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語られなかった七日間 第一日

 「アストラット」の店内。煙草を刻み終えた若店主キアヌは、水屋にいた。水瓶からすくった水を両の手にかけ、汚れを落とす。ランスロットは眠っていた。常のように丸テーブルにて。油気のなくなった若店主の手指から水滴が零れ落ちる。それも日常のことではあったが、やはり手を見つめる若店主である。

 糸の如き細い月夜ではなかったが、時には緩やかに刻が遡る。



 公女は髪を(くしけず)る。

 今は肩先程になった燻る暗赤色の髪。

 手にしているのは王城より携えし数少ない持ち物である一具の櫛であった。幼き頃より使いし櫛なれば、一つ梳る毎に口ずさまれるは歌。母より習いし歌であったか。


 サレクはその歌声にて目を覚ました。

 「歌が聞こえた」

 公女はそれには応えず、微笑みのまま歌を続けた。さればサレクは背から公女を抱き締めた、公女の二の腕の上より。

 其は異国の言葉であり既に魔術師ならぬサレクには歌の意がわからなかった。

 「其はどういう歌であろうか」

 サレクが問えば、公女は

 「わたくしも知らぬのでございます」

 と、言い

 「サレク様、お願いがございます」

 と言葉を継いだ。

 「そなたの願いに応えぬことがあろうか。だが、わたしにできることであろうか?」

 「髪を洗うていただけましょうか?」

 公女は足下に置かれた水桶に、その暗赤色の瞳を向けた。

 「是非もない」

 とサレク。サレクはしかじかの薬草をその水に浮かべた。水を手のひらにて掬いて、やや頭を下に垂れた公女の髪を濡らしていく。そして手にした、かの櫛にて、水に濡れてより暗さを増したとみえる公女の燻る赤い髪を梳る。そして新しき水にて薬草の香の染み込んし髪を流す。其れは三度繰り返された。

 しかるのち。サレクはもう一度、新しき水にごくごく薄く香油を溶き、やはり手のひらにて掬い取ると、公女の髪にかけた。

 「よい香りでございます」

 と公女が呟く。サレクはいま一度、背から公女を抱き締めた。

 「そのような。御髪が濡れてしまいますれば」

 言いかけて公女は口を閉ざした。抱き合っておれば、見えざる互いの瞳。だが。

 足下の水桶に映りしは、愛しき人の唇。

 其れが震えて見えるのは水の揺れの為であったろうか。

 サレクは公女の濡れた髪にて冷えていく己が頬にて、やはり冷たい公女の頬に触れた。先と同じように愛しき人に二の腕の上より抱きしめられておれば、公女は肘を閉じたまま手を伸ばし、指先にてサレクの指先に触れる。


  触れたるは指先だけの想い人 

  心に届きしものなれば櫛持つ手指に戻りゆく 

  触れざる髪にもあの方の

  思いを分けてあげたれば

  伸ばせし限り留まりぬ


 公女が口ずさんだ歌の意であった。

 いまだ恋する前の娘の髪を梳りながら母が歌って聴かせる異国の歌。その意を知らぬまま公女とサレクはその手をひしと握り合った。触れたるは指先だけにあらざれば、留まる思いはいかばかりであろうか。


 この挿話は七日の、最初の一日になされたものであれば、それはすべての七日の間続けられたという。



 煙草屋の若店主は、起き抜けの飼い猫ランスロットを膝に抱いた。手にはブラシ。灰色の背中にブラシを当て、太く長い尾の毛を整えていく。起きたはずの飼い猫は心地よさに再び眠りへと誘われるかと見えた。が、その耳だけがピクリと上を向く。若店主は歌を口ずさんでいた。


 触れたるは——。



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