プロローグ1 魔法学園の卒業試験
セレナは森にいた。ただ一人、魔物を討伐するために派遣された。
武器は護身用としか思えない短剣一本である。
森はみずみずしく輝き、生命にあふれていた。
セレナは警戒しながら森を進む。
下草が揺れた。
緊張して短剣を構えると、真っ白い顔をしたウサギが飛び出してきた。
セレナは膝を落とし、ウサギを落ち着かせる。
動物の扱いは得意だった。
安心するよう、動物の精神に干渉して、恐怖を取り除く。ただそれだけで、動物というのはセレナのことを信用することが多い。
普通の人間にできることではない。
セレナは、魔法使いだった。
ウサギは安心したはずだが、逃げるのを止めなかった。親切に背後を前足で指してから、セレナに会釈をして、ウサギは走ってきたのと反対側に、向かった。つまり、走る方向を変えずに、森の中に消えた。
ただのウサギではないのかもしれない。
少なくとも、ただのウサギは会釈をしない。
セレナは再び短剣を構えた。
この先に、何かがいる。それが目標の魔物であれば、事は簡単なはずだ。
再び下草がざわめいた。
セレナの緊張が高まる。
飛び出してきたのは、醜悪な姿をした半動物だった。
動物でありながら、二本足で歩き、道具を使う。そのように作られている。
セレナを無視して走り去ろうとする。
集団だ。
そのうちの一人を捕まえた。全身が鹿なのに。二本足で走っていた。
「ちょっと待ってよ。あなたたち、何から逃げているの?」
「そんな場合じゃない。あんた、魔法使いならあれをなんとかしろよ」
獣のくせに生意気な言い方をする。セレナは気分を害するところだった。
枝の上から、セレナをめがけて飛び降りてきた巨大な姿がなければ。
背中から風を切る音を聞き、セレナは半身を振り向いて短剣を前に出す。
セレナを丸呑みできそうなほど大きく口を開けた、蛇の顔があった。
「きゃあ!」
横に飛びのく。
空中で、巨大な口がばくりと閉じる。鹿男は走り去った。もともと、半動物に何も期待はしていない。それより、標的の魔物が現れた。セレナは、罪のない動物たちの脅威となる魔物を退治しに来たのだ。
木の枝から飛び降りた蛇だが、セレナを捉え損ねてなお、地面には落ちなかった。
顔の横から生えた翼を駆使し、地面に落ちる前に飛び上がっていた。
――飛び蛇。
ただ翼を持つだけの蛇であれば、退治するために魔法使いが派遣されることはない。
巨大な口は容易に人間を飲み込み、本来の蛇と比較して短い胴体は消化能力が高く、獲物を逃がさないために、牙の毒性はキングコブラを越える。
一度獲物を飲み込むと、サイズによっては数週間を地面に潜ってすごし、発見はほぼ不可能になる。飛び蛇が地面に潜るのは、獲物を捕獲すると体重が増えて飛べなくなるためだ。
セレナに向かい、再度の捕獲を試みる蛇が迫る。
短剣では防げない。口が大きすぎる。
セレナは魔法を使用しようとした。
得意とするのは風の魔法だ。風に呼びかけ、すべてを切り裂く必殺の魔法だが、成功率は高くない。
飛び蛇の顔にめがけて、風を放った。
蛇がくしゃみをする。
だが、重力に任せたままの滑空は止まらない。
「くっ……」
セレナは再び地面に伏せる。
頭上を蛇がかすめた。
胴体が行き過ぎる前に、セレナは広背筋と首筋に全意識を集中させ、体を跳ね上げた。
セレナの両足が飛び蛇の胴体を挟む。
本来は蛇だ。もともと、飛行能力は高くない。
獲物を飲み込んで飛べなくなる飛び蛇は、胴体にしがみつかれれば、同じように飛ぶことは不可能になる。
蛇の胴体が地面に落ちる。
セレナは短い、鱗で覆われた胴体に馬乗りになり、短剣を振り上げた。
蛇が喉を鳴らす。瞳がセレナを捕えた。
通常の蛇ではない。二つの目が正面を向いている。
周囲の様子を探るより、捕食者であることに特化した目だ。
蛇の口から、紫色の液体が飛んだ。セレナは咄嗟に顔を庇う。
顔を覆った腕の上から、蛇の毒がかかった。
「……何これ……臭い」
セレナが腕を降ろすと、毒を吐いた直後の飛び蛇が胴体をくねらせていた。逃げようというのではない。動く隙を作り、再びセレナに襲い掛かろうとしている。
蛇が首を伸ばす。セレナを飲みこもうとする。
セレナは組み敷いていた蛇の胴体と地面を蹴り、立ち上がりかけた蛇の首に飛びついた。
わずかの差で、下あごの舌に潜りこみ、セレナは蛇の首に抱き付いた。
短剣を持つ手に力を込め、抱き付いた首筋に突き刺す。
人間のように苦痛に対して敏感ではない。あくまでも蛇だ。生命力も強い。あるいは、頭部だけになってもしばらくは動き続けるかもしれない。
一度は突き刺した短剣を抜き取り、再び刺す。
腕は痛んだ。毒を浴びた場所がひりひりする。当然服は着ていたが、服の上からも肌に触れた部分が痛む。直接肌に浴びていたら、痛さでのたうち回っているのはセレナだったかもしれない。
何度も短剣を突きさし、最後に横にひく。
蛇の頭部の下に、短剣の切れ目が入り、大量の赤い血を撒き散らした。
蛇の体から力が抜ける。
飛び蛇は死んだ。
長い緊張から解放され、セレナは地面にごろりと転がった。
下草を踏む足音が近づいてくる。
人間の足だ。人間といっても、この場所には魔法使いしか入ることができないはずだ。
「お疲れさま、無事に終わったようですね」
声をかけてきたのは、セレナより一回りほど年上に見える青年だ。線は細いが中々の美形である。ただし、あくまでも青年に『見える』だけであり、普通の人間なら老衰を迎えてもおかしくない年月を生きているはずだ。
魔法使いのもっとも基本となる術が、生物の精神と生命を操る技であり、成長を止めることも進めることもできる。戻すことは少し難しいとされているが、不可能ではない。
セレナは正真正銘、14歳の少女である。まだ、加齢を止める必要は感じていない。
「無事じゃありません」
セレナは、ずっと見ていたはずなのに少しも手助けしてくれなかった魔法指導員を、地面に寝そべったままで見上げた。
「おや、毒にやられましたね」
「見ていたくせに」
「もちろん。自分で直せますね? そこまで含めての、昇層試験なのですから」
「わかっていますけど、難しいんですよ。蛇の毒だから、ただの新陳代謝を操作するだけじゃ利かないんですから」
「そうでしょうね」
うなずきはするが、近づいてはこない。セレナは試験中なので仕方がないのだが、少し冷たいような気もする。
毒を浴びた袖を破り捨て、痛みがある両腕に意識を集中させる。
強力な毒は、皮膚を通して毛細血管にも侵入を果たしていた。
放置すれば、血管が解けて筋肉が腐りだすだろう。即効性の毒だ。
飛び蛇の犠牲者の多くは、捕食されるよりこの毒にやられる。
体内の組織に呼びかけ、肉体を構築する生命本来の機能を、融解した血管の復元に向ける。
体内の毒は害を及ぼせないように、不要となった自分の組織で包み、体外に出せるよう、腸に送る。
「……ふう。もう大丈夫です」
「そのようですね。相変わらず、生命魔法についてはとても優秀ですよ」
「じゃあ、合格ですか?」
魔法使いしか出入りのできない空間でのでき事である。魔法使いにとって飛び蛇が脅威とは捉えられておらず、その退治が大切な任務であるわけではない。セレナは、魔法専門学園の3階層の生徒であり、4階層へ上がるための試験を受けていたのだ。
「採点結果は……20点ですね。不合格です」
「えーーーっ……そんなあ。私、3階層でもう3年も暮らしているんですよ」
「力がないのですから仕方ありませんね。未熟な者を次の階層に送っても、何もできないことはよくわかっています。それに……3階層は現象を操作する基礎を学ぶ場所です。それできなければ、次の階層に進めないことは知っているでしょう。そのために、あなたと相性のいい、風の操作に弱い魔物を相手に選んだというのに。あなたがしたことは、人間のような肉弾戦ではありませんか」
「そうだけど……でも、魔法がうまく発動しなかったから……」
「それを試すための場所がこの試験なのですよ」
指導員の言うことはもっともであり、セレナに反論の余地はなかった。
魔法を学ぶ専門学園は全7層で構成されており、1層は精神の操作を学び、2層で生命の操作を学ぶ。魔法使いにとっては基礎中の基礎であり、できるのが当たり前とされている。3階層から上は現象を操り、できないことがないと言われる本物の魔法に、少しずつ近づいてくのだという。
しかし、挫折する魔法使いも多く、第7層までたどり着き、卒業を果たした魔法使いは、人間よりはるかに長い歴史を持つ魔法使いの中でも、数十人しかいないという。
セレナは10歳のころに学園で生活をはじめ、わずか1年で3階層まで昇ったのち、足踏みが続いている。この学園で何階層まで進んだかで、将来の魔法使いとしての評価が決まると言われており、年齢制限はないものの、少しでも上の階層に上りたいと願っていた。
従って、不合格と言われたこの日は、自室への足取りは重かった。
学園生には全員、個室が与えられる。
ただし、どこで住もうと制約は受けない。
校風は限りなく自由であると言っていい。
学びたい者はどこまでも学び、そうでないものは人生を謳歌するのであるが、魔法使いにとって謳歌するべき人生はあまりにも長いため、まじめに学問に取り組む者も多い。
魔法の技術と知識は、実際に奇蹟を呼び起こす。
人間の子供たちが学問に対して不満を持つのとは、明らかに違うのだ。
それでも、挫折する者が大半である。それだけ、魔法の習得は難しいのだと言える。
セレナは学園の自室に戻り、扉に張り付けられた紙に目を止めた。試験を受けるために部屋を出た時は、張られていなかったはずだ。誰かが張ったのだろう。どれだけ成績が悪くても、退学がない学園である。部屋を強制退去ということはないはずだと思いながら、緊張して書きつけを呼んだ。
学園長からの呼び出しである。
――今日は、ろくな日じゃないわ。試験なんか受けたって受かるはずがなかったのかも。
自分の成績を運のせいにする魔法使いは、実は少なくない。




