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『王太子妃候補のお嬢様方を、四人まとめて預かっております』  作者: 秋月 もみじ


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第5話 舞踏の教本の余白に、別の人の筆跡


雨の予感のする朝に、私は古い舞踏の教本を、教場の机の上に置いた。


雨の予感、というのは、空のことではなく、教場の窓のガラスのにごり方のことだ。窓のガラスは、辺境のガラス職人の手仕事で、湿気を吸うとほんの少しだけ白く曇る癖がある。その曇り方を、私はグンネル先生に習った。十年前に習ったことが、十年経って、まだ私の朝の指針になっている。


「今朝は、舞踏の教本の、最初の一頁だけを、見ていただきます」


ティルダが、教本をすぐに開いた。

ヘルガが、表紙の革のにおいを、無意識にひとつ嗅いだ。

ミンナが、机に肘を、もう片方の手で押し戻していた。

フェリツァは、机の下で、葉のかわりに小さな石をいじっていた。


「この教本の余白に、別の人の筆跡が、書き込まれています」


私は、最初の一頁の右下を、指でさした。羽根ペンの細い線で、走り書きがあった。書いたのは、四十年か五十年前の人だ。インクの茶色の沈み方が、四十年か五十年の沈み方をしていた。


「『右の足の小指のつけ根、外側に体重をのせる時は、左の肩甲骨の間で、いったん息を止めること』」


四人の少女が、四つの方向から、同時に教本のほうへ顔を傾けた。


「これは、舞踏の教師ではなく、踊った人自身が書いた書き込みです。教本は教える人が書きますが、書き込みは、教わる人が、自分の身体に刻んでいくものです」


「先生、それは、どなたの書き込みなのですか」


ミンナだった。


「グンネル先生、と書いてあります。あなた方の礼法の先生の、名前です」


教場の中が、半秒、止まった。


ティルダが、教本の右下の、その小さな名前を、指の腹で一度だけなぞった。なぞる時の指の使い方が、お母様にお誂え直しの靴を求めると約束した夜から、少しだけ変わっていた。

 

 

 

 

◇◇◇


レッスンの途中で、ミンナが、教本から目を離した。


「先生」


「はい」


「先生のお家でも、舞踏のお稽古、していらっしゃいましたか」


「もちろん」


「お父様とは、お踊りに、なりましたか」


私の指が、教本の頁の角を、無意識のうちに、三角に折っていた。気がついて、急いで、その三角を、ゆっくりと戻した。


「父とは、踊りませんでした」


「あら」


「父は、私を、姉の影でいい、と考えていた人でしたから」


それを声に出してしまったあと、私は、自分の声に、自分で少し驚いた。驚いたというより、その言葉を、十年も置きっぱなしにしていた場所を、急に明け渡してしまったことに、驚いた。


ミンナが、口の角を、いつもと違う方向に動かした。


「先生」


「はい」


「うちの父も、似たようなことを、よく言いました」


「そうですか」


「うちの父は、姉ではなく、家のお金のことばかりを、私に言いました。お前は、お金のことを、私の代わりに、覚えておけ、と」


ミンナが、紙片を、机の下に隠していた癖の理由が、いま、教場の中で、ひとつほどけた。私は、ほどけたものを、急いで結び直さなかった。結び直さないことが、ミンナのために、いま、私ができる唯一の礼法だった。

 

 

 

 

◇◇◇


午前のレッスンが終わって、皆が昼の支度に立ったあと、教場に残っていたのは、フェリツァだった。


フェリツァは、教本を開いていなかった。教本の上に、自分の小さな手のひらを、ただ置いていた。


「フェリツァさん」


「はい」


「舞踏は、お好きですか」


「分かりません」


「分からない、というのは」


「踊ったことが、ないからです」


「お家の舞踏会では」


「私は、舞踏会の、外の庭に、いつも、いました」


私は、教本の頁を一度閉じて、その上に、自分の手を、フェリツァの手の隣に並べて置いた。並べると、十五歳の手と、二十歳の手の、爪の形の違いが、はっきりと分かった。フェリツァの爪は、子供の爪というより、植物の根に似ていた。


「フェリツァさん。あなたの好きな場所は、舞踏会ではなく、その外の庭ですね」


「はい」


「外の庭にいたことを、私は、悪いことだとは、思っていません」


フェリツァは、答えなかった。答えなかったけれど、自分の手を、私の手の隣から、動かさなかった。動かさないことが、答えだった。


教場の窓のガラスが、白い曇りをひとつ、さらに濃くした。雨の予感が、もう半刻のうちに、本物の雨になる。


「先生」


フェリツァが、突然、口を開いた。


「私は、ここに、いてもよいのでしょうか」


私は、その問いの本当の意味を、その時にはまだ、つかめていなかった。


「いてくださって、よいのです」


私の答えは、たぶん、フェリツァが本当に欲しかった答えよりも、半歩ぶん、足りていなかった。


足りていなかったことを、私は、その日の夕方になって、ようやく知ることになる。

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