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『王太子妃候補のお嬢様方を、四人まとめて預かっております』  作者: 秋月 もみじ


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第10話 あなたを、お教えくださいませんか


明けの朝、私は、教場よりも先に、王宮の中庭の樫の木の下に、立っていた。


立っていたのは、待っていたからではない。待っていたのではなく、待たれていることを、自分でようやく認めるために、立っていた。


樫の木の枝の下に、銀木犀の花が、ふた粒、地面に落ちていた。ふた粒の落ち方は、誰かが拾い忘れたのではなく、そのままで美しいから、誰も拾わなかったのだろう。私は、そのふた粒を、拾わなかった。


「シグリ」


うしろから、声がした。


栗色の髪の青年が、フードを被らずに、剣も持たずに、ただ朝のひかりのなかに立っていた。立ち方が、王太子の立ち方ではなく、ただ、誰かを待たせていた人の立ち方だった。


「殿下」


「いや。すまない、もう一度だけ」


殿下は、二歩ぶん、私のほうに歩み寄った。


「ベリト、と」


「ベリト殿下」


「殿下、をやめてくれとは、言わない。だが、君がここで返事をするときだけは、そう呼んでもらえないかと、昨夜から、ずっと考えていた」


私の親指の付け根に、力が入った。入った力が、奥歯の裏のしびれと、襟首の強張りと、鼻の奥のつんとした水気と、ぜんぶ同時に、私の身体のあちこちで起きていた。


「ベリト殿下」


「はい」


殿下が、子供のように、はい、と答えた。答えてから、自分で、自分のその返事に少し驚いたような顔をした。そういう顔をする人だったのか、と、私はその時、初めて知った。

 

 

 

 

◇◇◇


「シグリ」


「はい」


「君の半年は、終わった」


「ええ」


「四人を、預かってくれて、ありがとう」


「私は、預かったのではなく、教わった、と思っています」


「それも、聞いた。陛下から」


殿下は、両手を、後ろに組んだ。組み方が、初めて私の名を呼んでくださった廊下の窓辺の時とは、もう、違う組み方になっていた。


「君は、四人を、それぞれの席に薦めた。妃の席ではなく、別の席に」


「はい」


「そのことが、私には、いちばん、こたえた」


殿下の喉仏の手前の皮膚が、強張りとやわらかさの、まだ両方の動きを、同時にしていた。同時に、というのは、どちらかを選んでいない、という意味ではなくて、両方を同時に持てる人の動き方、という意味だった。


「シグリ。私の妃の席は、まだ、空いている」


私は、答えなかった。


「君に、その席に来てくれ、とは、今日は、言わない」


「殿下」


「ベリトと、呼んでほしい」


「ベリト」


私は、嬢を外し、殿下を外し、ただの名で、初めて、彼を呼んだ。呼んだあとで、自分の声が、自分の肩甲骨の間に、ふっと戻ってくる感覚があった。戻ってくる感覚を持ったのは、十年で、初めてだった。


十年。


十年だ。十年、私は、自分の名前を、自分の名前として、呼ばれたことが、なかった。なかった、ことに、していた。父は姉の名で呼ぶ。母は娘たち、と呼ぶ。家庭教師は、生徒、と呼んだ。グンネル先生だけが、シグリ、と呼んだ。けれどグンネル先生に呼ばれた時の私は、生徒のなかのひとりだった。


ひとりじゃない呼ばれ方を、私は、今、知った。


知って、それで、それで。


ふざけるな、と思った。


ふざけるな、十年。十年も私は、自分の名前を、半呼吸ぶん、後ろに、置いていた。置いていたのは、姉のためだと思っていた。姉の。違う。


姉のためじゃない。父のためでもない。私のため、ですらなかった。


私は、ただ、誰かに、半呼吸ぶん早く、呼ばれることが、怖かったのだ。半呼吸ぶん早く呼ばれたら、私は、その呼び声に、応えなければならない。応えるということは、私が、私だ、と認めることだ。認めた瞬間に、私は、姉の影ではなくなる。姉の影ではなくなった私が、ひとりで、立っていられるかどうか、私は、十年、自分で確かめるのが、こわかった。


こわかった。


こわかったことを、いま、認める。認めて、それで、私の鼻の奥のつんとした水気が、また、まぶたの内側まで、上がってきた。上がってきて、今度は、頬まで、降りた。


降りた水気を、私は、拭わなかった。


「ベリト」


「はい」


「私に、何を、お求めですか」


「君に、求めたいのは、妃の席ではなく、別の任だ」


「別の任」


「私を、お教えくださいませんか」


私の指が、自分の襟元の銀木犀の刺繍を、無意識のうちに、なぞった。なぞった指の腹に、母の針目の、少しだけ斜めの一か所が、当たった。


「あなたを、何を」


「私が、王太子として、四人の候補のうちの誰かを選ぶよりも前に、私自身が、自分の名前を呼ばれた時に、一拍で返事ができる人間になっているかどうかを、君に教えてほしい」


ベリトは、そこまで言って、ふっと、目を伏せた。


「いや。違う。なんと言ったらいいか、うまく言えないけれど」


伏せた目を、もう一度、上げた。


「君が、四人を半年でしてきたことを、私にも、してほしい」


「半年で、ですか」


「半年でも、一年でも、十年でも、いい。任の長さは、君が決めてくれ」

 

 

 

 

◇◇◇


私は、樫の木の下から、半歩、ベリトのほうへ歩いた。


歩いた一歩が、十年前にグンネル先生に直された歩き方の、いちばん正しい一歩だった。


「ベリト」


「はい」


「私は、教育係としては、四人の少女の靴擦れに気がつくことが、いちばんの仕事でした」


「ええ」


「あなたの靴擦れは、靴の中ではなく、襟首にあります。剣の柄が当たる場所と、私の名を呼ぶ前の半呼吸のところに、二か所」


ベリトの喉仏の手前の皮膚が、一度、上下した。


「気がついて、おられたのか」


「教育係の癖です」


「それは」


「私の任を、お引き受けします」


私は、自分の声が、姉の影でもなく、教育係でもなく、誰かの代わりでもない声で、出ているのを、聴いた。


聴いて、それで初めて、私は、自分の名前が、ずっと、私自身のものだったということを、自分で知った。


ベリトは、何かを言いかけて、止めた。止めたのは、彼の襟首の二か所のうちの、私の名を呼ぶ前の半呼吸のところを、いま、自分で直そうとしていたからだ。


「シグリ」


「はい」


私の返事は、生まれて初めて、一拍も遅れなかった。


ベリトは、そのことに、気がついた。


気がついた、ということを、彼は声に出さなかった。声に出さない代わりに、自分の右の手を、ゆっくりと、私のほうに差し出した。差し出した手のひらの真ん中に、銀木犀の花が、ふた粒、のっていた。


「先ほど、地面から拾った」


「私は、拾わなかった花です」


「君が拾わなかったから、私が拾った」


私は、ベリトの手のひらの上の花を、自分の指で、ひとつだけ、つまみ上げた。つまみ上げて、自分の襟元の銀木犀の刺繍の隣に、そっと置いた。


母の針目の、少しだけ斜めの一か所と、ベリトの拾った花が、同じ高さで、私の襟元に並んだ。

 

 

 

 

◇◇◇


教場のほうから、四つの声が、ばらばらに、こちらに向かってくるのが聞こえた。


「先生、シグリ先生、どこにいらっしゃるの」


ミンナの声だった。


「先生、フェリツァが、また葉のことを話しています」


ティルダの声だった。


「先生、北方フェルナ語の、辺境の方言、もうひとつ、覚えました」


ヘルガの声だった。


そして、いちばん最後に、いちばん小さく、けれど、いちばんはっきりと。


「シグリ先生。今日も、ここに、いてくださいますか」


フェリツァの声だった。


私は、ベリトのほうを、振り向かずに、答えた。


「ええ。今日も、ここに、います」


樫の木の下の朝のひかりが、私の半年の、いちばん正しい角度で、教場の四つの声と、ベリトの差し出した手と、私の襟元の銀木犀の隣の花を、同時に、照らしていた。


私の半年は、終わった。


そして、私の任は、始まった。

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