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何でもない一言が言えない

作者: 秋月熾火

 私は明日、就職のため家を出る。

 毎日のように母に部屋の物を整理しておけと言われながら、懐かしい漫画やCDに気を取られ何一つ進んでなかったここ1ヶ月。

 しかし、さすがに明日は出発。

 多少なりとも母に断捨離したアピールをしなければ、と重い腰を上げた。

 大学は自宅から通ったため部屋はそんなに変わっていない。

 普段はローテーブルで事足りていたので、学習机はそのまま荷物置きと化していた。

 ここ何入れてたっけ、と鍵つきの引き出しを開けてみた。

 数年ぶりに解放された引き出しの中には、プレゼントでもらったけど使わなかった文房具や、授業中に友達とやりとりした手紙などが入っていた。

 ふと底の方に1冊のキャンパスノートがあることに気づいた。

 手が触れた瞬間、記憶が一気に蘇る。そして同時に胸がチクッと痛んだ。

 表紙に油性マジックで自分の氏名が書いてある。

 しかし、それは自分の筆跡ではない。

 このノートの本来の所有者は自分ではないのだから。




里中碧(さとなかあおい)

「はい」「はい」

 高二の春。新しい教室で先生に名前を呼ばれ返事をしたら、声が重なった。

「あ、男のほうな」

と先生。

 クラスのあちこちからクスクスという笑い声が漏れて、私は顔を赤くしてうつむいた。

 改めて「はい」と返事をしたのは、何の因果か自分と同姓同名の男の子である。

 1年は違うクラスだったのだが、それでも名前は嫌でも耳に入ってきた。成績優秀、スポーツ万能、高身長な上に整った顔立ち、さらに人当たりもよくて人気者という、天が何物も与えた男の子であった。

 対して私はといえば、男子とまともに会話すらしたことのない根暗な女の子。

 だから目立つ存在の彼と同姓同名だということが取り沙汰されないよう静かに過ごしていたが、2年で同じクラスになってしまった。

 とはいえ、自分の存在感の薄さは想像を遥かに凌駕していて、同姓同名が同じクラスにいたとしても大した影響は及ぼさなかった。

 ほぼ関わることもなくその年が終わろうとしていた12月のある日。

 その日は放課後に遊びに行く約束をしていて、日直だった私は駅前のファストフード店で友人を待たせていた。

 学級日誌を職員室に提出して、足早に学校を後にしようとしていた時、廊下の奥から呼び止められた。

 振り返ると奥の化学準備室から先生が手招きをしていた。「急いでるのに」と思ったが、それを言える人間ではない。

 何か雑用を押し付けられるのかなと思いつつ「はい…?」と重い足を引きずりながら向かう。

 人の事を呼び止めておきながら、先生は化学準備室に引っ込んでしまった。ムッとしながらも足を進めると、再び先生が顔を出して見覚えのあるノートを差し出された。

「さっきお前のクラスの奴に全員分のノート返すようにって渡したんだが、お前のだけ渡し忘れてたみたいでな」

 それだけ?と、拍子抜けした私は、

「わざわざありがとうございました」

とにこやかに受け取ってカバンに入れた。

「それでは失礼します」

と挨拶もそこそこに学校を後にして、待たせている友人のもとへ向かったのだった。


 遊び疲れて帰宅したその日の夜。

 夕飯とお風呂を済ませて自分の部屋に入るなりベッドに倒れ込んだ。

 そのまま寝てしまいそうな何とも言えない心地よさがあったが、明日の古文の授業で日付的に出席番号で当てられそうなので、軽く予習しておかなければ…と床に置いたカバンに手を伸ばし、手探りで古文の教科書と思しき厚みを取り出す。

 取り出したものを見て「残念はずれ」と呟いた。

 手に取ったものは古文の教科書ではなく化学のノートだった。

 観念して体を起こしてカバンを拾い上げ、持っているノートを入れようとして、ふと気がついた。


 このノート、私のものじゃない…


 一気に血の気が引いた。

 確かに自分の氏名が書いてあるが、明らかに自分の字ではない。

 中を開くと、まだ1ページとちょっとしか使っていない新しいものだった。

 これは…彼のノートだ。

 全く同じノートを使っていたなんて…

 そして先生からすれば、どっちの里中碧であっても、本人の元に返るだろうと思ったのだろう。

 彼の方に渡した場合はそうかもしれないが、逆はそうではない。

「このノート、先生が間違えてたみたい」と一言添えて渡せばいいだけなのだが、当時の私にはそれがどんなに高難度だったことか。

 しかし、ろくに確認もせず持ち帰ってしまったのは紛れもなく自分だ。

 明日一番に登校して、彼の机に入れておこう。それで何も無かったことにしよう。

 そう自分に言い聞かせて床に就いたものの、気になってなかなか寝付けなかった。

 もうこのまま寝ないで早朝に登校しよう、そう思ったところで母親の

「いつまで寝てるの!遅刻するよ」

という声でハッと目が覚めた。

 こういう時に限って寝坊してしまうものなのだ。


 教室に飛び込んだがやはり既にクラスの半数は登校していた。入口で項垂れていると背後から

「里中さんおはよう。どうかした?」

と声をかけられた。

 振り向くと当人が立っていた。

 想定外のことにパニックになり言葉に詰まる。

「あっ…あの…」

 すると彼の後ろから、いつも彼と一緒にいる女子が

「なに?何か用?」

と不機嫌そうに彼の後ろから顔を出した。

 その刺すような視線に完全に石のように固まってしまった私は

「な、なんでもないです…」

と答えてしまった。

 去っていく2人を見ながら、もしかして今とってもチャンスだったのでは…と自己嫌悪に陥るのであった。

 その後も人が居なくなるタイミングを図っていたが、なかなか思うようにいかない。

 次に化学の授業があるのは明日なので、絶対に今日のうちに返したい。

 毎回学年1位の成績を収めている彼のことだ。前日の予習に必要かもしれない。となると、今日のうちに何としてでも返さねば。

 などという意気込みも虚しく、何も出来ないまま放課後になってしまった。

 こうなったら全員帰宅したタイミングで机に入れておくしかない。家でノートが無いことに気づくかもしれない。そう思うと申し訳ない気持ちでいっぱいになる。

 人の様子を伺いつつ時間を潰して教室を覗くと誰も居なかったので、自分の机からノートを取り出して、彼の机に入れようとした。その時、背後から

「何してんの」

と鋭く冷たい声が飛んできた。

 私は心臓が飛び出るほど驚いて、思わず手に持っていたノートを落としてしまった。

 振り向くと凍てつくような視線を送りながら、いつも彼と一緒にいる女子が近づいてきた。

「何してんのかって聞いてんの」

 彼女の声が鋭く耳に刺さり、体は勝手に震えだし冷や汗が流れた。間違えて渡されたノートを返すだけなのにまるで犯罪を見つかった気分だ。

「あ、あの…」

「はぁ!?聞こえない!!」

 まだ何も言ってないのに、とさらに萎縮してしまった。

 彼女は、私の足元に落ちているノートに気づいて拾い上げた。

「アオイのノート?なんであんたが持ってるの」

 尋問を受けているようで、喉が潰れたように声が出ない。

「…あんた盗もうとしたの」

 氷のように冷たい声にハッとした。

 この誤解だけは絶対にダメだ!そう思った私は声を振り絞った。

「先生が…間違えて渡してきて…」

 消え入りそうな声でそれだけしか言えなかったが、状況は理解してくれたようで

「そういえばあんた同じ名前だったね。じゃあこれはあたしからアオイに返しておくから。じゃ、おつかれ」

 そう言ってノートをヒラヒラさせながら教室を出ていった。

 彼女の気配が完全に消えたのを感じた途端、思わずペタリと座り込んだ。

 こ、怖かった…。

 大らかな家族の中で育ったため強い口調をぶつけられる事に慣れていなくて、どうしようもなく震えてしまう。

 しばらくすると落ち着いてきて気づいた。

 ノートの呪縛から解放された。

 きっと一緒に帰る時に渡してくれるだろうから、今日中に返すことが出来たのだ。

 途端に心が軽くなって、爽快な気分で帰宅した。


 次の日、1時限目の教科書とノートを取り出そうとして固まった。

 昨日確かに自分の手を離れたはずの彼のノートがそこにあったのだ。

 彼女は渡してくれなかったのだろうか?

 なぜこんな状況になるのか全く理解できない。

 内心パニックになったが、そんな私に構わず授業は始まった。

 化学は2時限目。次の休み時間に渡さないといけない。今度は本当に本当のタイムリミットだ。

 どうやって渡すかのシミュレーションを脳内で何回も確認しているうちに1時限目は終わり、ついに作戦開始の時間が来てしまった。

 ひとつ深呼吸をして、ノートを手に立ち上がった。

 相変わらず人に囲まれている彼。

 また彼女が気づいて取り上げてくれないかなと思ったが、彼女は完全にこちらに背を向けて、彼しか目に入っていないのが伝わってくる。

 もう自分から声をかけるしかない。

「あの…」

 声が出たのか出てないのか自分でも分からないその瞬間気づいた。

 彼の手には新しい化学のノートがあった。

 その瞬間、頭が真っ白になりそのまま自分の席にUターンして持っていたノートを自分の机にしまった。

 ノートが見つからなかったから、新しいノートにしたのだろうか。

 モヤモヤと黒い感情が湧いてきた。

 先生はなんで1冊だけ渡し忘れたの。

 なんでそれを私に渡したの。

 彼女はなんで彼に渡してくれなかったの。

 ひとしきり心の中で他人に怒りをぶつけてみたが、結局はたかだかノートを返すだけのことが出来ない自分自身のせいだ。

 情けなくて涙が出そうになった。

 その後も時間が経てば経つほど返す勇気が萎んで、いつしか「きっと今さらいらないよね。1ページくらいしか使ってなかったし、テスト範囲じゃないし」と自分勝手な言い訳をするようになり、ついに冬休みに入る時に持ち帰ってしまった。

 視界に入るたび自分の弱さを思い知って胸が痛むので引き出しの奥に入れて鍵をかけた。




 高校時代には辛くて視界にも入れられなかったノートを手に取り苦笑する。

 なんであんなにこじらせてたのかな。

 今でも根っこの部分は変わっていないが、当時よりはコミュニケーションも人並みに取れるし、少しの間だけど彼氏もいた。

 そんな事を思いながらノートをパラパラしていたら、何かがヒラヒラと落ちた。

 それを手に取ると見覚えのあるメモ紙に見覚えのある文字が書いてあった。


「先生が私のものと間違えて渡してしまったみたいなので返します。すぐに返せなくてごめんなさい。里中」


 そういえば黙って机に入れておくのも失礼かと思ってメモ紙を挟んでおいたのだった。

 これがそのまま挟んであるということは、やはり彼女は彼に渡してはくれなかったということか。

 ふとメモ紙の下の方に「ノートの中見て」と書いてあることに気づいた。

 もちろん自分は書いた覚えは無いし、自分の字ではない。

 ノートをパラパラ捲ると、少し開きぐせがついていたのか、真ん中あたりのページが開いた。

 そこには


「ノートわざわざありがとう。引かれるかもしれないけど、ずっと話してみたかったから、こんな事でも関わりが持ててうれしかった。もし良かったら2人で初詣に行きませんか。OKなら返事ください。」


というメッセージと連絡先が書いてあった。

 理解が追いつかず、何度も何度もその文字を読み返した。

 これはもしかして、お誘いされたのにそれを私が無視したということになってない?

 ノートを返すことしか頭になかったから中身を少しも確認しなかったし、と誰の耳にも届かない言い訳を呟く。

 「今気づいた」と連絡する?でももうさすがに連絡先変わってるかも、と脳内で議論が飛び交う。

 変わってなくても今さらそんなこと言われてもって困らせるかもしれない。

 そんな具合で部屋の中をウロウロしたり、スマホを持ったり置いたりしているうちに日は落ち、夕飯の時間になった。

 その日の夕飯は、明日旅立つ娘のためにご馳走を用意してくれた母にはとても申し訳ないくらい心ここに在らずだった。


 次の日、いよいよ出発の時間。

 部屋を出る前に、例のノートの件のページを改めて見る。

 もしあの時、ノートの中身を確認していたら…。

 もし私がノートを返せていたら…。

 もし彼が一言「ノート見た?」と言ってくれてたら…。

 昨日から同じことをグルグルと考えている。

 しかし起きなかったことは今更どうしようもない。

 もう新しい生活に向けて出発の時間だ。そう自分に言い聞かせて、再び引き出しの奥へ戻し、長い時間を過ごしたその部屋を後にした。

 大まかな荷物は先に送って、マンションの大家さん夫妻が受け取って部屋に入れておいてくれることになっているので、自分は少ない手荷物と大家さんへの手土産を持って長距離バスで向かう。

 近所に住む祖父母の家に挨拶に立ち寄った後、両親にバス乗り場まで送ってもらう。

「ちゃんとしたご飯食べなさいね。最初は大変だろうけど頑張りすぎないようにね。着いたらすぐ電話してね」

 涙を浮かべる両親を見て、本当に両親と離れて1人で生活するんだな、と実感して鼻の奥がツーンとなる。

「じゃあ行ってくるね」

 そう言って、バスに乗り込む。

 窓際の席に座るとすぐにバスのドアが締まり、バスが動き始める。

 両親の方を見たら手を振っていた。途端に寂しさが込み上げてきて、両親の姿が見えなくなるまで手を振った。


 この長距離バスは、市内の3ヶ所から乗車することができる。遊びや就活でしょっちゅう利用していたので慣れたものだ。

 自分が乗るのは最初の乗り場で、まだ乗客はまばらだ。

 次の乗り場は駅前なので、とてもたくさんの人が乗車してくる。ここで隣に座る人がいなければ、だいたい最後まで伸び伸びとひとりで座れる。根は未だに人見知りなので、誰も座らないでと心の中で祈る。そして願いが通じて誰も座って来なかった。

 残りの乗り場から乗車してくる人はいつもほとんどいないので最早1人ワールドは確定したようなものだ。

 余裕の表情でスマホを取り出してSNSをチェックしていると頭の上から声が降ってきた。

「里中さん?」

 反射的に顔を上げると通路に立って自分の座っている席の通路側の背もたれに手をかけている男性と目が合った。

「へ?」

 思わず腑抜けた声が出てしまった。

 今朝まで思いを馳せていた本人が立っていたからだ。

「アオイくん」

 無意識に口をついて出た言葉に、慌てて口を塞いだ。1度も呼んだことなかったのに、つい名前で呼んでしまった。

「隣いい?」

 名前で呼ばれたことなど、少しも気にしてないようだ。

「え?隣?」

 周りを見渡すと確かにほぼ埋まっていた。

 その時運転手さんの「出発するので座ってください」とマイクで注意する声がして、周りの視線が一斉にこちらに集まるのを感じて我に返った。

「あ、どうぞどうぞ」

 隣の席にはみ出していた手荷物を足元に移動すると「お邪魔します」と背負っていた荷物を頭上の荷物置きに置いてから隣に腰を下ろした。

 知り合いだから相席した形だが、冷静になってみると知り合いと言っていいほどまともに会話したこともない。

 それに気づいて、えも言われぬ気まずさを感じていると、そんな事は露ほども気にしていないようで笑顔で話しかけてくる。

「本当に偶然。まさか同じバスに乗ってるなんて」

「それにしても、私の事なんてよく覚えてたね」

 心からの疑問だったけど、思いの外自虐の色が出てしまった。

「え、覚えてるよ、もちろん。綺麗な大人の女の人になってたから、声掛けていいのか迷ったけど」

「…!」

 急な褒め言葉に思わず咳き込む。

「大丈夫?」

 頷きながらカバンからペットボトルを取り出してお茶を喉に流し込む。

「成人式で見かけたよ。振袖着てたね」

「う、うん。私も見かけたよ。相変わらずたくさんの人に囲まれてたね」

「久しぶりに会うやつらが多かったからね」

「そういえば大学はあっちだったよね」

「里中さんは地元の大学だっけ?」

「うん、そう。それで就職で地元出るので今このバスに乗ってます」

「そうなんだ。俺はそのままあっちで就職するから、1回顔見せに帰って来いって言われて帰省してた」

「お友達にたくさん会えた?」

「会った会った!あ、あいつ知ってる?」

 そこからは、お互いが知っている高校時代のクラスメイトの現在の報告会だった。

 自分でも驚いたけど、初めてちゃんと話したのにスラスラ言葉が出てくる。人と長時間会話するのは苦手だけれど、彼と話すのは純粋に楽しかった。

 笑っていたら、ふと彼が黙ってこっちを見ていることに気づいた。

「え…なに?何かついてる?」

 顔を抑えると、ふっと笑ってこう言った。

「こんなに話したの初めてだなって思って」

「そうだね」

「高校の時さ、俺の事苦手だったでしょ」

 思いがけない言葉に驚く。

 彼のことを苦手だと思ったことは一度もない。

「そんなことは…」

 言いかけて、ふと彼の傍にいつも居たあの女の子の顔が浮かんだ。

 あの子は、私にだけではなく彼の視界に入る全ての女子に分かりやすく敵意を向けていた。

「あんまり話したりすると、彼女に悪いと思ってたかも」

 そう言うと彼は意外そうな顔をした。

「彼女?もしかしてあいつの事?何でかみんな高校の時にあいつと付き合ってたって勘違いしてるんだよな」

 心底不思議そうに言う。

 何でって、彼女自身がそう言っていたのだけれど。人にそう宣言してるのを耳にしたのは一度や二度じゃない。

 つまり付き合ってる事実は無いのに、付き合ってるって言いふらされてて、それに全く気づいてなかったってこと?そんなことあるの?

 と思ったけど、ありそう。

 初めてちゃんと話して分かったけど、ちょっと天然なところがあるというか、本人に裏表が無いから、人の思惑とか考えもしない感じ。

 でも「彼女が付き合ってるってあちこちで言ってたからだよ」と言うのも告げ口しているみたいで気が引ける。

「すごく仲良さそうだったからかな。いつも一緒に居たでしょ」

「ああ。幼稚園から一緒だからね。あいつ人見知りでなかなか友達出来なかったからさ。それで俺にくっついてたんじゃないかな。それに俺、高校の時はずっと好きな子いたし」

 最後の一言は今までと違うボソッとした低いトーンだったのでドキッとした。

 昨日見たノートのメッセージが頭をよぎって、心臓がバクバクと音を立て始める。

 別にそれが私だと言う意味じゃないでしょ、と自分に強く言い聞かせる。

 でも…今ここでノートのメッセージに昨日初めて気づいたことを伝えたらどうなるんだろう?

 人のノートを持ち帰って返さずに持っていたことを幻滅されるかもと思うと怖くて言えないのに、あのメッセージの真意は聞きたいと思ってしまっている。

 自分はたった一言発するのにウジウジ思い悩んで結局言えないくせに、人からの言葉は欲しいと思う、自分のこういうところが本当に嫌いだ。

 落ちそうになる気持ちを振り払って話題を変える。

「私と違ってハキハキした女の子だったから、人見知りって意外だな」

 ははは、と誤魔化しながら言う。

 ハキハキというか、気性が荒い印象なんだけどね。

 彼に意図的に近づく女子はもちろん、たまたま隣に座った程度の女子に対しても容赦なく攻撃していた。

「あれ、そういえば成人式の集団の中にいた?綺麗な子だから居たら目立ちそうだけど」

「ちょうど出産前だったらしい。俺も高校の卒業式以来会ってないから人から聞いただけなんだけど」

 いっぺんに色んな情報が入ってきて一瞬フリーズする。

「出産!?卒業式以来会ってない!?ちょっと待って、結婚してるの?」

「大学中退して結婚して子ども産んだらしいよ」

「あんなにベッタリだったのに卒業式以来会ってないの?」

 思わず心の声が漏れる。

「卒業式の日にケンカみたいになってね。というか、向こうが一方的に怒ってたんだけど」

「それでそのまま会ってないの?」

「いい加減自分たちの関係をはっきりさせろって言われたから、幼稚園からの同級生だろって言ったら思いっきりビンタされた。人に殴られたの生まれて初めてだったからビックリしたよ」

 笑いながら言う。

 それって告白だったんじゃ…と思ったけど、彼にしてみれば関係を聞かれたから自分が思ってる関係を答えただけなのかもしれない。

「でもそっか、もう結婚してママなんだ。すごいなぁ。同い年なのにちゃんとしてて私と大違い」

「就職して一人暮らしするのだってちゃんとしてるよ」

「親にも言われたけど、自分でも一人暮らし本当に出来るのか自信ないよ。結婚とかもっと無理そう」

「結婚願望ないの?」

「したくない訳じゃないけど、そもそも誰かと付き合うのが向いてないみたい」

「なんで?」

「前に付き合ってた人に本当は俺の事好きじゃないでしょ、って言われてフラれたんだけど、その時、ホッとしてる自分に気づいて、あぁ向いてないんだなぁって」

「その彼のこと好きじゃなかったの?」

 そう問いかけられてはたと考える。

「そう言われてみればそんなに好きじゃなかったのかも。初めて告白されて浮かれて付き合ったけど、話も趣味も合わなかったし、無理して合わせることに疲れてた気がする」

「じゃあ単純に彼とは合わなかっただけじゃない?この先、いくらでも出会えると思うよ」

 これは新しい恋をしたらいいと言われているのだろうか。

 自分以外の誰かと。

「アオイくんはそういう人に出会えた?」

 唐突に矛先が自分に向いて少し驚いた顔をした後、苦笑しながら言った。

「俺は昔から意気地無しだから」

「?」

 どういう意味か分からなかったが、そこでまもなく到着するというアナウンスが流れた。

 バスでの3時間はあっという間だった。

「もう着いたんだ。高速バス何回も乗ったけど、こんなにすぐ着いたのは初めてかも」

「俺はいつも電車だけど、実家の近くから乗れるって聞いて試しに乗ってみた。でもまさか里中さんと会えるとは思ってもみなかったな」

「私もびっくりした。でも楽しかったよ、ありがとう」

 彼が何か言おうとしたところで、バスが停車した。

 ゾロゾロと大きな荷物を抱えた人々が降りていく波に乗ってバスを降りる。


 いよいよお別れだ。

 この先、また会う約束もしていないし、連絡先も交換していない。

「またどこかでバッタリ会ったりするかな」

「こっちは人も多いから気づかないですれ違ったりするかもしれないね」

 最後に連絡先聞いてくれないかな、と淡い期待を抱いていたが、どうやら彼にはそんな気は無いようだ。

 寂しい気持ちを誤魔化すように「そりゃそうだ」と笑った。

「じゃあ、私こっちだから。またどこかで会ったらよろしく」

「うん、じゃあね」

 彼が手を振る。

 本当にこれでお別れなんだ。

 手を振り返して、彼に背中を向けて歩き出す。

 もともと繋がりなんてなかったんだから、元に戻るだけ。

 今日会ったのはたまたま偶然。

 また会いたいって言ったら、きっと迷惑なんだ。だから連絡先も聞かれなかったんだ。

 自分にずっと言い訳していて、はっと気づく。


 そうか、私また会いたいと思ってるんだ。


 連絡先聞かれなかったからって諦めるの?

 自分からは何もしてないままでいいの?

 そうだ、せめてノートの事は謝ろう。じゃないと一生引きずりそうだ。

 むしろ、今この時しかチャンスはない。きっとこのための偶然だったんだ。

 そう心を決めたら、すでに足は反対方向に走り出していた。

 彼はすぐ近くの交差点で信号待ちをしていた。

 信号が青になって人の波が動き出した瞬間、彼の腕を掴んだ。

 彼は振り返って心底驚いた顔をしていた。

「え?どうしたの?」

 急に走り出したせいで息が荒くなって思うように言葉が出なくて、必死で息を整えながら言葉を絞り出す。

「…あの…ノート…ノートね」

 彼がハッと息を飲んだ。

「高校の時ね、中見てなかったの。それで昨日、初めて気づいて…」

 息が落ち着いてきて、しっかりと顔を上げて彼を見ると、手を口に当てて横を向いて、その顔は赤くなっていた。

「マジか…。恥ず…」

 初めて見る彼の表情につられて、思わず自分も顔が熱くなる。

「黙って持って帰って返すこともしなくて、本当にごめんなさい」

 そう言って頭を下げた。

 ずっと言えなかった謝罪の言葉をやっと伝えられた。

 彼はしばらく黙っていたが、はぁーと大きなため息をついた。

 怒ってる?

 そこでようやくしっかりと目が合った。

 その目が思いのほか優しくて、心臓が止まりそうになった。

「この先の定食屋、安くて美味くてお気に入りなんだ。もうちょっと行くと週3で通ってたラーメン屋があるし、その近くには居心地いい古本屋がある。家の近くにはいい感じの公園がある」

 何の話か分からず、首を傾げる。

「え?う…うん?」

 真っ直ぐ目を見て彼が言った。

「この後もしよかったら、俺が好きなものの話、聞いてくれる?」

「………うん!!!」


 新しい生活が始まった。

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― 新着の感想 ―
[良い点]  ふたりとも、まわり道しすぎな不器用な性格ですねー。でも、「この作品はそこがいい!」と思いました。
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