教室に花爆弾(後編)
空気には重さがある。
それは科学的な事象ではなく、人の感情が作り出す重さだ。
その日、朝から教室には、重たい、どこか熱気を孕んだ空気が漂っていた。
事件から一日。
杉原綾子が教室に来て、どんな行動をするか。
みんなの注目がこの空気を作りだしていた。
楠野梨紗はそんな中、教室に飾る花の準備をしていた。
用意した花は懲りずに、赤いガーベラ。
梨紗の好きな花であった。
花瓶は、昨日顧問に言って、余っていた花瓶をもらった。
本来なら担任に言うべきなのだろうが、割れた経緯が経緯である。
ごまかすにしても、なんにしても、梨紗が関与すべきことではない、と思う。
どうせ、あのぼんやりとした担任は、花瓶が変わっていることには気づかないだろう。
いや、花が活けられていることすら気づいていないかもしれない。
梨紗が関与すべきことはただ一つ。
教室を彩る花を選び、管理する事。
それだけだ。
ガーベラを活けた花瓶を持って教室に入ると、たくさんの視線が梨紗に集まった。
普段、注目されることなど無い梨紗は、思わず硬直した。視線を浴びて鳥肌がたった。
冷や水を浴びせられたような、感覚。
人の視線も、重いのだ。纏わりつくように、刺すように。
「梨紗ちゃん、その花……」
クラスメイトの、小林雅美が困惑したように尋ねてくる。
やっぱり、この花を今日も選んだことは失敗だったのだろうか?
未だに、クラスメイトの視線は集まっているし、コソコソ何かを話している集団もいる。
恥ずかしい。
怖い。
「えっと、その…」
上手く誤魔化せたらいいのに、口下手な梨紗は言葉に詰まった。
じりじりと、肌が焼けるような感覚に、身動きが取れない。
目線を合わせることもできず、俯いた。
ほんの数秒、だったろうか。梨紗にはもっと長い時間に感じられたが、集まっていた視線が
ぱっと離れた。軽くなった空気に驚いて、顔をあげると、まさに注目の人物―杉原綾子が教室に入ってくるところだった。
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赤い花が目に入った瞬間、雅美は胸をぐっ、と掴まれたような感覚に陥った。
昨日の出来事が鮮明に蘇る。
割れた花瓶。梨紗の持っている花瓶は、そう言えば昨日のとは違う。当たり前だ。
今日も、昨日と同じ花を活けている梨紗。
梨紗にとって、昨日の出来事はなんでもなかったのだろうか?
思わず、疑問が零れた。
「梨紗ちゃん、その花……」
教室全体の視線が梨紗に集まっている。
学生の、教室の空気とは、目に見えない生き物だ。
一定の方向性を持って集約するエネルギーの塊。
その熱気に押されて、梨紗が口ごもっているのがわかった。
教室全体に膨らんで、肌を刺す、クラスメイトの好奇心。
これだって爆弾だ。空気は弾けるのを待っている。
雅美だって、注目されるのには慣れていない。
緊張に体をこわばらせ、周囲を見ることなんてできない。
穴があきそうなくらい、梨紗の顔を見つめている。
俯く梨紗の苦しそうな表情。
絡みつく視線。
重い空気が雅美を押しつぶすように―――
そして、
爆弾は弾けた。
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教室に入ると、覚悟はしていたが変な空気が流れていた。
一瞬、たくさんの視線を感じ、そしてその視線たちは一斉にわたしを見ないふりした。
不愉快。
何人か、わたしが手に持っているものに気づいたのか、またチラチラ、こちらを見だした。
わたしは、気にしないふりをして自分の席に着く。そして、楠野さんの姿を探す。
―――いた。
なぜか、楠野さんは花瓶を持ったまま、固まっていた。
花瓶、予備があったのだ、とほっとする。
花瓶には花が差してあって、それは、昨日と同じ赤いガーベラ。
ちょうどよかった。
わたしは、席を立って楠野さんに声をかける。
「楠野さん、あの、昨日はごめんなさい。あなたが活けてた花、だめにしちゃって」
「えっ…あの、その…」
「お詫びに、今日のお花を持ってきたけど…これも、一緒に活けてくれるかな」
硬直している楠野さんに、わたしは持ってきた花を差し出す。
昨夜、木戸さんが持ってきた花束から、数輪とってきたガーベラだ。
色は黄色。ちょっと大きめのタンポポみたいで、可愛い。
楠野さんは、一瞬目を見開いて、驚いていたが、すぐに花を受け取ってくれた。
その様子がとても一生懸命で、可愛らしくて、
わたしは学校では久しぶりに、心から笑った。
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梨紗と綾子は、花を活け直すために教室を出た。
二人がドアを閉めた瞬間、教室の中は一気に安堵感が漏れ出ていた。
綾子が昨日花瓶を割ったことを、気に病んでいるのは意外だった。
そしてあの、柔らかな笑み。
梨紗への謝罪で、綾子の評価は上がっていた。
案外、いい子なのかも、と口々に言う。
思っていたより、怖い子ではないのかも、と。
雅美は―――
(ガーベラの花ことばは、赤は神秘で、黄は親しみやすい、かぁ)
綾子の意外な人柄が、嬉しいような、悲しいような自分がいる。
今日も、昨日のようなクールさで、周囲に接していて欲しかったという気持ち。
それは、自分が出来ないことへの、綾子への期待であった。
さっきの一瞬。
感じた周囲の視線に、緊張し、怯えた自分。
でも、その視線の持ち主は簡単に自分に成りうる、という自覚。
破裂しそうな爆弾におびえながら、破裂することを望む愚かさ。
それでも。
何度も繰り返してしまう。
まだ、事件の当事者同士は対面していないのだ。
雅美はまた、好奇心で膨れ上がる周囲の空気に、自分の好奇心も同化していくのを感じていた。