第三話 宿命の日
サレクの傷はしばし癒えなかった。肌にこそ痕跡はなかったものの、死せる師の魔力の剣による痛みはサレクの内にいまだ残っていた。サレクの寿命と己の寿命を交換し得たエレインもまた、未だ命を保ったまま看病を続けている。魔法をまといし猫ランスロットも看病をした。サレクが横たわる寝台の傍らにて丸くなるだけではあったが。
やがて、サレクも半身を寝台に起こすほど回復したある日の夕刻。
ふたりと一匹の住まいを訪ねるものがあった。旅の老女である。真っ白になった頭髪はきれいに束ねられ、皺の少ない顔色は浅黒くはあったが若い頃の美しさをその深い緑の瞳に留めている。
「旅のものです。お嬢さま、ひと夜の宿をお願いできますでしょうか?」
と戸口で出迎えたエレインに来訪の目的を告げた。エレインは微笑する。お嬢さまと呼ばわれたことがシ少し可笑しく思えたのだ。
「旅の御老女さま。拒む理由などありません。ただ、夫がすこし臥せっておりますれば充分なもてなしはできないと存じますが、ぜひにもこの家にてご休息を」
エレインの招きの言葉に老女も微笑する。そのうえで
「奥方さまでございましたか。夫君が病とはご心配ですね。わが身は僅かではございますが、癒しの術を習いしもの。奥方がよろしければ夫君を診せていただいたうえでそれを宿賃代わりに」
といった。
「それは願ってもないことです。夫はこちらに…」
エレインは老女を伴って寝所にはいった。目を覚ましていたサレクはすぐにも見慣れぬ老女を認めると
「お客人であったか。このような姿で失礼いたす。何もお構いできぬかと思いますがごゆるりと」
「この方は旅の癒し手様」
エレインと紹介されたの老女はただじっとサレクの顔を見つめている。やはり何かの予感に導かれて、それは悪い予感ではなかったゆえ、エレインは言った。
「癒し手様。なにかご用意するものはござりましょうか?」
「なれば白湯をすこしばかり」
と答えて、老女は寝台の傍らの椅子に腰を下ろした。さてランスロットは、寝台の、サレクの足元で丸くなっていたのだが、老女の来訪に一度目を開け、再び閉じたのみ。エレインが白湯の支度のため寝所を出ると、癒し手の老女が先に口を開いた。長年魔法修行を重ねた老女には、この若者が名高き悪の魔術師サレクであることを知るのは容易いことであった。サレクのその容姿と纏った魔力の香りから。
「魔術師の息子にして魔術師。高名なサレク殿にこのようなところでお目にかかるとは…。噂は聞いている。かの公国の公女にして婚礼を控えた公国の疵なき珠を奪い去ったのは三月ほど前とか。なればあれが公女様でありましたか。しかしこの様はいかがなされた?」
「 訳知りの御老女よ。公女を、エレインを連れ去ったはいかにもこの魔術師。だが…」
とサレクは語り始めた。
師である魔導士と、己自身と、そして公女エレインとの、死の宿命にまつわる物語を。
「貴方の目の前にいるのは、何の力も持たぬ魔術師なのです、いとしいものの死をただ待つだけの愚かな男なのです」
サレクの話を聞き終えた癒し手の老女は静かにその手を若い魔術師の額にかざしたのみで、他に何をしたかとも見えなかった。
「そなたの傷はそう、明日の朝にはもう癒えておりますれば。ただわずかな眠りが必要…」
そういう老女の言葉を最後まで聞かないままサレクは深い眠りの川を渡っていた。白湯を携えて寝所に戻ったエレインはサレクの寝顔を目にすると老女に礼を述べてやはり傍らの椅子に腰を下ろした。
「夫君からお話を伺いました。つらく悲しいことでしたね、公女様」
エレインは老女の慰めの言葉に顔を向ける。そこには辛さも悲しみも、そして後悔もないものと見えた。
「いいえ…。ただこのお方を失いたくないわたくしの弱い心の故なのでございます。それに…」
と、エレインは言葉を継いだ。その短くなった暗い燻る赤い髪を揺らし、視線を下げ、その手を衣の上から胎内の子にかざして。
「わたくしにはこの子がおりますれば。この子が宿ったと知って後、ずうっとこの子に語り聞かせてきたのでございます。そうすれば、わたくしの記憶もこの子のうちに留まるのではないか…何故でしょうか、そう思えるようになったのでございます」
老女はエレインの手を取るとそっと握り締めた。慈愛に満ちた年老いた手で。
「したが、夫君には言わずにおるのか?」
「この方は自分の子を成したくないと申しておりました。この方の宿命が余りにも辛かった故でしょうか、それとも自らの魔力の業を恐れておられる故でしょうか」
エレインは瞳を伏せた。
「したが、我が子をその目にしたならば、夫君の思いもまた変わるのではございませぬか。子をなしたことのない老婆の申すことではあるが」
「そうでございましょうか。されば、癒し手様。わたくしの願いを叶えてはくださりませぬか。何の対価も差し出せぬ身ではございますが。お力のある方とお見受けいたしました。わたくしの寿命が尽きる前にこの子を産ませてはくれませぬでしょうか?」
傷ついた身とはいえ強き魔力をいまだに纏いしサレクを容易く深い眠りへと誘った老女である。力ある魔女でなくてなんであろう。しばし、エレインのそのまだ膨らみの少ないお腹に手をかざした老女は静かに言った。
「おそらくは何かの力を持つ子であることか。年老いたこの魔女にどれほどの力が残っておるかわからぬが、これもかの魔導士がなした悪行の縁であれば、わらわにも浅からぬ因縁がないわけでもない。折しも今宵は今月最後の細い月の夜。それがわらわの魔力の助けとなろう」
この癒し手の老女もまた、何か悲しい過去を持つと知れたがその物語はいずれ語られるやも知れぬ。因縁とやらに触れることはなくエレインは心から感謝の言葉だけを老女に告げた。
「されば今宵にも。明日、夫君が目覚めて後、その子を見たならばきっと喜ぶに相違あるまい」
と、癒し手はエレインを安心させようとそう言った。
そして、奇跡の業は癒し手の言葉通りに、その夜のうちになされた。
サレクとエレインの子は、サレクの類まれな魔力を引き継いだ故か、エレインの記憶を留めたいという強い想いのなせる業か、そんな母の想いを受けたその子自らの力であったか、まだ三月に満たなかったがこの夜までに既に世に生まれ出る全ての用意を終えていたのである。折りしもサレクは傷を癒すための、癒し手たる老女による魔力により深い深い眠りの最中。癒し手の老女と、そしてランスロットの見守る中、嬰児は生まれた。エレインが織り上げた布の産着に包まれた嬰児は、公国の疵なき珠と称された公女エレインのすべてを引き継ぐ美しき女の子であった。わずかにのぞく髪はのちに赤く燻る暗色の髪になると見え、ただ茶の瞳はそう…魔術師となる前のサレクのそれを受けついたものであった。
ただし、エレインと老女に不安が残った。
嬰児は類い稀なく美しくあったが、その美しいであろう、産声をあげなかったのである。
いずれ奇跡がなされた夜が明けると、眠りの間に傷の癒えたサレクは癒し手の老女と嬰児を胸に抱いたエレインに見守れて目を覚ました。
「すっかりよいようだ。礼を申す。癒し手殿。エレイン、心配をかけた」
冷めた白湯を口に含んだサレクが頭を下げると、老女とエレインは顔を見合わせた。エレインの胸に抱かれた嬰児に何の反応も示さぬサレクであれば。その代わり。
「エレイン、その布は織りあがったのだな。綺麗に仕上がっている」
とサレク。何故かはわからぬ。だが嬰児の姿も見えず、嬰児を包んだ産着もただの布としかサレクの目には見えぬと思われた。
「サレク、この…」
この嬰児が見えぬのですか?といいかけたエレインの言葉を年老いた魔女が封じた。
「…はい。あ、では朝餉を作りましょうね」
それだけ答えたエレインは椅子から立ち上がった。
「奥方様、この老婆もお手伝いを」
2人は揃って寝所を出た。老女は水桶を持ち、エレインはサレクにのみ見えない嬰児を抱いて表へ出ると再び顔を見合わせた。二人の足元には魔法を纏いし猫ランスロットの姿もある。
「サレク殿に何故この子が見えぬのか、わらわにも分からぬ」
と、魔女の物言いで老女は言った。
「若き日に邪悪な魔力を振い過ぎた業であろうか、或いは、深すぎる悲しみのせいであろうか。然もなくば、無理にも寿命を奥方と入れ替えたせいか、また、わらわの呪術が不完全であったのか。いずれ、奥方とこの猫と他人に見えて、父には見えぬ嬰児となれば、奥方が、……死してのちはいかにしてこの嬰児を育てて行けば良いだろうか」
「辛いことではございますが、いずれわたくしの記憶を語り継いだ我が娘であれば、いつの日か、サレクにも見える日が訪れるやも知れませぬ。その時までは何方かにお預けして」
「奥方様。この年老いた老婆で良ければ、そのお役目も引き受けさせてもらえぬだろうか?故あってこれまで身内を持たぬ身であったのだが、奥方様がよろしくば、その嬰児と暮らすのをわらわの余生となすこともまた。そして夫君の、我が子が見えざる呪いもまた解ける手立てを見つけることもあるやも知れませぬ」
エレインに否はなかった。
「癒し手様。お礼のもうしようもございません。おそらくわたくしが世を去れば、あの人はこの家を出るでしょう。さすれば、わたくし達に代わって、この子とともにこの家でお暮らしくださいませ」
老女とエレインの約束はこうしてなった。そしてもう一つの相談もこの折になされたのである。
朝餉を終えると、かのもう一つの相談を老婆が切り出した。
「魔術師殿。この老婆、奥方様からひとつ頼まれごとをされました」
「そはいかなるものでございますか?」
「見れば奥方さまの短きお命、あと半月に満たぬと思われます」
老女の言葉どおり、サレクにもエレインにもそれはそれとわかっていた。
「ラドゥクの古の呪術、寿命をのみ減らしたとなれば、突如にも死が訪れるもの。されど魔術師殿。そなたの魔力と引き換えに、奥方様の死期を知ることができるとしたら何となさる?」
サレクはわずかの間無言であったが美しきエレインの顔を見つめてこう答えた。
「癒し手の御老女よ。貴女にそれができるとするならばお願いいたす。エレインを失うことを留められない愚かな魔術師に過ぎぬ我が身なれば。この腕の中でエレインを、妻を見送ることができるものであれば、もとより呪われし魔力など喜んで差し出しましょう」
サレクの言葉にエレインも頷いた。
それは生き続けるであろうサレクを魔術の螺旋から解き放ちたいというエレインのやはり愛であったのやも知れぬ。癒し手の老女は無言でその手をサレクの額にかざした。何事もなされなかったようであったが、ひとつだけサレクの身に変化があった。その魔力の象徴たる漆黒の瞳から夜の輝きが薄らぎ、瞳そのものも茶色と変じた。誰あろう、生まれたばかりの嬰児と同じ色の瞳に。そしてこの業がなされる間、ランスロットが機織の傍らで眠りし嬰児に添い寝をしていたことを申し添えておこう。
サレクの魔力が失われた瞬間に、サレクもエレインも、エレインの死せる時を悟った。
いまより7日の後と。
ひしと抱き合う若いふたりに背を向けた老女にサレクは声をかけた。
「なにもお礼はできぬが、そう、御老女よ。この粗末な館をもらっていだくわけには参らぬであろうか?いや、これもお礼にはならぬな。むしろ身勝手な願いとみえる」
その言葉はエレインが老女に約束したことと同じことであった。
この偶然の申し出を老女は快く受けると
「それでは7日の後に再びこの家を訪うことといたしましょう」
と、二人に告げた。そして機織り機の傍で眠る、サレクに見えざる嬰児に小さな魔法をなした。それは7日の間、サレクだけでなく、この家を訪れる他の人々、あるいはごく近くに住む村人にも、この嬰児が見えずとする魔法であった。サレクにはその老女の行いは、見えざる嬰児に添い寝をしているランスロットへの別れの挨拶としか見えなかったことはいうまでもないだろう。
この七日の間。
二人がいかに過ごしたかはまだ語られていない。何故ならそれを想像できぬものがあるだろうか。ただエレインは時折、サレクに悟られぬようにサレクに見えざる嬰児に乳を与えた。ランスロットはと言えば、見えざる嬰児が寝かされている機織り機の傍で過ごすことが多くなった。それがサレクには少し不思議に思えたが、魔力をなくしたサレクにその理由がわかろうはずもなかった。
そして宿命の日。
その夜は静かに訪れた。
寝所に横たわったエレインをかつての言葉通りにその腕に抱いたサレクは言う。
「不思議なことに泣けぬものであるな。あの折に本当に涙は枯れたと見える」
エレインがサレクの宿命を我が身に転じた時に流した涙をサレクは思い出していた。
「この七日の間、貴方様の言葉の一つ一つが涙でありました」
エレインは、かの知る人ぞ知る妖魔とその娘の物語の一節を引用して、そう言った。そして
「サレク、愛するお方。貴方に贈り物が」
とエレインは言葉を継いだ。それはサレクに見えざる娘を指してのこばであったやも知れぬ。だが、その後の言葉を続けられぬエレインにサレクが言った。
「知っている。あの織り掛けの布のことであろう?もう充分に衣と為せる長さであれば」
エレインはひとしずく涙を流す。
「許してくださいませ。衣として縫い上げたから差し上げたかったわ」
と。言葉に秘められた今一つの意味を知らぬままサレクは頬に当てられたエレインの手を握る。機織り機の傍で、見せざる嬰児に寄り添って丸くなっていたまだ小さきランスロットが不意に頭を上げた。その瞳を寝所に向けて。エレインはサレクの腕の中で瞳を閉じた。
——愛する人。わたくしを見つけてくださいませ。
その最後の言葉はサレクに届いたであろうか。
翌朝。
約束を違えずに癒し手の老女はエレインを失いしサレクの元を訪った。悔やみの言葉を受けたサレクはすでに旅支度を整えていた。夜のうちにエレインを弔ったことを告げると、しかじかのことに対して礼を述べた。そして
「癒し手の御老女よ。お世話になったついでに最後にひとつお頼みがございます。魔術を捨てた魔術師に名をくださらぬか?」
と、言った。困惑の、だがやさしげな表情で老女は答える。
「それはまたこの老婆に難題をくれたものですね。そう、では…キアヌと」
「キアヌ?」
と繰り返すサレクに
「山からの涼風という意味があると聞いています」
と老女は答えた。
「そうですか。ではそのような土地をさがすことをしばしは旅の目的といたしましょうか。では。ランスロット、いくよ」
サレクであったキアヌは魔法を纏いし猫に声をかけた。ランスロットは機織り機の傍らで、キアヌには見えざるままの嬰児に親愛と別れの挨拶をしていた。
その小さき指をそっと舐め、その柔らかな頬に額を摺り寄せて…。
老女が見えざる嬰児を抱き上げる。
そうしてキアヌはランスロットと共に2月近くを過ごした家をあとにした、幾許かの荷物を持って。
——それから数年。