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第二話 そうして灰色縞猫は魔法を纏う


 二人が目覚めたのはまだ夜の内である。

 ひとつの寝台の上にて。

 サレクの物語を聞き終えたときとは別の涙を湛えたエレインはその涙を乾かしてこう言った。

 「サレク様。わたくしをお連れくださいませ。3月の間でよいのです。貴方と…生きたい」

 いとおしく思わぬものがあろうか。サレクは再び公女の身体をその腕に抱く。

 「それでよろしいのか?」

 サレクの問いに

 「宿命を忘れた月日がほしいのです」

 とエレインは答えた。


 そうして夜の内にふたりは王城を出た。公女の身の回りのいくつかの品を持って。若き魔術師は常と変わらず僧服めいた黒衣のままであったが、公女は城で下働をする娘の粗末な衣服を無断で拝借し、其れを纏っていたと伝えられている。

 あとわずかで城下を出ようかという時、とある空き家の前でふとエレインが足を止めた。

 「いががした?」

 「何か鳴き声が」

 答えたエレインが軒下を覗き込むとまだ生まれたばかりと見える子猫が潅木の下で蹲っている。エレインはそっと両手でその子猫を拾い上げた。まだ目の開かぬ目で子猫はエレインを見つめていた。灰色めいた縞模様がまだはっきりとしていない。

 「この子も連れてまいりましょう」

 とエレイン。

 「何ゆえ?」

 とサレクが問えば

 「わたくしたちの三月の暮らしを誰かに知っておいてもらいたいのです」

 多くの悪を為したサレクであれば、癒しの呪文など使った試しはなかったのであるが、それでも覚えてはいた数少ない癒しの呪文の一つを唱えながら、エレインに抱かれた子猫を撫でた。

 「そなたがエレインなればこの子はランスロットと呼ぼう。古の…騎士の名前ゆえ」

 「そのお話は存じております。さればわたくしはこの子に振られるのですね」

 おかしそうに、そしてすこし寂しげにエレインは微笑んだ。

 これからの3月の間は、公女エレインと魔術師サレク、そして猫のランスロットの物語となる。



 糸の如き細い月の明かりは今だに、天窓から差し込んでいた。

 遡った刻は、その切なさに似ず、なぜか若い店主の心を和ませていた。子猫の時の面影は何処へと思わせる灰色縞の飼い猫は、夜の主な寝床となっている丸いテーブルの下に置かれた毛布で、その丸い体を丸くして眠っている。若店主は無性に飼い猫を撫でたくなり、手にした長い棒を傍らに立て掛けると、テーブルの前にしゃがみこむ。猫が目を覚まさぬよう、そっと、その柔らかな灰色の毛を幾度か撫でた。魔法を纏いし猫であれば、キアヌの手からその思念を読み取ったやも知れぬ。


 眠りのうちに。

 そうであれば。

 灰色の縞猫もまた、主人とともに刻を遡る。

 まだ

 糸の如き細い月の明かりがあればのこと。


 王城を抜け出し、生まれたばかりの子猫——それはランスロットと名づけられたのであるが——を身内とした公女エレインと魔術師サレクは公国の森を抜けた。森に囲まれた国であれば抜けた森の数は3の3倍。そして湖の国であれば湖をいくつか渡って、国境を越えた。ほぼ半月をかけて。

 この半月の間、追っ手はあった。剣とそして魔法の。

 剣の追っ手は公国の軍。夜であったとはいえ魔術師めいた若い男と公女らしき娘が城下を出るのを見た街人は幾人かいたとみえる。公国の軍の目的は公女をかどわかした魔術師を捕らえ、婚礼を控えた公女を無事王城へと連れ帰ることであり、それは魔導士ラドゥクの報復を恐れた大公の重臣の命令によるものであった。大公と大公妃は姿を消した公女の無事を祈ったのみ。剣を頼んだ軍勢などしかし、若き魔術師になにごとのことがあろう。公女エレインの頼みによってサレクは軍の騎士たちを傷つけることなくすべて王城へと送り返した。その類稀なき魔術によって。

 魔法の追っ手はだれあろう、エレインの夫となるべきものと称する魔導士ラドゥク——サレクの魔術によって薄い金属の足環から転じた夜鳥の飛来によって2人の出奔を知ったに違いない——が使わしたモノ達であった。剣の追っ手よりは多少手強くはあったが所詮ラドゥク本人にあらざるモノ達であり、まして恐らく、魔導士が魔力によって作り出した幻のモノ達であれば、やはりサレクにはなにほどのこともなかった。そう、かつて師は弟子に告げたではないか。『われには勝てずともこの世界のおよそ魔術をなすもののうちそなたの魔力にかなうものはおらぬだろう』と。それゆえ魔のモノ達はすべてサレクによって無へと帰したのである。


 公女たる姿を交易を生業となす民の娘の如く姿をやつした公女と魔法の痕跡を出来うる限り薄め、やはり同じ民の若者へと姿を擬した魔術師、そしてその飼い猫はそれからも旅を続けた。その甲斐あってか、剣と魔力の追っ手は二度とはなかった。

 少なくともひと月の間は。

 旅は長くも短く、そして、公女と魔術師と子猫にとっては全てが初めて見るものとなった。公女は生まれ育った国を出たことがなかった故、魔術師はかつて己が悪を為した国を避けての旅であった故、子猫にとっては言うまでもないであろう。

 青い月明かりの砂漠を越え、その砂漠に蜃気楼の如く佇むオアシスの街を越えた。

 涼しげな木々に囲まれた川を下り、その頃、既にあった海の、その海辺の街も越えた。

 頂を雲で纏った山々を騾馬の背にて越え、谷間にひっそりとあった隠れ里も越えた。


 やがて。

 公女と魔術師と子猫は、とある村へと辿り着いた。

 広い高原を背後にし、小さき森と豊かな畑地に恵まれた村である。そこでサレクは一軒の空家を買い求めた。かなりの年月を経た家屋ではあったが雨風を充分にしのぐことができ、何よりも家の内に残されていた古い機織り機にエレインが魅せられ

 「ここで暮らしたい」

 とサレクにねだったからであった。

 エレインの婚礼とされた宿命日まであとひと月半。サレクの寿命が尽きる宿命日は神々しか知らずとも2人の宿命が交錯したとなれば、エレインの宿命日とどれほどの違いがあろうか。いずれ、サレクは覚えている数少ない癒しの魔術にて村人や旅人の病を癒して日々を過ごした。魔力の痕跡をできる限り薄めておれば、ごく軽い病を癒すのみではあったが。

 そしてエレインは布を織った。技はごく自然に覚えた。村人から買い求めた糸をしかじかの草で染めては機に向かった。布を織るエレインの姿は美しかったと伝えられている。燻る深い暗みを帯びた赤色の髪を背に流し、細き手にて糸を手繰り、踏木を小さき足にて踏んだ。

 ランスロットは子猫盛りを迎えていた。ひと時もじっとしていることはなく、病人を癒すサレクの足元にじゃれついては、機織に励むエレインの傍らで糸玉で遊んだ。じっとしているは眠っているときのみ。それもたいがいはサレクかエレインの膝の上でのことだった。

 ふたりとランスロットは時に森で食事をし、高原で午睡をした。何の宿命も何の過去も持たない恋人同士のように。宿命は兎も角も過去を必要としないふたりであったのだ、出会った時からの過去を除いては。そして夜は眠った。やはり宿命も過去も持たない恋人同士のように。


 ——ある日。

 エレインはおのが内に新たな命が育っていることに気づいた。自身が宿命の婚姻を免れ得るかどうかはわからぬ。だが死の宿命を控えたサレクにそれを伝えられようか。

 エレインは何かの予感に導かれて子を宿したことをサレクに告げることはなかったが、もうひとりの身内であるランスロットには日々、胎内の子の成長ぶりを語り聞かせた。


 そしてエレインは髪を切った。

 暗く燻る赤い髪を。

 サレクは驚きはしたがエレインの美はそれで損なわれることはなかった。寧ろ公国の疵なき珠と称されたエレインは子を宿した故か、さらに美しさを増したかに見えた。髪を切ったは、其れを糸とする為であった。エレインの髪は糸とともに布に織り込まれてゆく。

 ひとすじひとすじ…。

 髪糸はエレインのサレクへの、言い尽くされた言葉で言うならば、愛であった。


 宿命日まで半月を残すのみとなったある日の朝のこと。

 水を汲みにランスロットとともに表へ出たサレクの目の前に魔導士ラドゥクがその姿を表した。邪悪なる魔導士が如何にして2人の行方を知ったものか。限りなく痕跡を消してもなお、消し切れなかった弟子の魔力の痕跡を追ってのことか、或いは、小さき村であっても時折訪れる旅の商人らが垣間見た美しき赤き髪を持つ娘の噂が人から人へ、街から街へ、そして国から国へと伝わり、それを魔導士も聞きつけたものか、否、力持つ魔導士であれば己が力で、例えば世界の何処をも覗くことのできる鏡などを使って知ったものか。何れ、魔導士が2人の行方を知った理由は語られていない。

 如何なる理由であれ、ラドゥクはそこに立っていた。相も変わらず、歳を取らぬ年老いた老爺の姿で。サレクは恐れも憎しみも無く、ただ憐れみを湛えた漆黒の瞳でラドゥクを見つめた。

 「師ならぬ師よ。いかなる御用にておいでになったのか?」

 穏やかなサレクの声は、だが刃の如く。

 「弟子ならぬ弟子よ。我の用向きは我の内にあるが、そならは他ならぬ我が弟子。教えてつかわそう。我の嫁御となるものを迎えに参った。我自らな」

 嗄れたラドゥクの声は、毒蛇そのもの。

 「されば、是非も無い」

 若き魔術師の言葉が終わるや否や、魔力が交錯した。


 その戦いは剣と剣のぶつかり合いと似ていた。

 己が魔力を剣に見立て、相手を傷つけようとする戦い。ラドゥクの剣の魔力がサレクの腕を掠め、サレクの剣の魔力はラドゥクの頬を掠める。

 気配に気づいたかエレインが戸口から飛び出してくる。

 「そなたを守ると決めた。心配いたすな」

 サレクが見えざる剣を跳ね除けながら、そうエレインに声をかけた。エレインは足元に駆け寄ったランスロットをその胸に抱く。

 見えざる剣の戦いはしばし続いたが、やはり力は師が上と見えた。いく太刀か、魔力の剣で傷ついたサレクは肩で大きく息をついた。腿と腹部の傷は深手と見え、魔力の剣はもはやその手には握られていなかった。

 「褒めてつかわす。弟子ならぬ弟子の魔術師よ。腕をあげた。だが…」

 ラドゥクは余裕を持って魔力の剣にて弟子にトドメを刺そうと身構えた。

 

 刹那。


 エレインの腕の中にあったランスロットの瞳が漆黒の光を放つ。

 灰色の背と長い尾の毛を逆立てるとランスロットはサレクの持つ魔力に勝るとも劣らぬ魔力の見えざる矢を放った。それはラドゥクの剣持つ右腕を貫いた。まだ子猫に過ぎぬランスロットであったが、サレクと時を過ごすうちに魔力をその身に宿すようになっていたのである。なに故か、己を救ってくれたエレインとサレクを守る力を得んが為に他ならぬ。

 見えざる矢の魔力に右腕を貫かれたラドゥクはその痛みに魔力の剣を取り落とす。膝から崩折れかけていたサレクがその魔力の剣を宙にて受け止めると、ラドゥクの右胸を深々と突き刺したのである。

 己の腕を貫いた見えざる矢がランスロットから放たれたものだと知ったラドゥクは自嘲の笑みを浮かべた。そして死の間際。

 「妖魔の同輩にして魔導士たるラドゥクが、その猫ごときに倒されることになるとはな。されど、サレク、我が弟子ならぬ弟子よ。そなたの寿命もあと僅かであろう。我とそう違いはせぬ」

 胸に刺さった見えざる魔力の剣を両手で握り締めたまま、ラドゥクは地面へと崩折れた。深手を負ったサレクは死にゆく魔導士から少し身を引いて、再び地面に膝をついた。ランスロットはエレインの腕からいつの間にか飛び降り、遠巻きに、だが油断なくその漆黒の瞳を死にゆく魔導士に向けていた。その灰色の全ての毛を逆立てたままで。

 そしてエレインは。膝つくサレクを一度抱き締めると、ふと立ち上がり、死にゆく魔導士に歩み寄った。

 「お願いがございます、魔導士様。死せる前にサレクから奪いし寿命をサレクにお返し願いませぬか」

 「かの秘術はサレクが知っての通り、あの箱のなせる業。…なれど、聞けぬ相談でもない」

 魔導士の言葉は罠。エレインは其れを知っていた。

 「我が寿命はもはや無き等しい」

 「代価は知っておりますれば。わたくしの寿命と引き換えに」

 サレクが痛む体を震わせ声の限りに叫ぶ。

 「何を言うのだ。そなたを守ったは何のためか。ラドゥク、我が師よ。この女の戯言など聞き届けはしないであろうな」

 だが、ラドゥクは薄く笑ったのみ。

 「今際の際に願われた事だ。叶えずして何とする。サレクよ、そなたは生きて、エレイン、お前は死の国へと向かうが良い。それを望んでいるのであれば」

 こと切れる寸前、ラドゥクはそう呟いた。邪悪な魔導士ラドゥクの最期の呪術はサレクの寿命をエレインのものとし、エレインの寿命をサレクのものとするものとなったのである。しかし考えてもみよ。こと切れる寸前の魔導士がかような呪文を成せるとなれば、己が寿命とエレインの寿命を交換することすらできたのではないのか。だが事実、それは成されなかった。その理由も今は語られてはいない。

 

 「何故か。エレイン。何故このようなことを……」

 痛む足で立ち上がったサレクはエレインを抱き締めた。エレインは己の体を抱き締めながら、縋るように涙を流すサレクのその顔を胸に抱く。

 「わたくしを宿命から解き放ってくださったのは貴方ではありませぬか。愛するものの暗き宿命を解き放ちたいと願うのはわたくしも同じ…」

 だがそう言ってからエレインは首を左右に振った。

 「いいえ、違うのです。ただただ貴方を失いたくなかっただけ」

 「我がそなたを失えというのか」

 「ごめんなさい。貴方を失う悲しみにこんなわたくしがどうして堪えられましょう」

 ふたりはそのように、幾度か同じ言葉を交わし、そして涙を枯らした。

 エレインが自らの内に新たな命を成したとすれば、寿命を僅か半月ほとに自ら縮めたは、その子を道連れとすることに成りはしないか。否、魔力の一欠片も持たぬエレインではあったが、何かの予感があったのだ。この子は無事に生を成すであろうと。

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