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水の姫ルーツィア

 真っ暗な穴に落ちたと思ったのはごく短い時間で、落下による短い浮遊感の後、騎士リュウマは青く輝く気持ちのいい部屋に出ていた。部屋の中に水たまりがあり、底が見えないほどに深かった。深いと言い切れるのは、水が澄みきっていたからだし、その水の信じがたいほどの透明度をもってしても、底を見ることができなかったからだ。

 部屋の中であることは間違いなく、周囲は壁で覆われていた。しかしながら、壁を構成する物質はレンガではなく、岩を積み上げたものかそれを模したものであり、灯された青いランプのおかげで、まるで海の底にいるかのような感覚だった。

 水たまりは部屋のほぼ半分を占め、底が見えなくなるほど深い部分は、水たまりのさらに半分ほどで、残りは砂浜のようになだらかに傾斜していた。

 まるで玉座のような立派な椅子が水たまりのなかに設えられ、座る者を待っているかのようだった。

 ――ここは……どこだ?

 普通の部屋ではない。このような造りをしているのが、必要にかられたものであれ、部屋の主の趣味であれ、所有者は想像するまでもない。人魚姫とも呼ばれるルーツィア姫の部屋に違いない。

 リュウマは、自分が一体どこから部屋に入りこんだのかわからないまま、居場所もなく周囲を見回した。出口すら見当たらない。

「あなたは誰?」

 まったく予期せず、背後から声をかけられた。美しい声で、まるで旋律を奏でるかのように言葉が紡がれた。

 姿を確かめるまでもない。リュウマは背後を振り向きながら、騎士としての礼をとった。臣下としての礼とは、また違った型である。

「シンデレラ姫にお仕えしております、リュウマと申します」

 片膝をつき、あたまを下げたリュウマの目の前に、水をしたたらせた端正な顔が迫っていた。

 リュウマが、ルーツィア姫が居たことに気づかなかったのは当然だった。ルーツィア姫は、リュウマがこの部屋に入った時には、中にいなかったのだ。少なくとも、水たまりの底以外の場所にはいなかったのだ。

 ルーツィア姫は水たまりの浅瀬に上半身だけを出し、リュウマの顔を物珍しげに覗き込んでいた。下半身は水に浸かったままで、長く美しい髪は水に濡れて輝き、つややかな肌が水をはじいて輝きをさらに反射していた。

 声を聴いた時から、存在は予測していた。不意を突かれたのは、あまりにも近くにいたことである。リュウマが礼をとるために屈んだのと同時に、ルーツィア姫は覗き込むように上半身を乗り出したのだ。突然顔が近づいたことに、リュウマは驚いて海老のようにのけぞった。ルーツィア姫は実にたのしそうな笑みを作り、水に浸かったままだった片手を持ち上げた。

「どこから入ったの?」

「存じません。気が付くと、この部屋におりました。アリス姫の臣下ドリットの仕業かと思います」

 リュウマは姫の手をとり、礼儀作法として指に口づけした。

「あの人は、どこにでも出入りできるみたいね。でも、私のところに送り込まれた人は、あなたが初めてよ。よほど信頼されているんでしょうね」

「いえ……信頼されるほど、親しくはありません。ドリットとは出会ったばかりです」

 ルーツィア姫はリュウマの口元から手を引き寄せ、今度は両腕をリュウマに向かって伸ばした。今度は意味が解らない。どうすればいいのかリュウマが迷っていると、ルーツィア姫はとても可笑しそうに笑いかけながら尋ねた。

「王女と話すのに、それなりの場所というものがあるでしょう?」

 リュウマが横目で玉座を見ると、笑みをたたえたままルーツィア姫はうなずいた。それにしても、ルーツィア姫の言葉はまるで讃美歌のように美しく響いた。リュウマはずっと聞いていたい衝動に駆られたが、ずっと聞き続けるためには、姫に話をさせなくてはならない。

 リュウマは水たまりの中に足を踏み入れ、ルーツィア姫が伸ばした腕に片腕を絡ませて背中を抱き、空いている片腕を姫の下半身である尾びれの下にさしいれた。ほぼ全身が水浸しになりながら、リュウマはルーツィア姫を持ち上げた。

 ルーツィア姫の衣は薄い。姫と密着する栄光に浴しながら、リュウマはふらつくことなく姫を玉座に運んだ。

 魚類そのものの下半身でありながら、ルーツィア姫は器用に玉座に腰かけた。

 玉座の前に回り、リュウマが再び騎士の礼をとろうとすると、姫が止めた。

「人間のあなたがそう何度も水の中に座るものではないでしょう。お茶が飲みたいわ」

 ルーツィア姫が上げた手の先には、テーブルと食器棚があった。上質な家具に違いないが、湿気が多いためか痛んでいるように見える。だが、玉座の前で礼の形をとれば、再び水に浸からなくてはならないことは確かである。リュウマはありがたくルーツィア姫の計らいに応じることにし、部屋の隅に置いてあったテーブルを姫の近くまで運んだ。

 ポットには不思議と温かいお湯が入っており、お茶を入れると香料の香りに部屋が満たされた。

「ああ……美味しい。騎士などやめて、執事にならない?」

 ルーツィア姫は常に笑顔を絶やさなかった。突然部屋に訪れて、目的も明かさない相手に対して、あまりにも警戒心というものがない。ルーツィア姫は特に男性の信者が多いと聞く。リュウマはその噂が間違いないものだろうと確信した。純粋で邪気がない人魚の姫を、愛さない人間がいるとは思えなかった。

「残念ですが、私には恐れ多いお言葉です」

 執事には、実に多くの資質が求められる。剣の腕だけと自認しているリュウマには、勤まるとは思えなかった。もっとも、勤まったとしても転職するつもりはない。

「そう。本当に残念。あなたの分も用意して。お茶菓子も出してね」

 その後、リュウマはしばらくの間、ルーツィア姫のお茶会の相手をさせられることになった。


 ルーツィア姫が美しいことに疑問の余地はなかったが、リュウマは見た目の美しさよりも、声に魅せられた。ルーツィア姫の声を聴くために、努力する必要はなかった。ただ相打ちをうっていれば、姫はとても上機嫌で話し続けてくれた。

 話の内容はほとんど覚えていない。ただ、ルーツィア姫の声が耳を通って頭の中に響く。その感覚だけで満ち足りていた。

 お茶を傾け、お茶菓子を口に運びながら、リュウマはルーツィア姫を前に、音楽的で魅力的な声を聴くという、至福の時を味わっていた。幸福が破れたのは、ルーツィア姫がある名前を発したからだった。

「……アンネローゼには会ったことがある? とても凄い魔女なのよ。この間なんて……どうしたの? そんなに怖い顔をして。ひょっとして、アンネローゼに深い恨みでもあるのかしら?」

 機嫌よく話し続けていたルーツィア姫が、突然舌を動かすのを止め、厳しい目でリュウマを見つめていた。厳しい目をしたのは、リュウマ自身なのだ。リュウマが突然表情を変えたから、ルーツィア姫が反応したのだ。

「いえ、めっそうもございません。ただ……私がお仕えするシンデレラ姫と、意見があわないらしいと伺っていたので」

「少し意見の食い違いがあったかもしれないわね。あなたの顔は、それだけとは思えないわ。アンネローゼは今でも大切なお友達なの。あなたの顔はまるで、アンネローゼを殺したいとでも思っているように見えたわ。もし、アンネローゼを傷つけるようなことがあったら、許さないわよ」

 先ほどまでの上機嫌が嘘のように、ルーツィア姫は鋭い目つきでリュウマを見つめた。リュウマは、ルーツィア姫が本心で語っていると感じた。愛されて育てられたルーツィア姫は、愛されることに疑いを持たず、深く人を愛するのだと評されている。だが、愛する人を傷つける相手に、ルーツィア姫ほど激しく怒る者はいない。

 もし、リュウマがルーツィア姫に仕えていたら、姫の様子に恐れて平服したかもしれない。もしもう少し長く姫の声を聴き続けていたら、泣きながら謝っていたかもしれない。リュウマはあえて尋ねた。ルーツィア姫に会いたかったのは、まさにアンネローゼ姫(白雪姫)について意見を聞きたかったためなのだ。

「アンネローゼ姫は、ルクレティア姫(いばら姫)に代わって、世界を治めようとなされていると伺っています。ルーツィア姫はどう思います?」

 ルーツィア姫は、少しだけ首を傾けた。あまり考えたことがないかのようだ。世界のすう勢に関わる重要な問題であり、七人の姫の一人であるルーツィア姫が考えていないはずがないのだが、ルーツィア姫は少し紅茶を口に含み即答はしなかった。代わりに、険しく鋭く輝いた姫の瞳が、これまで同様に優しく瞬いた。

リュウマは、それだけでも、尋ねて良かったと感じた。

「魔物に覆われた世界を救うのも、眠ったままのルクレティアを起こすのにも、妨げになるのは雪の女王ヴィルジナルだということは、誰も疑っていないわ。だから、あなたが騎士であり続けるなら、やることは変わらないわね。それとも、執事になる?」

「いえ……申し訳ありませんが……」

「そう。断られたのは二度目ね……私は、ルクレティアとまた楽しくお話したい。それには、シンデレラの方がわかりやすい。それだけよ」

 ――アンネローゼ姫とも、仲良くしていたい……か。

 虫のいい話だとも感じたが、ルクレティア姫(いばら姫)を除いた六人の姫が、決定的に分裂しているわけではないという証ともいえる。あくまでも平和を望むルーツィア姫の態度を、リュウマはむしろ好ましく感じた。

「ありがとうございます。そのお言葉を聞けただけで、来たかいがありました」

「……そのために来たの? そう言えば、あなたが何のためにこの部屋にきて、どうやって出るつもりなのかも聞いていなかったわ」

 どうやって入ったのかについては、アリス姫の側近であるドリットに落とされたのだと説明していた。『どうやって出るつもりなのか』とは、どういう意味だろうか、確かに、部屋には出口らしいものが見当たらない。

「あの……ルーツィア姫、この部屋は神聖都市ルヴェールですよね」

「もちろん。ルヴェールに滞在するときのための私の部屋よ」

「出るのに、複雑な手続きでも必要なのですか?」

「いえ。別に。ただ、この部屋は私用だし、一部の人しか出入りしないわ。あのウサギさんなら、勝手に穴を掘って入ってこられるかもしれないけど、あまり知らない人が入ってこられないように、普通は出入りするのはあそこを通るしかないわ」

 ルーツィア姫が指さしたのは、部屋の半分を占める水たまりの、底の見えない深い部分だった。リュウマが部屋に入った時に、ルーツィア姫がいたと思われる場所だ。

 底が見えない水たまりなのではない。底など、はじめからなかったのだ。


 部屋を出る方法は後で考えることにして、リュウマはまだルーツィア姫(人魚姫)に尋ねたいことがあった。姫のカップにお茶のお替りを注ぎながら尋ねた。

「アリス姫は、少しお考えが違うのでしょうか」

 また、ルーツィア姫は即答せず、少しおかしそうに口角を上げた。鋭い目つきをしたときより、何十倍も魅力的に見えた。

「アリスに何か吹き込まれたのね。でも、それなら私より、シンデレラに直接尋ねるといいわ。あなたの主君なのですから」

 アリス姫からの指示を、リュウマがシンデレラ姫に相談するわけにはいかない。その事情をルーツィア姫に打ち明けることも、さらにできない。ルーツィア姫の態度を見て、はっきりと理解した。シンデレラ姫のためにアンネローゼ姫(白雪姫)を害するのがアリス姫の考えなのだと知れば、ルーツィア姫は激しく怒るか、思い悩むに違いない。それに、シンデレラ姫と会うには、より深刻な問題があった。

「私はシンデレラ姫には謁見がかないません。アリス姫が許さないでしょう。私がこのルヴェールを出るまで、アリス姫は私を見張るはずです」

「よほど重大な任務を授かったのね。アリスの騎士でもないのに。でも、それならちょうどよかったわ。つい最近、そこからシンデレラがよく稽古している庭園の噴水まで、つながったの。少し遠いかもしれないけど、アリスに見つかる心配はないわ」

 ルーツィア姫は、再び水たまりの底を示した。だが、そんなに上手く行くはずがない。

「アリス姫がそのことを見落とすはずがありません。この部屋の地下を通す水道を掘ったということでしょう? そんな大規模な工事をすれば、アリス姫はかならず確認するはずです」

「工事なんてしていないわ。だって、やったのはオクタヴィア、海の魔女だもの。穴を掘ってつないだわけじゃないのよ。ここから出入りできる場所には、全部魔法でつないであるの。だから、アリスでもどこにつながっているかまで、すべてを把握できるはずがないわ」

「……なるほど。では、いずれにしても、外に出るのはこの水路を使うしかないということですね」

「そういうことね。でも、無理に出なくてもいいのよ」

「どういう意味ですか?」

 ルーツィア姫は無邪気に笑った。鈴の音のような心地よい笑い声だった。

「ここで、ずっと執事をしていてもいいのよ」

「……誠に残念です」

「仕方ないわね。でも、楽しかった。私の話に二日以上もつきあってくれて、姿勢一つ崩さないのだもの。あなたはきっと、すぐれた騎士なのね」

「二日以上?」

 ルーツィア姫の透き通る水辺のように美しく、妙なる音楽を奏でるかのような声に聞き入り、時間すら忘れてしまった。だが、それでも二日間も聞き続けたとは、想像すらしていなかった。きっかけがなかったら、倒れるまで聞き続けていたのかもしれない。声が美しいだけで起こる現象であるはずがない。美しい人魚姫の魔力に、リュウマは震えた。

「また、お話しましょうね」

 ルーツィア姫がカップを空にしたが、お替りは求めなかった。リュウマは立ち上がり、深くこうべを垂れた。


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