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『王太子妃候補のお嬢様方を、四人まとめて預かっております』  作者: 秋月 もみじ


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3/10

第3話 靴の左、内側だけ擦れていますね


朝の礼法のレッスンが始まって三日目に、私はティルダの歩き方の異変に気がついた。


気がついた、というのは正確ではない。三日目の朝、ティルダが教場の入口から自分の席まで歩く十二歩のうちの、四歩目と九歩目に、半拍ずつ呼吸が浅くなっていることを、私は無意識に数えてしまっていた。それを「気がついた」と呼ぶなら、私は二日目の夕方には気がついていた。


「ティルダさん」


「はい、シグリ先生」


「お席の前で、立ち止まってください」


ティルダが立ち止まった。背筋は変わらず、定規のようだった。


「靴を、お脱ぎください」


教場の四人の視線が、一斉にティルダの足元に集まった。集まった視線の重さに、ティルダの襟元のあたりが、ほんの一段、強張った。


「先生、それは」


「お脱ぎください」


私の声は、自分でも思っていたより低かった。低かったというより、急がなかった。グンネル先生が私の手の甲を叩いた時の、あの叩き方の声だった。


ティルダは、磁器の人形のような正確さで腰を折って、自分の靴の留め金を、ひとつずつ外した。


私は、その靴を受け取って、机の上ではなく、自分の膝の上に乗せた。膝の上で、左の靴を裏返した。


「靴の左、内側だけ擦れていますね。歩き方の癖ではなく、合っていない靴です」


ティルダは、何も答えなかった。


「いつから、こうなのですか」


「半月、ほどです」


「半月。新しいお靴ですね」


「お母様が、王宮用にお誂えになって」


「お母様にお伝えしてはおられない」


ティルダは、目を伏せた。伏せた目の睫毛が、ふだんよりも一本一本長く見えた。


「私が告げては、お母様に、申し訳が立ちません」


「ティルダさん」


私は靴を膝に置いたまま、その留め金の真鍮の縁を、親指の腹で一度なぞった。


「靴擦れを我慢できる人は、立派です。でも、立派さを、自分で自分に課す必要はありません」

 

 

 

 

◇◇◇


ヘルガが、湯と布を持ってきてくれた。


「あの、私が」


「ありがとう、ヘルガさん。やり方を、見ていてくださいね」


私はティルダを教場の奥の長椅子に座らせて、靴下をそっと脱がせた。左の足の小指の付け根の、内側の、ちょうど骨が出るあたりに、薄い皮膚の傷があった。傷の周りが、淡く色を変えていた。


ミンナが、隣で「あら」と小さく言った。フェリツァは、いつのまにか柱の影から出てきて、私の手元を、覗き込んでいた。


「フェリツァさん。さっきの、ハシェルの礼拝堂の裏の植物、まだお持ちですか」


「あります」


「擦り潰して、湯に少しだけ入れてください」


「あの、毒は、ありません」


「知っています。あなたが選んだ植物に、毒はないと、私は思っています」


フェリツァが、教場の奥の、自分の小さな道具箱のほうへ駆けていった。駆ける足音が、三日目にして初めて、教場の床に響いた。


私はティルダの足を、湯につけた布で、ゆっくりと拭いた。


「シグリ先生」


「はい」


「先生は、礼法の先生では、ないのですか」


「礼法の先生でもあります。でも、礼法というのは、お辞儀の角度のことだけではありません」


ティルダが、自分の足を見ていた。私の手も、ティルダの足も、見ていた。


「お母様に、お伝えします」


「はい」


「それと、お母様には、あの、申し訳を、立てなくてもいいということも」


私は答えなかった。答える代わりに、ティルダの足の甲を、もう一度だけ布で拭いた。

 

 

 

 

◇◇◇


教場の扉が、外から、控えめに叩かれた。


控えめに、というのは、誰かの拳の節が二度、扉の樫の板に当たった音のことで、その音の重さから、私はその誰かの背丈と肩幅を、たぶん、無意識に計算していた。計算した結果、私は答える前に、もう立ち上がろうとしていた。


「お入りください」


入ってきたのは、フードを目深に被った、長身の、若い男だった。


「失礼する」


その声を、私は知らなかった。知らないはずの声だったのに、教場の四人のうち三人が、椅子から立ち上がるよりも先に、息を呑んだ。


「殿下」


最初に名を出したのは、ティルダだった。靴下のままの足で、立ち上がろうとした。


「座っていてくれ。靴を」


殿下は、フードを軽くおろした。栗色の髪が、午前のひかりで、半分だけ赤く見えた。


「その、ちょうど、君たちのところに、茶葉を、と」


殿下は、片手に、小さな紙の包みを持っていた。包みの結び方が、殿下自身が結んだ結び方だった。侍従が結んだなら、もっと正確だったはずだ。


「シグリ嬢」


殿下が、私の名を呼んだ。


私の名前を呼ばれて、私の反応は、いつものとおり、一拍だけ遅れた。


「はい、殿下」


「邪魔を、した」


「いえ。お入りください」


殿下は、入らなかった。入る代わりに、紙の包みを、教場の入口のすぐ脇の小卓の上に置いた。置いて、それから、ティルダの足元の湯桶を、ほんの一瞬だけ見た。見たことを、私は、見ていた。


「では」


殿下が、出ていこうとした。出ていく前に、もう一度だけ、教場の中を振り向いた。振り向いた先は、四人の候補ではなく、私の手のあたりだった。


私の手は、ティルダの足の甲を拭いていた布を、まだ握っていた。


「次は、もう少し、別の茶葉を、持ってこよう」


それだけ言って、殿下は出ていった。


教場の扉が閉まったあと、ミンナが、たぶん教場で一番大きな声で、こう言った。


「先生、いまの、ご覧になりました? 殿下、先生のお手元しか、見ておられませんでしたよ」


私は、答える代わりに、ティルダの足の甲に、もう一度だけ、湯の布をあてた。

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