深い男なのだな」
『私の騎士』シンデレラ姫の一言で、リュウマは満ち足りたような気持ちになった。深くこうべを垂れた姿勢から顔を上げる。驚くほど近くに、シンデレラ姫の顔があり、怒っていた。心臓が高鳴るのを感じた。心音が聞かれないかと心配になるほどだ。心音を聞かれたくなかったのは、胸が高鳴った原因が、主君に叱責されたからでも恐怖したからでもなく、シンデレラ姫のそばにいられることだけで高揚したからである。
リュウマの気持ちとは別に、弁解をしなくてはならない。急いだために舌を噛みそうになりながら言った。
「誤解です……ルーツィア姫は、私に騎士をやめて執事になれとおっしゃられました。私は、あくまでも騎士でございます」
「なに? では、ルーツィアの誘いを断ったというのは、執事になれと三度も誘われたというのか?」
「はい」
シンデレラ姫はしばらくリュウマの顔を見つめたまま、言葉を探しているようだった。
結局見つからず、シンデレラ姫は険しい表情を崩した。大きな口を開け、笑いだした。腹を抑え、身をよじりながら笑い続けた。そんなに可笑しいことだろうか。シンデレラ姫にとっては可笑しかったのだろう。しばらく立ち上がることもできず、シンデレラ姫は笑い続けたのだ。
「ルーツィアの肩でも揉んだか?」
ひとしきり笑い続けた後、涙をぬぐいながらシンデレラ姫は尋ねた。
「いえ、お茶を淹れて姫のお話を……二日ほど聞いていただけですが……」
「なら、よほど美味いお茶を淹れたのだろう。それとも、ルーツィアの話を……二日だと? あれの話に聞き入って、時間を忘れる男どもがいると聞いたが、リュウマも同じか。それで、水の中に落ちたのか?」
「いえ。姫の部屋から出るには、水の中に潜るしか方法がありませんでした。私は……」
――シンデレラ姫に会うつもりはなかった。
その言葉を飲み込んだ。口にはできなかった。だが、来るべきかどうか迷っていた。それが原因かもしれない。魔法でつながれた水路である。目的地をはっきりと意識しないまま水の中に飛び込んだために、出口が見つけられなかったのかもしれない。いまとなっては、誰に聞くこともできないが。
リュウマが言いよどむと、目の前にいたシンデレラ姫が立ち上がった。
「今度、私にもその美味い茶を淹れてくれ」
「ルーツィア姫の時は上手くできましたが、たまたまです。次も同じようにとはいきません。私は普段お茶を淹れませんので」
「それが、執事になるのを断った理由か?」
シンデレラ姫は立ち上がり、訓練場の奥に向かいながら尋ねた。リュウマは臣下の礼をとったまま、動かなかった。視界に主がおり、姿勢を崩していいとは言っていないのだ。
「いえ。私が仕えるべきは、シンデレラ姫以外にはおられません」
「よく言った」
シンデレラ姫の訓練場は半ば庭園だが、残る半分は堅牢な建物であり、庭園に面した壁が開閉式になっている。建物が堅牢なのは、防音の意味もあるのかもしれない。現在は開閉式の扉は解放され、建物内部がリュウマの位置からはっきりと見ることができた。まるで道場のように質素で、シンデレラ姫のイメージには似つかわしくないが、本来の姫の好みなのかもしれない。
建物の奥まで達すると、壁にかけられていた木剣を持ってシンデレラ姫が戻ってきた。
「そういえば、ロロコス村の地下迷宮の魔物は無事退治したようだな。大儀であった。今朝、村の者が礼を言いに来たところだ。驚いたぞ。討伐した騎士より先に、村の者が礼に来たのだからな」
「申し訳ありません」
リュウマの責任である。弁解のしようもない。だが、シンデレラ姫は怒った風もなく、笑いながら再び近づいてきていた。
「ほかの誰かなら、魔物退治のついでに村娘と遊びほうけているのだろうと思うところだが、まさかルーツィアに捕まっていたとはな。しかも、話を聞くだけで二日とは」
「あの……シンデレラ姫、そのことは……私の不徳のいたすところだと、心得ておりますので」
美しい人魚姫の話を二日間聞き続けたというのは、リュウマにとっては心の傷だった。シンデレラ姫に悪意があるかどうかわからないが、しつように抉られたような気がした。
「いや、誉めているのだよ。ルーツィアと二人きりになれば、大抵の男は骨抜きにされる。あの声で、実に気持ちよく話すのでな。二日間聞き続けた後、ルーツィアの誘いをよく断れたものだ。なかなかできることではない」
誉められたとしても、リュウマの気持ちは複雑だった。リュウマが我にかえったのは、アンネローゼ姫(白雪姫)の名が出たからであり、アリス姫に暗殺を示唆されたからである。そのことをシンデレラ姫に言うわけにはいかない。
迷い、視線を落した先に、木剣が突き立った。
「訓練の途中だったのだ。付き合え。体が動かんのなら、無理することはないがな」
リュウマが顔を上げると、聖騎士の正装のまま、シンデレラ姫は木剣を構えていた。リュウマは息を飲んだ。戦いに臨むシンデレラ姫の凛々しい姿と、それにまみえることができる自らの幸運に。
迷わず立ち上がり、シンデレラ姫が投げた木剣を掴みとる。
「先ほど死にかけたばかりで、体が思うように動きません」
「……そうか」
シンデレラ姫は、落胆したように呟くと、剣を下ろしかけた。
「ですから、手加減できないかもしれません」
「ぬかせ!」
下ろしかけた手を高々とかかげるシンデレラ姫は、満面の笑みを浮かべていた。