リーゼロッテ姫とシュネーケンの騎士たち
城塞都市シュネーケンの中に設えられたリーゼロッテ姫の邸宅は、落ち着いた雰囲気でまとめられていた。壁や調度はすべて木調でまとめられ、まるでルチコル村の屋敷を想像させる作りでありながら、使用されている家具はリーゼロッテ姫の本拠地であるルチコル村のものよりも、はるかに高価でうることが見てとれた。リーゼロッテ姫が、いかにアンネローゼ姫に大事にされているかがうかがえる。
リュウマがテーブルを挟んでリーゼロッテ姫の正面にすわると、リーゼロッテ姫はテーブルの上の食べ物に手をつけるよう促してから、さっそく本題を切りだした。部屋の出入口に騎士セジュールが控えていたが、聞かれて困る内容ではないからと、リーゼロッテ姫に勧められてセジュールもテーブルについた。
「おおかたの話は、アンネローゼお姉さまから聞いたよ。さっき、ここに来てくれたんだ。はっきり言っておくけど、このシュネーケンでリュウマの身に起きたことは、お姉さまの意図じゃないんだ。毒リンゴを食べさせたのも、動けなくなったリュウマを罪人として扱ったのも、民衆に晒したのも、お姉さまのお母さんにあたるエルヴィーネの指示だった。お姉さまは、リュウマを傷つけずにつれてくるように、騎士たちには言っていた。けど、エルヴィーネはお姉さまがいないところで、その指示をちょっと変更したんだよ。お姉さまとエルヴィーネは、血はつながっていないけど親子だし、お姉さまは優しいから、エルヴィーネの言うことも否定しない。できないんだよ。本当は、エルヴィーネはリュウマをすぐに殺すつもりだったんだけど、お姉さまが裁判を受けさせることに決めたんだよ。お姉さまはリュウマがここに着いた翌日に裁判を開くつもりだったけど、エルヴィーネはそれでは十分に民衆が楽しめないからっていって、引き伸ばしたんだ。リュウマ、君は何日、ああしていたの?」
リュウマはリーゼロッテ姫の話を、身動きせずに聞いていた。何の感情もわかなかった。何も感じないほど、消耗していた。当面の命の危機がさり、異常な状態から回復すると、体がいかに衰弱しているのかを思い知らされた。
「わからない。いま、何日ですか?」
リュウマはテーブルの果物に手を伸ばそうとし、迷った。騎士カイエンから渡された毒リンゴを口にしたのが、そもそもの始まりだったのだ。リーゼロッテ姫が騎士セジュールに視線を送った。セジュールはリュウマが手を伸ばしてあきらめた果物を取り、自らの口に運んだ。セジュールの喉が動くのを見て、リュウマはセジュールの首に喉仏が現れていないことを感慨深く見つめていた。リュウマは果物を手に取った。口に入れるまで、しばらく戸惑ったあと、自らに言い聞かせた、シュネーケンにいる限り、またどんな目にあうかはわからない。可能な時に、食べておかなければいけない。
リーゼロッテ姫から日付を告げられ、リュウマは答えた。
「では……私が毒リンゴを食べた時、すでにシュネーケンの城が見えていましたから、五日ですね」
騎士セジュールが息をのんだ。罪人として壁に縛り付けられ、その上に騎士たちになぶりものにされれば、丈夫な者でも三日たらずで命を落とす。食べ物が全く与えられないうえに、意識を失っても強制的に目覚めさせられるというのは、それほどまでに過酷なのだ。
「エルヴィーネは、裁判を受ける前にリュウマを殺すつもりだったんだよ。お姉さまはそう思っている。だから……お姉さまは喜んでいたよ。よく生きていてくれたって」
「私は……アンネローゼ様が、私を苦しめて殺すために呼んだものと思っていました。そう思い始めたのは、四日ほど前ですが」
リーゼロッテ姫は強く否定した。
「お姉さまは、君が死んでしまうかもしれないと思っても、助けることができなかったんだよ。だって、ずっと交代で騎士が見張っていたし、民衆にも見られている。民衆から支持がなくなることは、お姉さまにとってはとっても怖いことなんだ。それに、エルヴィーネを怒らせることになる。でも、君を助けるために、できる限りのことをしていた。だって、私とセジュールは裁判で発言するために呼ばれたんだもん。裁判では、公平を期すために私やお姉さまは何も言えないんだ。だから、君に有利な発言をする人間を集めようとしていた。私は森の魔物を退治してもらったし、私の騎士の命を助けてもらった。それから、まだ来ていないけど、ラプンツェルのところでも魔物を退治したんでしょ。ラプンツェルもこっちに向かっているはずだよ。君がしてきたことを、みんなの前で証言する人間が増えるほど、君を死刑にしようとする人間の立場が悪くなるはずだから。膨張には、きっと沢山の市民があつまる。シュネーケンの裁判は、見世物みたいなものなんだ。だから、見物に来た人たちを味方につければ、君は助かる」
「ああ。それに、裁判長は公平な人だ。リュウマのしてきたことを考えれば、罪に問うはずがない」
セジュールも口を添えた。リュウマは否定した。
「お言葉ですがリーゼロッテ様、私がアンネローゼ様を殺すためにシュネーケンに向かっていたことは事実です。それは、決して許されることじゃない」
まるで怒ったかのように、セジュールが身を乗り出した。
「考えているだけで、問われる罪などない。確かに、君は僕にもリーゼロッテ様にも、旅の目的については嘘をついた。騎士としてはどうかと思うが、それは罪じゃない。すべての人間に好かれる為政者などいない。君はまだ、罪に問われるようなことは、なにもしていないんだぞ。むしろ、考えているだけで罪に問われるなら、エルヴィーネこそ……」
「セジュール!」
珍しく、リーゼロッテ姫が鋭い声を発した。セジュールが頭を下げる。
「口にしていいことじゃないよ。エルヴィーネは、確かにお姉さまに嫉妬しているという噂はあるよ。お姉さまの美しさにも、人気にも。でも、お姉さまはエルヴィーネを必要としているし、エルヴィーネはお姉さまの名前で騎士たちに勝手な命令をすることがあるみたいだけど、それだけで疑ってはだめ。それにリュウマ、これは私とお姉さまとラプンツェルだけの秘密なのだけど、お姉さまなの」
「どういう意味です?」
リーゼロッテ姫の最後の台詞だけ、意味がわからなかった。リーゼロッテ姫は続けた。
「アンネローゼお姉さまが、ノンノピルツのアリスに指示したんだよ。アンネローゼお姉さまを殺すための刺客を、シンデレラの騎士の中から選ぶようにって。魔法の鏡の予言を実行するためだって、それしか知らない。私は、アリスがその騎士を選んだことを知っていたけど、それ以上は知らない。セジュールも知らなかったことだよ。リュウマがそうだってことは、私もセジュールも、ラプンツェルから連絡があるまで知らなかった。リュウマ、アンネローゼお姉さまは、君を必要としている。力を貸してあげて。君は、そのために旅をしてきたんだ」
リュウマの頭の中で、楽しそうに紅茶を傾けるアリス姫の顔が踊った。
「……すべて、仕組まれていた?」
「君からしたら、そうかもね。でも、これだけは解ってほしいんだ。私も、お姉さまも、君の敵じゃない。シンデレラやアリスとは仲が悪いって言われているのは知っているよ。それでも、敵じゃない」
リーゼロッテ姫の言いたいことはわかった。リュウマは、テーブルの上に置かれた水差しに手を伸ばした。ただ水が入った容器を持ちあげようとして、手が震えた。セジュールが身を乗り出し、リュウマの手元にあった空のグラスに水を注ぐ。リュウマは尋ねた。
「ルチコル村で、ルヴェールとノンノピルツで戦争の準備を始めているという噂がありました。リーゼロッテ様はそのためにシュネーケンに向かったはずです。あれは、どうなりました?」
「もちろん、その時は私もセジュールも信じていたよ。だけど、鳥たちの噂話をあまり真剣に取り合わないように、お姉さまには叱られた。シンデレラやアリスが戦争の準備をしているように見えても、それは魔物や……雪の女王ヴィルジナルに対抗するための準備だから、警戒する必要はないって言っていた。たぶん、その通りなんだと思う」
「……そうですか」
腹に入った食べ物が、少しずつ体に吸収されていくのをリュウマは感じていた。頭の中では、リーゼロッテ姫から聞かされた情報を整理するのに忙しく、混乱しつつあった。
リーゼロッテ姫が壁にかけられていた時計を見上げた。
「あと一時間で裁判が始まるよ。セジュール、リュウマについていてあげて。私は、お姉さまにもう一度会いに行くから」
「承知しました」
リーゼロッテ姫は立ち上がり、セジュールはリュウマに体を寄せた。テーブルの上にきれいに並べられた食事を、リュウマの手が届きやすい位置に移動させた。出かけるための支度をするのではなく、まずリュウマに食べられるだけ食べさせようということらしい。
「……裁判は、行われるのですね。私が逃亡したというのに」
立ち上がったリーゼロッテ姫が振り向き、リュウマを見た。
「もちろんだよ。これ以上引き伸ばせば、またエルヴィーネがどんなことを思いつくかわからないからね。お姉さまが決定したことだから、さすがにエルヴィーネも口出しできない。それでも、またリュウマを裁判にかけないで殺す手段を考えるかもしれない。だから、早い方がいいんだ」
リーゼロッテ姫は言いながら体を再び部屋の出口に向けた。セジュールに手伝ってもらい、リュウマもできるだけ食べておくことにした。体が慣れさえすれば、できるだけ多くの食物を摂るべきだと思った。
だが、そう簡単にはいかなかった。
部屋から出る扉を開けた瞬間、リーゼロッテ姫の鋭い声が上がり、セジュールが反射的に席を立った。
「あなたたち、この建物に私の許可なく入るなんて、どういうつもり!」
リュウマは視界の隅で、リーゼロッテ姫の頭越しに、武装した騎士の姿を認めていた。良い予感はしない。だが、いまは食べることを選んだ。
「アンネローゼ様のご命令です。被告人リュウマを法廷に連れていくために来ました。かつて騎士だったリュウマが逃亡するとは思いませんが、このシュネーケンの土地勘はないはずです。迷ってはいけませんので」
ひしめく鎧の音、扉の隙間から見えている陰からいって、少なくとも武装した騎士が三人以上はいるはずだ。騎士たちが『被告人』と言った。まだ罪が確定されていない者を意味する、裁判上の用語だった。ようやく、正規の手続きにのっとった処理が進められたと考えていいのだろうか。
リーゼロッテ姫の頭越しに騎士たちの様子を観察し、会話を聞きながら、パンと肉料理を口に運んだ。どうやら、ちゃんとした食べ物を入れても拒絶しない程度には胃も回復したらしい。
「そう……それなら、仕方ないね。でも、セジュールも協力させるよ」
「お断りします」
世界を治める七人の姫の一人であるリーゼロッテ姫の申し出を、騎士は拒絶した。リュウマはただ食事を続けた。セジュールがリーゼロッテ姫の背後に移動していた。騎士たちが続けた。
「騎士セジュールは、裁判で証言する予定と聞いています。リーゼロッテ様の代わりに」
「うん。そうだね。私は裁判では発言することができないことになっているから、仕方ないよ」
リーゼロッテ姫が応じた。七人の姫は、あまりにも世間に与える影響が大きいため、姫に発言を許すと裁判が形骸化することを憂慮したものである。どの都市でも、それだけは変わらない。セジュールはリーゼロッテ姫からやや離れた位置に立った。いい場所だと、リュウマは食べながら感心した。セジュールの得物は弓矢である。リーゼロッテ姫に当てないように騎士たちを射抜く腕をもっている。もっとも、シュネーケンでアンネローゼ姫の騎士たちに弓をひくとは思えないが。
「なら、証言する予定の者と被告人が、一緒にいるわけには行かないという規則もご存知でしょう」
「しかし、君たちシュネーケンの騎士が、被告人にすぎないリュウマにしたことを考えれば……」
「セジュール、いいんだ」
言いつのろうとしていた騎士セジュールを、リュウマが止めた。さすがに長い間食べていなかったので、あまり量は入らない。すでに満腹になりつつあった。
騎士セジュールは驚いた表情でリュウマを振り返り、リーゼロッテ姫に視線を移す。リーゼロッテ姫は青い顔をしていた。いつもは表情が豊かな愛らしい顔をした姫だが、このシュネーケンで見た表情はいつも緊張して暗い。おおむね、リュウマの責任であることは自覚していた。
「リュウマ、わかっているのか?」
「なにをだ? それより、リーゼロッテ姫は出かけるところだったんだ。この場にいる意味もない。セジュール、リーゼロッテ姫についていった方がいいだろう」
セジュールは再び同じ動きをした。今度は、リーゼロッテ姫は小さく頷いた。騎士たちの言葉は、表面上正論である。従うほかはない。
「わかった。リーゼロッテ様、少しお待ちください。用意いたします」
「ええ。早くね」
リーゼロッテ姫は答え、騎士たちは動きも話しもしない。その程度は許してやるといったところだろうか。
セジュールはリュウマの背後に回り込み、羊皮紙と羽ペン、インク壺のセットを持ちあげた。いわゆる記録用の書記セットである。リュウマは振り返らずとも、セジュールの動きはわかった。部屋の様子は、入った時に確認済みだ。いつもそのような習慣があるわけではない。死にかけた、殺されかけた経験が、リュウマの神経を鋭敏にさせていた。
アンネローゼ姫の元に行くのに、必要なものとは思えない。リュウマに話があるのだとわかっていた。
「リュウマ、気をつけろ。君を殺しに来たのかもしれないぞ」
セジュールの声は小さい。騎士たちは完全武装している。顔と頭部をすべて覆う鎧を身に着けている。リュウマを警戒してのことか、あるいは裁判に連行するための慣例なのかはわからない。重要なのは、耳まで覆われているので、小さな声で話せば騎士たちに詳細まで聞かれる可能性が少ないということだ。
「わかっている」
「裁判では、できるだけのことをする。君のしてきたことを、可能な限り調べて整理してきたんだ」
「苦労させたな」
「だから、君は絶対に認めるな。シュネーケンの裁判では、民衆から選ばれた陪審員と裁判長の心証がもっとも重要だ。旅の目的を認めたら、まず民衆が君を殺せと言いだすだろう。そうしたら、もう覆せない」
「わかった。それからセジュール、君が持っているものは、ここに置いておけ。アンネローゼ様のところまでそんなものを持って行ったら、騎士セジュールともあろうものが笑われるぞ」
リュウマは、半分ほど残してはいたが、もはや胃に入らない食事が残った食器が並ぶ、テーブルの上を指で示した。
「僕のことを心配している場合か」
「私は大丈夫。セジュールこそ、油断するな。アンネローゼ様と仲がいいからといって、リーゼロッテ様は安心だと思うなよ。リーゼロッテ様には、ここではセジュールだけが頼りだ」
「君と言う奴は……」
セジュールはリュウマの前の食器を片付け、空いた場所に羊皮紙と書記セットを置いた。かなり大きい。リュウマと話す口実とはいえ、城内を持って歩く騎士セジュールの姿を想像して可笑しくなった。リュウマの頭の中でどんな光景を想像しているのかセジュール本人が知るはずもなく、セジュールは書記の用具を置いた姿勢でリュウマを振り向いた。
とても、近い位置に顔があった。
「リュウマ、やせたな」
「わかっているさ」
「死ぬなよ」
「お互いにな」
騎士セジュールの顔が近づいた。頬に、柔らかいものが触れた。セジュールの頬だとわかった。引き締まった顔をしているが、やはり男よりも肌は柔らかくきめが細かい。離れる瞬間に、濡れたものが撫で上げた。舌で舐められたのだと気づいた。
「騎士にあるまじき行いだ」
「ああ。リュウマと一緒だ」
リュウマは笑い、セジュールは笑い返した。騎士セジュールは仕えるリーゼロッテ姫の元に戻り、もはや騎士であることも疑わしい被疑者のリュウマは、テーブルの前から動かなかった。
部屋の前に居並んでいたシュネーケンの騎士たちが、部屋の中に雪崩れ込んだ。




