第6話 雨の薬草園で、私の手はだれの手だったか
その日の夕方、教場に戻ったフェリツァの席に、フェリツァはいなかった。
席にいなかった、というだけなら、私は驚かなかった。フェリツァは、教場のどこかの柱の影や、窓辺の床の上や、机の下に座り込んでいることが、四日のうちにすでに何度かあったから。
いなかったのは、教場の中ではなく、王宮の東棟の中だった。
「ヘルガさん、フェリツァさんを、見ていません?」
「あの、お昼の前から、見ていません」
「ティルダさん」
「私も」
「ミンナさん」
「先生、フェリツァのこと、あの子、お部屋の窓から、外に出るのを、私、見ました」
「外に」
「教場の窓ではなく、自分のお部屋の窓です。北棟の、二階の」
ミンナは、知っていることを言う時、いつも、口の端を斜めに曲げる癖がある。けれどその時のミンナは、口の端を曲げなかった。曲げる余裕が、なかったのだ。
「東棟の、どちらの方向に」
「東です。東棟の、東。そっちには、庭しか」
「庭」
「お薬草の、庭です」
私は、自分の親指の付け根に、力が入るのを、自分で先回りして感じた。先回りして感じる、という動きが、私の身体に起きたのは、今日が初めてだった。
教場の窓のガラスは、もう、白く曇るのではなく、雨の水滴を、外側から流していた。
◇◇◇
東棟の東の薬草園は、王宮の中で、いちばん古い庭だ。
古い、というのは、植えられてからの年数のことではなく、世話をする人の代替わりの回数のことだ。代替わりが多い庭は、植物のほうが、そこにいる人間より、ずっと前から、その庭の名前を覚えている。
私は、傘も持たずに、薬草園の、大きな樫の木のあたりまで走った。
走ったのは、私の本来の歩き方ではない。歩き方を、十年前にグンネル先生に直されて以来、私は教場でも、廊下でも、走るということをしてこなかった。走った時の、自分の襟元の刺繍の擦れる音を、私は、走りながら、初めて聴いていた。
樫の木の下に、フェリツァはいた。
立ってもいなかった。座ってもいなかった。ぺたりと地面に膝をついて、両手で、自分の周りに生えている、名のない草の葉を、ひとつずつ、ゆっくりと撫でていた。
雨が、フェリツァの髪の上で、薄い金色の網のように、揺れていた。
「フェリツァさん」
私の声に、フェリツァは、振り向かなかった。振り向かない代わりに、自分が今撫でていた葉のうちの一枚を、ゆっくりと、指のあいだに挟んで持ち上げた。
「シグリ先生」
「はい」
「私は、お妃様には、なれません」
私は、樫の木の下まで、歩いた。歩く一歩ごとに、私の靴の中に、雨の冷たさが、ゆっくりと滲んでいった。
「フェリツァさん」
「あの」
「あなたは、お妃様になるために、ここにいると、言われましたか」
「言われました。十二の時から、お父様に」
「十二」
「お父様は、私が、植物の名前ばかり覚えるのを、ひどく嫌われました。だから、植物の名を覚えるのと同じだけの数、貴族のお作法を覚えなさい、と」
フェリツァが、葉を一枚、自分のひざの上に、置いた。置き方が、どこかの祭壇に何かを供える時の、置き方だった。
「シグリ先生は、私が、ここに、いてもよいのですかと、お訊きしました」
「ええ」
「先生は、いてくださってよい、とおっしゃいました」
「ええ」
「でも、それは、お妃様になるために、ここにいてよい、という意味ですか」
私は、答えなかった。答えなかったというより、私の答えが、私自身の足りていなさだった、ということを、その時、ようやく自分の身体で知った。
私は、樫の木の下に、フェリツァの隣に、膝をついた。
膝をついた地面は、雨で、冷たかった。冷たい、というより、薬草の根の、土のにおいが、立ち上ってきた。
「フェリツァさん」
「はい」
「私は、あなた方を妃に育てるために、ここにいるのではありません」
フェリツァが、私のほうを、初めて見た。
「あなた方が、自分の名前を呼ばれた時に、一拍で返事ができるようになるために、ここにいるのです」
私は、フェリツァのひざの上の、葉のひとつに、自分の指を、そっと添えた。
「あなたの名前は、フェリツァです。妃候補という名前ではなく、フェリツァ、という名前です」
フェリツァの肩の、後頭部の付け根のあたりが、ふっと、雨の重さで、低くなった。
そして、フェリツァは、雨の中で、初めて、私の腕のなかに、自分の身体を、預けてきた。
預けてきた、というより、倒れてきた、というほうが正しかった。十五歳の身体は、思っていたより、軽かった。軽かったのは、フェリツァが、十二の時から、ずっと、自分の身体の重さを、自分で持ち上げ続けてきたからだった。
「シグリ先生の手は」
フェリツァが、私の腕のなかで、小さく言った。
「ハシェルの薬草園の、母様の手と、同じ匂いがします」
「ハシェル」
「お母様は、ハシェル侯爵家の、薬師の血筋の人でした。私が三つの時に、亡くなりました」
私の鼻の奥が、つんとした。
つんとした。それで、何かが、私のなかで、ずれた。
ずれたのは、ずっとまっすぐに立てておいたつもりの、何かの板のようなもので、その板の名前を、私は今までずっと「教育係」と呼んでいた。
教育係。教育係が、十五の子の、雨の中の身体を、抱きしめている。教育係が。違う。
違う。
ふざけるな。
ふざけるな、私。
「私は」
「先生」
「フェリツァさん。私の手は」
私の手は、誰の手だ。
シグリ・ヴァトの手か。違う。シグリ・ヴァトは、姉の影でいい、と父に言われ続けて、自分の名前を呼ばれても一拍遅れる、あの令嬢の手だ。それはこの手じゃない。この手は、もっと。
教育係の手か。違う。教育係は、四人を均等に、妃に育てる手だ。それなのに、私は今、四人のうちの一人だけを、雨の中で、抱きしめている。均等じゃない。私は、ぜんぶ、間違えた。
ぜんぶ。
ぜんぶ、間違え。いや。違う。
間違えていたのは、半年で四人を妃に仕上げる、という前提のほうだ。前提のほうが。前提のほうが、私の手の所属を、決められなかった。
「フェリツァさん」
「はい」
「私の手は、いま、誰の手でもない手です」
「はい」
「誰の手でもない手で、あなたを、抱いてもよいですか」
フェリツァは、答えなかった。答えない代わりに、私の腕のなかで、自分の頭の重さを、ぜんぶ、こちらに預け直した。預け直した重さは、十五歳ではなく、もっと小さい子の重さだった。
私の鼻の奥のつんとした水気が、まぶたの内側まで、ゆっくりと上がってきた。
上がってきた水気を、私は、止めなかった。止めなかったというより、止め方を、もう、思い出せなかった。
雨が、私の襟元の銀木犀の刺繍を、ゆっくりと濡らしていった。母の針目の、ほんの少し斜めの一か所が、雨に濡れて、いつもより少しだけ、はっきりと見えた。




