騎士リュウマと森の魔物 後
魔物との戦いは長い時間を要し、騎士リュウマがいる場所を中心に、森が黄色く染まっていた。魔物の体液である。リュウマが剣を振り、徐々に削った魔物の体から、赤い血ではなく黄色い体液が流れ出ていた。
魔物は頭上にいた。木の上から、糸でぶら下がりリュウマを見降ろしていた。リュウマに、黄色い体液が降り注ぐ。体液を浴びたリュウマの体に異変はかんじない。ただ、リュウマは動けなかった。足に糸が張り付き、盾が木に張り付いていた。次の攻撃が毒針になるか、あるいはクマの形状をした頭部の牙となるか、長い爪が五本ずつ生えた長い足になるかはわからない。いずれにしても、防げるとは思えない。
「セジュール!」
リュウマは叫び、答えが返された。声ではなく、空気を切り裂く風の音だった。
足元に、火矢が突きささる。足を拘束していた糸が焼き切れた。
「まだか?」
よく通る、高い声が聞こえた。
「十分だ!」
魔物が降りてきた。
すべての攻撃がほぼ同時に行われた。
牙と爪が迫り、毒針が繰り出される。すべての武器を同時に繰り出したのは、魔物の焦りだろうか。それだけ、リュウマを手ごわいと感じたのかもしれない。だが、同時に繰り出された攻撃は、鋭さを欠いた。
落下する魔物の体から突き出る毒針を剣でさばきながら、後方に跳ぶ。足元を確認している余裕はなかった。足をとられ、後方にしりもちをついた。
リュウマがいた空間を、長い腕が薙ぐ。だが、幸運は続かない。八本の脚でしっかりと地面を掴み、魔物の頭部が迫った。
火矢が飛び、糸に絡めとられていた盾が解放される。魔物の顔を盾で張り飛ばした。
魔物が唸る。太く短い鼻柱に、ファニーが飛びかかった。噛みついている。魔物がかきむしる。ファニーの体から血があふれた。ファニーは離さない。リュウマは立ち上がりざま、ファニーの体をかすめて剣をまっすぐに突きだした。つまり、ファニーの体に重なる魔物の体を貫いた。全力で突き立て、剣の柄までがめり込んだ。
体液ではなく、血がほとばしった。魔物がクマよりもクモに近いなら、この程度では致命傷にならないだろう。魔物の体を足で押し、剣を抜きとる。同時に、魔物に噛みついていたファニーの体を抱いて下がった。
リュウマの腕の中で、ファニーが身をよじる。『まだ戦える。まだ戦いたい』と主張していた。だが、魔物の爪は鋭い。リュウマはファニーを放さなかった。
魔物が糸を飛ばす。リュウマはファニーで受けた。粘着質の糸が、ファニーの全身を包む。
地面に勇敢な狼を伏せさせ、リュウマは語り掛けた。
「よくやった。少し休め。まだ出番は来る」
ファニーが喉を鳴らす。ファニーは動けない。リュウマは前に出た。
魔物の針をさらに盾で殴りつけ、横に飛んだ。
飛びながら、切り付ける。黄色い体液が飛び散る。
太い幹に肩がぶつかった。足がもつれ、膝が落ちる。いままでにはなかったことだ。疲労しているのだ。
魔物の表情が、笑っているかのように見えた。前の四本の脚を振り上げ、リュウマに迫った。リュウマは地面を蹴った。方向は前であり、魔物が足を広げた胸元である。魔物のふところに飛び込んだ。
再び剣を突きさす。魔物の動きが止まった。
「ヘンゼル!」
「うん」
声は震えていた。必死なのだ。ヘンゼルは木の上から降ってきた。木の棒にナイフを括り付けた即席の槍に、全体重を乗せている。ヘンゼルを戦力として考えてはいない。だが、使いようはある。
ヘンゼルの持つ槍が魔物の頭部に突き刺さる。ヘンゼルを魔物の針が襲った。魔物の上で、ヘンゼルは短い悲鳴を上げた。
リュウマが横に飛ぶ。唯一の武器である、剣を手放した。剣は、魔物の胸につき立ったままだった。あまりにも深く刺さり、抜き取る余裕はなかった。
「セジュール、頼む!」
リュウマはファニーを指さしながら叫んだ。横に移動したと同時に、地面を蹴る。疲労などたまってはいない。つまずいて見せたのは、魔物を誘ったのだ。魔物の上に飛び、ヘンゼルの腕を捕まえた。引き寄せる。魔物の針が目の前に突き出された。リュウマの鼻をかすめる。
針が引っ込む前に、リュウマは握った。ヘンゼルを逃がし、針を握り、渾身の力を込めて、針をへし折った。
セジュールの弓は正確にファニーを解放した。野生動物そのもののファニーは、短時間の休憩で回復していた。傷はあっても、命にかかわるほどではない。次の攻撃のための休息だ。
針をへし折ったリュウマを振り返る魔物の喉に、ファニーが飛びついた。喉笛に、狼の牙が入る。
再びファニーを傷つけようとした魔物の足を、リュウマが両腕を広げて止める。
魔物が苦しそうに雄叫びを上げた。
矢が飛来する。今度は、火矢ではない。
魔物の背に次々と矢が突き立つ。
魔物の動きが止まり、リュウマの前に、胸につき立った剣があった。強引に引き抜く。
大量の血が流れた。
「ファニー、よくやった」
狼が牙を離す。地面に落ちた。仁王立ちした魔物の首を、リュウマの剣がはねた。
魔物の首が地面に落ち、ファニーがぐったりと動かなくなる。ヘンゼルが歓声を上げた。
「まだだ」
魔物が死ぬとき、生物として生きたえるのとは違うことを、リュウマは経験上熟知していた。首をはねられたからと言って、死ぬとは限らない。頭部の形をした器官に、生物同様脳があるとはかぎらない。頭部のように見せて、ただ牙を持っているだけということもあり得る。
リュウマが呟くと同時に、ファニーが警戒体勢で低いうなりを発した。ヘンゼルは理解しなかった。できなかったのだ。喜んでリュウマに駆け寄ろうとした。リュウマが飛び、ヘンゼルを抱きかかえた。ヘンゼルが居た場所を、魔物の爪が薙ぐ。リュウマの背、鋼鉄の鎧を数本の爪が掻いた。ヘンゼルを突き飛ばし、動くなと指示をしてから、振り返る。振り返りざま、剣を振り下ろした。
魔物の腕の一本が飛んだ。クマの頭部にどれほどの機能があったのかはわからないが、まだ生きていることは間違いない。だが、以前ほど動きに鋭さはなく、駆け引きが必要な相手とは思えない。
セジュールが放った矢が三度魔物を貫く。リュウマは剣を振り回し、魔物の体を削った。魔物が脅威ではなくなったとき、万が一にも逆襲されないよう、慎重に間合いを詰めながら、魔物の体を削っていく。慣れた作業だった。
魔物の八本の脚がいずれも胴体から離れ、地面に落ちた。リュウマは最後の一撃で、胴体を二つに割った。
魔物が消滅する。切り離された足も、割られた胴体も、周囲に放った糸も、霧が晴れるかのように掻き消えた。
森は美しく輝き、地面には二つのローズリーフが並んでいた。
今後こそ、駆け寄ってきたヘンゼルをリュウマは抱きしめた。ファニーは安心したように低く喉を鳴らし、リュウマが頭部を撫でると気持ちよさそうに目を閉ざした。
セジュールが近づいてくる。リュウマは森に落ちていた二つのローズリーフを拾い上げた。剣を収めて両方の手にローズリーフをとり、一つを近づいてくる騎士セジュールに渡そうとした。
「不思議だな。このローズリーフは、必ず魔物討伐に加わった騎士の数だけ手に入る」
「そうだね。いずれ、その理由もリュウマなら解き明かせるよ」
「買い被りだよ。私にできるのは、剣を振るうだけだ」
セジュールは、薄く笑いながら差し出されたローズリーフではなく、ローズリーフを持つリュウマの手首を掴んだ。
「さすが騎士リュウマ、見事だった」
リュウマの手にローズリーフが握られ、その手首を騎士セジュールがつかみ、もう片手には、縄があった。輪を作った縄は、罪人を拘束するために使われるものだった。
「セジュール、その言葉、素直に受け取っていいのか?」
「もちろん。あの魔物を倒せる騎士がいるとは、リーゼロッテ姫(赤ずきん)さえ思っていなかったんだ」
「……では、なぜ私の手首に縄をかける?」
リュウマは、体の角度を微妙に変え、ヘンゼルに背中を向けた。ファニーの手当をするよう声をかけると、ヘンゼルは元気よく引き受けてくれた。
「リーゼロッテ姫のご命令だ」
「一つだけ聴く。私は罪を犯したのか?」
リュウマは声を落した。セジュールの顔が近くにあった。毒がすっかり抜けきっているわけではないだろう。体力も落ちている。顔色は悪い。それでも、矢の腕前は素晴らしかった。セジュールもリュウマの意図を察したのだろう。腕を曲げ、リュウマに体を近づけた。ローズリーフを持ち、縄をかけられたリュウマの手は、二人の体に押しつぶされるように挟まれた。
「違う」
「ならば頼む。抵抗はしない。その代わり、私が縛られた姿を、ヘンゼルとグレーテルには見せないでくれ」
「そうだね。子供に見せるものじゃない。でも、リュウマ、『なぜ?』とは聞かないのかい?」
「セジュールのことは信頼している」
リュウマはそれ以上言わなかった。セジュールが唇を噛んだ。リュウマはセジュールの命を助け、セジュールの治療をし、セジュールの代わりに魔物を倒し、セジュールにローズリーフを差し出し、セジュールに縄をかけられた。それでも恨みもせずに『信頼している』と言われて、何も感じないほど無神経ではない。リュウマは、セジュールのいたたまれない表情をわずかでも覗けたことに、セジュールはまだ敵ではないと思えた。
「ヘンゼル、ファニーをお菓子の家に連れていこう。グレーテルが心配して待っているはずだ」
「うん。でも、ファニー大丈夫かな。動かさないほうがいいんじゃない?」
「消毒と止血だけすれば、あとは自分で直せるだろう。傷口は洗ったほうがいい。動かせないなら、私が運ぶ」
ヘンゼルが場所を譲り、リュウマはファニーを抱き上げた。ファニーがリュウマの顔を舐める。狼としては、人間に対する最大の賛辞である。
「でも、リュウマはどうして手首に縄を巻いているの?」
リュウマはセジュールを見た。セジュールはまだ気まずそうにしていた。リュウマの手首にかけた縄の先を持っていた。セジュールは本来リュウマよりも器用に立ち回り、機転も利く。だが、今のセジュールに気の利いた返事を期待することは難しい。リュウマはヘンゼルに言った。
「森で迷うといけないからね。セジュールに先導してもらうためだよ。セジュール、頼むぞ」
「あっ……ああ。任せておけ」
セジュールが背を向ける。リュウマはセジュールに渡せないまま、ローズリーフは二つとも荷物入れにしまいこみ、傷ついたファニーを抱え直した。
お菓子の家に戻ると、グレーテルが泣きながら飛び出してきた。動揺するセジュールをしり目に、グレーテルはリュウマに抱き付いた。