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『王太子妃候補のお嬢様方を、四人まとめて預かっております』  作者: 秋月 もみじ


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第1話 お辞退申し上げた朝に、別の任を賜ります


候補席を退いた朝のことを、私はおそらく一生忘れない。


忘れない、というのは少し違う。覚えておくつもりなのではなく、忘れ方を知らないだけだった。


東棟の三階、朝のひかりが斜めに入る部屋で、私は侍女から差し出された退席の書状にゆっくりと印を押した。蝋のにおいが鼻の奥につんと滲んで、その滲みが、なぜかまぶたの裏まで届いた。


「ヴァト嬢」


侍女が、おそるおそるという調子で口を開いた。


「お顔の色が、少し」


「ええ。眠りが浅かったので」


噓だ。眠りなんて、そもそも訪れていない。


けれど顔色のことを言われたのは初めてだったので、私は鏡台のほうを振り向いて、そこに映る自分の頬を、自分の指でひとつ押してみた。押された頬は、押し返してきた。


「シグリ」


別の声が、扉の外から聞こえた。グンネル先生だった。少女の頃、私の家に通って礼法を教えてくれた人で、いまは王宮の礼法教師として東棟の南端の教場に勤めている。


「先生」


「お父上のことは、お聞きしました」


立ち上がって扉を開けると、グンネル先生は廊下の窓際に立っていて、その指の節が、十年前と少しも変わらない形で組まれていた。指の節を見て涙ぐみそうになる、というのは、あまり一般的な感情ではないだろう。けれど私の鼻の奥は、指の節に反応する。先生に習った最初の年、間違ったお辞儀をするたびに、その節で軽く私の手の甲を叩かれたから。


「陛下が、お呼びです」


「陛下が、ですか」


「王太后陛下です。あなたを、退席の書状ではなく、別の書状で呼んでおられます」


私は一拍、自分の名前を呼ばれた時のように、反応が遅れた。

 

 

 

 

◇◇◇


王太后陛下の私室は、東棟の最奥にある。


入る前に、私は扉の前で、自分の襟元の刺繍を一度だけ指でなぞった。母が私のために最後に縫ってくれた、銀木犀の小枝の刺繍。針目が一か所だけ、ほんの少しだけ斜めに走っている。その斜めだけが、母の手の証拠だった。


「入りなさい」


中から、低く整った声が聞こえた。


陛下は窓辺にいた。陽の入り方が一日のうちで一番やわらかくなる時間で、陛下の白髪の縁にだけ、金色のふちが立っていた。


「ヴァトの娘」


「はい」


「そなたの父の処分のことは、私が決めた」


肩甲骨の間が、ぞわりと動いた。覚悟していたつもりだったのに、覚悟というものは、覚悟したと思った瞬間からすでに足りていない。


「ですが、そなた自身を候補席から退かせたのは、私ではない」


「と、おっしゃいますと」


「そなた自身でもない」


陛下は窓の外を向いたまま、続けた。


「そなたの家が、そなたを支えきれなかった。それだけのことだ」


その言葉を、私は奥歯の裏のあたりで噛んだ。噛んだら、痺れるような味がした。


「それで、陛下」


「うん」


「私を、お呼びになった理由は」


陛下はそこでようやく窓辺から離れて、執務机のほうへ歩を進めた。机の上には、四枚の紙片が並べてあった。それぞれに、見覚えのある家紋。


ノルドルム公爵家の鳩。

ハシェル侯爵家の橄欖。

スコゲン伯爵家の銀の鍵。

ヴェルクハイム子爵家の小さな六弁の花。


「四人、残っている。お前を抜いた、五人目以外の四人だ」


「はい」


「半年で、仕上げてくれ」


私は陛下の手元の紙片を見ていた。視線を上げる、という動作を、しばらくの間、忘れていた。それから、視線を上げた。


陛下は、笑っていなかった。けれど怒ってもいなかった。


「そなたの一年分の知識を、四人に渡しなさい。そなたが座るはずだった席は、もうない。だが、そなたが学んだものは、消えていない」


「私で、よろしいのですか」


「そなたでなければ、誰でいい?」


私は、その問いに、答える言葉を持っていなかった。


それで私は、ただ右の手を胸の前で組んで、家庭教師に十年前に習ったとおりの角度で、お辞儀をした。

 

 

 

 

◇◇◇


退室して、廊下を東棟の南端まで歩く道のりは、ずいぶんと長かった。


長かった、というのは時間ではなく、足の運びの問題だ。膝の裏側がうまくたためない。


南端の角を曲がると、教場の重い樫の扉が見えた。扉の前で、グンネル先生がもう待っていた。


「ご決断、ありがとうございます」


「先生はご存じだったのですね」


「陛下が私に、最初にご相談されました」


「私を、お薦めくださったのは」


「それはご想像の通りに」


私の返答が、少し遅れた。グンネル先生は、その遅れには触れずに、ただ薄く頷いた。私の家庭教師だった頃から、先生は私の沈黙を急かしたことがない。間違ったお辞儀は手の甲を叩いて直すのに、間違わない沈黙は、いつも待ってくれた。


「あの、先生」


「はい」


「私で、四人を、本当に」


「シグリ」


先生は、私の名を呼ぶ時だけ、礼法教師の声から、私を膝にのせていた頃の声に戻る。


「あなたが、四人のうちの誰かが靴擦れをしているのを見過ごす人だったら、私は薦めなかったでしょう」


私は、その言葉を、一生覚えていることになる。覚えている、というより、一生、覚え方を変えていく類の言葉だった。


私は、扉の取っ手に手をかける前に、もう一度だけ襟元の銀木犀の刺繍を、指でなぞった。母の針目の、ほんの少し斜めの一か所を、指の腹で確かめた。


「中で、お嬢様方が、お待ちです」


扉の向こうから、紙のめくれる音と、くすくすと笑う声と、椅子の脚をひきずる音と、誰かが小さくため息をつく音が、ばらばらに聞こえてきた。四つの音が、四つとも違う方向から鳴っていた。


私はその扉を、自分の名前を呼ばれた時よりも一拍だけ早く、押し開けた。

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