第2話 四つの音が、四つの方向から鳴っている
樫の扉を押し開けた瞬間、室内の四つの音が一斉に止まった。
止まったのは音だけではなくて、四人の少女の呼吸の途中の半拍だった。
私は扉のそばに立ったまま、教場の中を、家紋の順番ではなく、目に入った順番で見渡した。そういうふうに見渡したのは意図ではなく、私の癖だった。
窓際の椅子に座っていたのが、ノルドルム公爵家のティルダだ。背筋が定規のようにまっすぐで、膝の上の手の指が、行儀よく重ねられていた。指の重ね方が、あまりに正確だったので、私は一瞬、磁器の人形を見ているような気がした。
その隣、机の角を両手で抱きしめるように座っていたのが、ハシェル侯爵家のヘルガ。辺境の領地から出てきたばかりだと、廊下で先生から聞いていた。爪のあたりが、薪を扱う仕事をしてきた人の爪だった。爪を見て出自を知る、というのも、私の悪い癖のひとつだ。
教場の中央の机の上に肘をついて、何かの紙片をぱらぱらと弄んでいたのが、スコゲン伯爵家のミンナだった。私が扉を開けた瞬間、その紙片を背中の後ろに隠した。隠し方が、隠し慣れていた。
そして、教場の一番奥、窓と窓の間の柱の影に、椅子ではなく床の上に直接ぺたりと座り込んでいたのが、ヴェルクハイム子爵家のフェリツァだ。膝の上に、葉のついた小さな枝を載せていた。枝は、教場のどこにも生えていない種類の植物だった。
四人。四つの座り方。四つの呼吸。
私は、自分が用意してきた挨拶の言葉を、口を開く前にいったん飲み込んだ。飲み込んだのは、その言葉が四人の誰にも届かない種類の言葉だと、座り方を見て分かったからだ。
「お待たせいたしました」
それだけ言って、私は教場の前のほうへ進み、教師席に座らずに、教師席の前の机の角に、軽く腰をかけた。
「私の名前は、シグリ・ヴァトといいます」
ティルダの背筋が、ほんの一段、さらにまっすぐになった。
ヘルガの肘が、机の角からほどけた。
ミンナの紙片を持つ指が、止まった。
フェリツァは、葉のついた枝を、膝から床におろした。
四つの反応が、また、四つの方向から、ばらばらに鳴った。
「半年、ご一緒させていただきます。私が、あなた方に、何かを教える人間です」
「先生」
最初に声を上げたのは、意外なことに、ミンナだった。
「シグリ先生は、ご自身も候補席に座っておられたのですよね」
「ええ」
「なぜ、辞退なさったのですか」
教場の空気が、半秒、止まった。
ティルダがミンナのほうを目だけで見て、その目に「言ってはならない問いだ」という色を浮かべた。けれどミンナは、その目線を受けても、私から視線を外さなかった。ミンナは、訊くことで自分を守る種類の人間なのだろう。
私は、机の角の木目を、親指の腹で一度なぞった。
「家の事情です」
「それだけですか」
「それだけです」
ミンナは、ふっと息を吐いて、肩の力を半分だけ抜いた。半分しか抜かないところが、ミンナの本当のところなのだと私は思った。
「先生」
今度はティルダだった。
「これからの半年で、私たちは、何をするのでしょう」
公爵令嬢の口調は、礼の角度まで含めて、すでに完成していた。完成しているからこそ、その問いは、答えを求めているのではなく、私がどう答えるかを試している問いだった。
「あなた方が、自分の名前を呼ばれた時に、一拍で返事ができるようになるためのことを、します」
私の答えは、私が用意してきた挨拶のどれとも違っていた。違っていた、というより、口に出した瞬間に、私が言いたかったことが、これだと分かった。
ティルダの完成された眉が、ほんのわずか、左の端だけ動いた。
◇◇◇
「ヘルガさん」
私は、机の角からおりて、ヘルガのそばに歩いた。
「あなたの机の角の塗料、剥がれていますね。爪で掻いた跡があります」
ヘルガの肩が、後頭部の付け根のあたりから固まるのが、見ていて分かった。
「ごめんなさい」
「謝らなくていいのです。掻きたくなる時の、爪の置き場所のことを、私は今後あなたに教えます」
ヘルガは、私の顔を見て、それから自分の爪を見て、それから机の角の剥がれた塗料を見た。三つの場所を見るその順番を、私は覚えておくことになる。
「フェリツァさん」
「はい」
最年少の子の声は、教場の柱の影で、思っていたよりも近いところから返ってきた。
「その枝は、なんという植物ですか」
「ハシェルの礼拝堂の裏に生えている、名前のない種類です」
「ハシェル」
私はヘルガのほうを振り向いた。ヘルガが、目を、半分だけ見開いていた。
「ヘルガさんのお家のあたりですね」
「あの、はい」
「フェリツァさんは、それを、どこで」
「廊下の隅に落ちていました。誰かが、ヘルガ様のお部屋から運んだのを、落としたのだと思います」
教場の四つの呼吸が、また少しだけ、向きを変えた気がした。
私は、教師席に座らずに、机の角に腰をかけたまま、その向きの変化を、しばらくの間、ただ眺めていた。私の半年は、こういう向きの観察から始まる。




