婚姻を取り消すため、協力します。
お読み頂きありがとうございます。
ガリア王国の王女だった私に最悪な日々が始まろうとしています。
ここは隣国、夫となる方は王弟、スペアと言われても王になるかもしれない地位を持つお方。
父は私に相談もなく婚姻を強引に押し通しました。完全な政略結婚、この国に口出しする口実を得たいのです。
私には魔獣討伐の騎士アレイという愛しい方がいました。
彼は「望むものは何でも与える」という父の言葉を信じ、魔獣100頭を討ち取って国に貢献したのに、褒賞に望んだ私との婚姻は却下して金を渡して国外に追放したのです。
アレイを無事に海辺の国へ逃すため、私はこれから好きでもない男に抱かれます。
魔獣と同じ、猛禽類の眼を持つ男に。
◇◇◇
暖炉の薪がパチっとはぜて、身体を震わせた。
本心を伝えたら見逃して……いえ、無理ね。
初めてお会いした時、私の目も見ずに言葉少なく黙っていらしたし、結婚式の誓いの口付けも無かった。
嫌われてるなら初夜も無ければ嬉しかったけれど無理らしい。
なぜなら王弟は寝巻き姿で私と並んでベッドの縁に座られている。
チラリと様子をうかがっても、じっと動かれない。
幅広い肩、リネン越しでも分かる鍛えた肉体。この方も魔獣討伐は先頭で指揮を執られるらしい。
手の甲にも古傷が見える。それに……右頬の大きな傷あと。
黄金の眼はじっと絨毯の一点を見つめられている。
よし、ここさっさと終わらせよう、口を開きかけたとき、私の名前が呼ばれた。
「シーナ・スティチュアート・カロリア殿下」
魔獣の声より低い声音に、緊張が身体を走る。
「は……はい。ウィリアム・ウィンザー・ラスチャード殿下」
王弟の重みで沈んでいたベッドが浮き上がった。
「俺はウィリアムと。いや、この婚姻を止められなかったのだから名を呼ばれる価値はありません」
私は驚いて背の高いウィリアム様を見上げた。
「つまり、私と同じく結婚する気は無かったのですか?」
「同じく? よかった。なら話が早い。どうか婚姻取り消しにご協力を願いたい」
そう言って、王弟は深々と頭を下げられた。
どうやら父と、世継ぎに悩むグラシア王国の利害関係の一致だけで話は進み、互いに互いの体面を立て合って婚姻は誰にも止められなかった、とウィリアム様はそんな意味の話をされた。
「差し支えなければ、結婚を望まぬ理由を教えて頂けませんか?」
「実は、真実の愛を見つけてしまったのです」
「まぁ同じだわ。私も真実の愛なのです」
「それは辛いことをさせて申し訳ない」
「いいえ! 謝るのは私の方、父が迷惑をかけ申し訳ありません」
「いいや、兄が……」
私たちは互いに気の済むまで、窓から差し込む月明りの角度が変わるまで謝りあった。
「婚約を取り消したいので、協力します」
ついに私はそう口にしていた。ウィリアム様はほほ笑まれた。
「そう言って頂けると心強い。作戦があります」
突拍子もない作戦に私は猛反対したけど、結局、押し通されてしまった。
◇◇◇
それから一週間後、故郷から付いてきた侍女エレナは部屋の荒れようを見つめて顔をしかめた。
「昨夜はまた一段と激しかったのですね? シーナ様がダメと言わなければ部屋に乗り込んで止めてやりましたのに」
「だめよエレナ。そんなことしたら、あなたの身が危ない。この部屋のように乱暴にされるわ」
寝台のシーツは破られ、クッションは引き裂かれ、羽毛が飛び散り、サイドテーブルは倒されている。乗っていたガラス瓶とグラスは割れ、ブランデーで絨毯にシミができている。
まるで強盗が押し入った後のようなありさまは二人で作った。
「初夜を過ぎたと言うのに、まだこんなに乙女の痕が……どういうことですか?」
エレナが持つシーツには生々しい赤い色が残されている。私は教えられた台詞をエレナに返した。
「ならされる前に無理やり……」
うつむいて、特別なハンカチを目に当てると、両目は赤くなり涙がこぼれた。鼻水まで出てくる。
「シーナ殿下! アレイ様と結婚なされば良かったのに!」
父から紹介されたエレナをだますのは気が引けた。
それでもこれも作戦のため。
ウィリアム様は毎晩腕を傷つけてまでシーツを汚される。そのことに比べれば、自分の良心の痛みには耐えられる。
それにウィリアムさまの調査ではエレナは父のスパイらしい。
ならば、父に状況が分かるようそれらしく振る舞う必要がある。
『お父さまスパイとか本当に止めてください。戦争になります』
そんな手紙は「私たちの作戦がバレます」とウィリアム様に止められた。
作戦とは「夫の振る舞いに耐えられず逃げる妻」を演じることなのだけど、最初は反対した。
私が苦しんでいると知れば「それを口実に父が宣戦布告しますよ」とウィリアム様に言ったけれど、「魔獣討伐で人手が取られているし、証拠は消すから大丈夫です」と言われてしまった。
だから今日も私たちは作戦遂行中。
身支度をして朝食。食堂に入り、ウィリアムさまに挨拶をするも、表向きは新聞を「ガサッ」とめくるだけで返事なし。
でも私はわかってる。新聞をめくる「ガサッ」は「おはよう」。「ガサガサ」は「元気か」で「ガサッガサ」は「俺も元気だ」という暗号だ。
なんでも「作戦上仕方ないとはいえ、朝イチから無視するのは精神衛生上よくない」というのがウィリアムさまの信条らしい。
わざわざ寝室に新聞を持ってきて、夫婦二人の時間に私が聞き分けできるまでレッスンしてくださるほどの手の込みよう。
エレナも含めた使用人には夫に無視される妻だけど、本当は違う。エレナを通してお父さまを騙しうちできて少し胸がすく。
あっもっと深刻な顔になるように、ハンカチ、ハンカチ。
花粉をまぶしたハンカチで目元を押さえると、涙が出てくる。森深い国で育ち、子どもの頃から花粉症なのだ。
最近侍女になったエレナは知らないし、故郷では予防薬を飲んでいたので、父にも知られていない。
元々このアイディアは涙が必要だなと思って私が発案した。
ハンカチに花瓶のお花の花粉をこすり付けていると、ウィリアム様は眉をひそめた。
『花粉症の誘発はお辛いでしょう。そこまでされなくとも』
『良いんです、このくらい。ウィリアムさまも腕を私のために傷つけられてリアリティを出されてるでしょう? 私の涙もリアリティ追求のためです』
そう言って譲らなかった。結果正解だった。表情を誤魔化すのに役立つ。
私はフォークを「カチャカチャッ」と食器に当てて声を出さずに『お元気?』と聞く。
「シーナっ、食器の音を立てるな! 耳障りだ!」
律儀に飲み干された、ティーカップが壁に当たり砕ける。
使用人たちは主人の気性におののき、私の方へ気の毒そうな、心配そうな視線を向ける。
大丈夫です。昨夜二人で練った台本通りですから。
「そんな、フォークが当たることが耳障りだと?」
「あぁ、フォークの音より、夜の声を立てることを覚えろ!」
あ、リアリティが増すからと私が強引に入れたセリフで赤面していらっしゃるわ。
それでも周囲には怒りに顔を赤くしているように見えるようで、顔を青くしている。
私は泣く振りをするため、ハンカチを取り出し目に当てた。くしゃみをこらえて、鼻水を啜る。
「鼻水を啜るとは目障りだ!」
テーブルを拳で叩く。あ「鼻水を啜るとは」がアドリブ……そして台本通りにウィリアム様は侍従を置いてけぼりにして食堂から立ち去った。
◇◇◇
その日の夜もウィリアムさまは床に額を付け謝罪した。
「本当に、本当にすまん。やはり『目障りだ』は言い過ぎだった。とっさに『鼻水を啜るとは』など台詞を追加してすまん。鼻炎の苦しみが分からないのかの侍従に叱られた。あなたは花粉症なのに……すまないっ!」
ウィリアム様は演技が終わる二人きりの寝室で毎晩謝罪する。
そんな律儀さと誠実さに私も申し訳なくなってくる。
「いいえ。顔を上げて下さい。大丈夫です。むしろ高そうなカップや食器が犠牲になるのが気がかりです」
「確かに物は大切にしなければならないな。だが私も罵倒したくないし、演技に自信がないからやむを得ん。元々ヒビが入っていたカップだが、同じ工房で同じ職人の新作を買うので許して欲しい」
まぁ本当に真面目な方。誠実で、必死で、全力なところもアレイにそっくりだ。
そう、アレイは別れのとき、私に言葉を残してくれた。
『王は金で私を諦めさせようとしましたが、私は諦めません。これを元手に騎士を捨て人かどの人物となり、あなたを迎えに、救いにいきます。どうか希望を捨てず隣国でもお達者で』
アレイの言葉を思い出し、ぽろり涙をこぼすとウィリアム様が心配そうに床から頭を上げた。
「あ、違うのです。恋人が残した最後の台詞を思い出して……ごめんなさい。さぁ台本を練りましょう」
ウィリアム様はご自分のハンカチを私に差し出した。
「その涙は花粉まみれのハンカチではなく、これで拭いて下さい。故郷を旅立ったお相手は探させています。今しばらくお待ちを」
そう言って私が泣き止むまで背をさすって下さった。
アレイ……早くあなたの居場所を教えて。そうすれば私からでも迎えに行くわ。
◇◇◇
それから数ヶ月後、作戦のためエレナには「あなたの身が危ないわ」と強引に暇を出した。クビにして悪いと思ったけど仕方ない。
はじめエレナは抵抗した。だけどウィリアム様が皮袋を取り出し「これで第三国へ逃げろ。一生遊んで暮らせるはずだ」と目を丸くするような大金を手渡すと二つ返事で退職した。
「大丈夫ですか? あんな大金……どこでご用意を?」
「俺の個人貯金全部と兄のヘソクリを拝借した」
え、お兄さま……グラシア国王陛下ではないの!
「陛下に怒られません?」
「どうせ趣味の園芸に使う金だ。俺としては花の品種改良に精を出すより、小麦を強く……いや、そんなことより兄上が口を滑らせたのが元凶だから数年趣味に費やす金が消えても『ざまぁみろ』ってやつさ」
国家予算の横領ではなくて良かったけれど、ウィリアム様の個人貯金は恋人のために貯められたお金では……。
「ウィリアムさまのお相手に怒られますわね」
「それは無いよ。彼女は甥っ子の王太子の婚約者だからな」
「そ、それでは私ばかり得をしてしまうではありませんか!」
ウィリアムさまは寂しそうにほほ笑み、頬の傷に触れた。
「甥は彼女に歳が近く、何より優しい。それに彼は未来の国王だ。彼女には辛い過去があって、それも含めて支えられるのは一国を背負える男しかいない」
ウィリアム様はつね日頃、王家の代理で魔獣討伐の先頭に立たれる方だ。
「その方のために死を覚悟され、独身を貫かれるのですね……私と違ってお強いわ……」
「シーナ殿下こそ、恋人を守るためガリア国王の要求に従ったのでは?」
それはその通りだ。全てアレイの身の安全を守るためだった。
「ウィリアム様はお見通しですわね」
「私たちは似た者通しだからな」
ウィリアムさまは寂しげに笑った。心に残るほほ笑みだった。
◇◇◇
半年後に事態が動いた。なぜならアレイが堂々と離宮にやってきたからだ。ただしその姿は100頭の魔獣を倒した騎士ではなく、商人の姿だった。
人払いした応接間に、アレイ、私とウィリアム様がソファーに座る。アレイは挨拶もそこそこに私に見向きもせず、ウィリアムさまの前に大剣を差し出した。
「こちらは海辺シャナーク王国の骨董市で見つけた名剣です。私の全財産を注ぎ込みました。魔獣討伐に名高い殿下にお買取り頂きたく、参上いたしました」
「いくらするんだ?」
アレイは私を見た。凪いだ瞳とこけた頬に胸が締めつけられる。
「奥方様と同じ価値です」
「それは無理だ。言い値を言ってくれ」
「どうやらエレナの報告は真実ですね。値が付けられないとは、あなたはシーナを何とも思っていない!」
「何? エレナと言ったか?」
ウィリアム様が、眉間にシワを刻んだ瞬間、風がテーブルを真っ二つにした。アレイが剣を抜いてぶった斬ったのだ。
「エレナはガリア国王陛下に送った私のスパイ。つまり二重スパイだったのですよ。だからシーナへの酷い仕打ちは全て私も知るところです!」
剣がきらめき、私はアレイの名を叫んだ。
だがアレイは剣を振り上げ、ウィリアムさまのすぐ横のソファーをぶった斬る。
思わず立ち上がり、アレイにすがりつく。
「やめて! 違うの。お父さまに無理矢理決められた婚姻を取り消すための演技なの!」
「シーナ、その魔獣の男に騙されるな! 離婚すれば済む話をなぜ半年も引き延ばした!」
ウィリアムさまは微動だにせずアレイを黄金の瞳で見つめた。
「すぐ離婚すれば、互いのメンツが丸潰れになり、両国不和の原因になりかねない。真実の愛以外の離婚しなければならない理由を作る必要があったんだ。す……」
悲鳴をのみこんだ。ウィリアム様の喉元に七色の剣先が当たっている。
アレイは魔獣100頭倒しても人の命は奪わないことを信条にしていたのではないの?
「やめて!」
演技ではなく本気で叫ぶと、アレイは「大丈夫」と言った。剣をおさめたアレイは、膝をつき頭上に剣を掲げた。
「数々のご無礼、この名剣デュランダルによってお許し願いたい」
ウィリアム様が息を吐き、立ち上がって鞘をつかむ。だがアレイに向けられた黄金色の瞳は鋭い。殿下は剣を鞘から抜いた。
「待って下さい殿下! 数々の非礼はお詫びいたします、だからっ!」
だけど殿下は剣をアレイの肩に当てた。
「アレイ、シーナ殿下の騎士に任じる。その生涯をかけて彼女の身の安全を守るように」
アレイが驚いた顔でウィリアムさまを見上げた。
「……というか騎士に戻り商人はやめろ。目利きが最悪だからな。これは名剣デュランダルなどではない。ただの偽物だ。シャナーク王国にこっそり紹介状を書くから騎士団に入れ」
「え偽物? 確かに伝説の名剣デュランダルだと……褒賞を全部注ぎ込んだその剣が?」
「だが刃もない剣で剣技と気合いで家具を叩き斬るとは恐れいった。その腕を使わないのはもったいない。騎士に戻れ」
「ご寛大なお心遣い痛み入ります。このアレイ、生涯かけシーナ姫の騎士として守ることを誓います」
「あぁ、それが良い」
ウィリアム様は笑った。本当に幸せそうに。そんな表情を見たのはそれが最初で最後になった。
◇◇◇
結局、偽物デュランダルは買い取られ「リアリティを出すなら持っていけ」と金貨入りの袋まで渡された。もちろん紹介状付きで。
さすがに「怪しい商人に偽物をつかまされ、妻を代金の代わりにした夫」なんていう噂が立ちそうなので、私は台本を練って、アレイと窓から逃げ出した。
『耐えかねた妻は商人に一目惚れ、二人は窓から逃げ出した。夫は名剣デュランダルの威光のおかげで理性を取り戻す。
逃げた二人は海辺の国の秘密の場所で暮らす。商人は騎士団に入り、妻は平民の娘二人の子を産む。誤解の解けたエレナが子の世話を手伝ってくれ、私は異国の地で子育てしつつ作家になるだろう』
後半はもう少し未来の話。でも確実にそうなる。
『ウィリアム様、いつかあなたも幸せになることを祈っています』
私はそう手紙に書き記し、ペンを置いた。