第4話 言葉のない名前を、ひとつだけ知っている
殿下が置いていかれた茶葉の包みを、私は教場の小卓の上に、二日のあいだ、開けないでおいた。
開けないでいたのは、開ける口実を、まだ見つけていなかったからだ。口実を見つける、というのは、私にはとても大事なことで、私は十年前から、自分の感情に口実を貸す癖がある。
四日目の朝、私はその癖を、初めて自分で笑った。
「先生、あの包み、いつ開けるんですか」
ミンナだった。教場の入口を通るたびに、その紙の包みのほうを、目の端で確認していた。
「お茶のお時間に、皆で開けましょう」
「お時間って、それ、いつ」
「四つ目のレッスンが、終わったあとに」
「四つ目って、語学ですよね」
「ええ」
ミンナは、肩を、ほんのわずか落とした。落とし方が、ミンナにしては珍しく、隠さない落とし方だった。
「ヘルガは、また、泣きますよ」
「泣くのは、悪いことではありません」
「悪いことではないって、先生は、お分かりでないのです。ヘルガは、泣かないように、もう、すごく、頑張っているんです」
ミンナの言い方は、ミンナがヘルガのことを四日のうちに見続けてきた言い方だった。私は、自分が見落としていた何かを、ミンナの言葉のあいだに、たしかに置き忘れていた気がした。
◇◇◇
語学のレッスンは、教場の真ん中の大きな机を四人で囲む形で行う。私が用意したのは、三冊の薄い本で、それぞれ、北方フェルナ語、南方アスティ語、東方ヴラド語の、子供向けの詩集だった。
「あなた方が将来、自分の家から離れた国の方とお会いする時、その方の母国語で、たった一行だけ詩を口にできれば、それは武器ではなく、贈り物になります」
ティルダが、すぐに頷いた。
ミンナも、頷いた。
フェリツァは、机の下で、何かの葉をいじっていた。
ヘルガは、本の表紙を、両手で、机の上に押さえつけていた。押さえつけ方が、紙を破かないように、押さえていた。
「ヘルガさん」
「は、はい」
「無理をしなくてよいのです」
「無理は、していません」
ヘルガの声が、二度目に「無理」と言った時、その声の輪郭が、ぐらりと斜めに揺れた。
「私は、辺境の、家の三女で、家庭教師は、母でした」
「ええ」
「母は、お針と、お薬と、家畜の数え方しか、私に教えてくれませんでした」
「立派な教えです」
「でも、ここでは、それでは、足りません」
ヘルガの両手が、本の表紙の上で、固くなった。固くなった指の節が、指の節というより、握りしめた小石のように見えた。
私は、自分の椅子から立ち上がって、ヘルガの隣の椅子に移った。移って、ヘルガの指の上に、自分の指を、上から重ねた。重ねたのは、慰めるためというより、固くなった石が、これ以上固くならないようにするためだった。
「ヘルガさん」
「はい」
「南方アスティ語の、子供のおまじないを、ひとつだけ、知っていますか」
「いいえ」
「ハシェルの礼拝堂の裏に、フェリツァさんが見つけたあの植物の、本当の名前です」
ヘルガが、目を見開いた。
私は、机の向かいに座っているフェリツァのほうを、振り向いた。
◇◇◇
「フェリツァさん。あの植物の、アスティ語の名を、覚えていますか」
「ノ・ウェル・カ」
フェリツァは、机の上に、葉を一枚置いた。一枚の葉の、葉脈が、教場の窓のひかりで、たしかに南方の植物の葉脈だった。
「ノ・ウェル・カ。意味は、声のない名前」
「声の、ない、名前」
ヘルガが、繰り返した。繰り返す時の口の動きが、辺境の三女の口で、初めて辿る音の動きだった。
「南方の人々は、名づけられない植物を『声のない名前』と呼びます。名前がないのではなくて、声に出して呼ばないだけ、という意味です」
ヘルガの両手の上の、私の指に、ヘルガの指の力が、ふっとほどけた。
「私の母も、辺境で、薬草に名前をつけていました」
「ええ」
「名前をつけて、誰にも呼ばせないで、自分だけで呼んでいました」
ヘルガが、それを言ったあと、彼女の鼻の奥から、小さな水気が漏れた。漏れた水気は、頬まで降りずに、襟元の刺繍のあたりで、止まった。止まったのは、ヘルガが、止めたからだ。
止めなくてもよかったのに、と、私は思った。けれど私は、それを声に出さなかった。声に出さないことが、ノ・ウェル・カの名づけ方だと、いま、ヘルガにだけ伝わっていた。
「先生」
ティルダが、向かいの席から、静かに声をかけた。
「私も、その名前を、覚えてもよろしいでしょうか」
「もちろんです」
「ノ・ウェル・カ」
ティルダの口の動きが、磁器の人形ではなくなった瞬間を、私は、一生覚えていることになる。
◇◇◇
四つ目のレッスンが終わったあと、私は、殿下が置いていった紙の包みを、ようやく開けた。
中身は、白い茶葉だった。北方の山地でしか採れない、薄いひかりのような茶葉で、淹れると、湯のなかに、きわめて控えめな金の色が出るものだった。
「先生、これ、すごく高価なものですよ」
「そのようですね」
「殿下、ご自分で選ばれたのでしょうか」
「ご自分で結ばれた包みでしたから、たぶん」
ミンナが、にやり、と笑った。にやりと笑うミンナの口の角が、教場で初めて、誰のことも傷つけない笑い方をしていた。
私は、その茶葉を、四人の前にひとつずつ淹れた。淹れながら、自分の親指の付け根に、知らないうちに、力が入っているのに気がついた。力の入る場所が、自分でも初めての場所だった。




