第3話 靴の左、内側だけ擦れていますね
朝の礼法のレッスンが始まって三日目に、私はティルダの歩き方の異変に気がついた。
気がついた、というのは正確ではない。三日目の朝、ティルダが教場の入口から自分の席まで歩く十二歩のうちの、四歩目と九歩目に、半拍ずつ呼吸が浅くなっていることを、私は無意識に数えてしまっていた。それを「気がついた」と呼ぶなら、私は二日目の夕方には気がついていた。
「ティルダさん」
「はい、シグリ先生」
「お席の前で、立ち止まってください」
ティルダが立ち止まった。背筋は変わらず、定規のようだった。
「靴を、お脱ぎください」
教場の四人の視線が、一斉にティルダの足元に集まった。集まった視線の重さに、ティルダの襟元のあたりが、ほんの一段、強張った。
「先生、それは」
「お脱ぎください」
私の声は、自分でも思っていたより低かった。低かったというより、急がなかった。グンネル先生が私の手の甲を叩いた時の、あの叩き方の声だった。
ティルダは、磁器の人形のような正確さで腰を折って、自分の靴の留め金を、ひとつずつ外した。
私は、その靴を受け取って、机の上ではなく、自分の膝の上に乗せた。膝の上で、左の靴を裏返した。
「靴の左、内側だけ擦れていますね。歩き方の癖ではなく、合っていない靴です」
ティルダは、何も答えなかった。
「いつから、こうなのですか」
「半月、ほどです」
「半月。新しいお靴ですね」
「お母様が、王宮用にお誂えになって」
「お母様にお伝えしてはおられない」
ティルダは、目を伏せた。伏せた目の睫毛が、ふだんよりも一本一本長く見えた。
「私が告げては、お母様に、申し訳が立ちません」
「ティルダさん」
私は靴を膝に置いたまま、その留め金の真鍮の縁を、親指の腹で一度なぞった。
「靴擦れを我慢できる人は、立派です。でも、立派さを、自分で自分に課す必要はありません」
◇◇◇
ヘルガが、湯と布を持ってきてくれた。
「あの、私が」
「ありがとう、ヘルガさん。やり方を、見ていてくださいね」
私はティルダを教場の奥の長椅子に座らせて、靴下をそっと脱がせた。左の足の小指の付け根の、内側の、ちょうど骨が出るあたりに、薄い皮膚の傷があった。傷の周りが、淡く色を変えていた。
ミンナが、隣で「あら」と小さく言った。フェリツァは、いつのまにか柱の影から出てきて、私の手元を、覗き込んでいた。
「フェリツァさん。さっきの、ハシェルの礼拝堂の裏の植物、まだお持ちですか」
「あります」
「擦り潰して、湯に少しだけ入れてください」
「あの、毒は、ありません」
「知っています。あなたが選んだ植物に、毒はないと、私は思っています」
フェリツァが、教場の奥の、自分の小さな道具箱のほうへ駆けていった。駆ける足音が、三日目にして初めて、教場の床に響いた。
私はティルダの足を、湯につけた布で、ゆっくりと拭いた。
「シグリ先生」
「はい」
「先生は、礼法の先生では、ないのですか」
「礼法の先生でもあります。でも、礼法というのは、お辞儀の角度のことだけではありません」
ティルダが、自分の足を見ていた。私の手も、ティルダの足も、見ていた。
「お母様に、お伝えします」
「はい」
「それと、お母様には、あの、申し訳を、立てなくてもいいということも」
私は答えなかった。答える代わりに、ティルダの足の甲を、もう一度だけ布で拭いた。
◇◇◇
教場の扉が、外から、控えめに叩かれた。
控えめに、というのは、誰かの拳の節が二度、扉の樫の板に当たった音のことで、その音の重さから、私はその誰かの背丈と肩幅を、たぶん、無意識に計算していた。計算した結果、私は答える前に、もう立ち上がろうとしていた。
「お入りください」
入ってきたのは、フードを目深に被った、長身の、若い男だった。
「失礼する」
その声を、私は知らなかった。知らないはずの声だったのに、教場の四人のうち三人が、椅子から立ち上がるよりも先に、息を呑んだ。
「殿下」
最初に名を出したのは、ティルダだった。靴下のままの足で、立ち上がろうとした。
「座っていてくれ。靴を」
殿下は、フードを軽くおろした。栗色の髪が、午前のひかりで、半分だけ赤く見えた。
「その、ちょうど、君たちのところに、茶葉を、と」
殿下は、片手に、小さな紙の包みを持っていた。包みの結び方が、殿下自身が結んだ結び方だった。侍従が結んだなら、もっと正確だったはずだ。
「シグリ嬢」
殿下が、私の名を呼んだ。
私の名前を呼ばれて、私の反応は、いつものとおり、一拍だけ遅れた。
「はい、殿下」
「邪魔を、した」
「いえ。お入りください」
殿下は、入らなかった。入る代わりに、紙の包みを、教場の入口のすぐ脇の小卓の上に置いた。置いて、それから、ティルダの足元の湯桶を、ほんの一瞬だけ見た。見たことを、私は、見ていた。
「では」
殿下が、出ていこうとした。出ていく前に、もう一度だけ、教場の中を振り向いた。振り向いた先は、四人の候補ではなく、私の手のあたりだった。
私の手は、ティルダの足の甲を拭いていた布を、まだ握っていた。
「次は、もう少し、別の茶葉を、持ってこよう」
それだけ言って、殿下は出ていった。
教場の扉が閉まったあと、ミンナが、たぶん教場で一番大きな声で、こう言った。
「先生、いまの、ご覧になりました? 殿下、先生のお手元しか、見ておられませんでしたよ」
私は、答える代わりに、ティルダの足の甲に、もう一度だけ、湯の布をあてた。




