ささやかな夢
その夜、カズオは眠れなかった。
あの少女の顔が頭から離れない。鋭く、すべてを見透かすような瞳。こちらを「見る」だけでなく、まるで知っているものを見るような目つきだった。
しかも王族だ。あの馬車に刻まれていた紋章は見間違えようがない――王権の印だった。
カズオはいつものように屋根の上に寝転がり、ひび割れた星空を見上げていた。
腕のそばに丸くなっている猫が、少しだけ身じろぎをする。それでも片方の目を開けようとはしない。彼の落ち着きのなさには、とっくに慣れていた。
風は、静かに吹き抜けるだけだ。
ふと、少し前にグランプスが言った言葉を思い出す。カズオが「もし自分がこんな体じゃなかったら、何になれたと思う?」と聞いた時のことだ。
『お前はお前だよ、カズオ。それだけ分かっていればいい。あとの大半は、恐れと雑音だ』
だが、世界は彼を「ただのカズオ」として扱ってはくれない。
あの瞳を見た瞬間、人々は身を引く。
まるで現実味のないものを見るかのように――あるいは、それが「存在してはならないもの」であるかのように。
彼は戦士になりたいわけでも、大人物になりたいわけでもなかった。ただ、ひどく単純なものを望んでいるだけだ。
静かで、ささやかな暮らし。
偽物ではない、本当の生活。
自分が「そこにいていい」と思える場所。
しかしユレルダの地盤のずっと下――平和がただの夢でしかない地下深くで、古い何かが目を覚まそうとしていた。
錆びた門を過ぎ、石と時間に呑み込まれた坑道を抜け、奴隷の運搬路と忘れ去られた文庫のさらに奥。ごく一部の者しか知らない「遺構」が、闇の中に横たわっている。
部屋は荒れ果てていた。床は砕け、天井は崩れ落ち、半分は土に呑まれている。
それでも、その中心だけは形を保っていた。黒ずんだ石の台座。そこに刻まれていたのは――
一輪の蓮だった。
ただの蓮ではない。
逆さまに吊されたように彫られた花弁はひび割れ、中心部は傷口のように裂けている。
何年ものあいだ、それは沈黙を守っていた。
今、鼓動する。
一度。かすかに。
そしてもう一度――今度は淡く光を帯びて。
暗闇の中に足音が響く。
フードを深くかぶった影が、蓮の刻まれた台座へと近づいてくる。
その人物は何も言わない。
だが、その瞳――どこか異質な、光を宿した瞳が、確かな「理解」を滲ませていた。
指先でそっと紋章に触れる。
その瞬間、ユレルダの地下に眠っていた洞窟が、ゆっくりと口を開けた。
カズオは屋根の上に座り込んでいた。腕を膝にかけ、灰色だった空が金色に染まり始めるのを眺めている。
隣で丸くなっている猫が、一度だけ身じろぎをして、また尻尾を小さく揺らしながら眠りに戻った。
本来なら、まだ寝ていてもおかしくない時間だ。
それでも、彼は目を覚ましていた。
胸の奥に、何かが触れたのだ。
――平和。
また、その言葉だ。
癒えない痣のように、その響きが胸の内側で鈍く反響する。
カズオは立ち上がり、服の埃を払い落とすと、レイが起きる前に静かに屋根から離れた。
パン窯の裏手にある路地は、すでに忙しなく動き始めている。
粉袋を担ぐ職人たち。半分地面に沈んだ窯からは蒸気が噴き出し、温かい匂いが漂っていた。
埃色の髪をした少年が一瞬こちらを見て、何も言わずに店の中へ消える。
カズオは歩き続けた。
ロウアー・クレセントの下へと伸びる鉄の階段を降りる。街の腹の底へ向かう階段だ。
ここでは、壁からは冷たい水が滴り、鼠でさえ長居を避ける。
ここへ来る者は、だいたい秘密か傷を抱えている。
コン、コン、と二度ノックし、少し間を空けて三度目を叩く。
木の扉がきしみを上げる。
「入れ、坊主」と、聞き慣れた声が言った。
中は、インクと錆と雨の匂いが入り混じっている。
巻物が無造作に積み上げられ、古びた薬缶の上に危なっかしく乗っている塔もある。
蝋で半分固められた猫の石像の上には、一冊の本が開きっぱなしになっていた。
机に向かっているグランプスは、片方の肩に茶色のコートを引っかけ、額にはゴーグルを乗せている。紫の光を帯びた瞳は、紙面の文字の上をすばやく追っていた。
ヒゲはカズオの記憶より少しだけ整えられているが、その他は何も変わっていない。
彼は顔を上げずに言った。
「まだ水たまりをかき回しているのか?」
カズオは中に入り、「最近は大人しくしてるつもりだよ」と答えた。
向かいの椅子に腰を下ろす。
そこでようやくグランプスがページから目を離した。「制御はどうだ?」
「前よりはマシ」とカズオ。「でも……まだ、勝手に震える」
「それは、お前がまだ怖がっているからだ。水は敵じゃない。鏡だ。お前が怯めば、水も怯む」
「怖がってなんかない」
グランプスは椅子にもたれ、鼻から息を吐いた。「よくやっているよ。鍛錬も続けているし、前よりずっと強くなった」
カズオはその視線を受け止めた。「それで……十分に強いか?」
「『十分』なんてものはないさ」とグランプスは笑う。「私はお前に魔法を教えたが、それは自分を守る術としてだけだ」
部屋の隅で、湯沸かしの薬缶がカチリと音を立てて止まる。
しばらく沈黙が流れたあと、グランプスはふっと柔らかい声で続けた。
「大きくなったな、カズオ。もう私より背が高い。だが、私の目には、まだ机の下で猫にこっそりおやつをやっていた坊主のままだ」
カズオの口元に、かすかな笑みが浮かぶ。「……やっぱり、気づいてたんだ」
「当たり前だろう」とグランプスは肩をすくめ、くつくつと笑う。「お前を育てたのはこの私だぞ。お前がやらかした小細工くらい、全部お見通しだ」
そして、いたずらっぽい光を瞳に浮かべて付け加えた。
「ただ、一つだけ分からんことがある。なぜいつも裸で走り回っていた?」
カズオは吹き出した。「だって、猫だって裸だったから。ずるいと思った」
グランプスは腹を抱えて笑い出した。その笑い声が狭い部屋いっぱいに広がり、その瞬間だけ、カズオの胸を締めつけていた重さが少し軽くなった気がした。
だが、ひび割れた木と蝋燭の温もりから遠く離れた場所では、白い大理石の廊下が朝の光を受けて輝いていた。絹のカーテンと金の旗の裏側で、銀髪の少女が小さくささやく。
「――あの瞳……」
彼女はまだ、その名を知らない。
それでも「カズオ」という存在だけは、焼け残った灰のように、心にこびりついて離れなかった。




