スペード
スペード
目に見えない人との繋がりの方に重きを置くようになったのはいつの頃だろうか。古い時代は雑誌の文通コーナーに始まったのか。私の知識ではそれ以前の活動については触れる事は出来ない。それでも確かに会ったこともない人に対して特別な感情を抱いてしまうのは人間という人種の特殊なものなのかもしれない。私は現実世界に置いて友人というものに恵まれる事がなかった。誰といてもどこか気疲れしてしまう。自分の居場所があるのだとしたら、漠然とここではないのだろうという実感はあった。
伝えておきたいことは、私の考え方に共感できる人は少なくないと思うし、まったく逆の考え方もできるという事だ。所詮私達は顔も合わせたことのない同士の人間のコミュニティなのだから。
冬麗らを感じる朝焼けをカーテン越しに目にしたところで何も感動は生まれなかった。ただ心にぽっかりと開けられたふさがる事のない孔に毎日を悩ませるように私は体を震わせながら布団の中へと再び潜った。ベッドボードにあるスマートフォンを取ってSNSを確認するのは顔を洗うよりも前に行う日課になっている。私が寝ている間に何かが動いているのが怖かった。すぐにそれに乗り遅れないようにしなければいけないと思っていた。そして何も変化がない事に心を沈ませてしまうのだ。所謂ネット依存症の入り口に片足を突っ込んでいるのか、それとももう体まで浸っているところに来ていると自分でも呆れる。私は大学に通っているが講義中も気が付けばそちらに頭を向けてしまう程度には日常社会に支障をきたすほどの影響を私は架空の世界に気付き上げてしまったのだ。
私はハンドルネーム『ハート』としてSNSを活用していた。特に何かを発信する立場に行けるはずもなく、常に受け手側としてインターネットを使用していたし、その使い方にも満足していた。同じことを共感できる友達も現実世界よりも作るのは簡単だった。キーワードを入力すればお互いの好きな事が自己紹介する前よりわかる。『この人は自分と同じものを好きになっている』と話すより前に認識できるとそれだけで仲間意識ができてしまったものである。
そうして自分の身をインターネットの中に投げ出していくと私は三人の仲間を得る事になった。それぞれ『クラブ』、『スペード』、『ダイヤ』というハンドルネームを持ち、私を含めて全員が共通の趣味を持っていた時から次第に私達のコミュニティは出来上がっていた。お互いの年齢や性別も知らない。なんとなく察せる内容の話はあっても深くは切り込まない。守るべきラインをしっかりと見据えていた四人だからこそ関係性も維持できたのだと思っていた。
事の発端は三週間程前。突然クラブさんのSNSの更新が途絶えてしまい連絡が取れなくなった。音信不通だ。最初の一週間は流行り病にでもかかってしまったのかと思いその身を案じた。二週間目になると事件に巻き込まれたのではないかと想像を悪い方に広げてしまった。そして三週間目になるとその話題は出さないようになり四人のコミュニティもいつの間にか活動が止まってしまっていた。
「所詮私達は会ったこともないのだし。ネットの世界では来るもの拒まず去るもの追わず。クラブさんにも何か事情があったにせよ、私達には話す必要がなかったってこと。」
そう言ったのはダイヤさんだった。恐らく私よりも年上で社会的地位もあるような人だという認識を持っていた。達観した見方ができるのはそのためだろうか。
スペードさんはこのことに関して無言を貫いていた。元々時事の事柄だったり日常生活の話はあまりしない人で対応に関しては一貫した態度だったと思う。
私はというと、最初の頃こそ心配している言葉を発信してはいたものの、次第にその回数は減っていき今では誰かそのことについて言及している人が居ないか目を光らせるだけになっていた。
そのままインターネットの世界でも現実世界でも煮え切らない感情を抱えたまま苦悩を抱いていたある日の大学の帰り道、私は襲われ拉致された。
意識が戻った時、周りは暗闇だった。目隠しをされている様子はなかったのでたんに部屋が暗かっただけだろう。窓から差し込む月明かりを見て一、二時間程経過したものかとも思ったが、もしかしたら数日が経過していたのかもしれないという恐怖が過った。体は椅子に座らされて縛られている。自由は利かない。服の乱れはないしポケットにスマートフォンの感触もあった。襲われた時に強い衝撃を浴びた覚えがあったが特に痛む様子はないのでスタンガンを使われたのかと想像したが実際に食らったことはないので断定はできなかった。猿轡もされていなかったが恐怖で声は出なかった。次第に目が慣れて来て今いる場所のあたりを見回していると一見するとどこにでもありそうなワンルームの室内である事が分かった。そうしているうちに玄関の方に足音が聞こえてきた。私は声をあげようかと迷った。近隣の住民ならば助けを求める一遇の好機ではあったが、私を攫った犯人だった場合の事を考えると声が出なかった。考えあぐねているうちに足音は扉の前で止まりカチャリと鍵の回る音がした。私の心音は今にも張り裂けそうな程にどんどんと鼓動を打っていく。扉が開いて室内に電気が点けられると男が部屋に入ってきたのが分かった。私は薄目を開いて観察していた。少し長めのマッシュカットに目が隠れがちな痩せ型の男。攻撃的な印象を受けないところがまた恐怖心を加速させた。服装も流行りのものを取り入れているし年齢も若めに見えた。どこにでも居そうな大学生と言う印象を受けた。
「目が覚めましたか?」
優しい口調の声だった。もしかしたらこの人が襲われた私を助けてくれてここに匿ってくれたのだったらいいと期待を抱いてしまった。
「なんだ、起きているじゃないですか。寝たふりですか?」
彼の問いかけに体が一瞬反応して肩が揺れてしまった。それを見逃されなかった。観察力が鋭いというよりは抜け目ないと言った方がしっくりくる感じがした。
「まず確認しておきたいのですが、真咲和葉さんで合っていますよね。」
私の名前を呼ばれてハッとした。恐る恐る目を開いて顔を上げた。もう逃れる道が残っていないと思ったからだ。
「そうですけど、私に何の用ですか。」
声を出してみて自分の声が震えている事に気付かされた。上手く発音できているのかさえ怪しかった。
「よかった。人違いだったら、とても申し訳ない事をしてしまいましたからね。」
何を言っているのだと思った。彼にとってこの行為は一杯の珈琲を嗜む程度の事なのだろうかと思わせた。
「何が目的ですか。できれば縄を解いて私を返してはくれませんか。通報はしませんから。」
私は強く出れなかった。
「好意的な申し出、ありがとうございます。そのお心使いはとても感謝しますが、残念ながらそれをすることができません。第一にその発言に根拠がありません。僕があなたを逃した跡に約束を反故にして通報しないとは分かりませんよね。第二に、あなたにそれができるとは思えない。気付きませんか?この部屋の間取りに、窓から見える月の角度。」
私は一度彼から意識を外して室内の様子を見渡した。家具などで少し感覚が違うがこの間取りは私の部屋と同じ構造をしていることに。それだけで断定はできないが窓から入り込む月光に覚えがあった。そして確信に変わった。ここは、私の住んでいるアパートの別の部屋だという事に。
「誘拐犯が同じアパートに住んでいるとなった時、そのままで入れるとは到底思えません。僕が同じ立場にいたとき、まず間違いなく通報してその後引っ越しを考えますね。と、言う事で僕はあなたを逃がすことはできない。ただ、協力して欲しいだけなんです。」
「私があなたに協力できる事なんて何もありませんよ……。」
「いいえ、あなたにしかできない事があるんです。」
彼が微笑みかけたとき、ぞわりと寒気がした。何の悪意もなくただ優しい笑顔を向けられている立場に立たされることがこんなにも恐ろしい事だとは思わなかった。そうした時、ポケットのスマートフォンが通知音を上げた。
「確認しますか?真咲さん、SNSが気になって仕方ないのでしょう?」
どうしてそこ事を、と思ったが口にはできなかった。
「もしかしたらクラブさんが何か発言したかもしれないじゃないですか。確認してあげましょう。ハートさん。」
私は固まった。目が一瞬ぎょっと引っ込んで暗闇に投げ出されたように自分の身体が遠く感じた。こいつは私の事を入念に調べているのは予想できたがインターネットの方の情報まで得ているとは思わなかった。どうして、という疑問だけが私の頭を駆け巡った。
「自己紹介が遅れてすみません。初めまして、ハートさん。」
彼は言った。
「私がスペードです。」
私がスペードです。彼はそう言った。真っ直ぐな瞳だった。そこに悪びれるような感情もなく、ただ事実を短く語る、それが当たり前であるかのような振舞いに私は一瞬見とれてしまったのかもしれない。
「実は、初めましてでもないのですけどね。一方的だと思うのですが僕はあなたのことを知っていました。あなたは同じ学部の先輩ですからね。人付き合いが苦手そうにして常に一人でいるので……、あなた自身は目立ってないと思っていたかもしれないですが実は結構目立っていましたよ。あ、申し遅れましたが、僕は江波大地と申します。どうぞよしなに。」
江波大地と名乗った彼は名前を明かした所で変わらない。自分が圧倒的に優位な状況を作り出しているがそれを意に返していない。私に対しても対等な扱いをしてくれているのだ。
「その、江波さんが私になんの用があるんですか。」
「論文を書こうと思っています。」
彼は私の後輩だと名乗った。という事はまだ一年生だろう。この一年のこの時期から論文に着手するとは随分気の早い話だと思った。もっと遊びたい年齢だろうに。
「どうして、その論文に私が必要なのかしら。」
私の声はまだ震えていた。
「僕のテーマが、『ネット依存症における現代社会への影響』というテーマなんです。ハートさんはまさに僕の研究にうってつけのサンプルでした。その人がこんな身近にいるなんて思った時には正直震えあがりました。」
「説明になっていないわ。」
「失礼しました。順を追って話しましょうか、ハートさん。まず前提条件として僕が論文を書くにあたってネット依存症のサンプルの獲得は必至でした。そこでスペードを名乗りインターネットの海に潜り込みました。この段階の作業が一番困難だと思っていました。運よく依存症の方に近づいたところでその方が遠方では普段の状況を観察するのに向きませんからね。ところが初めて結成まで至ったコミュニティの中からハートさんを見つける事が出来たのは奇跡に近いです。」
「どうして私がハートだと思ったの。」
「ハートさん……、いえ。先輩はSNSで自分の近状を事細かく報告することが癖になっていますよね。ましてやその相手が同じアパート内に住んでいて学部も一緒とくれば自然とハートさんと一致させることは難しくありませんでした。これでも色々と手順は踏んだつもりですけどね。サンプルをハートさんにすると決めてからはクラブさんに接触する事にしました。直でやり取りをして何とかオフ会に漕ぎつける事が出来ました。ダイヤさんはその辺の警戒心が高そうだと思っていたのではじめはこのコミュニティは失敗だと思っていたのですが、案外クラブさんも話の分かる方でした。僕が現役大学生で女子生徒数が多い大学だと知ると簡単に距離を縮めてくれたので扱いやすかったです。」
「クラブさんに何をしたの。」
「焦らなくてもいいじゃありませんか。すぐにわかる事です。僕は悪戯に話を引き延ばす事は好みません。」
さて、と彼は一息置いた。
「必要だったのは四人のうち誰かが”居なくなる”ことです。これに関しては交通事故なんかに巻き込まれてくれれば一番都合がよかったのですがそこまで奇跡は重なりませんでした。ここは僕自らが動く必要がありました。クラブさんとは数回に渡ってオフ会を繰り返していました。僕に対する警戒心を解いてもらうために必要だったので。」
「そんなの、聞いてない。」
「そうでしょうね。クラブさん、裏ではダイヤさんにも取り付けたり動いていたらしいです。ダイヤさんは鼻にも掛けなかったそうですが。」
「嘘、嘘よ。そんなの。」
「残念ですが、ハートさん。あなたはコミュニティの中で置いてきぼりを喰らっていた位置に居たのです。所詮表に見えない世界の出来事ですからね。仕方のない事だとは思いますよ。」
「なんで、私だけ……。」
「話を戻しますよ。ハートさんのその反応が見たいがために、僕はクラブさんの存在を消す必要があったのです。」
彼の言葉にはっと息をのみ込んだ。軽く放たれたはずだった彼の言葉に急に重みが増したのだ。
「一か月前、僕はクラブさんを殺害させてもらいました。まだご遺体も見つかってないと思います。日本では珍しいことですがアメリカではご遺体が発見されない事も珍しくありません。年間に多くの行方不明者が出ています。そこまで済めば僕の研究も最終段階に達します。ダイヤさんを残したのは正解でした。あの方は深く関与することをどこかで拒んでいる気がありましたから、クラブさんが音信不通になっても態度を変える事はありませんでした。サンプルとしては非常に向きませんでしたけどね。そして僕はハートさんの観察に集中します。通学中、講義中、サークル中もでしたね。どうしても上の空になってしまう、集中力が欠けてしまう状態に陥りやすくなっていました。どこかで思っていたのではありませんか。クラブさんは亡くなってしまったのだと。」
私は何も言い返せなかった。
「そして同時に焦りもしたと思います。自分が不慮の事故に巻き込まれて死んでしまった場合、どうなってしまうのか。自分の気付き上げてきたコミュニティという場所には連絡は行きませんからね。現実世界の友人と違う点が不便な事ではあると思います。僕も考えていましたから。そしてこの三週間で答えが出たじゃありませんか。そう、何も起きないのです。」
「何も……起きない……。」
私はこの先を聞きたくなかった。
「正確に言えば、何も起こさない。でしたけどね。あなたはクラブさんの現状を把握しようと動きましたか?」
「それは……何もしてないわ。ダイヤさんが言ったように―」
「そう、『来るもの拒まず去るもの追わず』。これが全ての答えでした。」
私は言葉を飲み込んだ。私が本当に恐怖していたものの正体を突き付けられるのが、自分の立場を証明されるのが怖くて今すぐにでもこの場を逃げ出したかったからだ。
「結論を言ってしまうと、インターネット社会において自分の居場所を見出す事は出来ないという事です。ハートさんもね、結局のところ匿名なのです。一部の有名人がSNSを公言する事でしかその役目を果たせない、所謂上澄みの部分だけが生き残れるのは現実社会となんら遜色のないそれだという事が分かりました。」
「……なら、あなたの研究はもう終わったのでしょう。私は必要ないじゃない。」
「そうですね。終わりました。あなたをサンプルとして扱い論文を纏めるのが僕の研究の落としどころになるのだと思っていました。でもね、スペードを演じていて僕も一つの事に気付かされたと思っています。僕も、一人の。何の力のない人間だったのです。」
「何を、言っているの?あなたは、今当たり前のことを当たり前のように言っているだけ。呼吸をしている様なものよ。」
私の声の震えはいつの間にか溶けていた。彼が見せる人間めいた一面に安堵が生まれたからだろうか。
「そう。どこか自分を特別視していたのは認めます。だからこそ、ハートさん。あなたがここに居るんです。」
彼は私に背を向けると台所の方へ向かった。声だけが私の元に届く。
「あなたをサンプルとして見ているうちに、僕にも情が移ってしまいました。あなたの人生は、とても悲しい。こんな悲しいことがあっていいのかと思うくらいに虚無でした。」
何を言っているのか分からなかった。ただ、恐怖心が戻ってきたのは微かに感じた。
「優しい目であなたを見てしまっている自分が居たときに僕は絶望しました。そして自分のしたことを後悔しました。クラブさんに、なんてことをしてしまったのだと。僕は罪を償わなければいけません。その前に、一つやっておきたい事があります。」
振り返った彼の手元にはきらりと光る刃物が握られていた。
それを構えると彼は私に向かい一目散にかけて来て、その刃先が私の胸もとを貫いた。
「ハートさん、あなたを。介抱してあげたかった。」
私は突かれた勢いで椅子事後ろに倒れ込み、どくどくと大量の血液を流しながら動かなくなった。