序 煙草屋の若店主と飼い猫を語る
煙草屋といえば角、と相場は決まっているらしい。
とある街の煙草屋もやはり四つ角にある。縦に長いショウウインドウには何種類かのシガリートの紙箱が申し訳程度に飾られていた。その直ぐ横にやはり縦に長い扉。目線の高さに〈アストラット〉と刻まれた銀のプレートが掛かっている。煙草屋の店名としては如何なものかと思われそうだが店主の趣味ゆえ。店内のフロアには丸いテーブルを囲んで座り心地の良さそうな椅子が何脚かあり、通りを見渡せる出窓からの日差しを受けている。出窓の反対側の壁は、抽斗のやけに多い整理棚に埋め尽くされていて、煙草屋というより薬屋を連想させられる。その手前にはさほど長くもないカウンターが備わっていて、店主はそこにいることが多い。
さてその店主であるが「煙草屋の親父」と呼ぶにはまだ若いと見えた。青年と呼んでいい年頃である。耳から頬にかけて綺麗に斜めに切り揃えられた黒髪。薄い茶色の瞳がキュートだと言ってくれる女性客もいるようであったが、当の本人にそういた自覚はない。あまり特徴のない顔立ちに丸く小さなレンズの眼鏡を掛けている。愛用の眼鏡である。やはり愛用の品である黒衣を纏っていて、いまはその袖を少し折り返している。
この若い煙草屋、名前をキアヌという。勿論、貴方が頭に浮かべたかも知れない人とは全くの別人であり、映画などには出たこともない。否、世界が丸くなっていないこの時代にあっては映画などというものはまだ存在すらしていない——或いはすでに廃れ誰の記憶にも何処の公文書館にも記録すら残ってない——筈である。
若い店主が黒衣の袖を折り返して何をしているのかといえば、タローカードでの家作りである。
カードでの家づくりには幾つかの基本形があるそうだが、煙草屋の若店主はその基本に則って三段の高さまで積み上げることに成功していた。あとは四段目に〈パゴタ〉を三つほど作ればかなり見栄えの良いカードの家が完成する。そのパゴタのひとつ目を作ろうとした時、若店主は背後に殺気を感じてカードを持つ手を止めた。両手をそのままに首だけを少し後ろへと回す。
「ランスロットか。そこから一歩も動くんじゃないぞ」
ドスの効いた声ならぬ猫撫で声である。だが、主人の言うことなど聞く筈もないのが飼い猫の性。ランスロットなどという有り難くもない名前をつけられたオス猫はその灰色縞模様の巨体を床から軽々と宙に浮かせ、カウンターに音もなく着地した。主人の言うことは聞かないがさすが猫科である。カウンターはわずかも揺れることなく、脆さの代名詞であるカードの家も健在であった。ランスロットは大きな顔をカードの家に近づけるとひとしきりその匂いを確かめる。その距離感たるや。触れるか触れざるか。だが食べ物と睡眠の他にはおよそ興味を示さないランスロットは
「な——ぅ」
と鳴いた。猫がな——ぅと鳴けば、飼い主はあっと小さく声をあげた。カードによる低層建築物は煙草屋の若店主の手の下でパタパタと音を立てて崩れていく。タローカード数十枚と小一時間の時間を注ぎ込んだ若店主の建造物はいまやカウンターの上で平べったい厚紙の山と化していた。ランスロットは満足げにその平べったい山に足を踏み入れると、やたらと太くて長い尻尾を丸めるようにして蹲る。よく見ると、建築物の残骸であるカードの山は完全なる真円を形作っているのがわかるだろう。直径30センチほどの綺麗な円の厚紙で作った寝床——。猫の息、或いは店主の息で崩れたにしてはあまりにも完璧な円ではなかろうか。
「お前、寝る場所なんていくらでもあるだろう」
若店主は怒るでもなく、寧ろ嬉しそうに呟いた。およそ猫の飼い主などというものは猫が自分の近くで寝ようとするのは嬉しいものだ。
そして伏線にしてはあからさまだから説明しておくべきだろう。
世界がまだ丸くなっていないこの時代は即ち、剣と魔法の時代。この煙草屋もわずかながらにその魔法の痕跡を留めている。かつては魔法を糧としていた事のあった若店主であったがいまは賢明にも——もしくは愚かにも?——それを捨て去っていた。彼が魔法を捨て去った理由はいずれ語られる。今は、この青年がまだ魔力を持っていた頃からの付き合いであるこの猫のランスロットが、主人に代わって魔法の使い手となっていることだけを提示しておこう。つまりこの真円のカードの寝床を作ったのはランスロットの魔力に他ならない。
自己中心的な猫が魔法使いでは危険極まりないのではないか。だがランスロットが魔力を行使するのは己と己の飼い主である煙草屋の若店主の危急時に「ほぼ」限られている。カードの家で寝床を作ったのは暇にあかせた戯事であろう。
さて——。
暇をつぶす手段を奪われた若店主は苦笑しつつ傍らの木箱から小さな紙を一枚つまみあげてカウンターに置く。そして大きな皮袋の中から刻んだ煙草の葉を一掴み。それを紙にすうっと一直線に敷くと器用に縦長に丸めてゆく。できあがった手巻き煙草をくわえた若店主はマッチで火をつける。紫煙とやや甘みを帯びた香りがたなびく。一度深く煙を吸い込んだ若店主は白色に転じた煙をゆっくりと吐き出した。すると眠ったかと見えたランスロットが薄目をあけた。店内を漂う白色の煙の塊はがふわふわとその形を変えて文字となる。
それはこう読めた。
『Bonne nuit——おやすみなさい』
若店主は再び苦笑する。やはりランスロットなんて名前をつけるんじゃなかったとひとり後悔するのである。くわえ煙草のままの若店主は店奥の小さな扉を開け、物置からひと山の煙草の葉——昨日、さる地方から届いたばかりの半製品である——を手にしてきた。カウンターの端、小さな作業台を兼ねたそこで煙草の葉を刻み始める、あまり切れ味のよくない小刀でザクザクと、煙たそうな表情で。すこし離れた自作の厚紙の寝床に蹲ったままのランスロットはやがて
「ふごっ」
と、寝息を立て始める。
昼前のこの時間。
ランスロットの睡眠と若店主の煙草を刻む作業、これが煙草屋のおおむね常なる光景である。やがて唇に触れそうなほど短くなった紙巻き煙草を危なっかしい手つきで指に挟んだ若店主はそれを陶器の灰皿で揉み消した。灰皿には短くなった吸殻が山のように、ではなく、きれいに並べられていた。まるで冬の燃料である薪を軒下に積み重ねたかのように、同じ長さの煙草の吸殻が整然と積み上げられているのである。それを見て若店主が几帳面なやつだと判断するのは早計というもの。煙草以外のことにはなんにつけても雑駁で、面倒くさがりやでもある。だからこそ、こうしてあまり客のこない煙草屋などという仕事をはじめたらしい。
ランスロットの寝息を聴きながら、煙草を刻み続けていた若店主は、ふっとその手をとめる。もうひとつの嗜好品、珈琲の成分が体の中から切れたのを感じたからだ。壁の整理棚の上から麻袋を下ろす。小さなシャベルで豆をがさりと掬い取るとありがちな手動ミルに投入する。そこで再び…紙巻煙草を一本拵えてマッチで火をつけると若店主は紫煙をくゆらせながらカリカリと豆を挽き始めた。まったく煙草に珈琲。体に悪いったらない。くわえた煙草が半分ほどになったころ、挽き終わった豆をネルに移す。そこでようやく気がついた。まだお湯を沸かしていない…。カウンターから出た若店主はテーブル脇にあるストーブにケトルを乗せ、通りに面した窓をすこしだけ開けた。こもった煙草の煙と挽きたての豆の香りが通りに流れてゆくだろう。
若店主はサーバーとネル、そしてミルクの入った瓶をカウンターから窓際のテーブルに移して珈琲を入れ始める。挽きたての豆とは違う香りが漂い始めると…まだカードの寝床で眠っていたランスロットの尻尾がパタっと揺れる。
「ちゃんとお前の分も淹れてるよ」
その言葉どおりサーバーに落ちた珈琲を若店主はまず小皿に注ぎ入れた。それから自分のマグに。そしてミルクを小皿とマグの珈琲にたっぷりと入れる。クリーム色と化した珈琲は、カフェオレ或いはカフェラテというよりは寧ろ珈琲味のミルクになった。そこまで準備が整うと、それを見計らっていたように、ランスロットはカウンターを飛び降りた。床でひとしきり背伸びをし、それからテーブルに飛び乗って『珈琲ミルク』を飲み始める。そんなランスロットを目で追いかけながら若店主もひとくち珈琲を飲んだ。小皿をちゃぷちゃぷとするランスロットの鼻が『珈琲みるく』で濡れる。魔力を持つ猫ではあるがやはり猫。
「ほら。鼻に珈琲ついてるぞ」
若店主は嫌がるランスロットの鼻を指先で撫でると、もうひとくち、珈琲を飲んだ。
「昼は何にしようか?」
三本目の紙煙草に火をつけた若店主はまだ珈琲を飲み続けているランスロットの頭を撫でた。答えは決まって
「なぅー」
だが、トーストと野菜のポタージュにしようと若店主はもう決めていた。三本目の煙草を吸い終わる頃にはランスロットも若店主も珈琲を飲み終え、充分に満ち足りた気分になって窓から通りをながめやる。
緩やかな午前の時間が終わろうとしてる。
同じように緩やかな午後になるだろうという予感。
煙草屋の店内の時間はそんなふうに流れてゆく。
予感通りの午後となる。
若店主は近くで古書店を営む老夫婦から注文されたパイプ煙草の葉を刻んでいる。カウンターに接した作業台ではなく、客用の丸テーブルでの作業だ。理由はとくにない。強いて言うならば、ランスロットが通りに面した出窓でまどろんでいるのがテーブルからだとよく見えるからである。
その老夫婦から注文を受けた時、若店主はその注文の品を配達をすることにしている。配達のついでに古書を物色する為である。
古書好きなのだ。
その証拠に入り口のドアの脇に設えた小さな書棚には老夫婦の店で買い求めた古書が並んでいる。客用の書棚であったが、そこに並ぶ古書は『仏国失われた呪文史』『目に見えない恐怖の分類とその対処法についての一考察』『世界悪女物語に学ぶ』などなどであり、客が煙煙草が刻まれるのを待っている間に読むべき本として相応しいかどうかは疑わしい。
丸テーブルで煙草を刻み終えた若店主は、黒衣の膝にこぼれた葉を両手ではたいて立ち上がった。ちょうど二百年前の今日の日付の古新聞に溜まった刻み煙草を茶色の紙袋に入れ、蜜蝋で封をする。若店主はこのまま配達に行きたかったのだが、出窓の風景を見遣って大きく溜息をついた。ランスロットはまだ午睡の真っ只中らしくその巨体いっぱいに午後の日差しを浴びている。外出するときはよほどのことがない限り、ランスロットを連れていくことになっているからだ。「なっている」とは微妙な表現ではあるが、それは若店主とランスロットの決め事だからそういうしかない。そしてこの飼い猫が午睡を邪魔されるのが一番嫌いなことも若店主のよく知るところであった。それでも一縷の望みを持って若店主は声をかける。
「ランスロット…。おーい。ランスロット…。ちょっと起きてみない?」
およそ本気で起こす気があるとは思えない小声である。だが飼い猫は反応した。太くて長い縞模様の尾がぱたんと一度だけ上下に動く。
「起きてくれるのか。そうだよな。あの店はお前もお気に入りのようだし」
若店主はカウンターの隅から布製のリュックを取り出し、その口を開けてテーブルの上においた。ランスロットは前に一度、後ろに一度、「伸び」をすると、出窓からテーブルへと跳躍し、器用にリュックの中へと潜り込んだ。若店主がリュックの口を緩く絞り、んしょっと背負うと、ランスロットはその中でモソモソと動き、大きな顔と2本の前足をぽこっと出した。古本屋までどの程度の距離があるのだろうか。この魔力を持つ飼い猫は主人に背負われてそこまで行くらしい。それにしても重いと若店主は思った。出会った頃のランスロットは片手に乗るほどの小ささだったのに今はその重みがずっしりと肩にかかる。
若店主は、飼い猫の入ったリュックを背負い、注文の品の入った袋を手に、縦に長い扉をあけて通りへと出た。古風な鍵をひとまわし、戸締りを確認すると背中のランスロットが
「なぁ—っ」
と、ひと鳴きする。
街の様子はいつもと変わらないように煙草屋の若店主には思われた。歩きなれた通りを進んでいくと、とある酒場の前でふっと足を止める。この街に腰を落ち着け、煙草屋を開いてからどれほどの時が過ぎただろうか、この酒場にはまだ足を踏み入れていない若店主である。なにしろ酒が飲めないのだ。それでも、飯も食わせてくれるらしいので、そのうちにと、ひとり納得する。
「酒場か。なあ、お前はいれてもらえるのかな?」
と、背中の飼い猫に声をかけてみる。たしかペット入店禁止とは書かれていなかったと記憶を辿る。実はこの魔力を持つ猫が、酒が飲めるかどうかを若店主は知らないのであるが、ねだられたことがないことを考えればおそらくさほどの酒好きではなさそうだ。酒場を横目で見遣りながら若店主は再び歩きはじめた。
ほどなく古本屋が見えてくる。ちなみに古本屋の老夫婦が注文したのは手巻き煙草の葉をパイプ用に流用した独特の刻み煙草である。パイプ用の刻み煙草を手巻き用に使うことはよくあるのだがその逆は珍しい。ベースにはターキッシュとも呼ばれるオリエントを使い、それにスパイスとしてラタキアをブレンドした若店主自慢のブレンドである。煙草好きが店の近くにいてくれるということは煙草屋冥利につきるというものだが、何しろ、ここの老夫婦は煙草の味にうるさい。まあ背中のランスロットが出来栄えにひと言も文句を付けなかったところをみると、きょうの刻みも悪いできではなさそうである。
そんなことを考えつつ、若店主が古本屋のドアを開けようとしたその時である。
ガサガサと、背中のリュックが動いたと思うまもなく、ランスロットが中から飛び出し地面に降りる。
「ランスロット?!どした?」
そんな若店主の問いかけを無視したランスロットが走り出す。あまりスピード感はないのだけれど…。スピード感がないのは無理もない。巨体猫である。ほんのわずかの間、自身の行動に迷った若店主であったが、開きかけていた古本屋のドアを離れてランスロットのあとを追った。人通りはどのほどであったろうか。ランスロットは通りを行き交う人の足元をすり抜けるようにして、のたのたと走ってゆく。
「お、おいっ!どうしたんだよ。ランスロットっ」
若店主が慌てるのも無理はない。およそ飼い主から離れて単独行動をする猫ではなかったのだ。すくなくともある例外を除いては。そしてスピード感がないとはいってもそこは猫科。小走りに追いかける若店主との距離は縮まりそうで縮まらない。むしろ小走りだったランスロットの短めの四本の脚はさらにその動きを速めてゆく。ようやく若店主はランスロットの太く長い尻尾がピンと上を向いていることに気がついた。そして後を追いながら周囲を見回わす。若店主の顔に苦笑が浮かんだ。
——どこだよ?
それはランスロットを探す言葉にあらず。
——あそこか?!
若店主の視線が捉えたのはつい先ほど通り過ぎた酒場の屋根。その上に真っ白な猫が一匹…その肢体を伸ばして色っぽく背伸びをしている。確かめるまでもないであろう、メスの猫である。酒場までたどり着いたランスロットはいままでの「のたのた走り」が嘘のような身軽さで酒場の前に積まれた樽や木箱やらをつたって屋根まで跳び上がった。若店主は両手を膝について呼吸を整えると
——さて。
と、屋根の上の2匹の猫を見上げるのである。
愛しきランスロットは、白い美猫の前で立ち止まる。
「なぁーっ」
と、いつもの鳴き声。飼い主の若店主の不吉な予感を余所にランスロットは無防備にもさらに一歩を踏み出した。目にも留まらぬとはこのことであろう。白い美猫の右前足が一閃する。だがさすがは魔法を纏ったランスロット。その猫パンチを数ミリ単位で躱すと、さらにその大きな顔を白猫に近づけた。
だが。
今度は白い美猫の左前足が緩やかに前方に繰り出された。美猫の肉球がランスロットの頬を捕らえる。同時に最初にパンチを繰り出した右前足もランスロットの頬にあてがった白い美猫は、自ら斜め横に倒れ込んだ。そして引きずられて前かがみになったランスロットの腹部に雨あられと猫キックを炸裂させたのである。なあーっと鳴く間もあればこそ、ランスロットはころころと屋根を転がってゆく。心得たもので若店主はその落下点で待ち受けると両手をひろげてランスロットを受け止めたのである。
「お前ねえ…。あれはないだろう。まったく女の扱いがわかっちゃいないんだから…」
若店主にそんな台詞がいえたものか。抱きとめてくれた主人を見つめるランスロットの顔は
〈お前にいわれたくない〉
とでも言いたげだ。掟破りのような気もするが時にはランスロットの気持ちも代弁してやらねばならない。そのランスロット、若店主の腕から肩に上ると、再び、モソモソと背中のリュックの中に戻っていく。そして何事もなかったようにリュックの中でおそらく姿勢をかえて、再びその大きな頭と前足をリュックの口からぽこっと出すのである。
「…まあ、お前もそのうちにな。配達いくぞ」
若店主は慰めになっていない言葉を背中の飼い猫にかけると、もう一度古本屋に足を向けたのであった。
数日後の夜。
煙草屋の若い店主は吹き抜けの屋根裏を見上げると、手にした長い棒で天窓を開けた。店内に籠っていた煙がゆるりと天窓から外へと流れ出ていく。その煙と入れ替わるかのように、青くもあり白くもある月明かりがその天窓から差し込んでくる。月明かりは若い店主の手を照らす。
月夜。糸の如き細い月の夜。
其れは刻を遡る為の刻。