またある日の帰り道
先日の、俺が寝過ごして失敗した一件以来、安島がよく笑うようになった。
というか、俺に笑いかけるようになった、だ。平凡な造りの安島の顔だが、笑みの形になると妙に愛嬌がある。
そして、話しかけてくるようにもなった。
煩わしいかんじではないので、一緒にいるときの、あの空気感はそのままだ。安島は、たとえば、何かについて俺の意見を聞きたがったり、一緒にいて、なにか良いものやおもしろいものをみつけたときに、教えてくれたりする。
俺なんかの意見を聞いておもしろいのか、と思うが、安島はうんうんと頷いて聞く。悪い気はしない。
「石くん」
安島がそう言うと、俺の心の中に穏やかな波が広がる。それが隅々まで行き渡って、要らない苛立ちなんかの感情が凪いでいくのだ。
「なに?」
「石くんは、猫と犬、どっちが好き?」
「犬だな。飼ってる」
「そうなんだ。かわいい?」
「フツー。家に帰ると、玄関まで走って来る」
「へぇ、お利口だね」
おりこう、とかいう安島の語彙が俺は好きだ。
そう言われると、うちの犬について安島にいろいろ教えてやりたくなる。しかし、普段そんなに構っていないから言えることが少なくて、結局黙る。
「僕んちはね、父さんが犬も猫もダメなんだって。飼ってみたいなぁ」
のんびりと、そのへんを見つめながら言う安島の横顔を眺めつつ、そうなのか、と俺は想う。なんだか気の毒である。親父め、根性出せよ。
それきりまた、特に何も口にせず、俺たちは夕暮れの道を歩く。ネコジャラシが揺れている。風が冷たくなってきたなと思う。
しばらくして、俺はふと思いついたことがあった。
しかし、それはなんだかなんというか、なかなかぱっと言い出せないことのような気がした。しかし、間も無く、俺の家へ向かう道と安島の家へ向かう道の分岐点だ。俺はいつも安島を家まで送り届けたあと、またここまで戻ってきて家へ帰る。言うならば、そこまでに言わなければならない。
どうする、言うか。いや、でも。
――ああもう。
「安島」
「ん?なに?」
「…うちの犬、見にくるか」
それだけ、たったそれだけ。
それだけを言うのに、こんなに躊躇った。
「いいの?うん、見たい」
うれしそうに、こちらを向いて笑う、安島。
その歩調はのんびりとしていて、歩幅は当然俺より狭い。結果として歩くスピードも、普段の俺より余程遅い。
でも俺は、それを遅いと思ったことはなかった。
俺が自然とそれに合わせていたからだった。
それが、何を意味するのか。俺はすでに気づいている。
犬は、数年来の付き合いであるはずの俺よりも、あっという間に安島に懐いた。
かわいくねえなと思ったが、帰り際安島が、犬に「また会いにくるね」と話しかけていたので、後でよくやったと褒めてやった。




